想像

 「百聞は一見に如かず」とは、古今を通じて名言だと思う。

 

 先日、家族で香港・マカオに行ってきた。

 ちなみにうちはそんな金持ちではない。10数年ぶりの家族旅行だ。

  海外に限らず、旅行をすると、この「百聞は一見に如かず」を圧倒的に痛感できる。

 インターネットの普及により、かなり具体的な情報を得ることができるようになっても、情報から、想像していたものと大きく違っていて感激するのはもちろんのこと、想像していた通りであっても、「本当に有るんや!」と感激できる。

 さらに、海外旅行ともなると、沖縄や北海道に行くのと飛行時間がそう変わらなくても、私のような庶民は、言葉が通じないというそのシチュエーションに、テンションバリ高なのである。

 そして、それはおそらくネットでの情報だけでは実感出来ないものであろう。

 

 ところで、韓非子[解老篇]に「死象の骨を得、その図を案じ、その生を想う。」という説話がある。実は、今日私たちが通常に使う「想像」の語源となった説話である。

 似て非なる説話に「群盲象を評す」というものがあり、これも韓非子の出典とされていて、私も昔、書物で確かに読んだ覚えがあり、むしろこっちの方が有名な様なのだが、改めて韓非子55篇の中を検索したが、見当たらなかった。

(関連を知っている人がいたらコメント下さい。)

 

 ただ、どちらの話も、「断片的な情報から引き出された像は、当然の事ながらあやふやなもので、正しい像を現していない。」という話である。

 「百聞は一見に如かず」は、「(情報からの)想像」に対するアンチテーゼと思われ勝ちであるが、その原点をたどると、実は、両者は何れも同じベクトルのテーゼ、すなわち「情報は実体験に敵わない。」を示している。

 

 しかし、一見もせず想像だけで判断することは、果たしてそんなに悪いことだろうか?

 私の手はそんなに長くはない。この香港旅行だって、いつかは行ってみたいと言っていた時から数えると25年もかかっている。

 さらに言うなら、逆に一見した程度で、まさか中国人にはなれない。「一見」もまた断片的な情報に過ぎず、想像がその大半を補って、不確実とは言え、全体を捉えているのだ。

 思えば、今日の科学の発展は、大方その想像力を原動力としている。すなわち、想像力は、人類固有の能力で、人類発展の源であったのではなかろうか?

 そう考えると、「百聞は一見にしかず」は名言だが、「想像」はそれを凌ぐものと言えよう。

 さて、現代の一般庶民は、果たして「想像」の翼を広げているのだろうか?

 上司・同僚・顧客など、直接かかわりのあるものと対面する場面では、きっと、ある程度、頭を回転させて、先を見越す程度の想像は、常に駆使しているだろう。

 しかし、一会の顧客がその日の対応によって、どれだけの人にどれだけの影響を与えるのか?とか、所属している組織や団体のビジョン・戦略、さらには、この国はどこへ向かおうとしてるのか?そんなことを想像しながら働いている人は、どの程度いるんだろうか?

 そして、ジョン・レノンのように all the people living life in peace(みんなが平和に生きている世界)なんて想像ができるだろうか?

 私は、できると信じています。

 しかし、そのためには、それを想像したいという積極的意思と、死象の骨のように、その取っ付きとなる情報が必要となるのでしょう。

 

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香港島・シンフォニーオブザライト」(向かいの九龍半島より本人撮影)

 今回の家族旅行では、各人が行きたいことしたいことを、一つは持ち寄り、それをミッションとして掲げていきました。

 私を除く3人は、無事ミッションをコンプリートできましたが、私のミッションは、音に聞く「100万ドルの夜景」を、山か高層ビルの展望台から見ることで、あいにく、天候に恵まれず、高所からの展望は叶いませんでした。

 しかし、その日は、なぜか香港のクリスマス(日本より1か月ほどずれる)だったので、毎晩やっているという、香港島ビル群のライトアップショーがひときわ美しく、高所からの夜景も十分に美しいものであることを想像させてもらえました。

 

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ローヌ川の星月夜」フィンセント・ファン・ゴッホ

 この絵は、実際現物を見たことがありますが、その時はあまり感動しませんでした。

 香港島のイルミネーションを見て、暗号が解けたかのように、ゴッホに書きたかったものがわかるような気がして、この絵の良さを実感できました。