説難

醜さを愛せ

 「もし君が、皆が幸せになる世界を築きたいと本気で思うのなら、方法はひとつだ。

(人そのものが持つ)醜さを、愛せ。」

 堺雅人主演「リーガル・ハイ(シーズン2)」最終話

 人間性は最低だが無敗の弁護士古美門研介(堺雅人)は、世の中の全ての争いをお互いが歩み寄ることによって、win-winで解決することを目指す、岡田将生演じる若き弁護士の理想を完膚なきまでに叩き潰す。

 

 孔子の唱える「儒教」においては、仁義、忠義、義理といった、いわゆる「義」によって、人は導かれるべきだと説かれた。

 これに対し、韓非子は、人は利益を求めるものであり、明確な「利」を示して導くものだと説いた。

 

 確かに人は皆美しく、本当は争いなど望んでいないと信じる姿は、それもまた美しいかもしれない。

 しかし、どんなに美しい弧を描いたとしても、ファールじゃ得点にならない。

 

 少なくとも現在の東アジア、いや人類はあと数万年は憎しみ合うことを止めることができないだろう。

 互いに自尊心が高く、自分の所属する集団が一番優れていると信じていて、他の集団は劣っていると考えている。プライドが高く、執着心が強く、謙心を知らず、平和などとは程遠い種族であり、神が最も赤面する創造物であろう。

 しかし、その醜さを愛し始めた時、初めて本当の平和への道が見えるように思う。

 

北方領土竹島

 必死で取り戻そうとしている方々には申し訳ないが、もう100年近く前に奪われた、はっきり言ってちっぽけな領土と、話し合いでなんとでもなりそうな周辺の資源に関する権益。日本は本当にそんなものがどうしても今返して欲しいのだろうか?

 戦争で取り返すと言った議員がずいぶん叩かれていたが、外交交渉が決裂した先にあるのが戦争だ。どうしても返して欲しいと言い続ければ、そういう話につながるのだ。

 彼がそういうつもりで言ったかはわからないが、私も疑問に思う。

 「本気で返して欲しいのか?戦争してでも返して欲しいのか?」「そこまでの覚悟は無いと言うのならもう別にいいのじゃないか?」と聞いて何が悪いのだろう?

 

 一個人の権利を守れない国に、1億3千万の国民は守れないという人がいるが、私は正直に言う。「じゃあお前がやってみろよ!」

 

 いまだに西部開拓時代のようにならず者が跋扈するこのアジアにおいて(いや世界のほとんどの地域においては)、武力を放棄し、知性と理性のみを携えて、その荒涼とした無法地帯で宣教師のように、文明のあるべき姿を追及していかなければならないのだ。歩兵がガンダム並みの装備を有し、一発で町はおろか地域レベルの範囲を吹き飛ばす爆弾を持っている連中と、アンパンチ!すら否定される国が、互角に渡り合っていること自体が奇跡なのだ。

 

 ではどうすれば良いのか?

 

 お互いの醜さをさらけ出せば良い。

 本当はそんな島どうでもいいのだ。ただ少しでも譲歩すると要求がエスカレートしていくことが怖いのだ。譲ったことを国民に叱られるのが嫌なのだ。とはっきり言えばいいのだ。

 拉致被害者家族の心情は理解しているが、国の真の目的は拉致被害者の奪還ではなく、対北朝鮮における、外交的勝利であり、対東アジア戦略の一要素としての局地的勝利である。

 マスコミも国会議員も、 美辞麗句を並べ、大義があるかのようなふりをするのはやめて、正直に国が求めている利害を明確に示すべきなのである。

 そもそも、ある程度の教育を受けた国民なら、言われる前からわかっているはずだ。それが、表に出ないのは、下手に美辞麗句が前に出ているからだ。

 美辞麗句を並べてアジアはどうなっている?世界はどうなっている?

 どんなに平和を訴えても、裏では、自分しか信じられず、自分以外は信じられない。少しでも言うことを聞くと要求がエスカレートするかもしれない?身勝手と疑心暗鬼がはびこり、自国の利益しか見えていない。まるで小学生ではないか!?

 日本もまたその小学生の一人だ。

 

 「醜さを愛せ」。古美門研介は、むき出しの利害をぶつけ合うことが争いを最も早く解決させると信じている。そして劇中のいくつかの場面で、民意や空気といったあやふやなファクターが真理を凝らせていると皮肉っている。

 むき出しの利害の衝突の方が、問題を大きくし武力衝突を招くのではないかと懸念されるかもしれないが、迂遠な言い回しでいたずらに国民感情を高揚させている現在のほうがよほど強く衝突を呼び起こす可能性が高い。(ブレイクアウトⅲ 命が深刻な問題でなくなる時 - 説難参照)

 

 むき出しでやり合おうじゃないか!相手が嫌がっても、日本だけはそうするんだ。日本とやり合うとそうなるんだと、内外に知らしめるのだ。

 「俺の方が偉いんだ。」:「いいや俺の方が、よく努力もしたし、頭もいいんだ。」

 「野蛮人は信用できない。」:「借金まみれの能無し国家に言われたくない!」

 「俺は千年経っても絶対お前を許さない。」:「いつまでぐじぐじ言っている。そんな暇が有ったら、勉強して追い抜いてみろ。」:「もう追い抜いとるわい!」

  

 そうしていると、頭にいい国民たちが気付き始める。

 もうちょっとましな議論はできないのか?と。

 

 リーガル・ハイには、もう一人、黛という女性弁護士(新垣結衣)が登場する。形としては古美門の弟子のような役割であるが、彼女は、「真実」だけが重要だと信じ続ける。古美門には、「朝ドラ」と揶揄される、一見一番の理想主義のように思えるが、「真実」とは、客観的データや物的証拠を意味する。

 韓非子を含め、合理主義とは、そして法理とは、人の憶測・感情を極力避け、未完成なAIでも判断できるレベルの、客観的データと物的証拠を重視する考えである。黛の朝ドラ理論は、実は、争いを解決するもっと理性的で文明的な手法なのだ。

 

・どっちが上か?→各種指標を集めて議論すればいい。個人の優劣すら簡単には決めつけられないのに、国や民族の優劣など付けようがないことに気付くだろう。

・野蛮なのは誰?→上記と同じだね。どいつもこいつもだよ。

・俺はどうしても隣の国が好きになれないんだ、積年の恨みが消えないんだ。

→他の国に相談してみな。「犬も食わない争いだ。」とあしらわれる。(私たちがイスラムの宗派争いをそう見るようにね)

 

 残念ながら、未成熟な今の人類社会において、黛先生の朝ドラ理論の達成は難しい。

 人類がさらに進歩し、「理非曲直」くらいの四字熟語は誰でも理解できているレベルに達するくらいの条件が求められる。

 

 ただ現時点で私が言いたいのは、

  問題をこじらせているのは、自分たちは美しいことを主張しているという勘違いだ。

北方領土の元住民にも、拉致被害者の家族の方々にも申し訳ないが、「義」は「義」、「利」は「利」なのだ。そして、「義」は争いを焚き付けることは有っても、解決には導いてくれない。

 せめて、「利」をもって早急に争いに白黒をつけ、世界が少しでも早く平和になれば、同じ被害者がもっと減ると信じて、還らぬ悔しさに耐えていただきたいと思う。

 

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レンブラント=ファン=レイン「酒場のレンブラントとサスキア(放蕩息子)」

 サスキアはレンブラントの愛妻として何度か彼の作品に登場しているが、いずれにおいても、美醜についてごく一般的な女性として描かれている。決して、忖度を加えない。

 レンブラントの魅力は、写真のように忠実でかつ緻密であるだけでなく、その人間の内心までを表現していることである。

 しかしその表現は、時として依頼者の不評を買い、有名な「夜警」などは、その代金の半分が未払いか値切られたと聞いている。

 「正直」とは醜いものなのだろうか?

 レンブラントの作品の中では、私はこの作品が一番好きなのかもしれない。

 愛妻を膝の上に乗せながら、まさにこの世の春を謳歌しているかのように笑う自画像。しかし、サスキアの表情は絶妙に曇っている。

 嫌がっているのではない。あきれているのだ。(この差を表現できるのも凄い!)

 彼女が一緒に楽しんでいる場面であれば、この作品は何の変哲もないものだったかもしれない。人の内心を描く彼の技法が捉えたサスキアの複雑な思いが見えてこそ、彼女の存在の重要性がより際立ち、彼女を娶ったレンブラントの幸福がより伝わってくるのである。

  「醜さを愛する」は、レンブラントの作品を鑑賞するときのいわばテクニックです。何かの展覧会でレンブラントに出会うことが有ったら、是非試してみてください。