説難

上杉鷹山

 「為せば成る」は普通に使われる慣用句。時折丁寧に「為さねば成らぬ何事も」と続ける方もいるが、「成らぬは人の為さぬなりけり」と続けられる人は、なかなかの通であろう。私の父は、それが極貧の米沢藩を救った名君、上杉鷹山の言葉であることを知ってか知らぬか、酔っぱらうとその下の句を満悦に唱えた。

 おかげで、小学生にして、鷹山には、心惹かれるところ多く、信奉していた。

 知る人ぞ知る、炭火の話をしたい。

 関ヶ原で敵側に加担した上杉家は、肥沃な新潟から従者(従業員)の数はそのままで、年商半額の米沢藩に転封される。

 折しも、当時の米沢藩は飢饉に見舞われ、極貧で皆が希望を失っていた。

 その光景を目にした着任したての藩主、上杉鷹山(当時は改名前で、治憲)とその一行は、暗澹たる思いで愕然としたという。

 しかし、鷹山は、廃屋のくすぶっていた残り火を見つけこれをかざし、「まだ火は残っている。今は、ちっぽけな火種だが、使いようによっては大火となろう。我に策有り、火種を絶やさずしばらく耐えよ。」と檄を飛ばした。

 数年後、米沢藩は財政再興を果たし、他の模範となる豊かな藩へと変貌する。

 

 もう15年も前になる。

 私の役所は、ある行政手続きを電子化するため、ネット上で申請書を作成できるシステムが開発した。

 私は、何の因果か、その直前、それを開発する部署(というか建物内に居ただけだが)に出向していたため、当然のごとく、この「システム」の普及のプロジェクトチーム(PT)に組み込まれた。

 しかし、PTの方々は、機械には多少詳しいようであったが、その雰囲気は、鷹山が赴任した時の米沢藩の様だった。

 実はこれに始まらず、私の組織は、何度かその手続きの機械化を検討し、いろんなチャレンジがされていたが、利用者は、自力で手続することを怖がった。

 「自分で作って、間違っていたらどうしよう。とにかく一度提出先の人に見てもらいたい。いくら自動計算システムがあっても、自分で打つのは嫌だ。」なのだ。

 しかも、新システムはあまりにセキュリティが堅牢であったり、初期設定が複雑であったり、とても、利用者に操作できる代物でなかった。

 

 しかし、私は知っていた。私の組織が望む未来を。平成15年に電子政府構想が打ち出されるずっと前から、その手続きを機械化すること。訪れた利用者が、ATMのように無人対応でも、手続きができるようになること。

 などというと、すぐに「老人や障害者はどうするんだ?」という声を上げる人がいるが、今、そのシステムは、15年前に比べ、高校生レベルでも自力で、しかも自宅で操作できるレベルまでが平易になったにもかかわらず、窓口に訪れる人の数は一向に減らない。

 私たちは、老人や障害者を切り捨てる気など毛頭ない。「打てる人が打ってくれたら。作れる人が作ってくれたら。専門家に頼める人が、頼んでくれたら。」本当の社会的弱者に手を差し伸べる時間ができるのである。

 

 話がそれてしまったが、15年前、そういった当局がその数年前から嘱望し、全力をもって実現しようとしている未来を見てしまっていた私は、やる気のなかったPTのメンバーに、前述の鷹山の話をし、「今は始まったばかり。新しいシステムはいつも扱いにくいものだ。火種をそっと心に灯し続けて、いつか良くなる、その内誰にとっても当たり前のものになる、これを信じましょう。」と言った。

 それから、数年、夢想的な未来を想像できず、多数の人の反感を受け、アウェイな時期が続いたが、いくつかの灯(ともしび)が残ることができたであろうか?

 しかし、現状、その手続の70%以上が、そのシステムを利用してのネット送信か、自宅で作成しての郵送提出となっている。

 結局は、霞が関の指令が大阪本店を通じて徹底され、現場指揮官が四の五の言えなくなって突き進んだ成果であって、私たち黎明期のメンバーなど眼中にに無いと評されるだろうが、私は、転勤の先々で、指揮官の指名を受け、推進の矢面に立ち続けることができた。たぶん灯(ともしび)をしつこく握っていたからだろう。

 おかげで、後続する人たちに理想を語り、火種を分け続けることができた。

 不要・複雑な取引は簡略化され、セキュリティはそのままに、利用しやすいシステムへと例年進化を続けている。

 パソコンを知らないモバイル世代(そんな世代があることを最近知って驚いたが)に対応したインフラ整備も完成間近だ。

 さらなる普及と発展が楽しみである。

   

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エドゥアール・マネ作「フォリー・ペルジェールのバー」(1882年)

 19世紀末、写真の出現とともに閉塞感を増す絵画界において、多くの画家が「道」を模索し続ける。その多くは、後にその因習から完全に解き放たれ、自由の翼を存分に広げる「印象派」以降の作品の発火点となる。

 その中でも、マネの革命的でセンセーショナルな作品は、当時まだ若手であった印象派のメンバーに絶賛され、兄と慕われる。

 まさに、マネは、印象派にとっての火種になったわけであるが、私は、彼を有名にした「草上の食卓」や「オランピア」といった、問題作を推奨しない。

 この絵画は、印象派が立ち上がった10年近く後に描かれているが、私が注目している事項は、「草上の食卓」でも現れ、印象派もそこに注目している。

 女性の後ろは、鏡に映った鏡像という設定であるが、女性の後ろ姿の角度が、まったく合っていない。

 これこそが、絵画にとって重要な部分。「そう見えるからそう書いた。その角度が気に入ったから同時に書いた。」だ。

 この火種は、印象派も伝承し、マティスピカソへと続いていく。