「なぜ人を殺してはいけないか?」
昭和生まれ昭和育ちの私たちには、疑問に思うこと自体が疑問であるが、平成の子供達は、本当にわからないらしい。
韓非子を標榜する私としては合理主義の観点から、
「殺人によって苦痛から逃れようとするのは、合理的ではない。石神(頭の良い人)ならそんな愚かな事は絶対しない。」(東野圭吾原作「容疑者Xの献身」より)と言いながら、メガネをチョイ上げして一蹴したいところだが、この問題、結構根が深い。
平成9年に神戸で起きた、14歳の少年による連続殺人事件(今でも「神戸連続」で検索するとTopHitする)の際、報道で「ウサギより大きい動物を殺すようになると、それは異常であり危険である。」と聞いた。
私は良い所を突いていると感じた。確かに虫や魚を殺すには抵抗を感じないが、ネズミくらいから恐くなる。
「可愛い」という観念が、人生を大きく左右する女性たちにおいては、もっとハードルは高いだろう。
しかし、それは、「嘘をつくと閻魔様に舌を引っこ抜かれ、悪い事をすると地獄に落ち、業火に焼かれ、生皮を剥がれる。」と、自分も周囲もそして多くの大人も信じていた時代の話。
科学的には、死後の世界は存在せず、戦争では何の罪も無い無抵抗な市民が業火に焼かれ、生皮を剥がされている。
更に、ゲームでは、殺害すればするほど高得点になり、その描写は、リアルを超えて、幻想的ですらある。そこには、罪悪感、嫌悪感、恐怖感がまるで存在しない。
法律が制定される以前に存在する慣習や道徳など、法律の素となるルールを法源と言い、その中で特に万民が納得する善悪のことを自然法と言う。この自然法が平成生まれの子供たちの中で崩れつつある。
私の考える原因としては、共稼ぎや離婚の増加による家庭内における親からの教育の希薄化ではないかと思っている。
しかし、欧米においては当然である共稼ぎや離婚が、どうして日本においては問題になるのか?
おそらく学校教育と家庭教育とのシェアリングが日本と欧米とでは違うのではないか。
人を殺していいかという問題は、一見異なる議論のように見えるが、「自由」と言う「権利」 について考察することでいろいろなことが見えてくる。
現在自分たちが生まれながらにして当たり前のように持っている「自由」という「権利」が、権力者と市民との間での永年の闘争と幾千万人の犠牲の上に成り立っているものであること。そして、基本的には「条件付き」であること、さらに、常に対となる「義務」が生じること。
それらを、日本人においては、子供はもちろん大人もあまり意識していないように思う。
少なくとも私が育った環境では、そのような教育は親からも学校からも受けなかった。
欧米の教育事情がどのようなものであるかはあまり知らないが、彼らの歴史を学べば、このような権力闘争の問題は避けて通れず、体感して覚えることになるだろう。
したがって、親が家庭に居なくても、ある程度の教育を受ける機会さえ与えれば、自然法として、「他人の自由を損害してはいけない。」と言う当然の理念が植え付けられるのではないかと考える。
学校教育と家庭教育のシェアは、元来、科学的知識は学校で、自然法的な観念、いわゆる道徳は家庭教育にあるものと考える。
欧米においては科学的知識の中に「自由」の観念が含まれており、日本においては含まれていないので、必然的に親がそれを補わなければいけなかったわけである。しかし、私たち親もそのような教育を受けていない。
そして、その観念が抜け落ちたまま欧米に追随し、共稼ぎや離婚率を上げてきた。
しかしながら、とは言う物の、欧米に比べては日本の方が格段に治安が良く、わけのわからない殺人事件も少ないのではと思える。ただ、これは別の国民性が作用しているように思う。すなわち、よく言われる、彼らは元狩猟民族であり、われわれは元農耕民族であるという点だ。
だからこそ、日本人が簡単に人を殺すようなことがあるのは残念だ。
「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」
公共の福祉については、諸説あるが、基本的には、他人の基本的人権に抵触しないことを言う。
日本の教育カリキュラムでは、ほとんど触れられることはないが、すべての人間に無制限の自由を与えると、「万人の万人に対する闘争」(トマス・ホッブズ『リヴァイアサン』)が生じ、むしろ多くの市民の自由が保証できない。
そこで、市民は、殺人や暴力という他人の自由と抵触する手段を選択する自由を「国家」という社会機構に委ね、これを放棄したのである。これがいわゆる、ジョン・ロック及びジャンジャック・ルソーの「社会契約論」である。
小学生には難しいかもしれないが、中学生くらいなら理解できよう。
民主主義や基本的人権の考察については、欧米の思想を学ぶ必要がある。
彼らが格別優秀なのではない。その重要性に気付いて渇望し始めてから、数百年と幾千万人の犠牲を被った。
百年足らずで追いついた日本に比べるとどんくさいくらいに思える。
しかし、だからこそ、その数百年で培われた、自由への渇望と濫用に対する警戒心が半端無いのである。
インターネットと携帯電話の普及に伴い、「感性」や「情緒」に訴える手法は過去のものとなり、代わりに「理性」と「知性」が重んじられる時代が来ている事を悟らなければならない。
「命の尊さ」を訴える授業がもてはやされた時期が有ったが、「自由の尊さ」こそ訴えるべきなのである。
現在、世界を見渡せば、このような概念を有する国は一部の先進国に限られる。いや、もうそれを追い抜いた中国ですら完全民主化は実現しておらず、「不自由」こそが世界のスタンダードになっている。
今一度、当たり前の「自由」が、本当は当たり前でないこと。どうしようもない難産の果ての産物であること。そして、それを守っていくためには、どのようなルールを守るべきか?を子供も大人も知るべきなのだ。
「なぜ人を殺してはいけないか?」
いやいや、その前に、人を殺そうしているあなたの手は、どうして自由なの?
ご存じ、ニューヨークの自由の女神のモデルとなった絵画である。
かの彫像が、同じく民主革命を成し遂げたフランスからの贈り物であることも有名だが、もともと、フランスではあちこちの公共施設に同じデザインの自由の女神像が置かれている事はあまり知られていない。
女性でありながらフランス革命に貢献したロラン夫人。革命成功後の権力争いに巻き込まれ、断頭台に送られる。
刑場に送られる際、庁舎前に建てられた自由の女神像に問う。
「« Ô Liberté, que de crimes on commet en ton nom ! » ああ、自由よ。汝の名の下でいかに多くの罪が犯されたことか。」