「百聞は一見に如かず」とは、古今を通じて名言だと思う。
先日、家族で香港・マカオに行ってきた。
ちなみにうちはそんな金持ちではない。10数年ぶりの家族旅行だ。
海外に限らず、旅行をすると、この「百聞は一見に如かず」を圧倒的に痛感できる。
インターネットの普及により、かなり具体的な情報を得ることができるようになっても、情報から、想像していたものと大きく違っていて感激するのはもちろんのこと、想像していた通りであっても、「本当に有るんや!」と感激できる。
さらに、海外旅行ともなると、沖縄や北海道に行くのと飛行時間がそう変わらなくても、私のような庶民は、言葉が通じないというそのシチュエーションに、テンションバリ高なのである。
そして、それはおそらくネットでの情報だけでは実感出来ないものであろう。
「想像」という言葉は、実は韓非子55編から引用された故事成語として有名である。
韓非子55編に[解老篇]というのが有り、「死象の骨を得、その図を案じ、その生を想う。」という言葉からきている。
その心は、当時の中国では生きている象を見ることはできなかったようだが、時折、象の骨を発見することは有ったらしい。そこで、人は、骨と言う断片的な情報から、生きている象を「想像」したと言う。この「想像」という表現を初めて用いたのが、この一説であると言われている。
もちろんこのような、断片的な情報から、他の不明瞭な部分を想像によって補ったものが、正確なものであるはずがないのだが、韓非子はここでその行為を全く否定していない。
大いに「創造」を働かせ、後刻、大局を知る者(生きている象を見たことが有る者)が、思い違いや認識のずれを修正すればよい。としている。
似たような説話に「群盲象を評す」というものがあり、こちらの方は結構有名だ。
これも韓非子の出典とされていて、私も昔、書物で確かに読んだ覚えがあるのだが、投稿に当たり、改めて韓非子55篇の中を検索したが、見当たらなかった。
説話の示すところは以下のようなものだ。
昔の中国では、象と言う動物は滅多に見られない珍獣であった。
ある実力者が、これを手に入れた際、試みに、数人の盲人(目の見えない人)を呼び、これに触れさせ、「それは何物かわかるか?」と尋ねた。
足元を触っていた盲人は「これは切り株です。」と答えた。
鼻を触っていた盲人は「これは蛇にございます。」尻尾を触っていた盲人は、「馬」と言い。耳を触っていた盲人は、「鳥ではないか?」と、答えはまるでまちまちとなった。
この説話について、モノは、人の見方や立場によって変わるもので、合間見えないものだと説明する人が居るが、それは誤りである。
この説話の意味するところは、仏法等でも盛んに取り沙汰されている比喩で、「それぞれの視点の過ちも、同じもの(例えば、道や真理)を求めて思考を巡らした結果であり、それぞれが尊い。だから、もし実像を知る者が居るのなら、補足してやればそれでよい。」というものである。
「想像(イメージ)」することは重要な思考活動である。しかし、想像だけでは、無意味である。把握できるのであれば、「事実(ファクター)」によって、正確な事象へと「修正(リロード)」されなければならない。それが韓非子の説いた「想像」である。彼が、思考活動に初めて「想像」という文字を当てた。つまり、「想像」という言葉を創造したために、多方面で引用されている「群盲像を評す。」も彼の作品と勘違いされたのかもしれない。
さて、かくのごとく、わずかな情報から思考により想像を巡らせるのは、決して悪いことではないと、古来より言われているようだ。しかし、一見の真実による修正もまた重要な活動であるとも指摘されている。
《結論》
「百聞は一見に如かず」は、「(情報からの)想像」に対するアンチテーゼと思われ勝ちであるが、その原点をたどると、実は、両者は何れも同じベクトルのテーゼを示している。
すなわち、「想像」は大いに奨励されるものであり、一見というファクターにより補完されることにより、更なる浮力を得ると言う事である。
考えても見よ。私の手はそんなに長くはない。この香港旅行だって、いつかは行ってみたいと言っていた時から数えると25年もかかっている。
さらに言うなら、逆に一見した程度で、まさか中国人にはなれない。
生きている象を一見したところで、かの生態・棲家・好物を理解できるわけでもない。
「一見」もまた断片的な情報に過ぎず、想像がその大半を補って、不確実とは言え、全体を捉えているのだ。
思えば、今日の科学の発展は、大方その想像力を原動力としている。すなわち、想像力は、人類固有の能力で、人類発展の源であったのではなかろうか?
そう考えると、「百聞は一見にしかず」は名言だが、「想像」はそれを凌ぐものと言えよう。
さて、現代の一般庶民は、果たして「想像」の翼を広げているのだろうか?
上司・同僚・顧客など、直接かかわりのあるものと対面する場面では、きっと、ある程度、頭を回転させて、先を見越す程度の想像は、常に駆使しているだろう。
しかし、一会の顧客がその日の対応によって、どれだけの人にどれだけの影響を与えるのか?とか、所属している組織や団体のビジョン・戦略、さらには、この国はどこへ向かおうとしているのか?そんなことを想像しながら働いている人は、どの程度いるのだろうか?
そして、ジョン・レノンのように all the people living life in peace(みんなが平和に生きている世界)なんて想像ができるだろうか?
私は、できると信じている。
一番広い宇宙は、人間の頭の中だからだ。
しかし、そのためには、それを想像したいという積極的意思と、死象の骨のように、その取っ付きとなる情報が必要となるだろう。
「香港島・シンフォニーオブザライト」(向かいの九龍半島より本人撮影)
今回の家族旅行では、各人が行きたいことしたいことを、一つは持ち寄り、それをミッションとして掲げていた。
私を除く3人は、無事ミッションをコンプリートできたが、私のミッションは、音に聞く「100万ドルの夜景」を、山か高層ビルの展望台から見ることで、あいにく、天候に恵まれず、高所からの展望は叶わなかった。
しかし、その日は、なぜか香港のクリスマス(日本より1か月ほどずれる)だったので、毎晩やっているという、香港島ビル群のライトアップショーがひときわ美しく、高所からの夜景も十分に美しいものであることを想像させてもらえた。
「ローヌ川の星月夜」フィンセント・ファン・ゴッホ
この絵は、実際現物を見たことがあり、その時はあまり感動しなかったのだが、香港島のイルミネーションを見ていると、思わずこの絵が浮かんで来て、ゴッホの書きたかったものが急にわかったような気がした。
なんじゃこりゃ?と思う絵でも、一応名作と呼ばれるものくらいは、ちゃんと記憶にとどめておくもんだな。感心した。