説難

ブレイクアウトⅱ~自衛という名の加害

 

 「楚人に楯と矛を鬻(ひさ)ぐ(売る)者有り 、之を譽めて曰く、吾が楯の堅きこと、能(よ)く陷(とほ)すもの莫(な)きなり。又、其の矛を譽めて曰く、吾が矛の利(と)きこと、物に於(おい)て陷(とほ)さざる無きなり。

 在る人曰く。子の矛を以て、子の楯を陷(とお)さば、如何?」

 ●韓非子55篇 難一篇 【矛盾】

 

 韓非子の説話から生まれた熟語は多々有るが、これほど有名な説話は無い。

 

盾の論理 

 戦争における殺人を私は「正当防衛」と捉えている。すなわち、相手を殺さなければ自分の命が危険である時に限定された行為であると。

 このロジックに従えば、武装を解除した捕虜への虐待を始め、そもそも非戦闘員である一般市民に対する暴行・略奪・強姦等は、戦術的にはもちろん戦略的にも何の意義もなく、身の危険から安全を確保するという正当防衛に微塵も整合しない。

 私は、10代後半でこのロジックにたどり着いたが、それから30年、さんざん虐殺や核兵器の非道を訴えるメディアから、そのロジックを示された覚えがない。

 非を鳴らすのは簡単だが、その行為が避けられないと主張する人たちを説得するには、論理的に否定しなければならない。

 

 さて、ここに「正当防衛」という免罪符を定義した。

 それはどこまで認められるのか?

 端的に言えば、前述のとおり、「自分の命が危険である時」となるのだが、事はそう簡単ではない。

 空爆をする爆撃機は、対空砲の届かない高度から爆弾を落とす。ドローンに至っては、搭乗員すら居ない。これが、「自分の命が危険である時」に該当するか?

 該当する。

 なぜなら、その焼き払う兵器工場は、いずれ自軍の兵士を殺戮する兵器を生み出すからである。

 では、そこに働いている人間は?周辺の住民は?

 科学技術は、人命を尊重し、将来の危険のみを取り除く手法(ピンポイント攻撃)を模索しているが、軍人は本当はこう考えている。「それで助かった人間は、明日の戦闘員になり、自軍の兵士の命を脅かすかもしれない。」と。

 同様の論理が通るなら、収容所まで連行できない、または、撤退せざるを得ない占領地内の収容所に監禁している非武装の捕虜を殺戮することも正当防衛となる。

 

 お気づきだろうか? すなわち「際限が無い」のである。

 

 自衛隊は英語で「Self-Defense Force 」 、ブリタニカ百科事典によると「=Japanese armed Force」と表現されている。きっと「自衛」というフラグを掲げる奇妙な軍隊は、日本特有の表現なのだろう。

 日清・日露・第一次世界大戦を通じて、日本は何をしたかったのか?

 列国に追いつき、自分も植民地を持ち、金持ちになりたかった?

 それも有るだろうが、多くの研究者が指摘しているのにほとんどメディアが取り上げない理由がある。

 それは、「自衛」のためである。

 

 日本は、極東の島国だが、実はロシアと接している。

 ロシアは、アジア民族ではない。スラブ民族という白人の一種である。

 第二次世界大戦が終わるまで、アジア民族は、白人より劣ると考えられていた。だから、ロシア人は日露戦争に負けた後も、自分たちがアジア人を支配することは神の定めた運命だと本気で信じていた。

 はるばる船でやってくるアメリカより、よっぽど脅威だったのだ。

 

 軍事的緩衝エリアを広げ、なるべく、自国の領土での戦闘を避けようとする戦略は、古今を問わず常套手段である。

 そして日本は、朝鮮半島を支配し、満州国を建国した。

 その後、中国本土に食指を伸ばして行ったのは、私は愚行であると考えているが、当時の為政者に言わせれば、朝鮮・満州という防波堤を支える資源の供給源を大陸上に獲得したかったのだと説明するかもしれない。

 ちなみに、「大東亜共栄圏の建設」という大義名分を信じる人と、とんだ虚構だと主張する人が居るが、おそらく当時は、まじめに取り組む人たちと、都合よく利用する人たちが居たのだろう。

 実際、この政策により開眼した東南アジアの諸外国は、列強の支配から独立し、今日ASEANAPECといった立派なコミュニティを組織し、欧米と対等に協議し、結果的に日本の安全保障に大きく寄与している。

 しかし、それは結果論であり、日本が自国の安全保障のために、他国の領土、他国の資源を蹂躙したことは事実である。

 

盾に潜む矛

 より安全な立ち位置を保全しようとする国家の欲求は際限が無い。「自衛」の概念は、「正当防衛」同様、一方に有利な形で拡大解釈され、いつしか「自衛という名の加害」に変化する。他国の領土が主戦場になるように仕向け、他国の資源で防衛できるように画策する。それどころか、他国で武力を行使することまで、「自衛」と言い始める。

 安倍内閣が言う「集団的自衛権」は、どう繕おうと、いざというとき自分たちを助けてもらうためには、他人の戦争に加担しなければいけない。ということだ。

 「自衛」を拡大解釈すると、そこまで言って良いのかと、あきれるを通り越して感心する。「自衛のためなら加害に加担する。」と宣言してしまっているのだから。

 

 私は、国家が国民の基本的人権保全するための自衛権を否定しない。

 しかし、例え隣国に道理の通じない稚拙な国家や野心むき出しで喧嘩上等の国家が有ったとしても、その国の主権を侵す権利はどの国にも無いと考える。

 隣の親父は大酒飲みで、いつ暴れ出すかわからないからと言って、その家の玄関を溶接する事はできない。

 個人の基本的人権が公共の福祉の制限を受けるように、国の自衛権もまた、国家間の関係において無制限であってはならない。

 

 昨今の日韓関係を始め、とかくに東アジアの5カ国の関係は流動的だ。アメリカを加えた周辺6カ国の緊張は、これからも高まっていくだろう。その対処法については、私なりの腹案を持っていて、いずれ投稿したいと考えているが、日々変化する情勢に、修正が追いつかないでいる。

 ただ、本投稿で示した通り、彼我の事情を考慮しない安全保障など、盾と矛を同時に売るようなもの。頭の悪い奴がする事だ。せめて以下の2つくらいの考えは持っていたいものだ。

 すなわち、一つは、国際ルールに照らし合わせ、常に青天白日が我が国にある状況を保つ事。今一つは、「大東亜共栄圏」の幻想の一つでもあるのだが、近隣諸国の教育と経済を安定させ、理性を育み、もって東南アジア全域の平和と安定を目指す。というものである。

f:id:Kanpishi:20181126150254j:plain

f:id:Kanpishi:20181126150315j:plain

フランシスコ・デ・ゴヤ「着衣のマハ」と「裸体のマハ」の連作。

 ある富豪の邸宅で、「着衣のマハ」が普段飾られており、夜一人になると、こっそり「裸体のマハ」と並べて楽しんだという。

 女性陣には、悪趣味と罵られるかもしれないが、男性諸氏においては、その願望を理解できない者の方が少なかろう。

 ただ私が伝えたいのは、「自衛」という名の着衣の裏には、裸体という「欲望」が隠れており、普通の人なら、このように並べられたら、さぞかし赤面の至りであろうと思うのである。