説難

ブレイクアウトⅱ~自衛という名の加害

 

 「楚人に楯と矛を鬻(ひさ)ぐ(売る)者有り 、之を譽めて曰く、吾が楯の堅きこと、能(よ)く陷(とほ)すもの莫(な)きなり。又、其の矛を譽めて曰く、吾が矛の利(と)きこと、物に於(おい)て陷(とほ)さざる無きなり。

 在る人曰く。子の矛を以て、子の楯を陷(とお)さば、如何?」

 ●韓非子55篇 難一篇 【矛盾】

 

 韓非子の説話から生まれた熟語は多々有るが、これほど有名な説話は無い。

 

盾の論理 

 戦争における殺人を私は「正当防衛」と捉えている。すなわち、相手を殺さなければ自分の命が危険である時に限定された行為であると。

 このロジックに従えば、武装を解除した捕虜への虐待を始め、そもそも非戦闘員である一般市民に対する暴行・略奪・強姦等は、戦術的にはもちろん戦略的にも何の意義もなく、身の危険から安全を確保するという正当防衛に微塵も整合しない。

 私は、10代後半でこのロジックにたどり着いたが、それから30年、さんざん虐殺や核兵器の非道を訴えるメディアから、そのロジックを示された覚えがない。

 非を鳴らすのは簡単だが、その行為が避けられないと主張する人たちを説得するには、論理的に否定しなければならない。

 

 さて、ここに「正当防衛」という免罪符を定義した。

 それはどこまで認められるのか?

 端的に言えば、前述のとおり、「自分の命が危険である時」となるのだが、事はそう簡単ではない。

 空爆をする爆撃機は、対空砲の届かない高度から爆弾を落とす。ドローンに至っては、搭乗員すら居ない。これが、「自分の命が危険である時」に該当するか?

 該当する。

 なぜなら、その焼き払う兵器工場は、いずれ自軍の兵士を殺戮する兵器を生み出すからである。

 では、そこに働いている人間は?周辺の住民は?

 科学技術は、人命を尊重し、将来の危険のみを取り除く手法(ピンポイント攻撃)を模索しているが、軍人は本当はこう考えている。「それで助かった人間は、明日の戦闘員になり、自軍の兵士の命を脅かすかもしれない。」と。

 同様の論理が通るなら、収容所まで連行できない、または、撤退せざるを得ない占領地内の収容所に監禁している非武装の捕虜を殺戮することも正当防衛となる。

 

 お気づきだろうか? すなわち「際限が無い」のである。

 

 自衛隊は英語で「Self-Defense Force 」 、ブリタニカ百科事典によると「=Japanese armed Force」と表現されている。きっと「自衛」というフラグを掲げる奇妙な軍隊は、日本特有の表現なのだろう。

 日清・日露・第一次世界大戦を通じて、日本は何をしたかったのか?

 列国に追いつき、自分も植民地を持ち、金持ちになりたかった?

 それも有るだろうが、多くの研究者が指摘しているのにほとんどメディアが取り上げない理由がある。

 それは、「自衛」のためである。

 

 日本は、極東の島国だが、実はロシアと接している。

 ロシアは、アジア民族ではない。スラブ民族という白人の一種である。

 第二次世界大戦が終わるまで、アジア民族は、白人より劣ると考えられていた。だから、ロシア人は日露戦争に負けた後も、自分たちがアジア人を支配することは神の定めた運命だと本気で信じていた。

 はるばる船でやってくるアメリカより、よっぽど脅威だったのだ。

 

 軍事的緩衝エリアを広げ、なるべく、自国の領土での戦闘を避けようとする戦略は、古今を問わず常套手段である。

 そして日本は、朝鮮半島を支配し、満州国を建国した。

 その後、中国本土に食指を伸ばして行ったのは、私は愚行であると考えているが、当時の為政者に言わせれば、朝鮮・満州という防波堤を支える資源の供給源を大陸上に獲得したかったのだと説明するかもしれない。

 ちなみに、「大東亜共栄圏の建設」という大義名分を信じる人と、とんだ虚構だと主張する人が居るが、おそらく当時は、まじめに取り組む人たちと、都合よく利用する人たちが居たのだろう。

 実際、この政策により開眼した東南アジアの諸外国は、列強の支配から独立し、今日ASEANAPECといった立派なコミュニティを組織し、欧米と対等に協議し、結果的に日本の安全保障に大きく寄与している。

 しかし、それは結果論であり、日本が自国の安全保障のために、他国の領土、他国の資源を蹂躙したことは事実である。

 

盾に潜む矛

 より安全な立ち位置を保全しようとする国家の欲求は際限が無い。「自衛」の概念は、「正当防衛」同様、一方に有利な形で拡大解釈され、いつしか「自衛という名の加害」に変化する。他国の領土が主戦場になるように仕向け、他国の資源で防衛できるように画策する。それどころか、他国で武力を行使することまで、「自衛」と言い始める。

 安倍内閣が言う「集団的自衛権」は、どう繕おうと、いざというとき自分たちを助けてもらうためには、他人の戦争に加担しなければいけない。ということだ。

 「自衛」を拡大解釈すると、そこまで言って良いのかと、あきれるを通り越して感心する。「自衛のためなら加害に加担する。」と宣言してしまっているのだから。

 

 私は、国家が国民の基本的人権保全するための自衛権を否定しない。

 しかし、例え隣国に道理の通じない稚拙な国家や野心むき出しで喧嘩上等の国家が有ったとしても、その国の主権を侵す権利はどの国にも無いと考える。

 隣の親父は大酒飲みで、いつ暴れ出すかわからないからと言って、その家の玄関を溶接する事はできない。

 個人の基本的人権が公共の福祉の制限を受けるように、国の自衛権もまた、国家間の関係において無制限であってはならない。

 

 昨今の日韓関係を始め、とかくに東アジアの5カ国の関係は流動的だ。アメリカを加えた周辺6カ国の緊張は、これからも高まっていくだろう。その対処法については、私なりの腹案を持っていて、いずれ投稿したいと考えているが、日々変化する情勢に、修正が追いつかないでいる。

 ただ、本投稿で示した通り、彼我の事情を考慮しない安全保障など、盾と矛を同時に売るようなもの。頭の悪い奴がする事だ。せめて以下の2つくらいの考えは持っていたいものだ。

 すなわち、一つは、国際ルールに照らし合わせ、常に青天白日が我が国にある状況を保つ事。今一つは、「大東亜共栄圏」の幻想の一つでもあるのだが、近隣諸国の教育と経済を安定させ、理性を育み、もって東南アジア全域の平和と安定を目指す。というものである。

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フランシスコ・デ・ゴヤ「着衣のマハ」と「裸体のマハ」の連作。

 ある富豪の邸宅で、「着衣のマハ」が普段飾られており、夜一人になると、こっそり「裸体のマハ」と並べて楽しんだという。

 女性陣には、悪趣味と罵られるかもしれないが、男性諸氏においては、その願望を理解できない者の方が少なかろう。

 ただ私が伝えたいのは、「自衛」という名の着衣の裏には、裸体という「欲望」が隠れており、普通の人なら、このように並べられたら、さぞかし赤面の至りであろうと思うのである。

Legal mind 《法的思考》

 あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

 2019年 最初の投稿では、韓非子の主張の中でも「説難」に並び、あるいはそれ以上に重要かつ根源的と言える「法」についての考察を取り上げ、いくつかの韓非子に対する誤解を解きたいと思います。


1 二柄

 韓非子55篇「二柄」篇より

 「昭侯が酔って眠った時、冠係が着物をかけてやった。 目を覚まして、 誰がかけたか問いただし、冠係と聞くと、 昭侯は、冠係と衣服係を罰した。冠係は自分の任務でないことをし、衣服係は自分の任務を怠ったからである。」
 韓非子は、為政者(君主や主権者)に多彩な才能や卓抜した技量を要求しない。賞を与える権力と罰を科す権力という二つの権力(二柄)さえ手放さなければ良いと主張する。
 人は皆「欲望」に従って行動する。そこで国家の運営において、有益な行為については欲望を満たす褒賞を示し精励させ、不利益をもたらす行為については罰という恐怖によって欲望を制す。それのみが重要であり、そしてそれのみで充分である。と。彼にとっては、温情や裁量はむしろ無用なのである。 

 

2 性悪説性善説

 二柄の考え方は、合理主義者の韓非子らしく、至ってシンプルで効率的であるが、「あまりに心が無い」(ウィル・スミス主演「アイ.ロボット」サニーのセリフ)。罰せられた冠係に同情する人も多いだろう。このような考え方から、韓非子を多少知っている人の中には、「ああ、あの性悪説の人だろう。」と毛嫌いしている人も多い。

 性悪説性善説の説明については割愛するが、性悪説を主張したのは韓非子の師匠である荀子であり、韓非子は完全にコピーしているわけでは無い。

 確かに彼は、人間の本性は「欲望の権化」と定義したが、求めて良い欲望と求めてはいけない欲望とが有る。生まれながらにして人が善であるか悪であるかと言う前に、何が善で何が悪かを定義する事が重要であろう。

 その定義こそが「法」である。

 

3 法家

 韓非子を語るうえで、欠かせない「二柄篇」であるが、権力を手放すことへの警告を示す説話が多く、前述の説話でも主君が風邪をひくことより、家臣が勝手に権限を逸脱することの危険性(侵官之害)を示していると解釈されることが多い。しかし、その捉え方では韓非子の神髄に触れることはできない。

 典衣典冠ともに罰せられている点から、これは単に家臣の「越権」のみを問題にしているのではなく、双方の「違法」を問題にしていると考えるべきなのである。

 なぜなら、韓非子55篇の主張は、常に『法』有りきで展開されているからである。(二柄篇に先立つ有度篇を始め、多くの場面で取り上げられている。)

 前述の説話の場合においても、賞罰を与える前提として、誰が何をやって良く何をやってはいけないか?が明確に規定されていなければ、成り立たない話である事を知ってもらいたい。

  ご存知の方も多いだろうが、彼のこのような、法律を基軸に捉える社会体制、いわゆる法治国家を志向する思想を「法家」と呼ぶ。そう言うとあたかもその系列の人が沢山いるように聞こえるが、並み居る諸子百家において、近代多くの国家が採用し最も公平と言われるこの思想を、体系的に書物として表した者は、私の知る限り、韓非子のみである(商鞅など実務実績においてその思想が垣間見える為政者ならいくらか居るが)。

 にもかかわらず、彼の名が孔子孟子に比べ格段に知名度が低いのはたいへん残念な事である。もしそれが、前述の性悪説のイメージが強いためというのであれば、とんでもない誤解である。

 

 4 「法」の目的 

 法律で人を縛るような考え方は、あたかも人を信じていないと判断されるようであるが、道徳や博愛、忠誠心などと言うあやふやな不文律(空気と呼ばれるもの)で、個人の価値観を封じ込めている方が、よほど心無い仕打ちだと言えないだろうか?

  また、そもそも、韓非子は、人を縛るために法律を重要視しているわけではない。彼が縛ろうとしているのは、「権力」である。彼がターゲットにしているのは、専ら、君主を始め役人などの支配者層である。

 彼の考えによれば、支配者層は法を定める権限を有するが、法に則らない限り、罰を課す事はおろか褒める事さえ許されないのである。

 人の上に人を作り人の下に人を作る「封建社会」における支配者層には、さぞかし嫌われただろう。韓非子が永年陽の目を見なかった理由はここかも。

  また、権力は国家や役人だけが持っているのではない。個人もまた基本的人権を有している。韓非子の時代、個人は選挙権はおろか自由すらままならなかったであろうから、子供にもわかりそうな説話を並べているわりには、個人の人権について語っている部分はほとんど無い。しかし、現代の民法、商法、刑法、税法、いずれも基本的人権を制限するために存在する。 

 

5 誰が為の法 

 「法律だらけで雁字搦め。世知辛い世の中やわ」という声が聞こえて来そうだが、多くの人が勘違いしている。

 法は、一般的な社会的協調を保ち、立場に見合う義務を果たしている者(私は彼らを常識人と呼ぶが)を縛りはしない。

 そうで無い者の権限を制限するために在る。

  私も若い頃身に覚えが有り、偉そうな事は言えないが、スピード違反や軽犯罪を犯して取り締まりを受けた者の中にこう言う者が居る。「みんなやっている事やん。」「他におんなじことやっているやつ山ほどおるやん。先にそれを片付けてからこっちに来て!」

 違反を犯している者の多くは、周囲にその件について正しい理解をしている人が居ないから、あたかも自分が多数派(マジョリティ)だと信じているが、どう贔屓目に見ても、彼らは圧倒的にマイノリティである。

 違反者がマジョリティとなる法律なら、それは改正されなければならない。それが改正されないのであれば、やはり多くの人がそれを守る事に抵抗を感じていないからである。

 交通法規を除いては、通常の生活の中で民法や刑法を気にかける事はない。

 まじめに申告するか、専門家(税理士)に委ねておけば、税法を学ぶ必要はない。

 普通に商売をしているだけなら商法の規定を読む事は無い(法人においてはいささか社会的影響力が高いので、経営陣は少々勉強しておく必要があるが)。

 要するに、大多数の勤勉で平穏に暮らす人たちにとって、法律とは身を守ってくれるものであり、不平等を是正してくれる味方なのである。


6 Legal mind 

 Legal mind 法的思考とは、モノの理非曲直、事の軽重を判断する上で、主観と感情を廃し、理性と客観のみで判断するために「法」を尺度とする考え方である。

 しかしそれは、豊かな情緒や感動と言った人間性を否定するものでは無い。ただ、ただ、他人の自由(公共の福祉)に抵触する部分を制限しているだけなのである。

 法律を作る者、適用する者援用する者、従う者、全ての立場においてその共通認識が必要なのである。  

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ルーブル美術館所蔵「ハンムラビ法典

 紀元前1792年から1750年にバビロニアを統治したハンムラビ王が発布した法典を石柱に刻んだもの。

 「目に目を歯には歯を」の文言で有名であるが、全部で282条、女性や奴隷の人権についても規定しているなどかなり詳細で、総条数264条の日本国刑法に引けを取らない。

 しかし、その条文数や内容よりも、法律好きの私を震えさせたのは、彼らがそれを「石に刻んだ」という行為だ。彼らが意図したか否かは不明であるが、結果として彼らは、3700年前にすでに人類の中に、近代のLegal mindを会得している種族がいた事を知らしめることに成功した。

 我々の時代の人類は、一体何が残せるだろうか?

 

銀婚式

 

憲法第二十四条

 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない

 

 先日、姪の結婚式に夫婦で列席させてもらった。

 彼女を含め、私の母親の孫は11人いるが、彼女が初孫にあたり、私たち叔父叔母の寵愛を一身に受けた時期が有った。

 それだけに喜ばしく、幸せを感じる結婚式であった。

 特に、通常花嫁が両親にお礼の手紙を読み上げるところで涙するのに、花婿が花嫁の両親にお礼を言うところで号泣し始め、それが止まらず、花嫁になだめられるというシーンが有り、両者の多幸を確信でき、非常に感銘を受けた。

 

 私たち夫婦は、今年25周年の銀婚式に当たる。

 ご多分にもれず、私たち夫婦も、これまで平坦な道のりではなかった。

 とにかくお互い価値観が合わず、子育て、教育、買い物、善悪、なぜ結婚したのかと疑問に感じるほど考え方が違い、喧嘩が絶えない時期や、離婚の危機に陥るような衝突が何度もあった。

 

 私たちが結婚した頃よくスピーチで使われた話で「ハリネズミのジレンマ」と言うものがあった。同世代の人で知らない者は居ないくらい有名な話だが、最近の若い人は知らないようなので簡単に説明する。

 

 「ハリネズミの夫婦は冬になって気温が下がると、お互いの体を寄せ合い体温で温め合おうとする。しかしお互いの体には、たくさん針が付いている訳だから、近づきすぎると相手の体を傷つけてしまう。かと言って、距離を置き過ぎると体温を感じられずお互いが寒い思いをする。傷つけては距離を置き、寒くなっては近づき、これを繰り返すことによって、最終的に最も適正な距離を得ることになる。」という話。

 

 ベタな話だが、結構この教えは役に立った。

 結婚25年で、最適な距離を見出せたかというと、必ずしもそうではないが、少なくとも、私たちは最適な距離を見出すために、「相互に協力」することはできた。

  

 これとは別に、私の結婚式で披露されたスピーチの中に二つほど、後の私の心に残り続ける言葉があった。

 一つは「夫婦は向き合うと欠点ばかりを探してしまうが、同じ方向を見ればお互いが寄り添うことができる。」という言葉である。

 結婚に際し、私は妻の20年30年先の幸せを保障したいと決意していた。

 この言葉をもらったとき、私には夫婦が肩を寄せ合いながら、遠くに沈んでいく夕日を眺めている光景が目に浮かんだ。それ以来、現状においてお互いが何をしてくれるか何をしてくれないかなどを探り合うより、20年先30年先どうなっていたいかを提示し、長期的スパンを意識させ、遠くの夕日を見つめるように仕向けてきた。

 結果として、何度もいさかいは有ったが、20年30年のスパンを考えた上では、さざ波ほどにもならないと整理していくことができた。

 もう一つは、「この感動を忘れないことが重要だ。」という言葉。

 結婚式の当初は、言っている意味がよくわからなかったが、後々になって、この言葉の意味を重く感じる思いを何度もすることになる。

 私たちは23歳の時に結婚したので、ほとんどの同僚に経験者が居なく、注目された分、ずいぶん盛大なものとなり、たくさんの祝福を受けた。

 「もうわかった!離婚や!」と叫ぶたびに、私にはあの披露宴での親類、友人一同の祝福の笑顔が浮かんで来た。

 私は多くの人に祝福されて彼女を妻に娶った。その感動が、私の心の中に強い義務感を植え付けていた。

 そう私は、祝福していただいた方々のために幸せでなければならず、また彼女を幸せにしていかなければならなかったのだ。

 

 昨今、結婚式を無駄な浪費と考え、控えめにする傾向があるが、結婚式はやはり派手な方が良い。控えめにしようとする人間は、決意や責任も控えめにしようとしてるように感じられる。ど派手になってこそ自分の背負う責任を感じることができるのだ。

 私の娘を娶る花婿さんには、見栄を張る必要はないが、一定の決意がうかがえる程度のスタンダードな披露宴は催していただくことを期待する。

 

 さて、そういうわけで、これらの意識を武器に、25年の永きに渡り、婚姻という平凡な幸せを維持し続けた。

 婚姻にしがみつくことだけが正しい人生では無い事は理解できるが、平凡な幸せを維持する事は大変な忍耐と苦労を要するものであり、親や子供、国に余計な心配や迷惑をかけずに貫徹してきたことは、もっと賞賛されるべきだと思っている。 

(離婚者の家庭に生活補助が支給されるのであれば、銀婚式を迎えた夫婦にも報奨金を支給してはどうか?と思っている。) 

 私は妻に恵まれただけなのかもしれない。

 何度も浮気するほどモテなかっただけかもしれない。

 しかし、少なくとも私は、結婚について常に「悠久の時」を感じていた。そして遥か遠くの夕日を一緒に見ようと努力していた。祝福してくれた親族や友人の事をずっと忘れなかった。

 価値観の全く違う妻の考えはきっと全く違っているだろうが、彼女もきっと、何らかの意識を武器に、平凡な幸せを維持する努力を怠らなかったのだろう。

 結果として、銀婚式を迎えることができ、結婚当初の目標はクリアできた。

 

 妻の両親は、もうじき金婚式である。

 離婚率がうなぎ登りな中、私たちはお義父さん達の生きざまを受け継ぎ、次の世代に伝えるところまではできた。

 次の目標は、彼ら同様、自分たちの金婚式を迎えることだろうか?

 

 最後に、婚姻関係が永きに渡り継続中の方々のために、私が20代の頃、友人の結婚式で披露する予定だったが、故あってお蔵入りとなったスピーチを紹介する。

 

 「ゴッホの名作に「ひまわり」というものがある。このひまわり、実は一枚ではなく十数枚描かれている。その中には、茎がうなだれて、まるで枯れているように見えるものもある。どうしてこんなものが名作なのだろうと感じて、書籍をひもといてみたところ、面白い逸話にたどり着いた。

 ある日、ゴッホは、アルル地方にアパートの一室を構え、新しい画家たちの活動の拠点にしようと皆に声をかけた。しかし発足日に、アパートを訪れたのは、ゴーギャン唯一人だった。

 それでもゴッホは感激し、激しくゴーギャンを歓迎した。

 この時ゴーギャンが持ってきたのがひまわりだった。

 しかしゴーギャンとの共同生活は長く続かなかった。

 (その理由等は結婚式場では不適切なので話せないが、要するに価値観の違いで対立し、ゴーギャンは出て行ってしまう。そして、ゴッホゴーギャンが去った後、有名な耳切り事件を起こしてしまう。)

 ゴッホは、ゴーギャンが居なくなった後も、ゴーギャンからもらったひまわりを見る度に彼がアルルに現れた時の感動を思い起こし、そのひまわりを描き続けた。やがてひまわりの茎はうなだれ枯れていくが、ゴッホはその感動が忘れられず、そのひまわりを愛おしく思い、これを描き続けた。

 

 今は美しい花嫁も30年40年経てばどうしても老いていく。

 しかし、重要なのは容姿の美醜ではない。彼女を好きになった時の、結婚を決意した時の、そして披露宴のこの日のこの感動を思い起こせば、彼女がいかに老いていたとしても、花婿は彼女を愛おしく思い続けるだろう。」

 

 交際期間を加えると、本日は30回目のクリスマスイブになる。傍目にはお互い老いているだろうが、楽しそうにケーキを買っている妻の姿は、私にとっては変わらない。まさしく私の目指した30年後である。

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マルク・シャガール「誕生日」。

 姪の結婚式場:アニヴェルセル(http://www.anniversaire.co.jp/ )で、式場のコンセプト(記念日)を象徴する絵画として、リトグラフ(コピー)が飾られていた。

 説明を不要とする表現と、どハマりな画題。これこそ絵画だけに許された領域ではないかと感じさせる一枚である。

 

教育は国家百年の大計3 自由

 

 「なぜ人を殺してはいけないか?」
 昭和生まれ昭和育ちの私たちには、疑問に思うこと自体が疑問であるが、平成の子供達は、本当にわからないらしい。
 
 韓非子を標榜する私としては合理主義の観点から、
 「殺人によって苦痛から逃れようとするのは、合理的ではない。石神(頭の良い人)ならそんな愚かな事は絶対しない。」(東野圭吾原作「容疑者Xの献身」より)と言いながら、メガネをチョイ上げして一蹴したいところだが、この問題、結構根が深い。
 
 平成9年に神戸で起きた、14歳の少年による連続殺人事件(今でも「神戸連続」で検索するとTopHitする)の際、報道で「ウサギより大きい動物を殺すようになると、それは異常であり危険である。」と聞いた。
 私は良い所を突いていると感じた。確かに虫や魚を殺すには抵抗を感じないが、ネズミくらいから恐くなる。
 「可愛い」という観念が、人生を大きく左右する女性たちにおいては、もっとハードルは高いだろう。
 しかし、それは、「嘘をつくと閻魔様に舌を引っこ抜かれ、悪い事をすると地獄に落ち、業火に焼かれ、生皮を剥がれる。」と、自分も周囲もそして多くの大人も信じていた時代の話。
 科学的には、死後の世界は存在せず、戦争では何の罪も無い無抵抗な市民が業火に焼かれ、生皮を剥がされている。
 更に、ゲームでは、殺害すればするほど高得点になり、その描写は、リアルを超えて、幻想的ですらある。そこには、罪悪感、嫌悪感、恐怖感がまるで存在しない。
 
 法律が制定される以前に存在する慣習や道徳など、法律の素となるルールを法源と言い、その中で特に万民が納得する善悪のことを自然法と言う。この自然法が平成生まれの子供たちの中で崩れつつある。
 私の考える原因としては、共稼ぎや離婚の増加による家庭内における親からの教育の希薄化ではないかと思っている。
 
 しかし、欧米においては当然である共稼ぎや離婚が、どうして日本においては問題になるのか?
  おそらく学校教育と家庭教育とのシェアリングが日本と欧米とでは違うのではないか。
 
 人を殺していいかという問題は、一見異なる議論のように見えるが、「自由」と言う「権利」 について考察することでいろいろなことが見えてくる。
 現在自分たちが生まれながらにして当たり前のように持っている「自由」という「権利」が、権力者と市民との間での永年の闘争と幾千万人の犠牲の上に成り立っているものであること。そして、基本的には「条件付き」であること、さらに、常に対となる「義務」が生じること。
 それらを、日本人においては、子供はもちろん大人もあまり意識していないように思う。
 少なくとも私が育った環境では、そのような教育は親からも学校からも受けなかった。
 
 欧米の教育事情がどのようなものであるかはあまり知らないが、彼らの歴史を学べば、このような権力闘争の問題は避けて通れず、体感して覚えることになるだろう。
 したがって、親が家庭に居なくても、ある程度の教育を受ける機会さえ与えれば、自然法として、「他人の自由を損害してはいけない。」と言う当然の理念が植え付けられるのではないかと考える。
 
 学校教育と家庭教育のシェアは、元来、科学的知識は学校で、自然法的な観念、いわゆる道徳は家庭教育にあるものと考える。
 欧米においては科学的知識の中に「自由」の観念が含まれており、日本においては含まれていないので、必然的に親がそれを補わなければいけなかったわけである。しかし、私たち親もそのような教育を受けていない。
 そして、その観念が抜け落ちたまま欧米に追随し、共稼ぎや離婚率を上げてきた。
 
 しかしながら、とは言う物の、欧米に比べては日本の方が格段に治安が良く、わけのわからない殺人事件も少ないのではと思える。ただ、これは別の国民性が作用しているように思う。すなわち、よく言われる、彼らは元狩猟民族であり、われわれは元農耕民族であるという点だ。
 だからこそ、日本人が簡単に人を殺すようなことがあるのは残念だ。
 
 「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」
 公共の福祉については、諸説あるが、基本的には、他人の基本的人権に抵触しないことを言う。
 
 日本の教育カリキュラムでは、ほとんど触れられることはないが、すべての人間に無制限の自由を与えると、「万人の万人に対する闘争」(トマス・ホッブズリヴァイアサン』)が生じ、むしろ多くの市民の自由が保証できない。
 そこで、市民は、殺人や暴力という他人の自由と抵触する手段を選択する自由を「国家」という社会機構に委ね、これを放棄したのである。これがいわゆる、ジョン・ロック及びジャンジャック・ルソーの「社会契約論」である。
 小学生には難しいかもしれないが、中学生くらいなら理解できよう。
 
 民主主義や基本的人権の考察については、欧米の思想を学ぶ必要がある。
 彼らが格別優秀なのではない。その重要性に気付いて渇望し始めてから、数百年と幾千万人の犠牲を被った。
 百年足らずで追いついた日本に比べるとどんくさいくらいに思える。
 しかし、だからこそ、その数百年で培われた、自由への渇望と濫用に対する警戒心が半端無いのである。
 
 インターネットと携帯電話の普及に伴い、「感性」や「情緒」に訴える手法は過去のものとなり、代わりに「理性」と「知性」が重んじられる時代が来ている事を悟らなければならない。
 「命の尊さ」を訴える授業がもてはやされた時期が有ったが、「自由の尊さ」こそ訴えるべきなのである。
 現在、世界を見渡せば、このような概念を有する国は一部の先進国に限られる。いや、もうそれを追い抜いた中国ですら完全民主化は実現しておらず、「不自由」こそが世界のスタンダードになっている。
 
 今一度、当たり前の「自由」が、本当は当たり前でないこと。どうしようもない難産の果ての産物であること。そして、それを守っていくためには、どのようなルールを守るべきか?を子供も大人も知るべきなのだ。
 
 「なぜ人を殺してはいけないか?」
 いやいや、その前に、人を殺そうしているあなたの手は、どうして自由なの?
 女性でありながらフランス革命に貢献したロラン夫人。革命成功後の権力争いに巻き込まれ、断頭台に送られる。
 刑場に送られる際、庁舎前に建てられた自由の女神像に問う。「« Ô Liberté, que de crimes on commet en ton nom ! » ああ、自由よ。汝の名の下でいかに多くの罪が犯されたことか。」

Bravo! Ueno Park

 先日、フェルメール展を観に「上野の森美術館」に行ってきた。同じ公園内の「国立西洋美術館」ではルーベンス展もやっていたので、立ち寄る予定をしていたが、徒歩で移動中、同じ公園内の「都立美術館」にて、有名な「ムンクの叫び」が初来日していると言うポスターが目に入り、1日で5時間かけて3つの展覧会をはしごすると言う強行軍になってしまった。

 それにしても、いかに芸術の秋とは言え、上野公園というところはなんと凄い所なんだと感心した。

 そこで、いつもは小難しい話ばかりのブログに、少しでも憩いを添えようと慎ましく掲載していた絵画について、本日はこれをテーマにガッツリと話してみたいと思う。

 

 大変長文となっているが、普段、自己紹介などで趣味や特技を聞かれた時、趣味は絵画鑑賞、特技はそれを活用して展覧会の見所を説明し、観覧料の内、数百円はお得感を得られる情報を提供できると公言しており、その手腕をふるいたいと思うので、期待してご一読の上参考にしてもらえれば幸いに思う。

  

フェルメール展】

 フェルメールについては、先日投稿した中で若干紹介しているが(歴史の勝利)、17世紀オランダの画家で、死後数百年経ってから名声を得たため、世界に30数点しか現存していないと言うことでも有名である。

 今回のフェルメール展においては、大阪会場も含めると、その内10点が来日すると言うことで、空前のフェルメールブームが起こるのではと期待されている。

 ただし、観覧させてもらった限りによると、残念なことにこの「上野の森美術館」という所は、このような空前の催しを行うには、どうも技量不足だったように思える。

 まず配置であるが、フェルメールの作品9点(当日は1点未着)をフェルメールルームと名付けられた一室に集めるという斬新なアイディアについては素直に関心を持つが、他に40点もの、かなり無名な作品を前衛に配置しており、相当な障壁(つまり邪魔)になっている。

 通常目玉作品は最後尾に配置されることが多いので、私は最初にリストを確認し、それを観てから他を観に行く手法をとっている。今回も50点のうちフェルメール8点が最後に集中していることを見抜き、入場直後にこの部屋に向かうと言う手法をとった。

 それでも、当然フェルメールルームは大変混雑しており、この部屋の8点を観るだけで1時間半を費やした。

 この手法を知らずに、前衛の40点を消化するのに30分なり1時間を費やした一般の観覧者にとっては、おそらくフェルメールの良さをじっくりと堪能する余裕は失われていたのではないかと残念に思う。

 今一つは、学芸員の案内の悪さに非常に失望した。

 今回のフェルメール展ではおそらく「牛乳を注ぐ女(英名Milk maid)」が最も人気を集める作品と思われるが、このような目玉作品の観覧形態は、混雑を避けるため最前列は移動しながら鑑賞し、2列目以降は自由空間とするのが通常である。

 9点を一室に集めた結果、この手法が取りにくかったのか、交通整理ができない状況にあった。

 しかし、展覧会に慣れている観覧者は、ある暗黙のルールを知っている。すなわち最前列の観覧者は、1、2分は立ち止まりつつも次の人のことを考え、観覧順路に沿う方向に従い、少しずつ移動すると言うものである。

 ところが今回の展覧会の案内をしていた学芸員は、単純に「どの方向からでもいいので前に詰めてくれ!観た人は速やかに退いてくれ!」と言う指示を連呼し、ラインの流れを作ろうとしなかった。このため前述の暗黙のルールを知っている観覧者は、逆方向から最前列に詰め寄ってくる人たちに阻まれ(逆方向は本来列の抜け口であるため比較的空いて見えるのだ)、最も長く待たされる状況に陥っていた。

 後述する東京都立美術館においては、当然初来日した「ムンクの叫び」が目玉作品になるわけであるが、きっちりと最前列の整備が整えられていた。私は10分間で二度、最前列で鑑賞しながら通過し、10分間2列目からじっくり鑑賞することができた。

 

 しかし、せっかくの奇跡の祭典なので、悪いところばかりを伝えて鑑賞に行く意欲を奪うのは本意ではないので、約束通り、数百円はお得感を得られる情報を提供する。

 

 ①「フェルメールブルー」

 この言葉はもはや有名過ぎて、あえて説明したところでお得感は得られないかもしれないが、プラスアルファーとして、「天空の破片:ラピスラズリ」といったキーワードや、「ウルトラマリン」の語源などでネット検索すれば、そのブルーの意味をより深く理解でき、実物を見たときの感銘がひとしおになると考える。

②「カメラ・オブスクラ」

 聞き覚えの無い言葉だが、この技術が、忘れ去られかけていたフェルメールの作品が、近年に入ってから評価され始めた所以であると聞けば興味が湧くだろう。

 しかもこれを語る人は少ない。ちょっとしたトリビア(豆知識)だ。

 フェルメールは当時未開発であったカメラの原型と言われる「カメラ・オブスクラ」を使って絵画を作成した。このためカメラが開発されて以降に用いられる技法(主に印象派が用いる光を捉える技法)を可能にした。

 その特徴が「ハイライト」と呼ばれる点描で描かれた光の粒である。

 有名な真珠の耳飾の少女の修復に置いて、唇の左端に隠れていた小さなドットが発見された事は有名だ。

 この技法こそが、同年代の、技量だけはずば抜けているルーベンスや、明暗によって光を表現しようとしたレンブラントを凌ぐ快挙を成し遂げたのだ。

③ 真贋論争

 フェルメールについては現存する絵画が少ないため、判断材料が乏しいことから、一部の作品が、その真贋(本当にフェルメール自身の作であるかどうか)が疑問視されていることでも有名で、今回の展覧会でも、真贋の議論が残っているものが数点含まれていると案内に記されている。

 ただ、具体的にどれとどれが疑問視されているかということについては、ネットを検索してもなかなか分からない状態である。

 私の記憶では、今回来日分の中では、初期の宗教画である、「マルタとマリアの家のキリスト」と「赤い帽子の女」が対象だったと思うが、ネット上では「赤い帽子の女」だけが論争の対象になっていると言う記事しか見つけられなかった。

 ただ、現実的には、この2点以外はおそらく議論の余地は無いと思われる。

 そこで、前述の①②の知識をヒントに、自分なりに真贋を判断してみるのも面白い。(ここで私の見解を披露しようかと思ったが、予断を持たずに観てもらいたいのでやめておく。)

  

 いかんいかん、フェルメールだけで3000文字超えてしまいそうだ。まだまだ語りたい事はあるが、一休み入れて、次の展覧会に進もう。

 

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フェルメール展 会場マップ -最後尾の6がフェルメールルーム。申し訳ないが、1~5でまともに観た絵は4枚だけ。

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往路の新幹線から撮影した富士山。全然関係ないが、読書と美術だけでは目が疲れるでしょうから、ご鑑賞下さい。

 

ルーベンス展】

 ルーベンスも以前作品を一枚紹介しているが(教育は国家百年の大計2 選挙権 - 説難)、フェルメールとほぼ同時代のしかも同じオランダの画家であるが、フェルメールとは真逆に、当時より今日まで名声を保ち、1000点を超える作品が残っている。私はあまり好きではないのだが、今回鑑賞させてもらって、改めてその技量においては感嘆を禁じ得ないと感じた。「フランダースの犬」のネロ少年が恋い焦がれたその筆致はまさに神業だ。

 ルーベンスを観る上でアドバイスするところは、その毛髪や衣服のシワを観察し、顕微鏡レベルの緻密さを体験する事だ。

 ただそれだけでは普通なので、プラスアルファの情報として、今回の展覧会では、面白いことに、作者ルーベンス?とか後年誰かが加筆、頭だけルーベンスで後は弟子の作品、さらにルーベンス風に見えるが別の人の作品、といったものがランダムに展示されている。

 そこで、作者の表示を見ずに絵画だけを見て「これはルーベンス」「これはそうでない」と言うふうにダウトゲームをしながら観ていくと、初心者でも退場する頃には見分けが付き、彼の技量の卓抜さをより鮮明に感じられるだろう。

 

ムンク展】

 展示100点のうち100点全てがムンク作であると言う大盤振る舞い。紛れもなくムンクムンクエドヴァルド・ムンク展であった。

 ムンクは20世紀前半に活躍したノルウェーの画家で、その時代は、写真の発明により、画家たちが絵画だけに許される表現方法の渇望と探訪の旅を始める扉を開いた「印象派の出現」から、常人が感動できるギリギリの表現である「ピカソ」にたどり着くまでの、試行錯誤と模索の数十年のど真ん中に位置し、その作風は絵画会がもがき苦しむ様子を象徴しているようである。

 残念なことに、幼少期に姉を失った彼は、「死」と言うものに対し異常なまでの関心を持ち、この表現し難い恐怖や不安感をキャンバスに表そうとしたため、「叫び」を始めとする多くの作品が見るからにおどろおどろしく、ある意味一般人には好まれないものとなった。

(ちなみにルノワールが好きという私の娘は、フェルメールの絵は怖いと言うのに、ムンクは興味深いと言う。それが一般人の感想なら失礼を謝す。)

 私はテーマはともあれ、彼の表現方法に強い関心を持っていたため、今回偶然にもこのように多数の彼の作品を見ることができたのはとても幸運であった。

 100点といっても同じようなテーマに対するものが複数何度も現れる。しかしそれが彼の試行錯誤を如実に表現しており、まるで言い方を変えて何度も説明されるように、彼の伝えたいことが伝わってくる。

 「叫び」自体はシリーズとしては2枚しか展示されていないか、展覧会全体で見ると、彼の鬱屈した思いがマグマのように感じられ、最終的に「叫び」となって表現される、まるで映画のクライマックスのような演出がされていた。

 

 以上、3展覧会のまとめに際し、韓非子55篇のうち外儲説(がいちょぜい)左上より。「客、斉王の為めに画く者有り 。斉王問いて曰く、画くこと、いずれか最も難きぞ。 客、曰く、犬馬最も難し、鬼魅最も易し」。 

 ある王に、絵描きとして最も描きにくいものは何か?と尋ねられた画家が答えた。「鬼や魑魅魍魎は人が見たことがないのでいくらでも書けるが、犬や馬は誰でも知っているのでごまかしが効かない。」と。

 

 ルーベンスは宗教画を書いている内はボロが出ない。人は神の世界を別世界と認識しているから。

 彼がごましているわけではない。彼の絵は正確で緻密だ。そして迫力も躍動感も有る。

 しかしそれが私たちの見慣れた生活の一部と言われると、その違和感に気づかされる。

 なぜなら、私たちの見慣れている景色に存在するのは、迫力や躍動ではなく、揺らめく光と静かに流れる時間なのである。

 フェルメールはその当たり前の日常の光と時間を捉えることができた。

 しかし、現存作が寡作なため真贋の論争が絶えない。

 もしタイムマシンで彼の時代に遡り、彼の作品を多数持ち帰って来れたら、それは周知の作品となり、誰もそれをまねることはできなくなるだろう。

 ムンクは、「死」と言う万人が常に心に持ち続けている恐怖や不安をキャンパスに描こうとした。それゆえに、まさしく誰もが知るものを表現すると言う最も難しい創作に挑んだわけである。

 数百年後、彼の作品は、フェルメールのように評価される時が来るだろうか。その時まで現在のような100点規模の資料が引き継がれるだろうか。

 時はすべての芸術作品を連れて行く事を許すまい。ならばせめて、今観られるものを喜びとともに堪能しよう。

 

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エドヴァルド・ムンク「生命のダンス」

  いやいや、この流れで行けば初来日の「ムンクの叫び」だろうと、言われるかもしれないが、私がムンク展で最も目を魅かれたのは、この一枚だった。

 この絵には、水平線に浮かぶ月とその鏡像のほか、100点のムンクのおそらく半分近くに登場するアイテムが凝縮されている。是非ご鑑賞いただきたい。

 

 

 

ブレイクアウト〜非合理的な選択

 

 平和学を提唱するのであるから、戦争についても自身の見解を提示しておく必要があると考えているが、なかなか2000文字程度に収める事は難しい。

 このため、これまで投稿することがなかったのだが、先日、松本人志東野幸治MCを務める「ワイドなショー」において、妖艶なる女性国際政治学者、三浦瑠麗さんと、ご存知武田鉄矢との間での、戦争における合理性をめぐっての論争を見て、強く感銘を受け、自分の思うところに部答えが見出せたと感じたので、投稿しようと考えた。

 なお、当該論争においては三浦女史が徹底的な合理主義に立ち、戦争がいかに非合理的かを解き、これに対し武田鉄矢は侍を例に挙げて、たとえ非合理的である事は重々承知であっても、引けない状況が有ると主張すると言う構図で展開された。

 感銘を受けた点は、両者が非常にスマートで、テレビに出てくる国会議員がよくする、相手の発言を待たずに、食い気味に自論を強弁するような見苦しい事はせず、お互いが間を取り、卓抜した語彙を駆使し、美しさすら感じられる表現で、コメントをコンパクトに整理して、それぞれの戦争観をぶつけ合っていた点だ。

 

 私が両者の内どちらの見解を支持するかと言うと、三浦女史の徹底的な合理主義を支持する。

 

 実は、今回の投稿では、「教育は国家百年の大計3 自由」を執筆していて、「殺人は問題を解決する手段として最も非合理的だ。」という記述していた(なぜ自由を題材している中で、殺人の話が出てくるのかは、後日投稿にて)。また、先日、「歴史の勝利」という投稿の中で、戦争で利益を上げようとする人達に、如何にそれが馬鹿馬鹿しい事かを説く手段を考えていると話していたが、そこへ三浦女史の見解がすっぽりはまって、今回の投稿に繋がった。

 

 戦争は、人モノともに尋常あらざる浪費を行う。しかしそのコストに見合った利益が受けられるかどうかと言うと明らかに損失である。

 

 シリアを例にとって、数字で検討してみよう。

 シリアの内戦勃発(2010)前の原油産出量は、日産40万バレル。原油価格は、たまたま2010年と現在が似たような数値だが、1バレル/70米ドル(8,000)

 これを基に単純計算すると、年間11,680億円になる。

 これが政権奪取の見返りだ。

 これだけ考えれば、何年かかろうとも、何人犠牲にしようとも、奪取したいものだ。

 しかし、その恩恵にあやかれるのは、その勢力における、極一部の支配者層である。

 肉親を殺された恨み辛みを煽りに煽られ、あるいは、真っ当な教育を受ける機会を奪われた結果、それだけが正義であると信じ込まされて、地球より重いとも言う人の居る「命」を差し出した人への代償は、おそらく、日本でいうところの、遺族年金程度だろう。

 ちなみにシリア内戦で犠牲になった人々の人数は、7年間で35万人と言われている。仮に、政権を奪取した者が、その遺族に均等に遺族年金を払うとすれば、先程の11680億円を全て遣っても、一家族当たり年間333万円である。

 もちろん、自分に反抗した側の死者や遺族に年金を支給するというのも滑稽だが、アメリカは負けた日本の飢餓を救った。戦争に勝利するということはそういう事であり、勝者が敗者に慈悲をかけることは、勝っている状態を維持し、定着させるには、最も安上がりなのである。

 しかし、戦争の費用は死者だけでは無い。身体的負傷者と精神的負傷者、兵器購入にかかる借金、インフラの再整備、それを阻む地雷等不発弾の撤去、いずれ各国から要求される難民の帰国。

 小学生とまでは言わないが、中学生なら十分に理解できるだろう。「この戦争は最早、いくら完全勝利を収めても、大赤字だ。」と。

 

 ところで、前述で、日産40万バレルと書いたが、内戦勃発後は、日産25千バレルらしい。国内の消費量もまかなえず、輸入に頼っているそうな。専門的に経理処理すると、その差額は、「機会損失」と言って経費に計上されるのだが、その額、年間2兆円だ。

 その損失で、命を張っていないたくさんの人が儲けている。

 まさに非合理的だ。

 

 しかし、武田鉄矢は言う。

 人が戦いを起こすのは、利益だけが目的では無く、大義や信条によるところが多い。と。

 

 これに対し三浦女史は言う。(ここがシビれた❗️)

 「本来理性的であるべきジャーナリストも、戦場に身を置くと、エキサイトし、感情的になり、表現が猥雑になる。」「だからこそ、敢えて私は合理主義を唱えるのだ。」と。

 彼女は、武田鉄矢が言うように、人はそんなに合理的に割り切れないものである事は分かっている。しかしそれに身をやつす者は、その環境に呑まれ、いつしか理性を失い、「猥雑」(ワイザツ:いろいろなものが入り混じって下品な事)になってしまう。

 つまり、いくら肉親を殺されたと言う事情などが有ろうとも、暴力に訴え始めた時、「猥雑」(この言葉のチョイスが格好良い)_つまりヒトとしてはレベルの低いものになると言うべきなのだ。

 

 じゃあ、アサド大統領の横暴を黙って我慢していろと言うのか?

 

 そうではない。

 暴力以外の解決策を用いる事である。

 ガンジーの非暴力不服従も素晴らしいが、学校で習ったよりも、現実は残酷だったようだし、何より相手がすでに立派な大人の英国だった。

 

 私が考える独裁国家を最も効率よく民主化する方法は、以下の通りだ。

 

①独裁者側の統治時の罪は不問とし、身の安全を保障する。

  弾圧されたり身内を殺された人達にとっては、到底飲めない条件かもしれないが、ここで敢えて理性を取るべきなのである。

 独裁国家が滅ぶ度、民衆は狂気して独裁者の首を掲げ、銅像を引き倒してはしゃぎ踊る。以前は微笑ましい光景として歓迎していたが、段々違和感を覚えるようになった。

 そう、人が人を殺してはしゃいでいるのだ。

 なるほど、これを「猥雑」と言うのか。

 自由という目的を果たすためであれば、一旦過去を水に流すのが、残酷ではあるが、更なる残酷を産まない事も含めての最善策なのだと考える。

 

②独裁者を民主国家に招き倒し、開明パラダイムシフト(常識の転換)を起こさせる。

 

③国連に民主化プロセスの検討と実行を専門とする機関を置き、民主主義の原則、権利及び義務をすべからく周知し、憲法を起草し、普通選挙に至らしめる。(端的に言うと「GHQ」と同じ。)

 なお、私は、すべての国が民主的になるべきだとは言わない。それはその国民が決めることだから。ただ、発言、思想が弾圧されているなら、上記のプロセスの対象になると考える。

 また、その実行において、国際協調による圧倒的な武力をもって圧力をかけることは否定しない。ただ、日本は憲法に照らし合わせて、武力を提供せず、特に②のプロセスで活躍してもらいたいと考えている。//

  う~む、やはり、戦争観を語りだすと、あっという間に3000文字になる。まだほんの入り口なのに。自分の語彙力の無さを実感する。

 最後まで長文に付き合ってくれた方に感謝する。

 

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サルバドール・ダリ「茹でた隠元豆のある柔らかい構造(内乱の予感)」

 スペイン内乱を予言したとされるダリの隠れた名作である。

 複雑怪奇な表現が、飽和点に達しようとする、戦争を引き出すフラストレーションとインフレーション(急激に膨張する何か)が、数字や理性では割り切れない、難解なものであることを示している。

 しかしそれを解決する労力は、それを諦めて失う損失に比べると、ごく僅かであろう。

 

複眼でモノを見る

 私は、極一般的な二児の父親である。

 娘は、幼少期より利口で、一貫して優等生だったが、英語のリスニングが人並みはずれているという面を除けば、変わった特技は持ち合わせていない。

 息子は、学業の方はいつも落第ギリギリだが、ゲームや遊びとなると、一暼でルールやコツを理解し、必勝法を練り始める。おかげで奇妙な特技だらけだ。

 どちらの性格も私は気に入っているし、二人とも議論が得意なので、よく教わることがある。

 

 本日は、息子のエピソードから。

 息子は、大学に入ってから、軽音楽部に入った。

 楽器に触れるのは、保育園の時の鍵盤ハーモニカ以来だろう。

 最初、いわゆるリードギターを始め、半年でマスターし、ベースに凝りだした。

 1年か2年の前半には、今度はドラムをやり始めていた(機材は学校のを借りていたが)。

 勉強以外はなんでもすぐマスターする。にしても、すげーなと思う。

 妻は「なんの役にも立たない事にばかり時間を使っている。」というが、夜学の大学を出た私には、絵に描いたような大学ライフを送ってくれる事が、とても嬉しかった。

 そんなある日、息子が興味深い話をしてくれた。

 「なんかさあ、ドラム始めてから、すっごい周りの楽器の音が聞こえるんやよなあ。曲の楽譜も、先へ先へと先読みができて、すごい余裕を感じるんや。

ギターしか知らんかった時は、なんか曲に追われて弾いているような、楽譜を追うというより、追われているという感じで、どうも余裕がなかったんやけど。」

 私は楽器の知識は無いが、それがどういう状況なのか直感した。

 いわゆる音楽ゲーム音ゲーでは、楽器を弾くタイミングや場所を示すマーク(ノースというそうだが)に合わせて、ボタン等を操作すると、それらしく曲が弾けてしまう仕組みになっているが、彼はそのノースを受ける立場から、サーブする立場になったのだろう。

 そこで彼にこう伝えた。

 「お前は、単純にタイミングを受ける立場と、それをサーブする立場の両方を経験した。結果、両方を会得した人だけが体験できる「複眼」で、セッション全体を見ているんやろう。ギターだけでは気付けなかったろうが、きっとドラムだけでも気付けなかったろう。

 一般的に複数の視点からモノを見ることができれば、対象を平面的でなく立体的に捉える事ができるというけど、音楽でもそういう事があるのかな?」

 「確かに、それぞれの楽器の音に上下を感じ、立体的というか空間を感じる。」

 「いいなあ、羨ましいなあ。

    視点においては、1+1は必ずしも2にはならない。と言う事やな。

 社会に出ると、相手の立場に立って考えるようとしつこく言われる。「複眼」という表現は俺の即興だが、少しでも相手の立場に立つ経験をすると、まるで違う景色を見ることができるという意味で覚えておいて損はない。」

    とまあ、互いに教養を深めた。サークルだって、決して無駄なものではない。

 

 後日、就活中の息子が言う。

 「あかん、「サークルから得たもの」って何?なんも浮かばんねんけど。」(-_-;)

 「「複眼でモノを見る」は?」と問いかけると、「おう、そうやった!そうやった!」。だから彼は、いつもギリギリセーフなのである。

 役に立ったかは不明だが、就活は早々に終えたらしい。

 

 さて、彼には当然の良識のように話したが、実社会において「複眼」を持つ事は容易ではない。

 

 餃子のタレの袋を開けようとして手を汚してしまう度に、「これを作っているやつは、餃子を食べたことがないか、タレを付けずに食べるんだろうな。」と詰ってしまうもんだが、その実、私自身も人の事を言えない。

 職業柄、記帳義務と重要性を説くが、自分は小遣い帳の記帳の経験すらほとんど無い。家業が会計事務所だったので、ほとんど無いと書いたが、そうでないその他の職員は、結局はサラリーマンなのだから、記帳の経験の有る者はまず居まい。

 相手の立場を経験したくても、切迫した必要性が無い。材料が無い。環境や条件が整わない。

 しかも、息子には話さなかったが、彼が実感した視点は、おそらく、平面上の複眼では無い。

 ドラムという指揮者の視点から、俯瞰的にセッション全体を見ている、ホークアイあるいはイーグルアイと言われる、上下に配置された複眼だ。

 会得できれば、その効力は絶大と予想されるが、どうなのだろう?

 管理職にある者は、部下と顧客のやり取りを第三者の目線で見られるわけだが、逆に当事者からの視野(平面的視点)を明白に捉えているかが問題になる。

  「じゃあお前がやってみろよ!」は、悲しい兵隊の心の声の常套句だ。

 

 まあただ、微に入り細に入り見える必要も無いのだろう。

 あまりにわかりすぎて、過剰に同情し、偏った判断や事実誤認の原因となるのも問題だし。

 『単眼より複眼、平面より上下』、と意識するだけで違ってくるだろう。

 

 余談になるが、まだ出世を諦めてなかった頃、「ホークアイ」と書いたファイルと「タートルアイ」と書いたファイルを持っていた。「ホークアイ」には、本庁の中長期的構想、それに向けての各事務年度の目標、上位組織がビジョンやプランについて発遣する指針や情報等を綴り、「タートルアイ」には、自分が従事している職務に関する根拠条文、法令解釈、通達、実施要領等を綴っていた。 

  そういうものが必要となる職務に就きかけた事があり、その職務に在った当時の上司(つまり私は次席だったわけ)に習って作るようになったのだが、その機会を逃して以降は、情報の刷新やプライオリティ・使用頻度の変化に合わせて加除整列するという、メンテナンスが煩雑な割に、それほど使う機会はなかった。不要な努力をしていたのか、職域がその程度のレベルだったのか?

「複眼でモノを見る」ことは良いことだと、私は信じている。

 しかし、会得し、活用できる猛者は、それを意識し、不断の努力をした者に限られるのだろう。

   

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 「アビニオンの娘たち」キョビズムの扉を開いた、かの有名なパブロ・ピカソの、もはや傑作とも言えぬ渾身のテーゼである。

 キョビズムについて、あれこれ解説する人も多く、その中で「複数の視点からの映像を同時に表して立体を描こうとしている。」という人がいるが、立方体を立体に見えるように書くことを考えると、子供にもできる話で、しかも、こうはならない。

 ピカソは立体を描きたかったのではない。複数の視点から見たときに、印象に残ったものだけを組み合わせたら、こうなったのだ。

 ある女性は、二の腕の裏が印象的で、ある女性は、布から覗く足を誇示し。ある女性は背中と振り向くあごのラインが気になって仕方なかったのだろう。