説難

道祖神

平成も終ってしまいましたね。

 

 という挨拶も、もう遅い時期になってしまった。

実は、本ブログを立ち上げた2018年1月1日から、基本的には2020年のオリンピックの終了時期を目処に、一定の活動を終える計画で、改元の連休はちょうどその中間に当たり、その辺りで、全体の曼陀羅(構成)について説明する予定であった。

本ブログは、一見、テーマ自由で無秩序につづられているようであるが、後述するようにいくつかのテーマや目的を持っている。しかし、ある意図を持って、これを感じさせないように敢えて秩序を乱している。

しかし、あまり、乱述が過ぎると、さすがに伝わらないか、最終話までもたない。おそらく、この時期辺りが限界だろうと考えていた。

そこで、初期設定となっている、基盤と4つの支柱について説明する。

 

1 発起

 自分の考えが、「あまり人に知られていない貴石ではないか?」そんな「マイニング妄想」から抜け出すには、その考えを、なるべく多くの他人に聞いて貰う必要があった。(2018.01.01 はてなのお題「今年の抱負」について投稿したもの)

 きっかけはそれが全てだった。

 しかし、格別のSEO対策もせず、一介のブログが人に読まれることもなく、コメントの書き込みもなく、自分の意見がどの程度正しいのか推し量る事は全くできなかった。

 

 しかしそれでも、これまでに自分の考えや意見を、ここまで文章に表した事はなく、これを残せていけることに喜びを感じるようになってきた。

 

 ただ、意見や主張を読みやすいように、 2500から3000文字程度に抑えると言う規則を設けていたのだが、最近はなかなかこれができていない。文字制限を守る事は、語彙力を求められるものであり、その分野での認識の深さを測る要素でもある。安易に冗長な表現を並べるのは、論者の資質が問われるところである。

 後半はこの点に注意して、より読みやすい文章を作っていきたいと思う。

 

2 サーガ(主張の主軸に有るもの)

 小中学生のころ、星新一ショートショート集にはまって読み漁った。

 難しい言葉を滅多に使わない彼の作品の中で、唯一辞書を引いて調べた言葉が「合理主義」だった。

 以来、私は世の森羅万象に規律か理由を求めるようになる。

 

 合理主義の美しさを韓非子に覚え、それを軸に何かを訴え、そして変えていきたい。そんな思いが、主張の主軸になっている。

 己のごく順当な出世すらままならない、しがない木っ端役人で、リアルでは到底人に何かを語りかけるような場面も人間関係にも恵まれなかったが、このように「思いは言葉に」できるブログというツールが存在する時代を生き、読む人知れずとも記事が書けることを楽しみたいと思っている。

 ところで、合理主義の美しさは自由なカオスの中に存在する時に最も際立つ。一見議論が乱立しているようで、いくつかのシリーズが存在する。話があっちこっちに飛んでいるようだが、一つの旋律の上を歩いている。

 そういうブログにしたいと考えている。

 活動期間を3年弱に決めているのも、期限を設けることでそれぞれのシリーズはそこまでに結実しなければならないことを意味し、無計画な議論の広がり(すなわち戦線の拡大)を防ぐためである。

 その副次的効果として、スケジュール感を生み、投稿に期限が有り、定期的な投稿を生む。

 あたかも大学で論文の提出を急かされるように、結構忙しいのもまた楽しいのだが、その分、推敲が甘くなり、昨今の冗長傾向が表れているのは残念である。 

3 四つのカテゴリー

 ブログの記事を主張したい目的に合わせて、カテゴリーに分類した。

 2のサーガが言わば総論に当たり、こちらは各論といったところか?

 カテゴリーの名称を決めていなかったので、この段階で考えた。

 このため、前半においては、タイトルにC-1~4という仮タイトルが付してある。それぞれ、以下の順番に準じてカテゴライズされると考えてもらいたい。

 

韓非の空

 30を過ぎてようやく諸子百家に興味を持って文献をひもとき始めた頃、「諸子百家」と題する二百数十ページの本の中で、韓非子に触れられていた部分は数ページだった。

 にもかかわらず私は彼の思想に魅了された。

 その説話の多くが知られる中、当人の名と思想の特異性が知られていない事をひどく嘆息した。そして、彼が自ら予言したとおり、彼の思想の多くは、主権者の正しい判断を曇らせるいくつもの「説難」により、いまだ主権者に届いていないことにも落胆している。

 韓非子の思想を登用するのは、ブログのタイトル通り、本編の根幹である。

 「空」とはどう意味か?

 いささか情緒的ではあるが、古人の思想を共有したいと思うなら、空を見上げると良い。なぜなら、どの時代にどこで生きていたとしても、見上げる空は同じであっただろうから、時空を超えて隣に立って話しているように思うのである。

主権の鼎 

 アドルフ・ヒトラーが、正式な民主主義のプロセスを経て国家元首になったことを大学生になるまで知らなかった。こんな重要な事を中高で学ばせない日本の教育は間違っている。

 民主主義は人類の理想的かつ最終的政治形態であると信じる。しかし、その健全な運用には主権者である国民一人一人が十分な良識と合理的な判断ができる見識を有している必要が有る。

 一見困難な課題と感じられるかもしれないが、私は一つの近道を見つけた。すなわち、多くの答えは日本国憲法にあるという見解だ。

 鼎の軽重の故事は有名なので説明を割愛するが、憲法と教育を軸に、主権者が軽重を問われても恥じない鼎を具備する事を目指す。

平和の理(ことわり)

 私は、平和を求めるのに情に訴える事に限界を感じている。

 もはや本気で平和を求めるのであれば、願ったり祈ったりしている場合では無い。統計学や経済学といった算術的に割り切れる学問によって、戦争状態よりも圧倒的に「合理的」である事、あるいは「利益が有る」「有利である」という証左を示し、いかなる野心家の論述も凌駕する、明白で魅力的な結果を想起させる「論理」を構築すべきなのである。

 残念ながら私の脳みそではその答えにたどり着けない。ただそのアプローチの手助けができればと願うのである。

片雲の風

 上記の三つのテーマは意図的に分散して投稿している。乱立の中のシークエンス、喧騒の中の旋律。それを創出するにはテーマ不問も必要だ。

 まあ私自身いくつか抱えている、上記以外のテーマに対する突拍子な意見を披露したいという衝動も含まれているが。

 本当は、もっと感情的であったり、エッジの効いた記事を投稿したりしたいのだが、それほどのテクニックは私には無いようだ。

 片雲は松尾芭蕉奥の細道に出てくる「自由」の象徴だ。

 規律の厳しい職業なので、いつも片雲に憧れている。自由もまた、美しい旋律の中にあってこそ引き立つのだろう。

4.絵画の差し込みについて 

 自由の中にある規律。絵画もまたその相反する課題に挑戦し続けている。

 堅苦しい私のブログを艶やかに彩ってくれる。議論の重さに不釣合いでありながら、旋律上に立つものを配し、乱しはしない。そんな絵をチョイスしているときも楽しい。

 テーマにそぐう作品がひらめくと俄然高潮する。「その話にこの作品を持って来るか?」と一人ではしゃいでいる。

 掲載の当初は、同じ画家が重複しないように意識していたが、これまで重複せずに続いているのは意図的ではない。確かに趣味の一つであるため、多少詳しいところはあるが、日本テレビの「美の巨人」や「開運、お宝鑑定団」のような、人がまるで聞いたことのない作品を紹介した覚えもない。

 

 絵画の趣味などというものは、これまた木っ端役人には無用の教養で、法理や哲学よりさらに使うところが無い。しかし、「国家の品格」を記した藤原正彦は言う。「真のエリートは、文学、哲学、歴史、芸術、科学といった『何の役にも立たないような教養をたっぷり身につけているもの』」と。

 誰かがこのブログに触れて、その素養を高める一助となれれば光栄である。 

5 今後の展開 

 開設以降、順調に伸びていたアクセス数は先々月を境に急落している。何らかの手立てを施さないと、もっと読まれる機会は減るだろう。

 最終的には、自分の主張や意見をまとめたものとして、記念に製本でもできればいい位には思っているが、やはり、他人の感想や反駁を聞きたいと言う願望はある。

 コメントというのは、許可制とするのが正しいのか?フリーにしておく方が書き込んでもらえるのかそれすらわからない。

 後半余裕があれば、他のブログをラン訪してコメントを残すなど、他のブロガーにアプローチしていくことも必要なのかと感じている。

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 マウリッツ・エッシャー「メタモルフォーゼⅡ」 

※原則として掲載される絵画等はpublicdomain(著作権フリー)を使用しているが、今回は個人ブログでhttp://blog.uwabami.jp/entry/2018/06/13/174614さんが見事なカットを掲載していたので、これを引用させていただきました。あしからずご了承ください。

 本当は、この4つのパートは横に並ばれており、横4メートルの非常に横長の絵画である。連続性が意味を持つ絵画なので、例えばここだけ動画にするとか、なんとか横に並べて紹介したかったのだが、私の技術では叶わなかった。残念だ。

 だまし絵で有名なエッシャーであるが、そもそもは、世の中の一見複雑な事象を単純化し、直線化する「正規分割」という技法に没頭していたようだ。そして、単純化した先にさらに複雑が生まれる、メタモルフォーゼ(ドイツ語: Metamorphose)【変化、変身】の完全な虜になる。だまし絵はその副産物に過ぎない。

 人の世もまた、一見複雑でまとまりの効かないカオスなものであろうが、その中にもきっと共通の、みなが納得するような法や秩序が有り、あるとき人はそれを必要としてそれに立ち返る。そして、その法や秩序を土台にして、新しいカオスが生み出されていくのだろう。

 ただその変身の度に、多くの犠牲者が生まれるような循環は、いい加減避けるべきだろうと願う。