私は、ごく一般的な二児の父親である。
娘は、幼少期より利口で、一貫して優等生だったが、英語のリスニングが人並みはずれているという面を除けば、変わった特技は持ち合わせていない。
息子は、学業の方はいつも落第ギリギリだが、ゲームや遊びとなると、一暼でルールやコツを理解し、必勝法を練り始める。おかげで奇妙な特技だらけだ。
どちらの性格も私は気に入っているし、二人とも議論が得意なので、よく教わることがある。
本日は、息子のエピソードから。
息子は、大学に入ってから、軽音楽部に入った。
楽器に触れるのは、保育園の時の鍵盤ハーモニカ以来だろう。
最初、いわゆるリードギターを始め、半年でマスターし、ベースに凝りだした。
1年か2年の前半には、今度はドラムをやり始めていた(機材は学校のを借りていたが)。
勉強以外はなんでもすぐマスターする。にしても、すげーなと思う。
妻は「なんの役にも立たない事にばかり時間を使っている。」というが、夜学の大学を出た私には、絵に描いたような大学ライフを送ってくれる事が、とても嬉しかった。
そんなある日、息子が興味深い話をしてくれた。
「なんかさあ、ドラム始めてから、すっごい周りの楽器の音が聞こえるんやよなあ。曲の楽譜も、先へ先へと先読みができて、すごい余裕を感じるんや。
ギターしか知らんかった時は、なんか曲に追われて弾いているような、楽譜を追うというより、追われているという感じで、どうも余裕がなかったんやけど。」
私は楽器の知識は無いが、それがどういう状況なのか直感した。
いわゆる音楽ゲーム、音ゲーでは、楽器を弾くタイミングや場所を示すマーク(ノースというそうだが)に合わせて、ボタン等を操作すると、それらしく曲が弾けてしまう仕組みになっているが、彼はそのノースを受ける立場から、サーブする立場になったのだろう。
そこで彼にこう伝えた。
「お前は、単純にタイミングを受ける立場と、それをサーブする立場の両方を経験した。結果、両方を会得した人だけが体験できる「複眼」で、セッション全体を見ているんやろう。ギターだけでは気付けなかったろうが、きっとドラムだけでも気付けなかったろう。
一般的に複数の視点からモノを見ることができれば、対象を平面的でなく立体的に捉える事ができるというけど、音楽でもそういう事があるのかな?」
「確かに、それぞれの楽器の音に上下を感じ、立体的というか空間を感じる。」「いいなあ、羨ましいなあ。
視点においては、1+1は必ずしも2にはならない。と言う事やな。「複眼」という表現は俺の即興だが、その能力は、社会に出たとき、あらゆる局面で役に立つことになる。特に今はうまく説明できないが、よく言われる「人の立場に立ってモノを考える。」という課題の解決に役に立つだろう。」」
サークルだって、決して無駄なものではない。エントリーシートにこの話を書けば、かなりの耳目を集めると思った。
後日、就活中の息子が言う。
「あかん、「サークルから得たもの」って何?なんも浮かばんねんけど。」(-_-;)「「複眼でモノを見る」は?」と問いかけると、「おう、そうやった!そうやった!」。だから彼は、いつもギリギリセーフなのである。
役に立ったかは不明だが、就活は早々に終えたらしい。
さて、彼には当然の良識のように話したが、実社会において「複眼」を持つ事は容易ではない。
餃子のタレの袋を開けようとして手を汚してしまう度に、「これを作っているやつは、餃子を食べたことがないか、タレを付けずに食べるんだろうな。」と怒ってしまうもんだが、その実、私自身も人の事を言えない。
職業柄、相手方の経理や事務処理の不備を突き、改善を求めるわけであるが、それが、その人にとってどれほどに負担となるものなのかを想像することは難しい。
「そんなもん、一生懸命整理しても一銭の得にもならん。そんなことさせる暇があったら、もっと稼がしてくれ。」とよく言われた。
私の家業は会計事務所だったので、こういう手合いには格別の免疫があり、ともすれば一定の現実的解決策を示し、彼らを諭す実力も備えてはいたが、多くの同僚は、彼らの憤まんに同調すらできなかったろうし、解決策を考えてあげるなどとてもできなかったろう。
命令に従い、適正な事務処理を指導するまでのこと。
まあ、経験を積んだベテランは、ちゃんと彼らの憤まんを理解して、それでも「是は是、非は非」と、静かに諭すのだが。
いずれにしても「相手の立場に立って」などときれいごとを言っても、それにはかなりの鍛錬が必要だ。
私も、経理以外の問題では、かなり苦労した。一番困ったのが、どうしても自分の目が自分から離れて、その人の目の方に行かないのだ。経理の話ならこれができるのだが。
しかし、そのヒントがバンド活動にあったとは驚きだ。
息子が実感した視点は、おそらく、平面上の複眼では無い。
ドラムという指揮者の視点から、俯瞰的にセッション全体を見ている、ホークアイあるいはイーグルアイと言われる、上下に配置された複眼だ。
私はずっと、正面の相手先の目線に立とうと努力してきたが、「経理」という第3の視点からものを見ることができたときだけ、相手の苦労も、自分の成すべきことも理解できたのだ。
同じように、ドラム(サーバー)になっている視点を探していれば、もっと早く、いろんなものが見えるようになっていたように思う。
しかし、上下間の複眼と言えば、管理職にある者は、部下と顧客のやり取りを第三者の目線で見られるわけだが、その景色はどういうものなのだろう?
出世に恵まれず、結局この年で勤務評定を付ける部下を持ったことのない私には、想像の域を越えられない。ただ、同じ兵隊階層で囁かれるのは、逆に当事者からの視野(平面的視点)を明白に捉えているかという問題。
「じゃあお前がやってみろよ!」は、悲しい兵隊の心の声の常套句だ。
とはいえ、イーグルアイはきっとそれほど、微に入り細に入り見える必要も無いのだろう。(気持ちの悪い軍事衛星じゃあるまいし)
あまりにわかりすぎて、過剰に同情し、偏った判断や事実誤認の原因となるのも問題だし。
『単眼より複眼、平面より上下』、と意識するだけで違ってくるだろう。
余談になるが、まだ出世を諦めてなかった頃、「ホークアイ」と書いたファイルと「タートルアイ」と書いたファイルを持っていた。「ホークアイ」には、本庁の中長期的構想、それに向けての各事務年度の目標、上位組織がビジョンやプランについて発遣する指針や情報等を綴り、「タートルアイ」には、自分が従事している職務に関する根拠条文、法令解釈、通達、実施要領等を綴っていた。
そういうものが必要となる職務に就きかけた事があり、その職務に在った当時の上司(つまり私は次席だったわけ)に習って作るようになったのだが、その機会を逃して以降は、情報の刷新やプライオリティ・使用頻度の変化に合わせて加除整列するという、メンテナンスが煩雑な割に、それほど使う機会はなかった。不要な努力をしていたのか、職域がその程度のレベルだったのか?
「複眼でモノを見る」ことは良いことだと、私は信じている。
しかし、会得し、活用できる猛者は、それを意識し、不断の努力をした者に限られるのだろう。
「アビニオンの娘たち」
キュビズムの扉を開いた、かの有名なパブロ・ピカソの、もはや傑作とも言えぬ渾身のテーゼである。
キュビズムについて、あれこれ解説する人も多く、その中で「複数の視点からの映像を同時に表して立体を描こうとしている。」という人がいるが、立方体を立体に見えるように書くことを考えると、子供にもできる話で、しかも、こうはならない。
ピカソは立体を描きたかったのではない。複数の視点から見たときに、印象に残ったものだけを組み合わせたら、こうなったのだ。
ある女性は、二の腕の裏が印象的で、ある女性は、布から覗く足を誇示し。ある女性は背中と振り向くあごのラインが気になって仕方なかったのだろう。