あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
2019年 最初の投稿では、韓非子の主張の中でも「説難」に並び、あるいはそれ以上に重要かつ根源的と言える「法」についての考察を取り上げ、いくつかの韓非子に対する誤解を解きたいと思います。
1 二柄
韓非子55篇「二柄」篇より
「昭侯が酔って眠った時、冠係が着物をかけてやった。 目を覚まして、 誰がかけたか問いただし、冠係と聞くと、 昭侯は、冠係と衣服係の両方を罰した。冠係は自分の任務でないことをし、衣服係は自分の任務を怠ったからである。」
韓非子は、為政者(君主や主権者)に多彩な才能や卓抜した技量を要求しない。賞を与える権力と罰を科す権力という二つの権力(二柄)さえ手放さなければ良いと主張する。
人は皆「欲望」に従って行動する。そこで国家の運営において、有益な行為については欲望を満たす褒賞を示し精励させ、不利益をもたらす行為については罰という恐怖によって欲望を制す。それのみが重要であり、そしてそれのみで充分である。と。彼にとっては、温情や裁量はむしろ無用なのである。
二柄の考え方は、合理主義者の韓非子らしく、至ってシンプルで効率的であるが、「あまりに心が無い」(ウィル・スミス主演「アイ.ロボット」サニーのセリフ)。罰せられた冠係に同情する人も多いだろう。このような考え方から、韓非子を多少知っている人の中には、「ああ、あの性悪説の人だろう。」と毛嫌いしている人も多い。
性悪説・性善説の説明については割愛するが、性悪説を主張したのは韓非子の師匠である荀子であり、韓非子は完全にコピーしているわけでは無い。
確かに彼は、人間の本性は「欲望の権化」と定義したが、求めて良い欲望と求めてはいけない欲望とが有る。生まれながらにして人が善であるか悪であるかと言う前に、何が善で何が悪かを定義する事が重要であろう。
その定義こそが「法」である。
3 法家
韓非子を語るうえで、欠かせない「二柄篇」であるが、権力を手放すことへの警告を示す説話が多く、前述の説話でも主君が風邪をひくことより、家臣が勝手に権限を逸脱することの危険性(侵官之害)を示していると解釈されることが多い。しかし、その捉え方では韓非子の神髄に触れることはできない。
典衣典冠ともに罰せられている点から、これは単に家臣の「越権」のみを問題にしているのではなく、双方の「違法」を問題にしていると考えるべきなのである。
なぜなら、韓非子55篇の主張は、常に『法』有りきで展開されているからである。(二柄篇に先立つ有度篇を始め、多くの場面で取り上げられている。)
前述の説話の場合においても、賞罰を与える前提として、誰が何をやって良く何をやってはいけないか?が明確に規定されていなければ、成り立たない話である事を知ってもらいたい。
ご存知の方も多いだろうが、彼のこのような、法律を基軸に捉える社会体制、いわゆる法治国家を志向する思想を「法家」と呼ぶ。そう言うとあたかもその系列の人が沢山いるように聞こえるが、並み居る諸子百家において、近代多くの国家が採用し最も公平と言われるこの思想を、体系的に書物として表した者は、私の知る限り、韓非子のみである(商鞅など実務実績においてその思想が垣間見える為政者ならいくらか居るが)。
にもかかわらず、彼の名が孔子や孟子に比べ格段に知名度が低いのはたいへん残念な事である。もしそれが、前述の性悪説のイメージが強いためというのであれば、とんでもない誤解である。
4 「法」の目的
法律で人を縛るような考え方は、あたかも人を信じていないと判断されるようであるが、道徳や博愛、忠誠心などと言うあやふやな不文律(空気と呼ばれるもの)で、個人の価値観を封じ込めている方が、よほど心無い仕打ちだと言えないだろうか?
また、そもそも、韓非子は、人を縛るために法律を重要視しているわけではない。彼が縛ろうとしているのは、「権力」である。彼がターゲットにしているのは、専ら、君主を始め役人などの支配者層である。
彼の考えによれば、支配者層は法を定める権限を有するが、法に則らない限り、罰を課す事はおろか褒める事さえ許されないのである。
人の上に人を作り人の下に人を作る「封建社会」における支配者層には、さぞかし嫌われただろう。韓非子が永年陽の目を見なかった理由はここかも。
また、権力は国家や役人だけが持っているのではない。個人もまた基本的人権を有している。韓非子の時代、個人は選挙権はおろか自由すらままならなかったであろうから、子供にもわかりそうな説話を並べているわりには、個人の人権について語っている部分はほとんど無い。しかし、現代の民法、商法、刑法、税法、いずれも基本的人権を制限するために存在する。
5 誰が為の法
「法律だらけで雁字搦め。世知辛い世の中やわ」という声が聞こえて来そうだが、多くの人が勘違いしている。
法は、一般的な社会的協調を保ち、立場に見合う義務を果たしている者(私は彼らを常識人と呼ぶが)を縛りはしない。
そうで無い者の権限を制限するために在る。
私も若い頃身に覚えが有り、偉そうな事は言えないが、スピード違反や軽犯罪を犯して取り締まりを受けた者の中にこう言う者が居る。「みんなやっている事やん。」「他におんなじことやっているやつ山ほどおるやん。先にそれを片付けてからこっちに来て!」
違反を犯している者の多くは、周囲にその件について正しい理解をしている人が居ないから、あたかも自分が多数派(マジョリティ)だと信じているが、どう贔屓目に見ても、彼らは圧倒的にマイノリティである。
違反者がマジョリティとなる法律なら、それは改正されなければならない。それが改正されないのであれば、やはり多くの人がそれを守る事に抵抗を感じていないからである。
交通法規を除いては、通常の生活の中で民法や刑法を気にかける事はない。
まじめに申告するか、専門家(税理士)に委ねておけば、税法を学ぶ必要はない。
普通に商売をしているだけなら商法の規定を読む事は無い(法人においてはいささか社会的影響力が高いので、経営陣は少々勉強しておく必要があるが)。
要するに、大多数の勤勉で平穏に暮らす人たちにとって、法律とは身を守ってくれるものであり、不平等を是正してくれる味方なのである。
6 Legal mind
Legal mind 法的思考とは、モノの理非曲直、事の軽重を判断する上で、主観と感情を廃し、理性と客観のみで判断するために「法」を尺度とする考え方である。
しかしそれは、豊かな情緒や感動と言った人間性を否定するものでは無い。ただ、ただ、他人の自由(公共の福祉)に抵触する部分を制限しているだけなのである。
法律を作る者、適用する者援用する者、従う者、全ての立場においてその共通認識が必要なのである。
紀元前1792年から1750年にバビロニアを統治したハンムラビ王が発布した法典を石柱に刻んだもの。
「目に目を歯には歯を」の文言で有名であるが、全部で282条、女性や奴隷の人権についても規定しているなどかなり詳細で、総条数264条の日本国刑法に引けを取らない。
しかし、その条文数や内容よりも、法律好きの私を震えさせたのは、彼らがそれを「石に刻んだ」という行為だ。彼らが意図したか否かは不明であるが、結果として彼らは、3700年前にすでに人類の中に、近代のLegal mindを会得している種族がいた事を知らしめることに成功した。
我々の時代の人類は、一体何が残せるだろうか?