善く吏たる者は徳を樹う

 4月に入ってから、ある事案をきっかけに上司との関係に小さな亀裂が入り、修復を心掛けて、細心の注意を払っていたのだが、5月の連休明けの事案で、決定的なミスを犯し、とうとうキレられてしまった。
 おかげで、とてもふさぎ込み、ブログのほうは更新する余裕がなかった。
 私の仕事はしがない木っ端役人である。
 現在の上司とは昨年の異動で配下に付くことになったのだが、いわゆる体育会系の上に、我が組織の特殊強襲部隊に所属していた経緯もあり、残業はもちろん、昼抜き、休日勤務も屁の河童、WLB(ワークライフバランス)などくそっ喰らえというような方で、「役所のような公共機関は、時短においてもWLBにおいても、社会のメルクマール(模範)として、最先端を進むべきだ。」と考える文系色白役人の私とは、水と油な関係だった。配属当初から、「これは合わん。」とお互い思っていたであろうが、そこはお互い50歳前の大人なので、正反対の意見が出ても、どちらかが引いて合わせてきた。
 正直言って、現場の彼の実力はピカイチであった。
 法律の方はあまり得意ではないようだが、現場での情報収集・確保については抜かりはない。特に驚かされるのは、情報技術(いわゆるIT)が秒進分歩のこの時代に、新しく開発された情報収集技術を即座に会得して行くところだ。
 彼の方も、私の知性派的なところには敬意を表し、お互いにリスペクトし合って、良好な関係を続けていた。
 
 しかし、どうしても相容れることができないところがあった。
 それが、彼の言う、「自分たちは役人であり、調査をする権利があり、国民はこれ受忍する義務が有る。」という考え方だ。
 連休明けの決定打となった原因も、彼の指令した情報を私が持ち帰らなかったため、「上司の命令不服従」(国家公務員法98条であることはきっと知らない)だと、声を荒げて怒り散らしたわけだ。
 めんどくさいので、その場で弁解はしなかったが、その情報は、極めて複雑な情報で、整理した回答表でも作らない限り、容易に得られるものではないと判断したのだが、彼の考えでは、その整理表も、相手が作ればいいということになるのだろう。
 彼には彼の目標があり、今度の事案は、やや特殊なもので、これを基に、新たな手法を編み出すことも視野に入れているようだ。私とて、木っ端とはいえ役人の端くれ、そのことは理解しているし、国益に利するとあらば公務に服す。しかし、相手の方は、それに付き合う義務はない。
 
 役人の権限を拡大解釈して、相手に無用な負担を負わせることは問題があると考えずにいられない。役人の権限に対する彼の誤解は、役人という仕事を多少なりとも誇りに思っている私にとっては、看過できない。
 役人の権限とは、法治国家における担保(法律を守る者がバカを見ないという保証)として役人が存在する事に由来する。そのバックボーン有っての権力なのである。役人だから権力があるのではなく、真面目な国民のために権力を付与されているのである。前述したような、傲慢とも取れる考え方は、本店の特殊部隊なら通用するかもしれないが、支店の木っ端役人が吐いたら、たちまち大炎上である。
 まあ実際、大炎上したという話を聞かないところを見ると、酒場で息巻いているだけかもしれないが、その方が却って悪質だ。
 
 ここで一つ、韓非子から逸話を紹介する。
 役人たるもの、こうあるべき。と信じさせてくれた逸話であり、時折、新入社員に聞かせることがあるお気に入りの逸話である。
 
韓非子55篇 外儲説篇】
 孔子の弟子の子皐(しこう)が衛の国の裁判官をつとめていたとき、一人の男を足切りの刑に処した。刑を終えた男はやがて城門の番人にとりたてられる。
 
 その後、衛の国に内乱が起こり、身の危険の迫った子皐は城門から脱出しようとした。すると、くだんの番人に呼び止められ、地下室にかくまわれて事なきを得る。子皐がわけを尋ねたところ、番人はこう答えたという。
 
 「わたしの罪はのがれようもないものでしたが、あなた様のお取調べの時、なんとか罪を免れさせてやろうと一所懸命のご様子でした。また、罪状が確定して判決を申し渡される時には、いかにもつらくてならんといったお気持ちがありありと見て取れました。あのときから、わたくしはあなた様を徳としているのでございます」
 
 のちに孔子はこの話を聞いて、「善く吏たる者は徳を樹う」と語ったという。
 
 いかにも徳を重んじる孔子の言で有るが、重要なのは、この逸話が、論語に掲載されているわけでなく、法家の韓非子によって紹介されていることである。
 すなわち、その心は、「上に立つ者には「徳」が必要だ」などという解釈ではなく、法を執行する者の姿勢を説いているのである。この話が、役人に優しさ(徳)を求めているものなのであれば、足を切らなければよかったのだ。
 法が無味寒村とわかっていても、執行官が、余計な裁量(去年の流行りで言う所の忖度)を挟まず、ただ法にのみ忠実であったからこそ、罪人は法に則り罰を受け入れ、役人を恨まなかったのだ。
 
 役人には、本来ノルマというものはない。ただ情勢に応じ処理しなければならない、要処理件数というものは存在する。あるタイプの不正を、社会的影響が及ぶ程度摘発すれば、そのタイプの不正は抑制される。という計算だ。
 しかし、思惑通り不正摘発件数が伸びないこともある。
 それが担当者の責任であるか指令した上官の責任であるかはケースバイケースだ。
 50歳前で、ヒラの私でも、現場の踏み込みが甘かったと反省することは多い。
 しかし、時々そういうことが続くと、日大アメフト部のような、「待て、待てえ」と言いたくなる指令が飛んで来る。
 民間で営業している人たちの話を聞いていると、もっと厳しく露骨だそうだが、役人の世界では、ご法度でしょうと思う。
 そんな理不尽な命令を受けたくない一心で、善吏たるには実力がなくてはならないと、調査技術を磨き、人に劣る事績とならないよう頑張ってきたが、本店しごきのムキムキマッチョには勝ち目なく、軍門に下るより他はなさそうだ。
 さて、どこまで善吏の矜持を守りきることができることやら。
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「夜警」 知る人ぞ知るレンブラント・ファン・レインの代表作ですね。

 バックブラックにライトアップされる人物像は、レンブラント特有の輝きを放ち、絵画の中に、初めて「光」が持ち込まれたバロックの象徴といえます。私が絵画に興味を持ち始めるきっかけとなった一枚でもあります。

 有名な逸話ですが、夜警と言っても、実際には昼間の光景だったのが、保存状態が悪く、黒ずんでしまったため、「夜警」という名がついたそうです。

 登場人物は、中世の商業都市アムステルダムで組織された、とある「自警団」であります。

 社会が勃興すれば、ルールが必要になります。つまり法です。

 法あるところ、法を守る者と、守らない者が現れ、それを守らせ公平を保つ組織が必要となります。

 肖像画の自警団は、勇ましさを強調して描かれているようですが、当時はその権限を利用して、よからぬことに行っていたという噂があり、レンブラントはそのことをさまざまな寓意画(何かを象徴すること物を描きいれ、思いを差し込む手法)を差し込んでいるといわれています。