説難

教育は国家百年の大計5:教育

 表題の言葉は、そもそも租税教育のエピソードを紹介する際に使用したのがきっかけだが、もとより好きな言葉のうちの一つである。

 私は、この表題をそのエピソードだけで終わらせたくなく、シリーズ化することを考えた。

 言葉の通り、「教育」とは国家の根幹を担う重要な施策に他ならない。

 幕末の開国時に、日本人の識字率は現代の水準に比べても突出するほど高かった。このことが、圧倒的な武力と科学力を持つ西欧列強に、簡単に植民地化されなかった理由の一つだと言われているのは有名だ。

 そんなに高度でなくとも、正しく教育を施せば、強固で侵しがたい国家を築くだけでなく、世界をリードする国家になることも可能なのである。

 しかし、権力者によってはこれを逆用するものもいる。既存の知識人を排除し、新たな世代に対し自分に都合の良い教育を施すのである。すると恐ろしいことに、10歳にもならない少年が、AK47カラシニコフ(小型マシンガン)を自在に使えるようになるのである。

 教育の可能性が、善にも悪にも無限であることを示している。

 

 子供の発想、ひたむきな努力、科学の進歩、世の中に「無限の可能性」を持つものはいくつかあるが、教育ほど現実的で建設的で、戦略によってその無限の可能性を実現することが、比較的期待できるものは他に浮かばない。

 発想も努力も科学も、百年の大計とは呼ばれないのに、教育だけが百年の大計と呼ばれる所以ではなかろうか。

 そして、その無限の可能性は、ある程度正しい方向性へプロデュースさせる必要がある。その方向性とは?

 

 私が考えたのはこうである。 

 そもそも、本ブログでは、民主主義においては国民一人一人が主権者であると言うことを啓蒙している。それと同時に、民主主義においてはその主権者がある程度の見識を有することが求められると主張している。

 従って、この国家を100年安泰に導く重要なポイントは、「良き有権者」を育てることにある。

 よき有権者とは、このブログで何度か触れているように、主権者としての自覚を有し、その主権が憲法によって規定されている事を理解している人の事である。

 そう、だから、お気づきの方もおられるかもしれないが、このシリーズでは、憲法の三原則と三大義務が取り上げられている。

 

 ただ、教育は人間を育てる行為である。

 したがって対象者は小中学生、せいぜい未成年までである。まあ一応、教科書には載っているのであるが、テーマとしては身近でなく、難しいものになりがちだ。

 だから、なるべく青少年に向けて訴えるような形を目指したが、正直、それでうまく行くのかは疑問だ。

 

 しかし、「人間」を作るという意味では、逆ではないだろうか?戦略もなく、ただ、知識や技術ばかりを身に着けさせても、今の未完成なAIと同じでないか。

 そもそも、子女たちはなぜ勉強しなければならないのかわかっているのだろうか?

 実家が医者か学者で、運命的に勉強せざるを得ない奴や、好奇心旺盛で、就学前から本の虫の奴とかならいいが、ごく一般のテレビかゲームかサッカーしか興味のない奴はどうするのか?

 逆に、「なぜ勉強をしなければいけないのか?」がわかる授業が有れば、読み書きそろばん程度は、勝手に自分からやるのではないか?その先の未来や将来は、個々の努力でどうにでもなるのではないか。

 

 「なぜ勉強をしなければいけないのか?」これに答えることが先決だ。

 

 私の子供たちを教えていた頃は、「可能性を上げるため。将来の選択肢を増やすため。」と説明していた。そして彼女らは、今でも、自分たちの努力が選択肢を広げてきたことを自負している。だから、これはこれで間違いない。

 しかし、それは結果論であって、将来その努力が報われるとは限らない。

 実際、私は家族の期待を背負い、家庭教師までつけてもらいながら、かなり厳しい受験勉強をしたが、直前で事情が変わって、夜間大学にしか行けなかった(いい大学だったけどね)。

 

 憲法26条「教育の義務」を見てみるか。

「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。」

いまだに何人かが勘違いしているが、義務教育は本人が教育を受ける義務ではなく、教育を受ける権利を有する子女にその保護者が教育を受けさせる義務である。

 まず最初に、子供たちが教育を受ける権利を持っているのである。

 そこでそのような権限を与えられているような国は先進国の一部なので、せっかく有している権利を無駄にしてはいけない、と言うのがこれまでのパターンであったが、今回はそうでは無い。 

 じつは、後進国独裁国家も、この国民が教育を受ける権利だけは保障している。それは前述したとおり、「教育」の持つ無限の可能性が、権力者にとって至って都合の良いものになる可能性でもあるからである(北朝鮮がわかり易い例ですね)。

 

 「なぜ勉強しなければいけないのか?」

 「憲法によると、君たちはいずれ君主になる。この国を正しい方向へ導き、誤った方向へ進まないように抑える一員になる。つまり、王国でいうところの王子・王女なのである。だから、君たちは、その自覚を持って、最低限の学力を習得する必要が有るのだ。」

 これが、法理的・論理的に導き出される答えなのだが、さて、これで勉学への扉を開いてくれる子女がいくらいるだろうか? 

 しかし、不確定な未来を語って夢想的な指導をするよりも、憲法上確定的な未来と、それに備えるべき現実的に必要な現在の行動。それこそ、余すことなく確実に伝えるべきではないだろうか?

 子供たちは、それほどバカではない。ディレクション一つで、カラシニコフが握られるのなら、良き有権者だって目指せるだろう。

 医者や科学者になるか、スポーツ選手になるか?そんなことは、まず、まっとうな有権者になってからの選択肢だ。

 小中学生の子女には多少難しいかもしれないが、教育が諸刃の剣であるという性格と、それが民主国家の根幹であることを考慮すると、避けて通れないと考える。

 

 教育は国家百年の大計である。

 従ってまず①「戦略」がなくてはならない。今日はその話をした。

 しかしまだまだ、次に教育機関以外がその素地の育成を担う②「道徳」が必要となる(日本人が持つべき道徳のモデルについては、後日bushidoで紹介したいと思う)。

 そして最後に、それを実践する③「環境」が大きく作用する。

 いじめ撲滅を目指す教師が、イジメをしているのも言語道断だが、学校に教育を押し付け教育の義務を果たしたつもりでいる多くの保護者にも大いに問題が有る。

 いずれ機会が有れば、そのあたりの問題も詳しく取り上げてみたいと思うが、少なくとも、教育を施す側も、未来の王、王子・王女を育てている教育係であることを自覚していただきたいものだ。

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レオナルド・ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」

 「この中に、明日私を裏切る者がいる。」と言われて、様々な態度を示す12使徒

 ダヴィンチの卓越された観察眼が光る。

 彼の現存する作品が、フェルメールより少ないと最近知って驚いているが、本当のところ、ダヴィンチというのは、画家というより、絵が上手な科学者だったということなのだろう。

 ところで、ここに登場する12使徒は、その後、教祖の教義を守らんとするが、ひどい弾圧を受け、大変酷い最期を遂げていく。

 自分の信じる勉強や教育をしただけで、酷い仕打ちに会ったり、闇へ葬れられる国家は今も存在する。そう考えると、今、権力者のためではなく、明日の国家のために教育の権利が認められている我が国は、やはり恵まれているとしか言いようがない。

 良き有権者になって、少しでも弾圧の無い世界を広げて行っていただきたいと願う。