説難

フェミニズムの帰結_前編《本性》

役割分担のテーゼ

 現職大臣が育児休暇を取ることになって、少し話題になってきているが、実は日本の育児休暇制度の水準は世界的には最高水準である。

 しかし、その取得率は6%以下で、いまだに、女性社長の比率も女性国会議員の比率も先進国中最低レベルである。

 その原因の一つは、役割分担のテーゼである。

 「男性は外で働き、女性は妊娠・出産が有るから主な収入源とはなりえないため、家庭面の業務を行う。」

 もちろんこのテーゼは、欧米の先進国だってつい最近まで信奉していたものだ。

 しかし、日本人は勤勉で余暇を採ろうとしない。周囲が余暇を採らないので、相対的に余暇を採った者が遅れる。

 また、奴隷的な安価のベビーシッターを信用しない。車に置き去りにする方を選ぶ。かといって、信頼できるベビーシッターを雇えるほど裕福なら、別の幸福のために使用する。それが日本人の風土的思考だ。

 こうして、役割分担のテーゼはゆるぎないものになっていく。

 

 しかし、こんなテーゼはとっくに崩れていることを社会は意外と気づいていない。

 

 私の職場では外部業務において、たいへん厳しい要請を強いられる。このため、以前より精神的疾患を患い、外部業務から外れる者が多い。昨今の精神疾患への理解の高まりを反映してか、その数は増すばかりだ。

 これはおそらく民間でも起こっている現象だと確信している。

 しかし、多くの組織が、この半病人あるいは病人を無理に前線に送り出している。

 私も軽い精神疾患を患い、抗精神薬と睡眠薬を手放せないが、まともに銃を撃てる限りは、前線に立ち続けなければならない。

 男性だからという理由だけで。

 その「まとも」と見ている銃身がいつの間にかずれてしまった人も何人か居るようで、ちょくちょく、痴漢だの小銭をすくねたりで逮捕されている。哀れな同胞を見る思いだ。

 それに比べて、女性は元気なもんだ、そんな崖っぷちを歩いているような子を見たことが無い。まあ、男性に比べて、「危険」な営業を外してもらっているという話も少なくないが、現代の女性なら、最低でも男性の8割9割のパフォーマンスが可能だろう。

 さらに、男性の何割かがメンタル面で負傷することを考慮すれば、女性を内部事務や育児・家事に固定していることは資源の無駄遣いだ。

 

 戦場でより力を発揮できるものが、前線に立ち、そうでない者が後方に回る。

 それが男性だろうと、女性だろうと関係ない。

 育児を始め、家事、近所付き合いも含め、家庭面の負担は、夫婦のうちで、より外部業務に向いていない方がやれば良い。それが男性の方だというなら、それはそれでよいではないか?

 男女雇用機会均等法導入から30年。「男は外。女は内。」という偏見を持たずに育った世代の中で、前線で銃を撃てない男性が居ても当たり前、一撃で仕留める名手の女性が居ても当たり前。男女の役割分担のテーゼなんて、実はとっくに崩れているのだ。

 外で働かない主夫になってしまった男性の人生は闇か?そんなことはあるまい。

 今日のICT技術をもってすれば、事務職と内部業務の多くは、在宅で行うことが可能であろうから、上手くいけば、出勤しているときに匹敵する功績も期待できる。若い青年なら、対人交渉からしばらく離れて、先輩たちの事績を整理しているうちに自信を取り戻したり、資格を取ることだって可能だ。

 女性の方も、出産3カ月後には職場に復帰し、外部事務の一端でも担えれば、スキルが衰えることは全くない。人員不足に悩む外部事務の部署にとっても朗報だ。

 出産を経て、時間さえあれば十分に前線で働ける女性が家に居て、客が怖くてパソコンしか打てない男性が出社している現状を無理に維持していること自体、人事部の資質が疑われる。

 

 さて、私は皆が信奉するテーゼを完全否定した。しかし、問題はそれだけでは納まらない。

 

女性の本性

 働き方改革で、女性の経済的自立、社会進出を支援する政策が次々と打ち出されている中、私は日本の女性が本当にそれを歓迎しているのか疑問に思うことがある。

 経済的に自立すると健康保険や所得税住民税を支払うことになり、百数十万円の収入がなければ、メリットはない。それはほぼ正社員に近いわけだが、政府はそうなることを望んでいる。しかし、家計においては、夫婦のいずれかが、職務をセーブして家庭を切り盛りしなければならなくなるわけだが、どっちがそれを引き受けるのか?

 私の乏しい女性との交流関係から察知したところでは、ほぼ9割方の女性が職務をセーブする方を選択するだろうと予想される。

 実際、小泉大臣が育児休暇取得するとき、手当は満額支給だったが、通常は「6割」だと聞くと、街頭インタビューの女性の多くが、「育児の手伝いは要らんから働いてくれ。」という。それが現実なのだ。

 これに対して、女性の権利拡大を訴えるフェミニストたちは、きっと「いつも犠牲になるのは女性たちだ。社会機構の何かが女性の自立を阻んでいる。」と嘆くだろう。

 しかし、多くの場合、これは日本女性が独特な観念を持っていて、自ら選択した結論だと私は感じている。

 男性優位、男尊女卑の時代が続いた中で、女性の地位は常に低く扱われ、不遇な時代が続いたわけではあるが、一方で男性優位が強い社会ほど、男性の責任感は強く、翻って女性の依存性は大きく培われた。すなわち、女性は「守られるもの」と言う概念が強く根強いてしまっているのだ。

 もし①子育て支援の社会的基盤が完成し、共稼ぎが容易になり家計が200万円増加する。②妻の子育て家事支援を支えるため、夫の給料が無条件で200万円増加する。と言う2択を迫られた場合、①を選ぶ人が一体何割いるだろうか?

 

 大半の女性は②を選ぶだろう。家事も育児も大変だが、夫の収入がその分増えるなら、わざわざ外で働く理由はない。

 女性たちが、育児や家事の分担を男性に求めるのはおそらく本心ではない。

 自分が働くには夫の協力が必要だからである。働きたい理由としては、学歴を積みせっかくのキャリアを失うのが残念だからというところもあろうが、大半は経済的理由だ。

 だから、多くの女性は、男性に十分な経済力があれば、せっかくのキャリアを捨ててでも家庭に専念し、収益力を一点に任せた男性に家事の分担を求めるような事はしないだろう。彼女たちの理想は、まず家庭を充実させた上で働きたいと言うものなのである。その思いは、男性よりもずっとずっと高いのである。

 働き方改革等で彼女たちを社会へ引き出そうとする人たちは、この「家庭を守りたい」と言う女性の本性をないがしろにしていることを忘れている。

 ほとんどの女性は、好んで結婚しないわけでも子供を生まないわけでもない。社会のあり方が、間違った方向で女性進出を進めているからである。

女性の特性

 何が間違っているのか?

 男女雇用均等法は、男性労働力を増加させようとする傾向が有る。狙いはGDPの増加だ。しかし、これは全くの間違いであり、女性の本性を全く考慮しない非人道的政策だ。

 女性の社会的進出の重要性は、男性しか思いつかない閉塞された社会に、女性の特性を注入して、新しいイノベーションを生み出すことである。

 女性は、①スケジュール感が強く事前に準備する。②輻輳する事務を同時に管理できる。③多角的洞察力に鋭く忘れ物をしない。④集中力は男性に劣るが根気は上回っている。⑤争いごとを嫌い、妥協点を模索する。他にもたくさんあるが、これらの利点を活用できない経営者はむしろ無能だ。

 働き方改革を行ううえで必要なことは、まず前述した通り、古いテーゼは捨てて、現実的効率性を重んじる事。

 その反面で女性たちの本性を理解し、社会に労働力としてのみの参加を求めるのではなく、その特性を活用する施策を立て、彼女たちにそれをアナウンスしてあげるべきなのだ。

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『ゆりがこ』ベルト・モリゾ

 ベルト・モリゾは知る人ぞ知る、印象派唯一の女性画家。といっても、印象派の活躍した19世紀末から20世紀初頭は、まだ男性画家しかいない。従って、当時の画壇唯一の女性画家と言っても過言ではない。

 画壇の破壊者、エドゥアール・マネがつまらぬ因習を廃して弟子に迎え入れたのだ。

 それまで、男性が描かなかった育児や、妻から見た夫(マネの弟と結婚)の姿を描いた。ある社会や常識に女性が加わるとどうなるか?フェミニズムとは何か?を知りたければ、彼女が登場する前とその後とを比較すればよいとまで言われている。

 

 

 

 

良薬は口に苦し忠言は耳に逆らう

韓非子55篇 外儲編

 大変有名な言葉なのだが、その割には由来がはっきりしていない。それでも実は古典に活字として登場するのは韓非子55篇が最初である。

 

 この言葉については、よく勘違いされているところで、「確かに正露丸は、本当に適法な成分で構成されているのか疑問に思うほど強烈な匂いを発するが、下したお腹を瞬時に治してくれる妙薬である。」ということを言いたいわけではなく、本当に役に立つ忠告というものは、総じて耳に痛いものだ。ということを指している。

 先日、士官学校で調子に乗りすぎて嫌われたと言う話をしたが、この時、同班の後輩が何度か「悪い噂が立っていますよ。少し目立たないようにしたほうがいいですよ。」と言う忠告をしてくれていた。

 当時まだ絶頂期で、「燕雀焉んぞ鴻鵠の志を知らんや」の状況にあった私には、小者の嫉み妬みを相手にする気にはなれず彼の忠告を無視した。しばらくすると、彼は大変残念そうに私との距離を開けるようになった。考えてみれば、彼は自分に累が及ぶギリギリまで私のそばにいて忠告を続けてくれていた。立派な男だった。

 ちなみにこの後輩は現在大出世し、早晩わが系統(軍隊で言うと陸軍・海軍・空軍などが有るが、うちは陸軍といったところか)のトップになるものと目されている。

 実に貴重な人間関係を失ったものだ。
 

 このように、韓非子の教えには、実社会にも役に立つことが多い。だから彼の説話が基となった故事成語が現在も多用されているのだろう。

 図書館で韓非子の本を探していると、やたらと「今も生きる」とか「実社会に活かせる」とか言う冠詞が目に付く。特に韓非子は、ビジネス面でのリーダー哲学として珍重されているようだ。
 

 ただ、それはそれで良いにしても、そもそもは、国家の運営について語られた書物である。そして、本ブログで何度も語っているように、我々がその国家の運営を担う主権者である。

 そこで、良薬は口に苦し忠言は耳に逆らうを、国家レベルに置き換えて考えてみる。

 まず、忠言の多くは後回しにしたくなる頭の痛い事実に関連する事だ。これを聞かずして、後回しにしたり、なおざりにしたりすることが良薬を吐き捨てていると言うことになる。

 例えば、財政赤字

 財政赤字の問題は、実は収入よりも支出が多いことではない。

 借金まみれの人に金を貸す人がいる。彼らは、借入人が元本を返す能力が無いから貸すのだ。いつの間にか貸した金を超える利息を手に入れても、利息は入り続けるから。日本の国債の所有者の多くが、同じことをしている。多くの国民は彼らに利息を払うために税金を納めている。

 この状況を打開する方策は二つ。一つ目は、利息の支払いを先送りにし、元本先払いとする。二つ目は、国債の所有量に応じ固定資産税を課すことである。

 いずれを選択しても、おそらく日本の国債は暴落するだろう。しかし、無駄に税収の上昇を期待したりこれ以上福祉を低下させたりするよりましだ。今の日本なら、ギリシャほどにはならない。苦い薬を飲むなら今だ。

 知っているだろうか。日本はOECD設立20か国で唯一実質賃金が低下していることを。しかも20%も。GDPは上がっているのに。

 企業が、賃金を渋っていることが原因だが、企業だけが悪いわけではない。

 私の思う諸悪の根源は、「社会保険料と年金」だ。特にもらえるかどうかわからない年金の積み立てには、暴動が起きてもおかしくないくらい、庶民の不満は一致している。

 国民年金を世代間負担から各自負担に切り替えればかなり状況が楽になる。

 これも一部からは反発必死の改革だが、良薬は口に苦いのである。
 

 さて、ほかにもいくつかあるが、常に良策は苦い部分を持つ。

 これはより大きな公益の前には一部の人間の不利益は甘受されなければいけないと言う考えでもある。

 そしてそれこそが、韓非子の良薬の苦い部分であると私は理解している。この非情な切り分けが、東のマキャベリと呼ばれる所以である。

 このような考え方は「最大多数の最大幸福」という言葉で有名なベンサム功利主義といわれる考え方である。その考え方は、大変合理的と言われつつも、人道的でないという批判の的にもなっている。

 

衣食足りて礼節を知る

 先日の平和学でも取り上げたように、弱者を救済するのは、ある程度現状の問題点を平定してからではないかと考える。重要なのは、政策のストラテジー(中長期的戦略)の中に、その弱者救済のフェーズを明記することである。

 政策のストラテジーは、通常いくつかのフェーズ(ステージ若しくは段階)に分かれる。フェーズは、一定のターゲットをクリアすることによって次のフェーズへ進むことが示唆される。これにより、救済が始まるにはどのターゲットがクリアされるかと言う明確なターニングポイントが示されるわけである。人々は、人道的なことをしたければ、そのターゲットを目指せば良いのである。

 この考え方は、私独自の考え方で、マキャベリ韓非子ベンサムも語っていない。功利主義を否定する方々も主張する方々にぜひ参考にしていただきたい。
 

 ところで、苦い薬は時として進歩を促すと言う点にも注目してもらいたい。

 これまでも、そのような事はありえない。やるべきでない。と言われたタブーを突き進むことによって、新たなイノベーションが生まれたケースは枚挙に暇がない。

 しかし、何が将来の進歩につながるかこれを見極める事は非常に難しい。

 例えば流入する外国人。彼らの受け入れに否定的な人はたくさんいる。

 郷に入れば郷に従えと言う日本の常識もあり、日本のことを気に入ってくれて、日本文化を吸収しようとする人たちもいる。彼らは新たな日本を発見する可能性を多分に秘めている。また、必ずしも、彼ら自身の文化や歴史・宗教が劣っているとは限らない。

 しかし、確かに文化の違いであまり良い気のしない行動をする者も居る。日本ではまだ少ないが、他国では、結局そのことが摩擦や紛争の種になっている。

 苦ければ良薬とはかぎらない。味の通り毒薬かもしれないのだ。
 

 ここへ歯止めをかけるのが、『法』である。

 自由な挑戦、自由な発想、習慣的タブーを犯す。いずれにしても、「公共の福祉に反しない」限り自由である。そして、その枠組みを定めるのが法である。

 ここで、毒薬のみを駆逐し、良薬を生かす線引きを定めることが重要なのだが、それを担っているのが、立法府を支配している私たち有権者だ。

 人任せにしてはいけない。自分たちの社会を造っているのだし、それをさせてもらえる国家なんて、世界に10%も無いのだから。

 なるべく勉強しましょう。

 ある政策が口に苦しとわかっていても、その効能を評価し投票できるだけの。

 

 財政赤字が一向に片付かないのは、政治家が、人気を気にして、苦い良薬を処方できずにいるせいかもしれない。

 政治家というのは、私たちが思っているよりずっと、この国の事を憂いでいる。

 私たちに苦い良薬を飲む知恵が備われば、ちゃんとその良薬を処方できる国士はきっとたくさん居る。その選択肢が、世に出始めただけで日本の民主主義は一歩前進したと言えるだろう。

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『画家のアトリエ』ギュスターヴ・クールベ

 クールベは、時の権威的で絵画の価値を偏見的に決定する機関(サロン)に対抗して、様々なタブーを犯している。

 当時、女性の裸は、神話のワンシーンでのみ掲載が許された。(修行中のジェダイか!?)

 この作品では、日常的な風景の中に、裸体の女性が普通に入り込み、しかもその姿を子供が見ている。今でも、ヒステリックな教育ママからは、教育上至って害のある作品と批判されるだろう。しかし、このタブーの無さが、後のマネ・モネ・ルノワールに受け継がれていき、絵画は光を得る時代に入っていく。

 誰かが苦いものを提示しなければ、イノベーションは現れにくいだろう。

 

 

 

平和を画するのであれば、利を用いるのが上策であり、情を用いるとあらばその涙を数えず笑顔を摘むべきである

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「ラ・ジャポネーゼ」。知る人ぞ知る、印象派の巨匠クロード・モネの傑作である。

 モデルは、彼の妻カミーユ・モネ。彼女は本来黒髪なのであるが、金髪のカツラをかぶっている。西洋人の日本文化への憧れを強調しようとしたのでないかと思われる。

 この絵画に因むエピソードは多く、語り始めるときりがないのだが、今回はカミーユの無邪気な笑顔に注目してもらいたい。

 彼女は、残念なことに、この作品の数年後、32歳の若さで早逝する。

 失意のモネは、その後、人間の顔の表情というものを全く書けなくなってしまう。

 「光の画家」と称賛され、さまざまな光の表現を世に生み出すが、その中に、この絵画に描かれたような、「笑顔」は存在しない。

 モネの筆から笑顔を奪ったのは病魔であったが、世界では、もっと理不尽な形で多くの笑顔が奪われている。

 

 私は、このブログで、平和学の創設を目指している。

 

 私の主張の特異な点は、平和は、情や義に訴えて実現されるものでなく、合理的な計算に基づく「利益誘導型」、つまり利によって実現されるものだと考えている。

 その考えは、本ブログのもう一つの柱である韓非子の徹底した合理主義に倣ったものである。

 

 何度も伝えているように、私のような小生が、一つの学問を立ち上げることなど土台不可能である。しかし、私の考えが斬新であり、早い段階で世界に受け入れられれば、きっと多くの紛争が解決できると信じている。だから、このちっぽけなブログが、誰か優秀な科学者の目に留まり、私のアイデアをヒントにもっと完成度の高いものを作り上げ、世の役に立ててくれる日が来ることを望んで止まないのである。

 

 最終的には、本年の終盤までには、平和学の「アーキテクチャ」となる論文を完成させて掲載する。

 「アーキテクチャ」という表現は、すなわち、それが正解と言うわけではなく。そのスタイルが基本形になって、様々な論文が考案されることを企図するものである。そこで、論旨は記述するが詳細については本ブログを引用元にして、これを多用することで、そのフレームワークを際立たせる。

 

 経済学が最終的に諸国民の富を安定増加させ文字通り「経世済民」を目的としながら、様々な学派が登場しては消え、また復活するように、アプローチはいくらでもあると考えている。

 しかし、どうにも、ニュースや私が見聞きしてきた情報では、平和を願う活動家の多くが、「情緒」に訴え、正直、非科学的すぎるように思えるのである。

 一方で、戦争を唱える方は、孫子の時代から、「戦は外交上の一手段にして、効率的に行うのなら是とされる」行為として、その大義名分から効用まで科学的研究がなされてきた。

 私には以前からこの構図が、裸の平和主義者対完全武装の戦争主義者の争いに思えていた。平和論者はもっと科学的にならなければならない。

 経済学は、ヒトという掴みどころの無く予想外な行動を起こす集団の、「それでもこれを選択する。」「その可能性が高い。」を数値化した。それで目的が成せたかと言うと、あるいは逆効果なこともしているのかもしれない。それでも、今では為政者たちの必須科目だ。

 ハーバードでは「戦争論」と言う講義があるという噂を聞いた。必須科目か否かは定かではないが、とにかくモタモタしていると、あっちの方が先へ進んでしまう。

 平和学の目的は単純明快「世界平和」だ。そのためのアプローチに制限は設けない。しかし、科学的であることが条件だ。

 

 まだ、まるで未完成なのだが、フレームをイメージしてもらうため、現在検討している骨子を発表しておこう。

 

序章 前提条件と目論見

1 前提条件

 第一に、道徳や人情に訴えていても戦争はなくならない。

 第二に、そもそも人の信条・宗教というものは自由なもので、人種・歴史による環境もさまざまである。これらの相違を平準化しようとする考えは、多様性の否定であり、多様性を認める限り衝突を包括的に解決する手段は存在しない。

2 目論見

 目論見一、前提第一に対し、本論では、戦争における損益計算を示し、絶対的赤字であることを示す。翻って、平和のもたらす効用を数値的に表す。

 そのうえで、その万人において圧倒的優位である平和状態を是とせず、戦争を企図する一部の戦争受益者に対しては規制、若しくは罰則を設ける。

 目論見二、前提第二を認めることは、トマス・ホッブスの「万民の万民に対する闘争」ならぬ、「万国の万国に対する闘争」状態が継続されることを意味する。

 これを解決するには、各国が、自国の権益の一部を国際機関に委任して、衝突を避ける、いわば国際版社会契約を結ぶことが望ましい。その戦略を担うのが、すなわち国連と言う機関であるが、現状のところ十分に機能しているとは言えない。

 そこで、本論では、法理の徹底と賞罰の活用を説き、国連の取り得るべき戦術を示唆する。

 

第1章 戦争と平和の損益計算

1 戦争は赤字である

 ⑴ ブレイクアウト(勃発)

 戦争を勃発させるもの。

 ⑵ 戦火に消失するもの

 大赤字のはずの戦争をなぜ起こす?戦火に笑う者が居る。

 ⑶ ブレイクダウン(戦争の残すもの)

 「戦争は利益のためではなく、義理・人情のために引き起こされるものだ。」との主張に反駁する。果たしてその目的は果たされているか?  

2 平和の効用

 ⑴ 非戦の利益

 単純に前項の損失の反対勘定。

 ⑵ アップデート

 よく、戦争は科学を進歩させたという意見を言う人がいるが、誰もが納得する国際法、武力を使わずにこれを維持する方法、宗教・文化・習慣の違いをある程度受け入れる知恵、これほど人間の高い知性を求める課題は無いのではないか?。

 知恵と理性で、多様性を融合しながら、人類は進歩する。DNAという生命体は、そのようにプログラミングされている。

 ⑶ 笑顔

 感傷は科学的ではないのだが、このパラメーターは加えさせてほしい。

 強制労働者がいくら涙を流しても、労働力は低下しない。

 しかし、毎朝家族に見送られて、笑顔で働ける労働者の労働力が向上したという科学的な報告はいくつも出されている。

 私たちは、平和を唱えるにおいて、涙ではなく笑顔を数えるべきなのである。

3 平和に対する罪への処遇

 環境問題の影響で、多くのプラスチック加工業者が職を失ったであろう。彼らを潰して、他の産業は潰していけない法は無かろう。商業の自由は経済の根幹だが、より大きな公益の前に聖域は存在しない。軍需産業の人達にもそろそろ、縮小傾向に入ってもらうべきじゃないか?

 

第2章 万国の万国に対する闘争(紛争の解決)

1 法はすべての諸国民は救えない

 イエスキリストのようにすべてを寛容に受け入れるわけにはいかない。

 どの国の自由も常に「公共の福祉に反しない限り」という制限を受ける。わかりやすくいうと、他国に迷惑を掛けない限りの自由なのだ。

 例えば瀕死の難民であっても、その国の福祉を侵害するのであれば入国できない。

 何をもって、一国の福祉が侵害されたとするかは、国際法でこれを定める。

 結果として一部の難民は死ぬしかないのかもしれない。しかし、ここで情に流されてはいけないのだ。

 世界に法の理が確立し、紛争の種が無くなれば、暴君も減る。救済はそこから始まる。 

2 万国布法(全世界に法理を理解させる)

 信条・思想・宗教・国体の自由はこれを認めるが、教育を受けさせる義務・勤労の義務は、公共の福祉を守るため、これを義務化する。

 「法律は警官が怖いから守るもの。」などと考えているようなレベルの人間が、国家レベルになると怪獣になる。「自分たちの自由は義務を守ることにより存在する。」この単純なロジックを理解させる程度の教育は必要だ。

3 賞罰の制定

 国際法を遵守させるにおいて、メリデメ(守らないより守っている方が利益が有る状態)を明確化させるためには賞罰の制定が必要で、それを維持するためには、一定期間武力が必要である。このジレンマについては現在検討中である。

 また、この項と前章の3項は、まとめるべきではないかも検討中である。

 

第3章 日本

 できれば日本人が平和学の論文を作成する際は、この章を加えてほしい。

 要するに、持論の展開の後、その論陣の中で日本はどう振る舞うべきかを提議するのだ。

 

 フレームを示すだけのつもりが、つい力が入って、書き込んでしまった部分も有るが、大方のイメージは伝わったかと思う。

 ここから伝えたいことを整理し、端的で説得力のある言葉を探し、コンパクトで転用や変幻が可能な論文を目指す(仮想通貨を生み出したサトシナカモトの伝説的論文のように、8000文字くらいに納まれば格好良いのだが)。

 この論文の完成と、その引用元となる本ブログを第一稿から見直し、第一シリーズを完結させることが今年の目標である。

人生万事塞翁が馬

結局、息子は今年就職したばかりの会社を辞めることになった。

 当然親としては、この先の不安を抱かずにはいられないが、彼の言い分を聞く限りではあるが、会社側にも問題が有るように思われたので、受け入れることにした。

 息子が会社の不満を言い始めたころから、ずっと表題の言葉が浮かんでいた。

「塞翁が馬」。面前の境遇が必ずしも、将来の幸不幸を決定付けるものではないという説話だ。(コトバンク:塞翁が馬)

 

 私の半生を例にそのことを伝えようと、半年も前から、何度も原稿を書き直しているが、人の自分の半生を語りたいという衝動は抑え難く、あっという間に5000~6000文字になってしまう。

 ようやく、どうしても語りたいエピソードを2つに絞り、今回の投稿に至った。

 

 私の組織には、士官学校制度のようなものが有る。

 対象者は、高卒採用者で、合格して一年間通えば、大卒並みの士官候補生扱いとなる。しかも昔は、高卒採用者の方が多かったので、その卒業生閥が強く、出世がし易かった。

 苦節五年、猛勉強の末、合格を勝ち取った。

 受験勉強中はいろいろ迷惑をかけ、乳飲み子を抱えて単身赴任を強いられることになる妻が、「おめでとう。神様って居るんやな。」と言ってくれたことが嬉しかった。

 学校に着いてみると、全国各署のエースと呼ばれる連中が集まっていた。当然、私も含め、参集した研修生たちは皆、「自分たちは勝ち組」である事を確信し、お祭り気分だった。

 しかしながら、わが班を担当した教授は最初のあいさつで、「皆さん高揚される気持ちはわかりますが何事においても一喜一憂しないことが肝要です。」と述べ、表題の「人生万事塞翁が馬」を掲げた。

 お祭り気分に水を差すつまらないじじいだと感じたことを覚えている。

 しかし、彼の指摘は正解であった。

 当初私は良くモテた。(男にも女にもである。)

 当該研修所には、私のように学力で合格して来ている者もいれば、上司の推薦組という者もいた。彼らは、学力は劣るが、私のような学力組から素直に教えを乞い、獲得すべきものを獲得していった。

 翻って、私は彼らこそ格上と見るべきなのに、教えを乞われて調子付いてしまった。

 

 私には一つ面倒な欠点が有った。生まれつき異常に響く声(喉)を持っているのだ。持たざる人にはわかってもらえないのだが、身長190を超える人が、常に頭上を気にして暮らすように、私もいつも声量に気を遣いながら生きて来た。

 それでも、少し気を抜くと、声が大きくなるため、同じことをやっていても、「あいつ、うるさい。うざい。」と言われることが多かった。

 それがこのときは、特に顕著に出てしまった。

 研修の前半ではたくさんの取り巻きに囲まれていたが、次第に避けられるようになり、卒業前の頃は引きこもりに近かった。

 士官学校卒業生は、多額の国費を投じて育成されたハイスペックホルダーである。多くが本店勤務か、それなりに先端あるいは特殊業務に配備される。

 しかし、私は、僻地の、担当者の3分の1が精神疾患を発症するという部署に配置された。左遷だ。使ったスペックはメンタルヘルスケアくらいであった。

 さらに次の転勤では、他系統に出向となった。士官学校で得たスペックはほぼ無意味となった。

 士官学校に合格すれば、すべての苦労に報いると約束した妻に、ただただ申し訳なかった。

 

 しかし、他系統に移って2年。塞翁が馬が現れる。

 東京局において、人員不足が問題となり、各支局は無理繰りでも人員を出すよう要求されていた。当然兵隊だけでなく、士官候補生もだ。

 兵隊はいくらでも出せるが、士官候補生はあまり出したくない。

 ところが、系統を外れ、役に立っていない士官候補生がいる。私だ。

 おかげさまで、「本庁出向」という、夢のような栄誉を頂いた。

 私が本庁に出向くに当たり、とにかく注意したことは、「士官学校の轍を踏まない。」であった。

 人生万事塞翁が馬、面前の状況に一喜一憂せず、静かに目立たず業務をこなせば、エリートの道はまだ閉ざされていない。そう考えていた。

 

 本庁の仕事は激務だが楽しかった。

 全国区を俯瞰し、国家の戦略に直結できる仕事は、過労死する人の気持ちが垣間見えてしまいそうだった。

 素人だった私は、迷惑をかけまいと、休日は図書館に行き一日中勉強して、資格も取った。

 仕えた上司(班長)は女性だったが、その分野では伝説的な人物だった。彼女は私の才能を評価し、私を鍛えに鍛え、たくさんのプロジェクトに私をねじ込んでくれた。

 どうやら、1年以内に私を自分の後釜にすることが目標だったようだ。

 

 しかし、他の部署からは批判的な意見を受けていたようだ。「声が大きくてうるさい。」「支局の小僧が偉そうに、口を出したり、質問したりしてくるんじゃねえ。」と。

 下手に勉強していたせいで、率直に疑問に思うことを聞いただけで、怒らせてしまっていたようだ。ちなみに、自慢ではないが、士官学校の時も問題になったのだが、私は女性に好意的に接してもらうことが多い。これについては、嫉みから、何度も酷い噂を流されて苦労した。

 まあ、そんな連中の上奏も多かったのだろう。ついに上層部から、「次期班長の器に有らず!早急におとなしくさせろ!」というお達しが出たようだ。

 

 班長も組織の一員である。見事な変わり身だった。即座に方針を転換し、必死でブレーキを踏み、戦線を一気に縮小する。

参加していたプロジェクトからなるべく撤退、もしくは、出席しても意見を言わないという戦略を採り、最低限生き残れるエリアを確保する作戦に出た。

しかし、私は自分の頭の回転を止められなかった。そもそも理不尽な仕打ちだし、もっと勉強すれば事態は打開できると考えてしまった。すでに「頭」が必要とされている段階ではなかったのに。

 撤退命令に応じない私に彼女は激怒し、何度かの衝突の末、私はすべての業務から外された。そして、士官学校の時以上の相当に深刻な事態に陥った。

 

 結局私は「調子に乗っていた。」ということなのだろうか?

 教授がやってはいけないと言っていた、「一喜一憂」をしていたのだろうか?

 何より、一喜一憂を我慢していたら、運命は変わっていたのだろうか?

 塞翁が馬はもっと高レベルで計り知れないものなのではないだろうか?

 

 子供たちの進路を決めつけたり、妨げたりする親にはなりたくないと思いながら、一度だけ、妨げたことが有る。

 娘は、関西の有名私学に十分に合格できる学力を持っていた。しかし、私は、その頃はまだそれほど学力が高くなかった弟のほうの進学の道を空けておきたく、私もあまり知らない公立大学を娘に薦めた。

 そして、悩む彼女に「これはさだめ(運命)だ。」という、身も蓋も無い言葉を浴びせてしまった。可愛そうなことをしたと今でも負い目には感じているが、もっと可愛そうなさだめに立つ者はいくらでも居る。

 結果、高校三年で急速に学力を伸ばした息子は進学を果たし、娘の大学は経済界では意外と名の知れた大学だったそうで、就職には大変有利だったそうだ。

  

 ちなみに、現状、私は、士官学校卒で本庁経験が有り、2年に1回は功績者表彰を受けながら、七不思議的に出世が遅れている。支局の代表が集まる場で、2回も粗相をやらかし、支局に恥をかかせたからだろうか?

 行かない方が良かったのだろうか?いやあ、それも塞翁が馬というものだろう。

 ずっと、張り切りすぎたことを後悔して生きてきたが、今ではさだめだったに過ぎないように感じている。

 活躍はし損ねたが、メジャーリーグに2度行けた。それは人生のエンブレムだ。運命の奴がクソ意地悪をしたところで、そのエンブレムは輝き続ける。

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ギュスターヴ・モローサロメ

 ヘロデ王の再婚相手ヘロディアの娘サロメは、見事な舞を舞い、その褒美を聞かれ、イエスの師匠ヨハネの首を所望する。

 もとより、彼女がそんな気持ち悪いものを欲しがるはずもなく、その要求は、明らかにヘロディアの要求に間違いなかった。しかし、彼女はその後、聖職者を死に追いやった悪女として歴史に名を残す。運命とは実に理不尽なものである。

 モローは、サロメを始め、クレオパトラなど、強くたくましく生きたようで、「ファム・ファタール」=運命に翻弄される女性を描き続けている。

 ファム・ファタールは女性に対する表現であるが、ここにいう運命とは、塞翁が馬と同様に、人知では避けがたい、さだめという意味での運命を差していると考えている。

三人市に虎を成す

韓非子55篇 内儲説 上
 「龐恭(ほうきょう)は太子の供をして邯鄲(かんたん)へ人質として向かうことになった。
 そこで魏王に言った。今、一人の男が、街に虎が出たと言ったら、王は信じますか、と。王は、信じない、と答えた。では、二人の男が、街に虎が出たと言ったら、王は信じますか、と。王は、信じない、と答えた。

 では、三人の男が、街に虎が出たと言ったら、王は信じますか、と。王は、信じるだろう、と答えた。

 龐恭は言った。街に虎がいないことは明らかですが、三人が言えば、虎が出たことになります。今、私は邯鄲へ行くために魏を去りますが、そこは街に行くよりはるかに遠いのです。私についてあれこれ言う者は三人ではとどまらないでしょう。願わくば、王はこのことをよくお考えください。」と。

 数年後、龐恭は邯鄲から帰ってきたが、魏王に謁見することさえ許されなくなっていた。まあ変な噂を流されたのだろう。

 龐恭の予言は的中し、魏王の治世は長く続かなかった。

 

 トランプ大統領ツイッターのフォロワーは、6600万人だそうで、いつの間にか巨大な影響力の源になっているらしい。

 しかし、先日あおり運転の同乗者について誤報を拡散してしまった市議が問題になっていたが、そもそもツイッターを含むSNSの書き込みは、裏付けのない情報なのだから、容易に鵜吞みにせず、注意することが重要だということは、ネットを生み出したアメリカ人ならよく知っているだろう?

 しかし、娘が言う、「誰もそんな論理的にものを考えてはいない。ケインズの美人コンテストと同じ、彼の言っていることが正しいか正しくないかは、もはや問題ではない。彼の発言によって起こる現象や影響が重要なのだ。」

 ケインズの美人コンテストを引き合いに出すところが、わが娘ながら聡明だ。

ケインズの美人コンテスト

 100人の女性から美人を選んで投票させるコンテストを催した。そして、コンテストの関心と投票者を増やすため、上位6名に選ばれた人に投票した人の中から、抽選で旅行券が当たることにした。悪くない提案だと思うが。

 コンテスト終盤になると、みんな6位以内に入りそうな人に投票するようになった。

 本来の美醜は関係ない。旅行券の抽選対象になるためだ。

 トランプが言っていることが正しいのか正しくないのか、そんなことはどうでもいい。ただ、もう彼が言う事はとりあえず世間を動かす。それによって、株が上がるか下がるか、それだけが重要だ。だから、フォロワーになって、チャンスやリスクを図っているのだ。

 堤真一主演の映画「クライマーズ・ハイ」では、いまだ航空機事故史上最悪と言われる、日航機墜落事故について、ローカル新聞の記者の主人公は、大手新聞社の度肝を抜くスクープを手に入れるが、「公式メディアは誤報を飛ばしてはいけない。」その信念と葛藤の末、そのスクープを逃す。

 その情報が真実であることの裏付け、「チェック、ダブルチェック」。それが、情報発信者の責務であり、彼のジャーナリストとしての信念だった。

 SNSの利便性は十分に理解しているし、その発展は大いに歓迎であるが、「チェック、ダブルチェック」がなされた情報と、そうでない情報は明らかに区分されるべきだ。

 携帯の動画に始まり、防犯カメラ、ドラレコ。毎日のように衝撃的瞬間の映像が流されている。私たちの時代では、写真、さらに動画ともなれば、そのドキュメンタリックな衝撃は凄まじく、信憑性を疑うことが無かった。

 しかしながら、一方でこれらの動画を修正する技術も進歩していると言う。

 オフィシャルなメディアは、推定無罪の原則、事実関係の未確認、ウラ(真実である証拠)が取れていない情報を流さない。誤報の怖さは、松本サリン事件で身に染みてわかっているからだ。しかし結果として、中途半端なプライバシー保護の影響で、中途半端な情報が流されてしまう。

 携帯の手元以外をぼかしたおばさんかお姉さんかもわからない映像。凶悪な行為を犯した犯人がやっと捕まったのに、その名前を言わん。

 大衆の多くはその理由がわからない。私もよく妻に尋ねられるが、私の方が知りたいと思うことがしばしばだ。しかし、大衆は知りたいのだ。身内の安全につながる事も有るし、何より、そいつの生い立ちに興味が有るのだ。そして、自分の子供や周囲の関係者にその傾向が無いかを早く知りたいのだ。そして、裏付けの無いSNSの情報に飛びついてしまう。
 

 私は、SNSの無責任な情報が拡散することを問題だとは思わない。

 

 SNSというのは、街中や公園、居酒屋で話される私的な会話にすぎない。

 そこには、確たる証拠など必要ない。むしろ演出のためのフェイクや装飾が有ったとしてもかまわない。大事な事は、それが真実であることが明確に示されているか、一般常識から真実でないと判断できれば良い。

とかく「言論の自由」とやらを擁護すると、斜に構えて観られがちだが、言論の自由は民主主義の根幹であると同時に、創造の源でもある。

中国のように、怪しいキーワードが入っているだけで、ブログを止められる世界などゾッとする。

しかし、ここからが私のブログのパターンだが、どのような自由にも「条件」が存在する。

 

一つ目は「法」

 誹謗中傷や名誉棄損など他人の権利を侵害するような表現の自由の濫用は、憲法がこれを制限し、法律が整備されている。

 さらに、SNS以前に世の中には、公共・広告というものがあり、その中で、おのずと公序良俗に反するもの、青少年の育成に悪影響を及ぼすなどの規制が整備されてきたのである。

 犯罪裏サイトなどが問題となり、SNSを規制する機運が高まっているが、既存の法で十分であろう。要は技術的に遅れているだけではないだろうか。

 

二つ目は、「フェイク」と「オフィシャル」を区分できることである。

 今のオフィシャルなメディアは、ダブルチェックを守っていると信じている。

 だから私は、彼らには、自分たちはフェイクではない立証を付して報道して欲しいと考えている。

 しかし、こういうと、ただでさえ、臆病風に吹かれ意味の分からない個人情報保護で、中途半端なボカシを入れて、余計、SNSの炎上のネタを提供してしまうかもしれないが、問題の解決は簡単だ。

そこを公表しない理由を、法律的根拠(例えば、この人の容疑は未確定だから。罪に問われるかどうか微妙だから。など)をテロップで表示するなり、アナウンサーが説明すればよい。そして、それ以上の詮索はしてはいけないことを視聴者に理解させ、無責任なSNSの情報を拡散させると、罪に問われる可能性が有ることこそ報道してあげるべきなのである。
 

 三人市に虎を成す。ケインズの美人コンテストのように、人は、人が信じる情報に寄り添っていくのである。事の真偽は二の次なのである。ダブルチェックを行っているオフィシャルな機関は、そのことを、視聴者にわかり易く発信し、SNSの動画や防犯カメラの映像を採用する時でさえ、「この映像は格別の加工がされていないことを検証済みです。」と付け加え、そこで採用されたニュースだけが真実であることを、明確に宣言すべきである。

 

 その昔、ウルトラマン仮面ライダーの後でも「この物語はフィクションです。実在の・・・」と流したり、バラエティのありえない罰ゲーム中に「絶対マネをしないでください。」と書いていたではないか?

 そのころは、あほかこいつらと思っていたが、それが、オフィシャルメディアの矜持だったのだろう。

 ということで、中途半端なぼかしや一部の情報を秘匿するのは、後々の憂いを避けるための「逃げ」ではなく、「自分たちは無責任なSNSとは違うから。」という意味であることを「明確に」「わかりやすく」報道してほしい。

 

そして、法を守りつつ自由なSNSとオフィシャルなジャーナリズムが両立して、健全な言論の自由が成り立ち、国民という主権者は、情報を得ることに障害を持つことなく、市にトラは現れないのである。

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ドミニク・アングル「グランド・オダリスク」 

 西洋絵画には、女性の裸体図が多いが、私はあまり好みではない。

 しかし、この絵画は、全面に裸体図であるにも拘らず、なぜかそれを感じさせないほど美しい。

 しかし、よく見ると、背中の左側が有りえないほど長く、右足の付け根も遠近法を考慮してもアンバランスである。

 これはアングルが意図して実像に対し、修正を加えたものである。

 この時代、まだ写真は発明されてなかったが、写真が発明されて以降、絵画は絵画にしか許されない表現を求めて模索を始める。その中で真実とはかけ離れた表現も現れる。しかし、それは画家が見た印象や感情を表現するがために、忠実なデッサンを飛び越えてしまったものであり、アングルのこの修正とは性質を異とする。 

 アングルのこの修正は、そうではなく、真実を偽って美を求めた結果の「フェイク」である。

 しかし、私はアングルを責めているわけではない。観客を楽しませるための演出やフェイクは是認されるべきである。重要なのは、それが真実なのかそうでないのかが明確に示されていることである。

 

 

 

 

大卒

エリートたる者 

 

 今春に就職したばかりの息子が、転職を考えているそうな。

 娘の場合もそうだったが、就職初年度というのは、覚えることも多く、仕事の成果は上がらず、時間が全く取れず、疲ればかりが溜まり、相当に精神的に追い詰められることがある。

 ここ数年、新卒の3年以内離職率が3割前後、そしてそれを支える売り手市場。私たちの時代では贅沢を超えて、考えることが罪とも思われた、「自分の選択が間違っていたのではないか?今ならまだ乗り換えられるのではないか?」と言う誘惑にさらされる。

 結果「転職しようかな。」と言う発言に結びつく。

 これは親の身勝手ではあるが、ようやく大学を卒業させ、めでたく就職してもらい、万歳三唱で見送って、さあこれから夫婦で楽しもうと考えているときに、これを言われるのは結構にきつい。

 娘がその言葉をちょっとこぼしたときは、妻が大激怒したそうな。

 

 息子の場合は、休みを取らせてもらえないことが一番辛いと言っているらしい。

 半年の現場職を経て、10月から営業マンになったそうだが、月に300時間働いて、2件アポが取れただけ。それでも、新人の中では多い方。

 同期は3割は辞めたとか。

 

 娘の時もそうだったが、こういう話は、私でなく、妻が聞く。

 

 私が聞くとこうなるからだ。

 大学を出て、建設業など2次産業系に入れば、従業員の学歴比率から、現場作業員ではなく、現場監督候補もしくは営業マンとなる。自慢でも驕りでもなく、それは義務としてのエリートだ。

(先に言っておくが、私は高卒で就職して、夜間大学を出ている。両方の立場から学歴というものを見ていて、後述の通り「偏見」で学歴を見ていないし、例外が多々有ることも十分承知している。)

 成績に応じた『高報酬』を得られる代わりに、短期間で資格を取得したり先輩のスキルを総なめしなければならない。

 同期3割辞職の真偽はどうやって確かめたのかしらんが、脱落者は雇用者側も想定済み。300時間と言っても、残業が100時間で、年に3か月程度なら、労働基準法の範囲内。休みが月に3日(労基上は4日)はちょっとはみ出しているが、その分金を貰えるならブラックとは言えない。

 車一台買ったことのない人間が、見ず知らずの人間に、リフォームなら100~250万円くらいの出費をさせるのだ。自分の血と肉を搾り取られるような思いをしたことが無いのだから、どれだけの勉強と研究と想像力が必要か?一般的高卒の社会経験値と学力では300時間でも足りない。

 だから大卒にやらせるのだ。

 とまあ突っ込み続きで、私が話すと喧嘩になるのは必至だ。

 

営業マンたる者 

 

 ただ、この情報は重かった。

 「自分が売っている商品に自信が持てない。客を騙しているようだ。」

  営業マンは、自社の商品に自信を失ったら終わりだ。本当に良いものだと信じる「キリシタン」か、金儲けのためジャンと割り切って平気で人を騙す「サタン」でないと、辛い臨戸の連続も、休みのない毎日も耐えられない。

 キリシタンは良い。少しでも社会のためになっている意識が、本当にお客様の笑顔が、地を舐める苦労も洗い流してくれる。

 サタンは誰だって嫌だろうが、この時、大卒には、比較的容易に乗り換え(転職)が可能という誘惑が現れる。そして、後述する通り、大学4年間で数々の経験と訓練を受けて、多分、社会のための何かの役に立てるという「何らかのスキル」を持ってしまっている。そうすると、サタンの選択が、「最後の選択」であり「敗者の選択」であるかのように見えてくる。

 こうなった営業マンに、高報酬・早昇進の目はない。

 初年度の苦しい時期など序の口、いずれ、ハンコを押してくれない上司、砂漠エリアを任される、家を買ったら単身赴任など、地獄の日々は何度も訪れる。

 サタンを選んだ後悔を引きずっていては、踏ん張りが効かない。

 

 一応は上場もしていて、福利厚生も整ったいっぱしの会社である。

 別に詐欺的な商品を売りつけているわけでもあるまい。

 多忙に対する怒りを治めて、冷静に商品を見直せば、あるいはキリシタンへの道も残っているのだが、それはもう個人の判断の世界だろう。

 

 というわけで、労働条件が云々言っているだけなら、「そのうち慣れる。技を磨け。」と言って追い返すつもりだったが、本当に自社の商品に自信が持てず、将来的にもキリシタンになることはないと確信できるというのなら、ここで引き返せるのも、受験を戦ったご褒美の内ということで、「好きなものを早く見つけなさい。」と言ってあげようかと考えている。 

 

大卒たる者

 

 さて、殊更に、大卒は高卒に比べ優位にあるかのように話を展開してきたので、幾分、気分を害された人もいるかと思うが、これより大卒の意義について考察する。

 これは、半高卒の私が生涯抱き続け、国家高揚の重要な理念と信じる持論であり、昨今、娘の提言をヒントにパワーアップしたものである。

 先ず第一に、私は「大卒=エリート」で良いと考えている。しかし、それは必ずしも幸せとは言えない。大卒採用者は、ある程度の問題解決能力を期待されており、当然複雑で困難な業務を任せられ、その代償として高卒採用者よりも若干給料は高く、出世も早いが、どこへ行っても、労基ギリギリまで働かされるだろうから。

 しかし、娘は言う。「企業は大卒にそのような素養を求めてはいない。」「というか、大卒か高卒かなども関係ない。」「企業が求めているのは、『コミュニケーション能力』いわゆる『コミュケ』だ。」と。

 そこで調べてみたところ、確かに経産省が発表している指標によると、企業が採用において重視する項目で、『コミュケ』が圧倒的にトップだった。

経産省指標リンクhttps://www.keidanren.or.jp/policy/2018/110.pdf

 

 しかし、この情報は、私の持論をさらに補足するものと考えられた。

 コミュケとは何か?また2番手の主体性とは何によって培われる?

 多くの高校はアルバイトを禁止している。せいぜい校則を破っても飲食店で10時までしか働けない。

 大学では飲酒を伴う夜間のバイト、営業を求められるバイト、人に物を教えるバイトまで、広範な経験を得るチャンスが与えられる。

 経験した者の多くが感じているだろうが、大学のサークルと言うものは高校の部活とは大きく違っている。多くの場合、強制力が無く自主性を重んじられるのだ。

 さらに、残念な事に多くの大学生が気づいていないが、「ゼミ」というのは、卒論を書くための強制サークルではない。

 ゼミナールとは、「演習」のことであり、大学で受けた各講義の知識を持ち合い、実際にブレインストーミング(知識を混ぜ合わせ)する事で、なにができるか?なにを生み出せるか?を「実践」しているのである。

 コミュケ、主体性、更に先程の経団連の指標に有るものだが、協調性、チャレンジ精神も、圧倒的に培われる環境に差があるのだ。

 まだ続けるが、高校では論文形式の解答は通常求められない。昔は短大卒の私の妻がよく、「私短大しか出てないから。」と言っていたが、序論・本論・結論で考える能力まとめる能力は、苦手な講義の期末試験に臨んだときの涙の数だけ刻まれている。

 それは持論を押し付ける技ではなく、「聞いてもらう。読んでもらう。」技に昇華されている。

 まだ続けよう。

 男女交際の経験も、金銭的な問題に遭遇するケース、車の免許の取得と行動範囲の劇的な拡大(海外旅行なども)、友人と道を違(たが)えていく経験、親の老や祖父母の死、私は、18〜22歳の経験が一番濃かった。おそらく多くの人がそうだろう。
 

 悪いが、これだけ条件が揃っていて、コミュケで高卒に負ける奴は、チコちゃんに怒られるぜ「ぼーっと生きてんじゃねえよ」

 

 受験者たる者

 

 以前、11年前にもブログを書いていたと話したが、そこで「大卒はもう少し評価されるべきであり、本人たちもそれを自負し、その期待に応えるべきだ。」

と主張したところ(2007年04月15日「ハンゲーム_韓 非のブログ_インテリで何が悪い」

http://blog.hange.jp/B0000390751/article/10841131/)、結構「学歴差別だ!」「決めつけだ!」と批判を受け、最後には、「ブログ、応援していたのにガッカリした。」とまで言われ、それが一番ショックだった。 

 最終的に誤解は解けたようだが、当初私の書き込みは、学歴のみで人を判断する「偏見」だと捉えられたようだ。

 「偏見」とは、論理的根拠を示さず、対象に対して、固定的観念を持つ事である。

 しかし、「大卒=エリート」とするには、上記に列挙した如く、いや本当はもっと有るのだが、書ききれない程の論理的根拠が有るのである。

 むしろ、残念なのは、その論理を知らないまたは理解できない親が、まさしくその偏見をもって、その意義を知ることもできないかわいそうな子息を、意義も知らせず、受験という戦地に送り込む。その方がよっぽど偏見の弊害である。言っておくが、受験だって、「キリシタン」になれたら、そう戦地とも言えないものだ。

 息子は、私が「受験勉強は、『好き』にならないと貫徹できない。」と言い続けたが、「大学に行くために仕方なくやっているもの。勉強を好きになる奴など変人だ。」と言い返し続けていた。大学に合格して、改めて、「結局最後は『好き』になったろう?」と聞くと、「まあ、苦ではなくなったかな。」と答えた。これも、受験を戦った者だけが見られる景色だ。

 だから、現在大学受験に挑む受験生もその親も、大卒がなぜエリートなのか?よく理解して、夢の4年間を企図して夢見て、学力が上がるほどにステージが上がっていく喜びを感じながら、勉学に勤しんでほしい。

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ジョルジュ・ド・ラ・トゥール『大工の聖ヨセフ』 

 とあるルーブル展で、目当てのフェルメールを真っ先に見ようと突進していたら、一つの炎に足止めされた。それが「夜の画家」ラ・トゥールの炎との初対面だった。

 動くはずの無い絵画の炎の動きをずっと眺めてしまった。

 職務柄、何人もの新人を見る。そしてその度に、私は、ラ・トゥールの炎を思い出す。

 輝きではなく、暗闇に冴え、暗闇を拓く光。私が次世代に託した思いの象徴だ。

 私の組織も、出世を目指すとなると、ブラックな道を避けて通れない。しかし、それぞれに信じるモノが有るようで、その淡い炎は消えない。

 若者たちのバイタリティなら、信じる事、好きになる事、で闇の方がおののいてくれるだろうと信じる。

 

Bushido

 「日本の侍は夜討ちをする時も、相手の枕を蹴飛ばし、相手を起こしてから斬るんだ。」役所広司主演、映画「山本五十六」より、真珠湾攻撃に際し、米国への宣戦布告が必ず攻撃開始前に届けられることについて念を押す場面。 

 いかにも軍神山本五十六らしい言葉であるが、もし真珠湾攻撃が本当に無予告で行われる予定であったとしたら、当時の多くの日本人が、それに異を唱えていたであろう。彼は軍人としてではなく、日本人の代表として、くれぐれも非礼・卑怯と言われるような行為は避けたかったのだ。
 

 法を学ぶ者が必ず習得する概念に「法源」と言うものがある。法と言う社会的ルールを定めるにあたり、もとよりその社会に存在している慣習や道徳・歴史のような、いわゆるバックボーンを指す。そしてそれは、総じて、その社会的集団の「価値観」及び「文化」を表現していることが多い。

 多くの国家の場合、それは宗教の影響を大きく受けている。

 きれい好き、勤勉、優しいと、とかく高評価を受ける日本人の気質であるが、諸外国がこぞって首をかしげていることが有る。それは、日本のその気質が、どの宗教色も帯びておらず、そのルーツが不明な点である。
 

 新渡戸稲造と言う人がいる。

 5000円札肖像画にも選ばれたが、いまいち知名度がなく人気がなかった。

 明治開国の頃、ドイツに留学していた彼は、周囲から、日本人の価値観や気質、特に道徳の基本となっている宗教は何か?と尋ねられたが、明確に答えることができなかった。それで彼は、日本の「価値観」「文化」のルーツを調べ始める。
 

 外国で、信じている宗教を聞かれ、I am non-religious(私は無宗教です)と答えると変人扱いされると言われる。

 しかし、正直なところ、イスラム教徒の行為は私たちには理解できない。また、敬虔なキリスト教徒の言葉も良い事を言っているのかもしれないが、完全服従する気も起きないしその理屈も感じられない。仏教や神道の言う事は身近に感じるし、初詣にも合格祈願にも行く。しかし、私たちの信じる常識や道徳、価値観にまで口を出されるとなると、多くの人は距離を置くようになるだろう。

 従って私たちはやはり「無宗教」なのである。しかしそのことが、宗教を持っている人たちにはとても信じがたいのである。

 「あなたたちは天国も地獄も神も悪魔も信じないのに、一体何を恐れ、何を求めて、それほどに礼儀正しく気高く道徳を重んじることができるのか?」

 そう聞かれても、おそらく現代の人たちでも明快な答えを出す事は難しいだろう。

 新渡戸稲造は日本人の気質を細かく見直した結果「武士道」に行き当たる。

 長い封建社会の時代、支配階層の「侍」は儒教の流れをくむ朱子学の下、「徳」を重要視した。しかし、本線の儒教と違っていたのは、庶民に徳を求めるのではなく、支配階層のみがこれを実践する「特権」にしてしまった。

 「それでは武士道は庶民には関係ないのではないか?」ということになりそうであるが、この辺りが、日本という国の面白いところだ。

 「花は桜木人は武士」と言われるように、その清廉で美しい生き方は、庶民の憧れとなり、模範となっていく。

 倹約を心掛け質素にして毅然。名誉を重んじ恥を知る。弱者への惻隠の情(情けをかける優しさ)に溢れ、義に有らば強者に対しても勇気を惜しまない。

 So cool なのである。

 しかも、ヨーロッパや他国の王朝・貴族の振る舞いと違い、真似をしようと思えばできそうなことばかりである。おのずと庶民に広がっていくこともうなずける。

 こうして、新渡戸稲造は、武士道が日本文化の起源であり、特に庶民に定着している慣習を整理し、名著「bushido」を記す。

 外国人向けに出版されたものであるから、原文は全て英語である。何度か原文を読み解こうとチャレンジしたが、私の英語力では厳しかった。図書館に行けば日本語と英語併記の本が何冊も置いているのでぜひ読んでもらいたいと思う。

 確かに現在日本人が至高と考える礼儀や作法、親切、敵に対する敬意など外国人が評価する日本人の気質が多々表現されている。

 切腹や仇討ちなど、死や殺人を賛美していると批判されたこともあったのだが、私が読んだところでは、あまりそのような印象は感じなかった。「恥を知ること」の重要性を苛烈な表現で示したと私は捉えられた。もちろん捉え方は人それぞれであって構わないが、そこだけを取り上げて悪い本だと決定付けないでほしいと思う。

 ちなみに、私は第5章「仁、惻隠の情」が一番好きで、The bravest are the tenderest,the loving are the daring(もっとも勇気ある者は最も優しく、愛情のある者は勇敢である。)という言葉が好きである。庶民が憧れるのもわかるでしょう。

 

 しかし不思議なのは、bushidoを読んだこともない私たちが、なぜ、江戸時代に作られたそのような気質を知らぬ間に備えているのだろう?
 

 高校野球などで、どちらも無関係な高校同士の試合を見ている時、つい負けている方を応援してしまう事はないだろうか?

 判官贔屓という言葉が有る。源平合戦で活躍した源義経が、実権力を掌握した兄頼朝によって追い詰められていく様を哀れに思い、庶民が応援したことに由来する、いわゆる、思わず弱い方を応援してしまう気質の事であるが、おそらく結構な人が身に覚えが有ると思う。

 これが、bushidoでは、惻隠といい、弱い者を思いやる心として表現されている。

 bushidoを読まなくても、身に染みているのは、きっと親の態度や学校でみんながそうだったからだろう。

 私の見たところでは、6章「礼儀」、7章「真実と誠実」の辺りには、まだまだ日本人が引き継いでいる美しい気質が紹介されているし、これらもまた、学校で教えるものでもなく、文献も宗教的背景も無い。口伝と習慣で継承されてきたことを感じさせる。

 

 宗教を持たずにこれだけ感覚的なものまでが継承され続けた事は、おそらく世界でも稀であろう。

 しかしその背景には一つの事実がある。すなわち日本は島国であり、太平洋戦争終結後の数年アメリカの統治下に置かれたことを除けば、一度も他国の支配を受けたことがない。このことが日本の文化が一定の宗教を持たず連綿と継承されてきた原因だと考えられる。

 なぜなら、そのたった数年のアメリカの統治で、日本の国体はほぼ解体再構築され、それまでの主従関係も村の因習もその多くが排除された。さらに、ロックやダンス、繁茂するカタカナ外来語、あと10年も統治されていたら、もうアメリカになっていたかも。

 他の国は必ずどこかの国の支配を受け大きな影響受けている。そして民族性をも失いかねない新文化の注入を受ける。民族は自らのアイディンティーを守るため宗教に答えを求めるのではなかろうか?

 

 イスラム圏の人達が、流入する欧米の文化と思想に危機感を覚え、過剰に敵視するのはそのためではなかろうか?

 日本だって、これからどうなるかわからない。

 外国人労働者が増えているが、彼らは当然、自国の宗教や文化を引き込んで入ってくるだろう。日本の文化は変化を求められるかもしれない。変わっていく日本文化を嘆き、そのうちbushido原理主義などと言う過激派が現れるかもしれない。
 

 私の望むところは、かつて庶民が侍の動向に憧れたように、流入する外国人が憧れるような、美しく優しく毅然とした日本文化を私達が体現し、逆に彼らを感化して行ければ良いかと思う。

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葛飾北斎富嶽三十六景 神奈川沖浪裏

 私はあまり日本画を見ない方である。版画があまり趣味ではないのだ。

 しかし、ゴッホを始め西洋絵画を見ていても、日本の浮世絵に感化された「ジャポニズム」の作品はよく観る。

 面白いのは、彼らは、日本画の持つ質素にして大胆な構図に惚れ込み、直線の美に魅せられてそれを体現しようとしているのに、明らかに「華美」なのだ。

 「いやいや、そうやないねん日本画は!自分らもわかって描いているのに、何でそうなんの?」と言ってしまう。

 素にして可憐。その御業は、憧れるだけでは真似できないのかもしれない。習得した者を身近に持ち、十数年、あるいは二十数年くらいかけて身に付くのかもしれない。

 自分も、その稀有な文化の継承者として、ちゃんと習得できていると信じて、誇りに思いたいものだ。