説難

マグナ・カルタ

 高校くらいで習うのだろうか?知る人ぞ知る、世界最古の憲法である。

 習ったころは、受験のための暗記用語の一つくらいの意識だったが、30歳を過ぎて、立ち読みした本(痛快!憲法学:小室直樹著)から、この法典が、世界最古の憲法と言われる本当の理由を知り、それ以来、歴史上の人物のように、この法典がお気に入りである。

 

 そもそも、憲法とは何か?

 私のそれまでの知識では、「法律の中の法律」「国のあらましを宣言したもの」といった感覚で、漠然と「法律の中で最も強い法律」と考えていた。

 確かに憲法はその国の最高法規であり、これに反する法律は無効である。

 しかし、その知識だけでは、憲法の本質を理解しているとは言えない。

 憲法とは何か?

 憲法とは国家権力を制限もしくは統制するために存在する。

 現行の日本国憲法では、国民の義務や権利について記述されているところが多く、国民に対して義務や権利を示した法律であるかのように勘違いされがちであるが、憲法とは国家権力に対して、権限と義務を指し示しているものである。

 

 「立憲主義」と呼ばれるこの考え方は、憲法を議論する上では絶対不可欠な認識なのだが、私は、大学でも職務上でも、何度となく憲法を学んで来たが(それこそ砂川事件などディープな話まで)、30歳になるまで 、その立憲主義という考え方を知らなかった。そして、その後も、情報番組で護憲派的なコメンテーターがたまに発言するのを聞くくらいで、全くそのフレーズや意味合いが話題に上がることはなかった。

 私が無知なだけで、常識過ぎて今さら言わないのか?と感じるほどであったが、私の周囲に立憲主義を説明できる人間はほとんどいなかった。一応彼らもそれなりの大学を出て、法に仕える者として法理に明るい連中である。

 年に四、五回は、憲法改正を巡る話題が取りざたされるのに、こんな根本原理が無視されていて大丈夫なのか不安になる。

 

 表題のマグナ・カルタは、そもそも、1215年、時のイングランド王ジョン王に対し、統治を受ける貴族や地主が、王の権利の濫用を防ぐために、その権力の範囲を規定し、権力を制限するために作成されたものである。

 (参考:このページが詳しいhttp://www.y-history.net/appendix/wh0603_2-007.html)

 その後、アメリカ独立宣言、アメリカ合衆国憲法の起草においても多大な影響を及ぼし、我が国の日本国憲法においても、立憲主義の理念は脈々と引き継がれてきた。

 私が、マグナ・カルタが大好きでたまらないのは、別にその六十数箇条を全て把握している訳ではないが、それが、現代の余計な修飾がなく、国家権力を統制するという、憲法の純粋的な目標のためだけに作成された、いわば憲法のアーキテクト(ゼロ号機的存在)であるからである。

 

 遅れる事400年、同じイングランドからトマス・ホッブスが登場、人類社会における国家権力の必要性を唱えつつも、その著書の題名「リヴァイアサン」は、伝説の怪物の名であり、国家権力を歯止めなく認めると手のつけられない怪物となる事を示した。

 

 国家権力には、憲法という鎖が必要なのである。

 

 国民が、治安や国際情勢の不安から、より強力な国家権力を求めるのであるならば、鎖を緩めるのも、正しいと言えば正しいが、今のように、内閣総理大臣や一部の政党から言い出すのは、本来筋が通っていないのである。彼らは、言ってみれば、マグナ・カルタ制定時のイングランド王(ジョン王)の立場であり、「どの口がいうとんねん!」という話なのである。

 それでもまあ、自民党は、この国の本当の自主独立のため、自主憲法を欲するのが党是であり、それに賛同する者が集まっているのだから、改憲を望むのも一つの考えと認めましょう。

 しかし中身もろくすっぽ理解していない有権者に、「アメリカに押し付けられた憲法なのでダメな憲法」という触れ込みで宣伝するのはやめてほしい。

 日本国憲法の起草原案の出所については諸説有り、機会を設けてその誕生の秘話を話せたら良いとは思っているが、少なくとも、当該憲法交付時においては、近代の憲法理想の結実とも言われるワイマール憲法に、更に平和主義を付け加えるという、ウルトラC的進化を遂げた、最も成熟された最新型の憲法であったことは、疑う余地はない。

 ただ最新型過ぎて、考え方が終戦時か終戦時以前の状態のまま70年以上遅れている諸外国とは、折り合いがつかないのだ。

 古いのは日本国憲法ではなく、いつまでも武力を最上の解決策と信じている世界の大半の人類なのである。

 

 ただ、どっちが遅れていようが進んでいようが、現時点で齟齬があるのなら、憲法改正が本当に必要かどうかは意見が分かれるところとなるだろう。

 しかし、少なくとも「立憲主義」の考え方からすると、主権者である国民の世論からでなく、一部の政党の施策として改正論が出るのは理屈が合わない。単に国民に行政の長を付託されたに過ぎない臣下である総理大臣や一部の政党が、己がやりたいことがあるだけで、国権のなんたるかを定義し、自分たちの暴走を抑えるために存在する縄をほどけと言っている理屈になっていることに気付いてほしい。

 わかりやすく言うと、

 「私達からこんなこと言える立場ではないのですが、これ以上、諸外国になめられるのは耐え難いので、この手錠を外してくれませんか?」

 「その昔、西欧の力に屈しないためだったとは言え、国民を騙し、支配地の庶民を虐げ、自国だけで350万人、アジアに1000万人の死者を生み出す大惨事の原因となりましたが、今度はうまくやりますから、いい加減、縄を解いてくれませんか?」

 と言うべきで、その上で、国民の理解と総意を求めるべきなのである。

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「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢の肖像」

 印象派の巨匠、ルノワールの傑作。

 その美しさに目を奪われるが、被写体のイレーヌ嬢は、なんと当時8歳。

 とてもそうは見えないが、手元の辺りのあどけなさなどから、有り得るともいえる。

 絵画において、実在する被写体は憲法であり、キャンパスはその解釈の場である。

 絵画も進歩の過程で、被写体を忠実かつ精密に描くことが正解だった時代から、解釈を広げた表現が模索され、最終的には、ピカソのように、原型がまるで無視されたかのような絵画に至る(ちなみにピカソのデッサンは、極めて忠実で、かつ精密である)。

 印象派は、その中間に位置し、被写体というコードを守りつつ、表現の限界に挑んだ集団である。

 8歳という、素朴で派生のしようの無い被写体を、ここまで美しく表現できた、ルノワールの優れた観察眼と技術に感銘を覚える。

 翻って、ろくにそのコードも理解できていないのに、「被写体が悪いからうまくいかないのだ」と主張して、「被写体を変えれば、良い絵が描ける」と短絡的に考えていては、おそらく、いつまたっても、美しいものからは無縁であろう。