説難

教育は国家百年の大計4 勤労

 「つまらない誓いをたてちまったもんだよ。働きたい者には仕事をやるだなんて……宮崎駿監督『千と千尋の神隠し』湯婆婆のセリフ。

 この作品の世界観では、働かない者は、酷いことに、豚にされて食べられてしまう。しかしその反面、前述のセリフの通り、働くことを望む者は必ず職を授けられる。

 

 憲法の以下の条文をご存知だろうか?

 

第二十七条

 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。

 

 憲法が定める国民の3大義務について、「納税」および「教育」はすぐに出てくるが、この「勤労」がすぐに出て来ない人は結構居るようだ。少なくとも私は小中学の教育においては、これを認識した覚えがない。

 ちなみに「教育」の義務についても、いわゆる「義務教育」が、教育を受ける子弟に課せられたものでなく、両親等保護者に課せられた「教育を受けさせる義務」である事を知らない人も意外に多いが、この件については、このシリーズの終盤で取り扱う予定である。

 

 ただ、面白いのは、教育にしても勤労にしても、まず権利が存在し、それを行使する事が義務付けられているという点だ。

 

 先日ある番組で、コメンテーターが「子供に、勉強はなぜ必要か?と聞かれて、まともに答えられる親は居ない。」という発言をしているのを聞いたので、試しに娘にその話をしたところ、「そんなん、選択肢を広げるためやん。」と食い気味に即答された。

 それも一つの答えだし、勉強の意義などいくらでも有り、有り過ぎて、逆にどれを言ってあげればその子にそぐうのかに悩むほどである。

 ただいずれにしても共通して言えることは、勉強の意義は、基本的に、将来、社会に出て働くことが前提となっている。

 ところが、その前提が鉄板とは限らないからややこしい。

 今の青少年の中には、いかにして働かずに生きようか?いや、働かなければ生きていけないという生物学的原則そのものに疑問を持っていて、働くくらいならもう死ぬわと言う者まで居る。まあここまで来るとさすがにフォローできないが、「生活保護で充分」とか、より社会に迷惑をかけない、「親の遺産の不動産収入で暮らしているならそれでいいでしょう?」という人たちくらいは説得したいものだ。

 さあ、しかし、将来働く気がない人間に、勤労の義務と勉強の意義を説明するとなると大変だ。

 

 そこで憲法27条に戻る。

 以前、マグナ・カルタ(2018.03.25) で示した通り、憲法とは国家権力の範囲と限界を定めたもので、民主主義国家において、国家権力の保持者、すなわち主権者は、国王でも総理大臣でもなく、国民である。

 年始の投稿、Legal mind では、法律は権力者や違反者にのみ義務を課すもので、一般市民の味方であると説明したが、憲法に関してはニュアンスが変わってくる。憲法のターゲットとする所は、主権を有する一般国民だからである。

 

 さて、それでは、憲法に定められているから、働く義務が有り、働く義務が有るから、勉強する事に意義が有る。という論法で良いのか?

 

 いやそうではない!

 

 ここで再度注目してもらいたい所が、その義務が権利と対に存在しているという点だ。

 「勤労の権利」ってなんなのか、よくわからない人も多いだろう。働く事にいちいち権利が存在するのか?

 「勤労の権利」でググってもらうとすぐわかるのだが、勤労の権利とは、「働いて良い」という許可の意味ではなく、「タダ働き」「強制労働」を強いられないこと、能力の許す限り「自由に職業を選択」できる権利を言う。

 これを当たり前だと言える国は、世界の三分の一以下だ。

 ここで、教育は国家百年の大計3 自由(2018.12.11)で提示したケースと同じ問題点が登場する。すなわち、私たちは生まれながらに存在する「自由」の尊さを学んでおらず、無法に自由を奪われ、過酷な強制労働の末、死に至らしめられるなどという、「カイジ」(福本伸行原作の漫画)のような世界が、世の中には実在している事を意識していないというもの。(国際労働機関(ILO)掲載記事。なお、この記事はもちろん一例に過ぎない。)

 「千と千尋の神隠し」で、釜じいは下で働くススワタリについてこう言う。「働かなきゃな、こいつらの魔法は消えちまうんだ。」と。

 ススが動いている事が異常なのだから彼らがススに戻る事に抵抗は感じないが、先人が血みどろの手で掴んでくれた権利をないがしろにして、その魔法が解けてしまったとき、私たちはどうなってしまうのかと考えると、背筋が凍る思いである。

 

 憲法上の全ての人権について考える時、意識しなければならない条文が有る。

憲法十二条

    この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。

 

 さて、これで一つのロジックが成立する。

 すなわち、私たちは、すでに憲法の定める労働権の庇護下にある。従って、その憲法の規定する「勤労の義務」を果たす義務がある。

 これで、私の勤労に関する主張は完結するか?

 すまない。まだもう少しお付き合い願いたい。実は、このシリーズを構想した際は、本稿の主張はこれで完結していた。しかし、やや、理論漬けの感が拭えないので、さらに補足する。

 

 実際には、新入社員の多くは、理想と希望を携え、ある程度のハイテンションで社会の門を叩いてくる。小理屈をこねて、勤労を蔑む者など至って稀だ。

 にもかかわらず、彼らの何割かは、2年や3年でその美しい瞳を曇らせてしまう。

 セクハラ・パワハラサービス残業が槍玉に上がり、これだけ労働環境の改善が進んだ現代において、何が彼らの瞳を曇らせるのか?正直私にはわからない。しかしそれが単純に彼らの考えの甘さだけに起因しているとは考えられないと感じている。むしろ、そんな風に世代のせいにして、若者の可能性を信じようとしない、くたびれた大人がつまらない社会を作っているからではないのかとも思うが、定かな所はわからない。

    平成の始め、まだパソコンもなく、コピー機すらまともでない頃、クセの強い上司や先輩の下で、明らかにILO違反の労働環境下、なぜか、ユーモアと余裕が有った。

 働くことは楽しく、面白いところもたくさん有った。今でも一部の若者は楽しげに働いている。

 楽しげに働ける一つの要因は、問題を解決する能力に長けていることだ。今更ながらに、ここに勉学の重要性が有る。

 しかし、一方で得体のしれない「おもしろなさ」を昨今感じる。

 組織も政府も、頑張って働きやすい社会を目指しているのに、小理屈をこねる異端児だけでなく、まじめに自分の努力を信じる人までが意欲を失っていくように見える。

 

 今回私が提示した「勤労」は、憲法27条の権利に裏付けられ、同12条により、その保全と維持が義務付けられているものということになるが、最低限の労働権でなく、「楽しい労働権」が保全される世の中を志向する必要があると思う。

  

 今、将来の勤労のために勉学に励む人の中には、通常の勤労を飛び抜ける学力に達する人もいるだろう。しかしそれならば、官僚や弁護士といった、最上層を飛び、是非、後続する若者たちが「楽しい労働権」が先立っている事が実感できるような社会の構築に尽力願いたい。

 

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フランソワ・ミレー「晩鐘」

 18世紀フランスの画家ミレーは、パリ郊外のバルビゾン地方で、貧しいながらも献身的に大地と共に生きる農民の勤労を美しく描いた。

 後にゴッホが同じテーマにチャレンジするが、それと比べれば、その神々しさが比較にならないことに気付かせる。

 有名なのは、なんと言っても「落穂拾い」なのだが、実は描かれているのは、畑の持ち主が刈り取りの際取りこぼした「落穂」を拾う、土地を持たない極貧農民の姿という事なので、美しい絵なのだが、今回はテーマにそぐわないとして、選出から外した。

 厳しい農作業の合間に、祈りの合図である晩鐘に敬虔な姿勢を示すこの絵画もまた、その神々しさが、勤労の尊さ美しさを感じさせてくれる。

 

 

象徴(シンボル (symbol))

 新元号が発表されるといよいよ大騒ぎになり、私自身言いたい事も溢れるだろうから、その前に投稿しておこう。

 「象徴天皇」とはどういうものであるか、今上天皇はずいぶん心を砕かれて考え続けたという。しかし、「その地位はその総意に基づく」とされた私たち国民の多くもまた、それがどういうものであるのかを理解しておらず、陛下の苦労の結実への道は厳しい。

 

1 象徴

 まずこの言葉の意味というか受け止め方に戸惑っている人が多い。

 表題で示したように、これは「しょうちょう」と読まない。「シンボルsymbol」と読む。この変換だけで、多くの人がより明確なイメージを掴むことができるだろう。

 どうして、テレビやマスコミはまず一番にこの変換をしてあげないのだろう?分かり切っていると思って省略しているようにも見えない。それどころか、もしかして知らんのとちゃうか?と思わせるコメンテーターも見かける。

 

 「シンボルsymbol=象徴」などという表現は、日本人が思いつくものではない。

 よく知られている事だが、GHQは、敗戦で荒廃した日本国民が自暴自棄になったり、無法地帯を創出させる事を恐れ、秩序を維持するためのリーディングフラッグを必要とした。

 そこで日本国憲法(新憲法)草案を検討していた当時の日本政府に、「The Emperor shall be the symbol」と提言した。これがシンボル天皇の始まりだ。

 

 「日本国憲法アメリカからの押し付け説」を支持する人は、現行憲法GHQが作ったものだと主張するが、実際、現行憲法の骨子はおおむねGHQ草案に一致する。さらに、その草案が、GHQの一組織である民生局の一般事務級の職員が一週間前後で作成したものであるというのも、今では否定できない事実である。

 しかし、だからと言って同草案がお粗末なものかというとそうではない。その時点での一つの国家が、国際的に理性と品格を認められるに足る条件を満たすために必要なものを揃えたもので、当時の日本の法学者の多くがほぼ同様な見解に至っていたことも事実である。

 私は、当時の我が国の碩学アメリカの庶民レベルの常識が同レベルであったことにむしろ感銘を覚える。

 ただし、そのように当時の民生局員を支持する私も、象徴天皇を謳う日本国憲法第1条ついては疑念を抱いている。

 なぜなら、それは、ワイマールを始め、アメリカ民主主義にも存在しない定義であり、少なくとも当時において明確なビジョンや確立されたモデルが有ったとは思えないからである。

 戦後、イギリスの立憲君主制をモデルにしていくが、終戦直後、戦犯を求める声も強かった中で、イギリスの国王と同列に考えるなどあり得ない。

 一時の騒乱を回避するための「方便」であったと考えている。

 しかし、苦肉の策が最適であったりすることは、古今において枚挙にいとまがない。

 

2 祭祀

 日本の皇族の起源は、単純にいうと神道の祭祀だ。

 この国を創り、護り、存続させてくれている神々に仕える存在である。もし本当にそんな神が居て、この国が成り立っているとすれば、この国を人間の体に例えると、その神々が頭で、天皇は首とか背骨といった基幹の機関ということになる。

 私の予想では、世界中の古代文明でそうであったように、おそらく、なんらかの科学的知識を持った種族が発祥ではないかと考えている。

 作物の豊穣、天候、疫病、天変地異、今では全て科学が説明するが、300年くらい前までは、それを予想できるだけで、絶対的に恐ろしい存在だったのだ。

 いや、今でも天皇家にだけに伝わる「バルス」のような、日本一撃壊滅の呪文が伝わってるかもしれないと思うと、平清盛織田信長、徳川家と、チャンスはいくらでもあったはずの時の権力者が、自分の時代で終わらせようとは思わなかった理由がうかがい知れる。

 存続の理由は常にこうだ。断絶させるより利用した方が良い。

 断絶させるには、面倒も多く、お恐れながら、正直不気味な存在。それでいて、影響力はあるが、存続させて利用していてもそれほど邪魔にならない。そんな存在だ。

 そうして「触らぬ神に祟りなし」で引き継がれた伝統が、さらに異次元感を強めて行く。

 

3 チャンク(括り(くくり)方の次元)

 とある社内セミナーで、「チャンク」という表現を習った。

 もともとは、ものごとを一括りとして捉える時のその塊のことをいうのであるが、そのセミナーでは、何をもって一塊とするかは、人によって違うという。例えばマグロの赤身を切り取ったら、マグロの赤身1チャンクだが、全部の部位を並べて一塊にしたらマグロ1チャンクだ。さらに他の魚の身も集めてきて一塊にすれば、魚の身1チャンクとなる。

 セミナーでは、自分の部署の成果も大事だが、組織全体の利益という「一次元、違うチャンクでモノを考えよう。」という表現であった。

 

 戦後直後、当時の皇太子、明仁殿下はイギリスのエリザベス女王戴冠式に招かれた。ところが、かつての敵国の皇太子の訪英に国内世論は猛反対。そこで当時の首相ウィストンチャーチルは、皇太子と、野党、強硬派のメディア関係者を自宅の晩餐に招き、こう演説する。

 「私達は意見の違いで時に激しく対立するが、女王陛下の下では全てがイギリス人として団結する。」と。

 君臨すれども統治しない、イギリス型立憲君主制を例に挙げて、皇太子を擁護したわけである。

 

 NHKが近年公開されたチャーチルの資料から、このスクープを報じる前、私は違うエピソードを用意していた。

 

 1992年タイで起きた騒乱についてだ。

 クーデターにより樹立された軍事政権と、民主化を叫ぶ集団とが衝突。数百人の死傷者が出た。誰もが、そのまま内戦に突入するのではと危惧していた時、プミポンというタイの国王が、両陣営のリーダーを王宮へ呼び、「もっと国民のためになるように話し合いなさい!」と一喝して一夜にして騒乱を治めた。

 両陣営のボスが揃って正座させられ、王様に怒られている姿がとても印象的でよく覚えている。

 ニュースを見ていた私は、国王が居るのに政権争いが、しかも死傷者が出るほどの騒乱が起きる事に驚いた。「だって、王様が居るなら揉める必要ないじゃん。」それが当時の私の認識だった。

 

 その後、くだんのセミナーを受けた際、思わず閃いた。プミポン国王は「チャンクが違った。」のではないかと。そして前述のチャーチルの逸話が、私のその閃きに確信を与えてくれた。

 誰の味方でもない。何にも属さない。チャンクの違う括り。次元の違う共通価値観。その下では、人は違いを失い、一つの塊の中の同じ一要素で居られる。それは時として、心地の良い世界を創出する。

 その最たるものが「神」だろうが、そこまで広く構えると、今度は民族として、あるいは団体としてののアイデンティティを失う。

 そこに都合よく当てはまったのが、神の使者で、自分たち専用の担当、宗教的指導者だ。世に戴冠する王のおそらく9割は、なんらかの祭祀出身といっても過言ではない。

 

 特定の宗教の祭祀を崇める事は、宗教の自由に反することになる?

 天皇制に疑問を持つ人は多い。でも、その支持率は、8割を下らないという(実際の世論調査は行われていない)。神道の信者がそんなに居るとは到底思えない。

 理想を言うなら、アメリカで言うところの「自由」のように、日本人を特徴づける「勤勉」や「清潔」といったより抽象的なものが、新たなチャンクになってくれると良いのだろうが、今のところは、その2500年という伝統が、侵しがたく、都合の良いチャンクなのではなかろうか。

 今上天皇の目指すものも、そのような祭祀としての伝統を守りつつ、公務における姿勢等から、いずれは抽象的なチャンクを確立し、御身が不要となる「象徴」を作り出すところであったかのように思う。

 

 さて、象徴を模索する今上天皇の苦悩は、5月から現皇太子に引き継がれる。

 私の小さなつぶやきが、殿下の周囲に届くことはないだろうが、こんな考え方が苦悩のヒントになってくれる奇跡が有ると嬉しく思う。

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作者不詳「桜」

 日本を象徴する芸術作品を探してみた。富士山、着物、刀、桜、日本画にも取り上げられているものも有るが、中にはジャポニズムと呼ばれ、西洋でもモチーフに選ばれたものが多数有る。しかし、どれも、作者、作風、ジャンルに囚われ、「日本」を総称することはできなかった。

 ところがこの絵柄はどうだろう?外国の人にはあまりピンと来ないだろうが、日本のほとんどの人が知っている。

 何にも属さず、作者も知れず、しかし立派に日本の花「桜」を表現している。これもチャンクが違うというべきか?

 今上天皇がお悩みのものの答えは意外にこういうものなのかもしれない。

金持ちと喧嘩しよう

 世界人口のたった1%の富裕層が世界の総資産の半分を所有しているらしい。

 ヨーロッパでもアメリカでも、難民受け入れ問題で大喧嘩をしているが、そもそも、庶民と貧民が、僅かな富を奪い合っているから争いが絶えないのだ。

 私は感じている。彼らが貧困という理由だけで過激になっているわけでないことを。どちらかというとむしろ問題なのは、「不平等」なのではないかと。

 不平等は些末な問題も深刻化させる。夫婦関係がうまくいかなかったり、ソリの合わない上司に仕えているくらいでも、殺意に近い苛立ちを生み出してしまう。

 逆に言うと、民族闘争や領有権争いですら、貧富の格差が多少なりとも解消されれば、そこまでしつこく揉めることはないだろうと考える事象が多々有る。

 何より悲しいのは、みんな不平等が気に入らなくて争っているのに、戦場で血を流しているのは、貧民か平民だ。

 知っているだろうか、

 アメリカの財閥、モルガン商会は、第一次大戦後のパリ講和会談で、大戦中にフランスに貸し付けた債権を回収するために、ウィルソン大統領に圧力をかけ、悪名高きドイツへの法外な賠償金を要求させた。

 1600万人が犠牲になった悪夢の直後、彼らの関心は、「で、俺の金はどうなった?」だった。

 そして、その賠償金が、次の8000万人の犠牲を生む引き金となる。

 私たち庶民はもう少し利口になった方が良いのではないかとつくづく痛感する。

 

《富の再配分》

 自由と引き換えに不平等を生む資本主義の欠陥は、100年も前からわかっている。だから、富の再分配という調整弁を持つ「修正資本主義」が導入され、崩壊する社会主義を尻目に生き残って来たのである。

 しかし多くの経済学者が指摘しているように、今その調整弁が機能不全となりつつある。

 ネットビジネスで財を成したGAFAと呼ばれるマンモス企業がその象徴である。

 富を再分配するには二つの方法がある。

 一つは、富裕層が自ら行うもので、雇用や設備投資を行い、自分を富ませてくれた業界に直接富を分配するパターン、いわゆるトリクルダウン。

 今一つは、課税により税金として富を吸い上げ社会保障の形で貧者に再分配する方式。

 GAFAはネット技術を駆使し、人件費や設備投資を極少化することにより利益を上げた。同じくネット技術を駆使し業務の拠点を容易に移転可能にし、課税上都合のいい場所に移すことができる。したがって、トリクルダウンも課税による再配分も困難と考えらている。

 

 この内、トリクルダウンの問題点についての考察は後日「ネット長者たちの黄昏」と題して投稿したいと考えている。

 今回は課税による富の再分配についてその解決策を検討する。

 

《課税による再分配》

 ちょっと前に流行ったトマ・ピケティの「21世紀の資本」は、資本主義の生み出す、常軌を逸した格差の拡大と極端な富裕層への富の集中を避ける方法は、全世界が協調して例外無き富裕層に対する課税制度を構築する事だと言う。

 ここで言う、全世界に例外無き課税制度という概念が非常に重要で、各国で税率が違うと、富裕層は、税率の低い、いわゆるタックスヘイブンに、利益と富を疎開させてしまう事を問題視している。

 しかし、全世界が協調して例外なき課税制度を構築するという構想は、世界中の通貨が統一されて、輸出入の関税を完全撤廃することになるより難しく、正直言って非現実的だ。実際、EUは、通貨を統一して関税を撤廃しているが、法人税率はバラバラだ。

 富裕層の納税額は、低い税率でも、庶民の数千、数万人分を収めてくれる。どの国も不平等は重々承知の上でも、彼らに対する優遇措置を取らざるを得ないのが現実だ。

 

 しかし、ピケティの着眼は正しい。

 ただ法人税という「直接税」を主軸においているのではままならない。

 着目すべきは「間接税」である。

 

 会社の利益に対して課税される法人税は、いわゆる直接税と言われ、その法人の所在地や経済活動の拠点(国際課税のルール上_PE:Permanent establishmentと呼ばれる)が存在する国の課税制度が適用される。そこで、直接税を納めたくない法人はなるべく税率の低い国に、本社機能やPEを移転したり、そうであるかのように書類上の手続きを行い、租税を回避する。

 これに対し間接税は、消費税やガソリン税のように、売買やサービスの提供に対する代金の支払いが行われる時点で課税され、その商行為を行なった場所を領有する国家の課税制度が適用される(ネットの場合は、現在議論されているところであるが、本稿では購入者の所在地とする)。

 間接税は性格上、代金を支払う者(一般に消費者)がこれを負担し、受け取った事業者がこれを国に納めるものであるため、一見、弱者に厳しく強者を助ける税と考える人が居り、消費税などは導入の時から嫌われ続けているが、課税と徴収という実際の運用面においてこれほと都合の良い制度はない。

 直接税に代わって富の再配分を担うという重要な役割を忘れない限り、公益は万民に帰する。

 

《打ち方始め!》

 今ネットビジネス・オンラインサービスに一律10%の間接税を課したとする。その代わり同サービスを提供する企業の法人税を現行の中小企業者に対する税率のさらに半分の10%とする。

 今や必需品となったネットサービスが10%も値上がったりするとおそらく国民の反感は甚大であろうが、ここへ商機を見いだす企業が現れる。法人税の低税率を背景に、この間接税を飲み込み、サービス価格を据え置いて提供する企業である。

 国家もまたこのような一定規模以下の業者に対してはその間接税を軽減税率とする措置をとる。あからさまに「国外に拠点を置く企業」を狙い撃ちで、間接税率を上げても良い。

 さあこれで、GAFAがどこにPEを置こうが、国内で商売する限り、中小や新規参入組とハンデ戦をせざるを得なくなった。わかってきただろうか?私がやりたいのは、市場を人質にした「独占」の放棄要求だ。

 つまり彼らは苦々しい二者択一を迫られることになる。すなわちその市場から撤退するか、無駄に法外な役員報酬を削ってサービス価格を引き下げるかである。

 私が経営者なら、使い切ることもできなくなった資産をマネーゲームで弄ぶならば、市場に還元し、新規参入者と切磋琢磨する。それこそが自分を儲けさせてくれた産業への恩返しであろう。

 この先は希望的観測となるが、この案の優れている点は、しれっと、とかく野党から大企業優遇と非難の的となる思い切った法人税減税が行える事だ。

 GDPが3位になったと言え、やはり日本の市場は魅力だろう。どっちにしても営業活動に課税されるのなら、多くのIT関連企業は日本に活動拠点を戻すだろう。

 彼らとていくらネットの技術を駆使しているとは言え、ケイマン諸島パナマに本社機能を置いていることが、実際の経済活動においては不便であることには間違いはないのである。

 本社機能等が国内に移ってくれば、雇用や都市の発展、日本人のグローバル化なども期待できる。 

 

《公正で居心地の良い世界》

 「自由競争に対する不当な介入?

 税制と言うものは累進課税を含め所詮は不当な自由競争への介入である。これらはより多くの市場関係者の公益を図るために行われる「政策」である。

 韓非子は、『法』を定めるにおいて、信条や情による服従を求めない。有術者(法律を上手に扱う者)の『法』とは、その法に従った場合のメリット・デメリットと従わなかった場合のメリット・デメリットが明白であり、全ての者の選択肢が「従う」であることが期待されるものである(姦劫弑臣篇(かんきょうしいしん)ほか)

 現在各国家が行っている輸出入における関税制度は、商業者にとっては自由な商売を侵害する介入以外の何物でもない。しかしながら多くの大企業はこの制度を受忍している。気に入らないからといって密輸入をしようとはしない。

 別に彼らは国家を恐れているのではない。密輸にかかるコストが関税を上回るからだ。だから、ほとんどの商売敵が同じ選択をすることが期待されるからだ。

 彼らにとって怖いのは商売敵に出し抜かれる事だ。それも悔しいとか腹立たしいのではなく、負ければ投入コストが無駄になるからだ。

 

 間接税とした場合、これを納めないと言う選択をGAFAはするだろうかと言う不安が生じるが、おそらくそれはできないであろう。

 直接税の納税地を有利な課税制度の国に移転するのは信条的には褒められた行為では無いが、法律上は適法である。それに、直接税はいったん懐に入ったいわば「身銭」だ。身銭を切るには、今の税金の使われ方や役人に対する不満も左右されがちである。

 これに対し、間接税は支払者から「預かった税金」。これを納めない事は「横領」であり、どの国においても犯罪である。

 理にかなっていても、逃げ道の有る法、情に頼る法は、従う者も従わない者も両方不幸にする。多少不条理であっても、従わざるを得ない法の方が 、当事者たちにとってはありがたいのである。

 

 モルガンだって金の亡者と言われるより、人間的に評価されたかったのではないか?ただ資本家の矜持が、不公正な競争が可能な世界ならば、その選択をさせてしまうのではないか。資本家の性が、ライバルより真面目に税金を納めたせいで、税引後利益率が下がるのがどうしても許してくれないのではないか。

 彼らも実は分かっている。娘の帰宅を心配しなくて良い世の中、息子が搭乗している飛行機の離着陸時間をいちいち気に病まずにすむ毎日。無秩序に拡大する資本主義をこのまま放置していればその未来は無い事を。だから誰よりも誰もが従わざるを得ない税金制度を待ち望んでいるのではないか。

 そう言えば、世界的ベストセラーとなったトマ・ピケティーの著書を最も購読したのは富裕層だったと聞く。

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エドガー・ドガ「アプサント」

 場末のカフェで娼婦とその雇い主が、「アブサント」という安いが悪酔いを引き起こす酒を飲んでいる。

 女性のモデルはれっきとした女優さんなのだが、その疲れきったという表情は、下層階級の人間がさらに最下層の人間から搾取する、どうしようもなくくだらないこの世の中を、見事に表現している。

 

 

情操教育

 

 

 娘は、親に似ず学業に秀で、順当に進学し、志望通り大手企業に就職した。

 初年度はたいそう楽しげであったが、2年目に入ると、大手の宿命として、高給に見合う成果を求められるようになり、苦しいきついとこぼすようになった。

 人は、成績に追われると、クライアントや上司に不利な情報を伝えることをためらったり、正規の手続きをはしょりたいという衝動に駆られるものだ。彼女の苦しみようを見ていると、いつ、そのような誘惑に負けてしまわないか心配になる。

 しかし、一方で彼女については、そのような短絡的な選択はせず、もっと複雑な回答を求めるだろうという確信を持っている。

 

 実は、今から11年前、ハンゲームというサイトで同じく「韓 非」と名乗りブログを書いていた。その頃はサークルに入っていたこともあり、毎回コメントをいただき励みにもなっていた。最近この投稿をするにあたり、いくつか読み返したが、11年前の割に、結構今よりしっかりしたり、斬新だったり、自分でいうのもなんだがなかなかに面白い、その中でも、自分の子供たちの成長の過程で、彼女たちが問題に出くわすたび、読み返す程ではないが、思い浮かべる書き込みが有る。

 11年前の韓非さんに敬意を表し、当時の原文のまま掲載する。

 

2007年8月24日 「情操教育」

 

 映画ファンなら一度は聞いたことの有る「ブレイドランナー」。

 視覚効果(FSX)の技術革新において金字塔といわれるこの作品であるが、私は映像の妙より、ここに出てくる人造人間(レプリカント)が、幼少時の記憶を持たないために、オリジナルの自然人より、圧倒的に情緒安定力がない、と言う設定に感動した。

 

 この作品の中で、レンプリカントハンター(ブレイドランナー)は、レプリカントを見破るとき、わざとくだらない、意図の読めない質問を繰り返し、相手を怒らせることにより、それを見破るのだが、その設定から、人間にとって、記憶(思い出)と言うものがいかに大切かを語っている。

 

 心理学、いや大脳生理学によると、人はある行動を起こすとき、常に頭の中に数個の判断が存在し、その中からひとつを選んでいるらしい。

 多重人格者じゃなくても、頭の中には、幾人もの人格が存在している。

 本能的欲求に素直な野蛮人の性格から、理性的で社会的にバランスを保とうとする性格まで。

 これらの人格は、20才までの成長時にそれぞれ別々に形成されていく。

 そしてこれらの性格は常に、自分の意見をより多く通してもらうよう、対立して、競い合って、大脳の司令部に陳情を繰り返すのである。

 

 そこで私が考えるのは、そもそも二重人格や精神障害は、頭の中のこの競争が不公正で、一部の性格が独裁的になったときに起こるのでないかということ。特に、それは、原始的脳に近い野蛮な性格がそうなることが多いのではと。なぜなら、理性的な性格は、きっと他の意見を聞き入れる器量も備えているだろうから。

 

 例えば、恵まれない人の脳内では、こんな会話が行われているのではないだろうか。

野蛮性格A「おまえよう、人には優しくせなあかんて、いっつも言うけどよう。そのせいで、俺ら(彼らにとっては、その人間の一行動が、団体としての行動と捉えられるだろう)、いっつも損ばっかりして、いやな思いばっかりしてるやん。」

理性的性格B「情けは人のためならず、自分のためでもあるんですよ。」

A「だから、それがあかんのやんか。実際、俺らに不利益になるようなことばっかり起こる以上、実績のないお前は、黙るべきやねんて!」

 

 人に優しくしても、報われない人生、親を信じても虐待され続ける人生。その積み重ねが、理性的なBの意見の採用率を下げ、野蛮なAの権力が増大していく。

 そして、Aが活動している間、Bは隠れるようになり、AとBは、時間を分けて存在するようになる。これが2重人格の原因ではないか。

 

 先のブレイドランナーでは、情緒不安定の欠陥を補うため、両親との思い出を植え付けられたニュータイプが登場するが、十数年の成長期の記憶を完全に作成することはできず、ブレイドランナーは、オリジナルとの違いを見破ってしまう。

 

 人格形成には、長年の時間と膨大な外部情報が必要であり、これは実際に生きてみないと作られないわけである。

 

 私は、子育てにおいて、いつも「情緒」「情緒」という。(間違われて使われていることが多いが、情緒と言うのは、景色や雰囲気のことではなく、外部情報が脳に与える感慨、感動のことです。)

 嬉しい、楽しい、おもしろいはもちろんのこと、悲しい、悔しい、こわいも含めて、とにかく多くの「情緒」を与え、脳内になるべく多くの人格を形成させることが重要なのではないか。

 

 本能的欲求の人格は、きっと脳内では、貴族のような者。基本的に権力が強いと考える。だから、たくさんの庶民(意見)を形成させることによって、バランスの取れた優れた性格が形成されると思う。

 

 自然に触れさせる。できれば圧巻の自然を目の当たりにさせる。一緒に何かをする。昔話、伝記、神話、物語を話し聞かせる。夫婦は仲良くもするが、喧嘩もする。優しく褒めちぎると思ったら、キチガイのように怒る。

 

 テレビに向かって吠えている父が妙に滑稽だった。でも、仕事している姿は格好良かった。

 酔っ払って母に絡むところは嫌いだったが、難しい話をわかりやすく説明するところは、天才的だった。

 

 私がもし、実はレプリカントで、私の記憶が後から植えつけられたものだったとしても、きっと私はブレイドランナーには見破られないだろう。

 せめて、子供たちはレプリカントにはしたくないものだ。//

 

 私がこの子育てにおいて情操教育が根幹を担うとする考えに至るには、いくつもの体験や周囲の助言、ニュースの影響などが作用しているわけであり、それぞれ、魅力的な出会いなのであるが、それら全てを説明していると「私が情操教育を根幹と考える理由」という題目で、一冊本が書けそうになるので、多くを割愛し、一点だけ紹介したいと思う。

 

《バーナムの森》

 子供たちが就学前の頃、寝つきに「おはなし」をしてやったところ、たいそう気に入られ、週に34回はやらされることになった。ストックには自信のある方だが、子供の吸収力は甘くなく、程なくネタ不足になった。

 やむを得ず、少々大人向けでも、シェイクスピアや大人向けの映画のストーリーなどを多用した。案の定、以前ほどは食い付きはなく、幼かった息子に至っては、しょっちゅう途中で寝ていた。

 苦労してネタをひねり出しているのに、虚しい日々が続いたが、なんだかんだ言いながら、娘が小学校に上がり、それどころではないようになるまでは続けたかと思う。

 数年経った頃か、おそらく前述のハンゲームのブログを書くちょっと前くらいに、ある時、息子がヒョイと何かの拍子に「バーナムの森が動かない限りは・・・」と発言し、「なんでここでマクベスやねん」と横で聞いていた娘もツッコンだ。

 その時、確信した。建設中の脳が欲しているのは、論理的に筋が通り、楽しかったり嬉しかったりといった話ではなく、意味不明でも、シナプスの回路を拡げる情緒なのだろうと。

 しかし、何が彼女たちの選択肢として残るのかは、最新の数学理論をもってしても計算は不可能であろうし、おそらく脳科学を発展してもその選択肢を特定できる事はできないだろう。レプリカントが実際の人間の情操を再現できない所以だ。

 

 ハンゲームの投稿当時、娘は中学生で、私からの情操教育はほぼ終焉していた。彼女がそれを土台にどう成長していくか?私の考えが的外れだったかは、その先の数年あまりに託されていた。

 そこで、11年前の韓非さんに伝えてあげよう。

 

 あなたの考えはそれほどずれてはいなかった。娘さんは多様な情緒に恵まれ、多様な人格を持ち、困難にあっては多数の人格と相談し、複雑な回答を好む。そして何より、その人格たちは、さらに多様な情緒を求め、仲間を増やそうとする。これこそが、最大の強みだ。

 実は先日来、成績に追われてキツイキツイと言いながら、オーストラリアなんぞに旅行に行っていて、昨日帰ってきた。またまた多くの情緒を携えて来たようで、私に楽しい「おはなし」を返してくれている。

 おそらく彼女の中で、仕事上の今のステージに障壁は残っていまい。情緒に出くわせばスキルが上がる。原理は単純であるが、実は羨ましいその脳みそが、彼女がこれから出会う困難を克服するうえで役に立つことを祈念する。

 

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アンリ・マティス「赤い部屋」

 ルノワールが裸婦の肌に映る影を緑や紫で表現した時、「腐乱した死体のようだ。」と評された。「色」には常識という「枠」が存在していた。

 しかし、人が本当に脳の深層で見ている「色」は、もっと自由なのである。

 マティスの時代、画家はその深層に迫り「色」を解き放つが、その表現は理解し難く「野獣」を意味する「フォーヴィズム」と揶揄される。

 しかし、印象派同様、この揶揄が、後年彼らの偉業を表す呼称となる。

 

 一度見たら忘れられない絵というものがある。

 解き放たれた赤の、気ままに乱舞するこの部屋は、脳の表層ではなく、深層に情緒として刷り込まれ、もはや思い出から剥ぎ取れない。

ブレイクアウトⅱ~自衛という名の加害

 

 「楚人に楯と矛を鬻(ひさ)ぐ(売る)者有り 、之を譽めて曰く、吾が楯の堅きこと、能(よ)く陷(とほ)すもの莫(な)きなり。又、其の矛を譽めて曰く、吾が矛の利(と)きこと、物に於(おい)て陷(とほ)さざる無きなり。

 在る人曰く。子の矛を以て、子の楯を陷(とお)さば、如何?」

 ●韓非子55篇 難一篇 【矛盾】

 

 韓非子の説話から生まれた熟語は多々有るが、これほど有名な説話は無い。

 

盾の論理 

 戦争における殺人を私は「正当防衛」と捉えている。すなわち、相手を殺さなければ自分の命が危険である時に限定された行為であると。

 このロジックに従えば、武装を解除した捕虜への虐待を始め、そもそも非戦闘員である一般市民に対する暴行・略奪・強姦等は、戦術的にはもちろん戦略的にも何の意義もなく、身の危険から安全を確保するという正当防衛に微塵も整合しない。

 私は、10代後半でこのロジックにたどり着いたが、それから30年、さんざん虐殺や核兵器の非道を訴えるメディアから、そのロジックを示された覚えがない。

 非を鳴らすのは簡単だが、その行為が避けられないと主張する人たちを説得するには、論理的に否定しなければならない。

 

 さて、ここに「正当防衛」という免罪符を定義した。

 それはどこまで認められるのか?

 端的に言えば、前述のとおり、「自分の命が危険である時」となるのだが、事はそう簡単ではない。

 空爆をする爆撃機は、対空砲の届かない高度から爆弾を落とす。ドローンに至っては、搭乗員すら居ない。これが、「自分の命が危険である時」に該当するか?

 該当する。

 なぜなら、その焼き払う兵器工場は、いずれ自軍の兵士を殺戮する兵器を生み出すからである。

 では、そこに働いている人間は?周辺の住民は?

 科学技術は、人命を尊重し、将来の危険のみを取り除く手法(ピンポイント攻撃)を模索しているが、軍人は本当はこう考えている。「それで助かった人間は、明日の戦闘員になり、自軍の兵士の命を脅かすかもしれない。」と。

 同様の論理が通るなら、収容所まで連行できない、または、撤退せざるを得ない占領地内の収容所に監禁している非武装の捕虜を殺戮することも正当防衛となる。

 

 お気づきだろうか? すなわち「際限が無い」のである。

 

 自衛隊は英語で「Self-Defense Force 」 、ブリタニカ百科事典によると「=Japanese armed Force」と表現されている。きっと「自衛」というフラグを掲げる奇妙な軍隊は、日本特有の表現なのだろう。

 日清・日露・第一次世界大戦を通じて、日本は何をしたかったのか?

 列国に追いつき、自分も植民地を持ち、金持ちになりたかった?

 それも有るだろうが、多くの研究者が指摘しているのにほとんどメディアが取り上げない理由がある。

 それは、「自衛」のためである。

 

 日本は、極東の島国だが、実はロシアと接している。

 ロシアは、アジア民族ではない。スラブ民族という白人の一種である。

 第二次世界大戦が終わるまで、アジア民族は、白人より劣ると考えられていた。だから、ロシア人は日露戦争に負けた後も、自分たちがアジア人を支配することは神の定めた運命だと本気で信じていた。

 はるばる船でやってくるアメリカより、よっぽど脅威だったのだ。

 

 軍事的緩衝エリアを広げ、なるべく、自国の領土での戦闘を避けようとする戦略は、古今を問わず常套手段である。

 そして日本は、朝鮮半島を支配し、満州国を建国した。

 その後、中国本土に食指を伸ばして行ったのは、私は愚行であると考えているが、当時の為政者に言わせれば、朝鮮・満州という防波堤を支える資源の供給源を大陸上に獲得したかったのだと説明するかもしれない。

 ちなみに、「大東亜共栄圏の建設」という大義名分を信じる人と、とんだ虚構だと主張する人が居るが、おそらく当時は、まじめに取り組む人たちと、都合よく利用する人たちが居たのだろう。

 実際、この政策により開眼した東南アジアの諸外国は、列強の支配から独立し、今日ASEANAPECといった立派なコミュニティを組織し、欧米と対等に協議し、結果的に日本の安全保障に大きく寄与している。

 しかし、それは結果論であり、日本が自国の安全保障のために、他国の領土、他国の資源を蹂躙したことは事実である。

 

盾に潜む矛

 より安全な立ち位置を保全しようとする国家の欲求は際限が無い。「自衛」の概念は、「正当防衛」同様、一方に有利な形で拡大解釈され、いつしか「自衛という名の加害」に変化する。他国の領土が主戦場になるように仕向け、他国の資源で防衛できるように画策する。それどころか、他国で武力を行使することまで、「自衛」と言い始める。

 安倍内閣が言う「集団的自衛権」は、どう繕おうと、いざというとき自分たちを助けてもらうためには、他人の戦争に加担しなければいけない。ということだ。

 「自衛」を拡大解釈すると、そこまで言って良いのかと、あきれるを通り越して感心する。「自衛のためなら加害に加担する。」と宣言してしまっているのだから。

 

 私は、国家が国民の基本的人権保全するための自衛権を否定しない。

 しかし、例え隣国に道理の通じない稚拙な国家や野心むき出しで喧嘩上等の国家が有ったとしても、その国の主権を侵す権利はどの国にも無いと考える。

 隣の親父は大酒飲みで、いつ暴れ出すかわからないからと言って、その家の玄関を溶接する事はできない。

 個人の基本的人権が公共の福祉の制限を受けるように、国の自衛権もまた、国家間の関係において無制限であってはならない。

 

 昨今の日韓関係を始め、とかくに東アジアの5カ国の関係は流動的だ。アメリカを加えた周辺6カ国の緊張は、これからも高まっていくだろう。その対処法については、私なりの腹案を持っていて、いずれ投稿したいと考えているが、日々変化する情勢に、修正が追いつかないでいる。

 ただ、本投稿で示した通り、彼我の事情を考慮しない安全保障など、盾と矛を同時に売るようなもの。頭の悪い奴がする事だ。せめて以下の2つくらいの考えは持っていたいものだ。

 すなわち、一つは、国際ルールに照らし合わせ、常に青天白日が我が国にある状況を保つ事。今一つは、「大東亜共栄圏」の幻想の一つでもあるのだが、近隣諸国の教育と経済を安定させ、理性を育み、もって東南アジア全域の平和と安定を目指す。というものである。

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フランシスコ・デ・ゴヤ「着衣のマハ」と「裸体のマハ」の連作。

 ある富豪の邸宅で、「着衣のマハ」が普段飾られており、夜一人になると、こっそり「裸体のマハ」と並べて楽しんだという。

 女性陣には、悪趣味と罵られるかもしれないが、男性諸氏においては、その願望を理解できない者の方が少なかろう。

 ただ私が伝えたいのは、「自衛」という名の着衣の裏には、裸体という「欲望」が隠れており、普通の人なら、このように並べられたら、さぞかし赤面の至りであろうと思うのである。

Legal mind 《法的思考》

 あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

 2019年 最初の投稿では、韓非子の主張の中でも「説難」に並び、あるいはそれ以上に重要かつ根源的と言える「法」についての考察を取り上げ、いくつかの韓非子に対する誤解を解きたいと思います。


1 二柄

 韓非子55篇「二柄」篇より

 「昭侯が酔って眠った時、冠係が着物をかけてやった。 目を覚まして、 誰がかけたか問いただし、冠係と聞くと、 昭侯は、冠係と衣服係を罰した。冠係は自分の任務でないことをし、衣服係は自分の任務を怠ったからである。」
 韓非子は、為政者(君主や主権者)に多彩な才能や卓抜した技量を要求しない。賞を与える権力と罰を科す権力という二つの権力(二柄)さえ手放さなければ良いと主張する。
 人は皆「欲望」に従って行動する。そこで国家の運営において、有益な行為については欲望を満たす褒賞を示し精励させ、不利益をもたらす行為については罰という恐怖によって欲望を制す。それのみが重要であり、そしてそれのみで充分である。と。彼にとっては、温情や裁量はむしろ無用なのである。 

 

2 性悪説性善説

 二柄の考え方は、合理主義者の韓非子らしく、至ってシンプルで効率的であるが、「あまりに心が無い」(ウィル・スミス主演「アイ.ロボット」サニーのセリフ)。罰せられた冠係に同情する人も多いだろう。このような考え方から、韓非子を多少知っている人の中には、「ああ、あの性悪説の人だろう。」と毛嫌いしている人も多い。

 性悪説性善説の説明については割愛するが、性悪説を主張したのは韓非子の師匠である荀子であり、韓非子は完全にコピーしているわけでは無い。

 確かに彼は、人間の本性は「欲望の権化」と定義したが、求めて良い欲望と求めてはいけない欲望とが有る。生まれながらにして人が善であるか悪であるかと言う前に、何が善で何が悪かを定義する事が重要であろう。

 その定義こそが「法」である。

 

3 法家

 韓非子を語るうえで、欠かせない「二柄篇」であるが、権力を手放すことへの警告を示す説話が多く、前述の説話でも主君が風邪をひくことより、家臣が勝手に権限を逸脱することの危険性(侵官之害)を示していると解釈されることが多い。しかし、その捉え方では韓非子の神髄に触れることはできない。

 典衣典冠ともに罰せられている点から、これは単に家臣の「越権」のみを問題にしているのではなく、双方の「違法」を問題にしていると考えるべきなのである。

 なぜなら、韓非子55篇の主張は、常に『法』有りきで展開されているからである。(二柄篇に先立つ有度篇を始め、多くの場面で取り上げられている。)

 前述の説話の場合においても、賞罰を与える前提として、誰が何をやって良く何をやってはいけないか?が明確に規定されていなければ、成り立たない話である事を知ってもらいたい。

  ご存知の方も多いだろうが、彼のこのような、法律を基軸に捉える社会体制、いわゆる法治国家を志向する思想を「法家」と呼ぶ。そう言うとあたかもその系列の人が沢山いるように聞こえるが、並み居る諸子百家において、近代多くの国家が採用し最も公平と言われるこの思想を、体系的に書物として表した者は、私の知る限り、韓非子のみである(商鞅など実務実績においてその思想が垣間見える為政者ならいくらか居るが)。

 にもかかわらず、彼の名が孔子孟子に比べ格段に知名度が低いのはたいへん残念な事である。もしそれが、前述の性悪説のイメージが強いためというのであれば、とんでもない誤解である。

 

 4 「法」の目的 

 法律で人を縛るような考え方は、あたかも人を信じていないと判断されるようであるが、道徳や博愛、忠誠心などと言うあやふやな不文律(空気と呼ばれるもの)で、個人の価値観を封じ込めている方が、よほど心無い仕打ちだと言えないだろうか?

  また、そもそも、韓非子は、人を縛るために法律を重要視しているわけではない。彼が縛ろうとしているのは、「権力」である。彼がターゲットにしているのは、専ら、君主を始め役人などの支配者層である。

 彼の考えによれば、支配者層は法を定める権限を有するが、法に則らない限り、罰を課す事はおろか褒める事さえ許されないのである。

 人の上に人を作り人の下に人を作る「封建社会」における支配者層には、さぞかし嫌われただろう。韓非子が永年陽の目を見なかった理由はここかも。

  また、権力は国家や役人だけが持っているのではない。個人もまた基本的人権を有している。韓非子の時代、個人は選挙権はおろか自由すらままならなかったであろうから、子供にもわかりそうな説話を並べているわりには、個人の人権について語っている部分はほとんど無い。しかし、現代の民法、商法、刑法、税法、いずれも基本的人権を制限するために存在する。 

 

5 誰が為の法 

 「法律だらけで雁字搦め。世知辛い世の中やわ」という声が聞こえて来そうだが、多くの人が勘違いしている。

 法は、一般的な社会的協調を保ち、立場に見合う義務を果たしている者(私は彼らを常識人と呼ぶが)を縛りはしない。

 そうで無い者の権限を制限するために在る。

  私も若い頃身に覚えが有り、偉そうな事は言えないが、スピード違反や軽犯罪を犯して取り締まりを受けた者の中にこう言う者が居る。「みんなやっている事やん。」「他におんなじことやっているやつ山ほどおるやん。先にそれを片付けてからこっちに来て!」

 違反を犯している者の多くは、周囲にその件について正しい理解をしている人が居ないから、あたかも自分が多数派(マジョリティ)だと信じているが、どう贔屓目に見ても、彼らは圧倒的にマイノリティである。

 違反者がマジョリティとなる法律なら、それは改正されなければならない。それが改正されないのであれば、やはり多くの人がそれを守る事に抵抗を感じていないからである。

 交通法規を除いては、通常の生活の中で民法や刑法を気にかける事はない。

 まじめに申告するか、専門家(税理士)に委ねておけば、税法を学ぶ必要はない。

 普通に商売をしているだけなら商法の規定を読む事は無い(法人においてはいささか社会的影響力が高いので、経営陣は少々勉強しておく必要があるが)。

 要するに、大多数の勤勉で平穏に暮らす人たちにとって、法律とは身を守ってくれるものであり、不平等を是正してくれる味方なのである。


6 Legal mind 

 Legal mind 法的思考とは、モノの理非曲直、事の軽重を判断する上で、主観と感情を廃し、理性と客観のみで判断するために「法」を尺度とする考え方である。

 しかしそれは、豊かな情緒や感動と言った人間性を否定するものでは無い。ただ、ただ、他人の自由(公共の福祉)に抵触する部分を制限しているだけなのである。

 法律を作る者、適用する者援用する者、従う者、全ての立場においてその共通認識が必要なのである。  

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ルーブル美術館所蔵「ハンムラビ法典

 紀元前1792年から1750年にバビロニアを統治したハンムラビ王が発布した法典を石柱に刻んだもの。

 「目に目を歯には歯を」の文言で有名であるが、全部で282条、女性や奴隷の人権についても規定しているなどかなり詳細で、総条数264条の日本国刑法に引けを取らない。

 しかし、その条文数や内容よりも、法律好きの私を震えさせたのは、彼らがそれを「石に刻んだ」という行為だ。彼らが意図したか否かは不明であるが、結果として彼らは、3700年前にすでに人類の中に、近代のLegal mindを会得している種族がいた事を知らしめることに成功した。

 我々の時代の人類は、一体何が残せるだろうか?

 

銀婚式

 

憲法第二十四条

 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない

 

 先日、姪の結婚式に夫婦で列席させてもらった。

 彼女を含め、私の母親の孫は11人いるが、彼女が初孫にあたり、私たち叔父叔母の寵愛を一身に受けた時期が有った。

 それだけに喜ばしく、幸せを感じる結婚式であった。

 特に、通常花嫁が両親にお礼の手紙を読み上げるところで涙するのに、花婿が花嫁の両親にお礼を言うところで号泣し始め、それが止まらず、花嫁になだめられるというシーンが有り、両者の多幸を確信でき、非常に感銘を受けた。

 

 私たち夫婦は、今年25周年の銀婚式に当たる。

 ご多分にもれず、私たち夫婦も、これまで平坦な道のりではなかった。

 とにかくお互い価値観が合わず、子育て、教育、買い物、善悪、なぜ結婚したのかと疑問に感じるほど考え方が違い、喧嘩が絶えない時期や、離婚の危機に陥るような衝突が何度もあった。

 

 私たちが結婚した頃よくスピーチで使われた話で「ハリネズミのジレンマ」と言うものがあった。同世代の人で知らない者は居ないくらい有名な話だが、最近の若い人は知らないようなので簡単に説明する。

 

 「ハリネズミの夫婦は冬になって気温が下がると、お互いの体を寄せ合い体温で温め合おうとする。しかしお互いの体には、たくさん針が付いている訳だから、近づきすぎると相手の体を傷つけてしまう。かと言って、距離を置き過ぎると体温を感じられずお互いが寒い思いをする。傷つけては距離を置き、寒くなっては近づき、これを繰り返すことによって、最終的に最も適正な距離を得ることになる。」という話。

 

 ベタな話だが、結構この教えは役に立った。

 結婚25年で、最適な距離を見出せたかというと、必ずしもそうではないが、少なくとも、私たちは最適な距離を見出すために、「相互に協力」することはできた。

  

 これとは別に、私の結婚式で披露されたスピーチの中に二つほど、後の私の心に残り続ける言葉があった。

 一つは「夫婦は向き合うと欠点ばかりを探してしまうが、同じ方向を見ればお互いが寄り添うことができる。」という言葉である。

 結婚に際し、私は妻の20年30年先の幸せを保障したいと決意していた。

 この言葉をもらったとき、私には夫婦が肩を寄せ合いながら、遠くに沈んでいく夕日を眺めている光景が目に浮かんだ。それ以来、現状においてお互いが何をしてくれるか何をしてくれないかなどを探り合うより、20年先30年先どうなっていたいかを提示し、長期的スパンを意識させ、遠くの夕日を見つめるように仕向けてきた。

 結果として、何度もいさかいは有ったが、20年30年のスパンを考えた上では、さざ波ほどにもならないと整理していくことができた。

 もう一つは、「この感動を忘れないことが重要だ。」という言葉。

 結婚式の当初は、言っている意味がよくわからなかったが、後々になって、この言葉の意味を重く感じる思いを何度もすることになる。

 私たちは23歳の時に結婚したので、ほとんどの同僚に経験者が居なく、注目された分、ずいぶん盛大なものとなり、たくさんの祝福を受けた。

 「もうわかった!離婚や!」と叫ぶたびに、私にはあの披露宴での親類、友人一同の祝福の笑顔が浮かんで来た。

 私は多くの人に祝福されて彼女を妻に娶った。その感動が、私の心の中に強い義務感を植え付けていた。

 そう私は、祝福していただいた方々のために幸せでなければならず、また彼女を幸せにしていかなければならなかったのだ。

 

 昨今、結婚式を無駄な浪費と考え、控えめにする傾向があるが、結婚式はやはり派手な方が良い。控えめにしようとする人間は、決意や責任も控えめにしようとしてるように感じられる。ど派手になってこそ自分の背負う責任を感じることができるのだ。

 私の娘を娶る花婿さんには、見栄を張る必要はないが、一定の決意がうかがえる程度のスタンダードな披露宴は催していただくことを期待する。

 

 さて、そういうわけで、これらの意識を武器に、25年の永きに渡り、婚姻という平凡な幸せを維持し続けた。

 婚姻にしがみつくことだけが正しい人生では無い事は理解できるが、平凡な幸せを維持する事は大変な忍耐と苦労を要するものであり、親や子供、国に余計な心配や迷惑をかけずに貫徹してきたことは、もっと賞賛されるべきだと思っている。 

(離婚者の家庭に生活補助が支給されるのであれば、銀婚式を迎えた夫婦にも報奨金を支給してはどうか?と思っている。) 

 私は妻に恵まれただけなのかもしれない。

 何度も浮気するほどモテなかっただけかもしれない。

 しかし、少なくとも私は、結婚について常に「悠久の時」を感じていた。そして遥か遠くの夕日を一緒に見ようと努力していた。祝福してくれた親族や友人の事をずっと忘れなかった。

 価値観の全く違う妻の考えはきっと全く違っているだろうが、彼女もきっと、何らかの意識を武器に、平凡な幸せを維持する努力を怠らなかったのだろう。

 結果として、銀婚式を迎えることができ、結婚当初の目標はクリアできた。

 

 妻の両親は、もうじき金婚式である。

 離婚率がうなぎ登りな中、私たちはお義父さん達の生きざまを受け継ぎ、次の世代に伝えるところまではできた。

 次の目標は、彼ら同様、自分たちの金婚式を迎えることだろうか?

 

 最後に、婚姻関係が永きに渡り継続中の方々のために、私が20代の頃、友人の結婚式で披露する予定だったが、故あってお蔵入りとなったスピーチを紹介する。

 

 「ゴッホの名作に「ひまわり」というものがある。このひまわり、実は一枚ではなく十数枚描かれている。その中には、茎がうなだれて、まるで枯れているように見えるものもある。どうしてこんなものが名作なのだろうと感じて、書籍をひもといてみたところ、面白い逸話にたどり着いた。

 ある日、ゴッホは、アルル地方にアパートの一室を構え、新しい画家たちの活動の拠点にしようと皆に声をかけた。しかし発足日に、アパートを訪れたのは、ゴーギャン唯一人だった。

 それでもゴッホは感激し、激しくゴーギャンを歓迎した。

 この時ゴーギャンが持ってきたのがひまわりだった。

 しかしゴーギャンとの共同生活は長く続かなかった。

 (その理由等は結婚式場では不適切なので話せないが、要するに価値観の違いで対立し、ゴーギャンは出て行ってしまう。そして、ゴッホゴーギャンが去った後、有名な耳切り事件を起こしてしまう。)

 ゴッホは、ゴーギャンが居なくなった後も、ゴーギャンからもらったひまわりを見る度に彼がアルルに現れた時の感動を思い起こし、そのひまわりを描き続けた。やがてひまわりの茎はうなだれ枯れていくが、ゴッホはその感動が忘れられず、そのひまわりを愛おしく思い、これを描き続けた。

 

 今は美しい花嫁も30年40年経てばどうしても老いていく。

 しかし、重要なのは容姿の美醜ではない。彼女を好きになった時の、結婚を決意した時の、そして披露宴のこの日のこの感動を思い起こせば、彼女がいかに老いていたとしても、花婿は彼女を愛おしく思い続けるだろう。」

 

 交際期間を加えると、本日は30回目のクリスマスイブになる。傍目にはお互い老いているだろうが、楽しそうにケーキを買っている妻の姿は、私にとっては変わらない。まさしく私の目指した30年後である。

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マルク・シャガール「誕生日」。

 姪の結婚式場:アニヴェルセル(http://www.anniversaire.co.jp/ )で、式場のコンセプト(記念日)を象徴する絵画として、リトグラフ(コピー)が飾られていた。

 説明を不要とする表現と、どハマりな画題。これこそ絵画だけに許された領域ではないかと感じさせる一枚である。