説難

Bravo! Ueno Park

 先日、フェルメール展を観に「上野の森美術館」に行ってきた。同じ公園内の「国立西洋美術館」ではルーベンス展もやっていたので、立ち寄る予定をしていたが、徒歩で移動中、同じ公園内の「都立美術館」にて、有名な「ムンクの叫び」が初来日していると言うポスターが目に入り、1日で5時間かけて3つの展覧会をはしごすると言う強行軍になってしまった。

 それにしても、いかに芸術の秋とは言え、上野公園というところはなんと凄い所なんだと感心した。

 そこで、いつもは小難しい話ばかりのブログに、少しでも憩いを添えようと慎ましく掲載していた絵画について、本日はこれをテーマにガッツリと話してみたいと思う。

 

 大変長文となっているが、普段、自己紹介などで趣味や特技を聞かれた時、趣味は絵画鑑賞、特技はそれを活用して展覧会の見所を説明し、観覧料の内、数百円はお得感を得られる情報を提供できると公言しており、その手腕をふるいたいと思うので、期待してご一読の上参考にしてもらえれば幸いに思う。

  

フェルメール展】

 フェルメールについては、先日投稿した中で若干紹介しているが(歴史の勝利)、17世紀オランダの画家で、死後数百年経ってから名声を得たため、世界に30数点しか現存していないと言うことでも有名である。

 今回のフェルメール展においては、大阪会場も含めると、その内10点が来日すると言うことで、空前のフェルメールブームが起こるのではと期待されている。

 ただし、観覧させてもらった限りによると、残念なことにこの「上野の森美術館」という所は、このような空前の催しを行うには、どうも技量不足だったように思える。

 まず配置であるが、フェルメールの作品9点(当日は1点未着)をフェルメールルームと名付けられた一室に集めるという斬新なアイディアについては素直に関心を持つが、他に40点もの、かなり無名な作品を前衛に配置しており、相当な障壁(つまり邪魔)になっている。

 通常目玉作品は最後尾に配置されることが多いので、私は最初にリストを確認し、それを観てから他を観に行く手法をとっている。今回も50点のうちフェルメール8点が最後に集中していることを見抜き、入場直後にこの部屋に向かうと言う手法をとった。

 それでも、当然フェルメールルームは大変混雑しており、この部屋の8点を観るだけで1時間半を費やした。

 この手法を知らずに、前衛の40点を消化するのに30分なり1時間を費やした一般の観覧者にとっては、おそらくフェルメールの良さをじっくりと堪能する余裕は失われていたのではないかと残念に思う。

 今一つは、学芸員の案内の悪さに非常に失望した。

 今回のフェルメール展ではおそらく「牛乳を注ぐ女(英名Milk maid)」が最も人気を集める作品と思われるが、このような目玉作品の観覧形態は、混雑を避けるため最前列は移動しながら鑑賞し、2列目以降は自由空間とするのが通常である。

 9点を一室に集めた結果、この手法が取りにくかったのか、交通整理ができない状況にあった。

 しかし、展覧会に慣れている観覧者は、ある暗黙のルールを知っている。すなわち最前列の観覧者は、1、2分は立ち止まりつつも次の人のことを考え、観覧順路に沿う方向に従い、少しずつ移動すると言うものである。

 ところが今回の展覧会の案内をしていた学芸員は、単純に「どの方向からでもいいので前に詰めてくれ!観た人は速やかに退いてくれ!」と言う指示を連呼し、ラインの流れを作ろうとしなかった。このため前述の暗黙のルールを知っている観覧者は、逆方向から最前列に詰め寄ってくる人たちに阻まれ(逆方向は本来列の抜け口であるため比較的空いて見えるのだ)、最も長く待たされる状況に陥っていた。

 後述する東京都立美術館においては、当然初来日した「ムンクの叫び」が目玉作品になるわけであるが、きっちりと最前列の整備が整えられていた。私は10分間で二度、最前列で鑑賞しながら通過し、10分間2列目からじっくり鑑賞することができた。

 

 しかし、せっかくの奇跡の祭典なので、悪いところばかりを伝えて鑑賞に行く意欲を奪うのは本意ではないので、約束通り、数百円はお得感を得られる情報を提供する。

 

①「フェルメールブルー」

 この言葉はもはや有名過ぎて、あえて説明したところでお得感は得られないかもしれないが、プラスアルファーとして、「天空の破片:ラピスラズリ」といったキーワードや、「ウルトラマリン」の語源などでネット検索すれば、そのブルーの意味をより深く理解でき、実物を見たときの感銘がひとしおになると考える。

②「カメラ・オブスクラ」

 聞き覚えの無い言葉だが、この技術が、忘れ去られかけていたフェルメールの作品が、近年に入ってから評価され始めた所以であると聞けば興味が湧くだろう。

 しかもこれを語る人は少ない。ちょっとしたトリビア(豆知識)だ。

 フェルメールは当時未開発であったカメラの原型と言われる「カメラ・オブスクラ」を使って絵画を作成した。このためカメラが開発されて以降に用いられる技法(主に印象派が用いる光を捉える技法)を可能にした。

 その特徴が「ハイライト」と呼ばれる点描で描かれた光の粒である。

 有名な真珠の耳飾の少女の修復に置いて、唇の左端に隠れていた小さなドットが発見された事は有名だ。

 この技法こそが、同年代の、技量だけはずば抜けているルーベンスや、明暗によって光を表現しようとしたレンブラントを凌ぐ快挙を成し遂げたのだ。

③ 真贋論争

 フェルメールについては現存する絵画が少ないため、判断材料が乏しいことから、一部の作品が、その真贋(本当にフェルメール自身の作であるかどうか)が疑問視されていることでも有名で、今回の展覧会でも、真贋の議論が残っているものが数点含まれていると案内に記されている。

 ただ、具体的にどれとどれが疑問視されているかということについては、ネットを検索してもなかなか分からない状態である。

 私の記憶では、今回来日分の中では、初期の宗教画である、「マルタとマリアの家のキリスト」と「赤い帽子の女」が対象だったと思うが、ネット上では「赤い帽子の女」だけが論争の対象になっていると言う記事しか見つけられなかった。

 ただ、現実的には、この2点以外はおそらく議論の余地は無いと思われる。

 そこで、前述の①②の知識をヒントに、自分なりに真贋を判断してみるのも面白い。(ここで私の見解を披露しようかと思ったが、予断を持たずに観てもらいたいのでやめておく。) 

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フェルメール展 会場マップ -最後尾の6がフェルメールルーム。申し訳ないが、1~5でまともに観た絵は4枚だけ。

 

 

ルーベンス展】

 ルーベンスも以前作品を一枚紹介しているが(教育は国家百年の大計2 選挙権 - 説難)、フェルメールとほぼ同時代のしかも同じオランダの画家であるが、フェルメールとは真逆に、当時より今日まで名声を保ち、1000点を超える作品が残っている。私はあまり好きではないのだが、今回鑑賞させてもらって、改めてその技量においては感嘆を禁じ得ないと感じた。「フランダースの犬」のネロ少年が恋い焦がれたその筆致はまさに神業だ。

 ルーベンスを観る上でアドバイスするところは、その毛髪や衣服のシワを観察し、顕微鏡レベルの緻密さを体験する事だ。

 ただそれだけでは普通なので、プラスアルファの情報として、今回の展覧会では、面白いことに、作者ルーベンス?とか後年誰かが加筆、頭だけルーベンスで後は弟子の作品、さらにルーベンス風に見えるが別の人の作品、といったものがランダムに展示されている。

 そこで、作者の表示を見ずに絵画だけを見て「これはルーベンス」「これはそうでない」と言うふうにダウトゲームをしながら観ていくと、初心者でも退場する頃には見分けが付き、彼の技量の卓抜さをより鮮明に感じられるだろう。

 

ムンク展】

 展示100点のうち100点全てがムンク作であると言う大盤振る舞い。紛れもなくムンクムンクエドヴァルド・ムンク展であった。

 ムンクは20世紀前半に活躍したノルウェーの画家で、その時代は、写真の発明により、画家たちが絵画だけに許される表現方法の渇望と探訪の旅を始める扉を開いた「印象派の出現」から、常人が感動できるギリギリの表現である「ピカソ」にたどり着くまでの、試行錯誤と模索の数十年のど真ん中に位置し、その作風は絵画界がもがき苦しむ様子を象徴しているようである。

 残念なことに、幼少期に姉を失った彼は、「死」と言うものに対し異常なまでの関心を持ち、この表現し難い恐怖や不安感をキャンバスに表そうとしたため、「叫び」を始めとする多くの作品が見るからにおどろおどろしく、ある意味一般人には好まれないものとなった。

(ちなみにルノワールが好きという私の娘は、フェルメールの絵は怖いと言うのに、ムンクは興味深いと言う。それが一般人の感想なら失礼を謝す。)

 私はテーマはともあれ、彼の表現方法に強い関心を持っていたため、今回偶然にもこのように多数の彼の作品を見ることができたのはとても幸運であった。

 100点といっても同じようなテーマに対するものが複数何度も現れる。しかしそれが彼の試行錯誤を如実に表現しており、まるで言い方を変えて何度も説明されるように、彼の伝えたいことが伝わってくる。

 「叫び」自体はシリーズとしては2枚しか展示されていないか、展覧会全体で見ると、彼の鬱屈した思いがマグマのように感じられ、最終的に「叫び」となって表現される、まるで映画のクライマックスのような演出がされていた。

 

 以上、3展覧会のまとめに際し、韓非子55篇のうち外儲説(がいちょぜい)左上より。「客、斉王の為めに画く者有り 。斉王問いて曰く、画くこと、いずれか最も難きぞ。 客、曰く、犬馬最も難し、鬼魅最も易し」。 

 ある王に、絵描きとして最も描きにくいものは何か?と尋ねられた画家が答えた。「鬼や魑魅魍魎は人が見たことがないのでいくらでも書けるが、犬や馬は誰でも知っているのでごまかしが効かない。」と。

 

 ルーベンスは宗教画を書いている内はボロが出ない。人は神の世界を別世界と認識しているから。

 彼がごまかしているわけではない。彼の絵は正確で緻密だ。そして迫力も躍動感も有る。

 しかしそれが私たちの見慣れた生活の一部と言われると、その違和感に気づかされる。

 なぜなら、私たちの見慣れている景色に存在するのは、迫力や躍動ではなく、揺らめく光と静かに流れる時間なのである。

 フェルメールはその当たり前の日常の光と時間を捉えることができた。

 しかし、現存作が寡作なため真贋の論争が絶えない。

 もしタイムマシンで彼の時代に遡り、彼の作品を多数持ち帰って来れたら、それは周知の作品となり、誰もそれをまねることはできなくなるだろう。

 ムンクは、「死」と言う万人が常に心に持ち続けている恐怖や不安をキャンパスに描こうとした。それゆえに、まさしく誰もが知るものを表現すると言う最も難しい創作に挑んだわけである。

 数百年後、彼の作品は、フェルメールのように評価される時が来るだろうか。その時まで現在のような100点規模の資料が引き継がれるだろうか。

 時はすべての芸術作品を連れて行く事を許すまい。ならばせめて、今観られるものを喜びとともに堪能しよう。 

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エドヴァルド・ムンク「生命のダンス」

  いやいや、この流れで行けば初来日の「ムンクの叫び」だろうと、言われるかもしれないが、私がムンク展で最も目を魅かれたのは、この一枚だった。

 この絵には、水平線に浮かぶ月とその鏡像のほか、100点のムンクのおそらく半分近くに登場するアイテムが凝縮されている。是非ご鑑賞いただきたい。