説難

教育は国家百年の大計4:勤労

 「つまらない誓いをたてちまったもんだよ。働きたい者には仕事をやるだなんて……」宮崎駿監督『千と千尋の神隠し』湯婆婆のセリフ。

 この作品の世界観では、働かない者は、酷いことに、豚にされて食べられてしまう。しかしその反面、前述のセリフの通り、働くことを望む者は必ず職を授けられる。

 

 憲法の以下の条文をご存知だろうか?

 

第二十七条

 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。

 

 憲法が定める国民の3大義務について、「納税」および「教育」はすぐに出てくるが、この「勤労」がすぐに出て来ない人は結構居るようだ。少なくとも私は小中学の教育においては、これを認識した覚えがない。

 ちなみに「教育」の義務についても、いわゆる「義務教育」が、教育を受ける子弟に課せられたものでなく、両親等保護者に課せられた「教育を受けさせる義務」である事を知らない人も意外に多いが、この件については、このシリーズの終盤で取り扱う予定である。

 

 ただ、面白いのは、教育にしても勤労にしても、まず権利が存在し、それを行使する事が義務付けられているという点だ。

 

 先日ある番組で、コメンテーターが「子供に、勉強はなぜ必要か?と聞かれて、まともに答えられる親は居ない。」という発言をしているのを聞いたので、試しに娘にその話をしたところ、「そんなん、選択肢を広げるためやん。」と食い気味に即答された。

 それも一つの答えだし、勉強の意義などいくらでも有り、有り過ぎて、逆にどれを言ってあげればその子にそぐうのかに悩むほどである。

 ただいずれにしても共通して言えることは、勉強の意義は、基本的に、将来、社会に出て働くことが前提となっている。

 ところが、その前提が鉄板とは限らないからややこしい。

 今の青少年の中には、いかにして働かずに生きようか?いや、働かなければ生きていけないという生物学的原則そのものに疑問を持っていて、働くくらいならもう死ぬわと言う者まで居る。まあここまで来るとさすがにフォローできないが、「生活保護で充分」とか、より社会に迷惑をかけない、「親の遺産の不動産収入で暮らしているならそれでいいでしょう?」という人たちくらいは説得したいものだ。

 さあ、しかし、将来働く気がない人間に、勤労の義務と勉強の意義を説明するとなると大変だ。

 

 そこで憲法27条に戻る。

 以前、マグナ・カルタ(2018.03.25) で示した通り、憲法とは国家権力の範囲と限界を定めたもので、民主主義国家において、国家権力の保持者、すなわち主権者は、国王でも総理大臣でもなく、国民である。

 年始の投稿、Legal mind では、法律は権力者や違反者にのみ義務を課すもので、一般市民の味方であると説明したが、憲法に関してはニュアンスが変わってくる。憲法のターゲットとする所は、主権を有する一般国民だからである。

 

 さて、それでは、憲法に定められているから、働く義務が有り、働く義務が有るから、勉強する事に意義が有る。という論法で良いのか?

 

 いやそうではない!

 

 ここで再度注目してもらいたい所が、その義務が権利と対に存在しているという点だ。

 「勤労の権利」ってなんなのか、よくわからない人も多いだろう。働く事にいちいち権利が存在するのか?

 「勤労の権利」でググってもらうとすぐわかるのだが、勤労の権利とは、「働いて良い」という許可の意味ではなく、「タダ働き」「強制労働」を強いられないこと、能力の許す限り「自由に職業を選択」できる権利を言う。

 これを当たり前だと言える国は、世界の三分の一以下だ。

 ここで、教育は国家百年の大計3 自由(2018.12.11)で提示したケースと同じ問題点が登場する。すなわち、私たちは生まれながらに存在する「自由」の尊さを学んでおらず、無法に自由を奪われ、過酷な強制労働の末、死に至らしめられるなどという、「カイジ」(福本伸行原作の漫画)のような世界が、世の中には実在している事を意識していないというもの。(国際労働機関(ILO)掲載記事。なお、この記事はもちろん一例に過ぎない。)

 「千と千尋の神隠し」で、釜じいは下で働くススワタリについてこう言う。「働かなきゃな、こいつらの魔法は消えちまうんだ。」と。

 ススが動いている事が異常なのだから彼らがススに戻る事に抵抗は感じないが、先人が血みどろの手で掴んでくれた権利をないがしろにして、その魔法が解けてしまったとき、私たちはどうなってしまうのかと考えると、背筋が凍る思いである。

 

 憲法上の全ての人権について考える時、意識しなければならない条文が有る。

憲法十二条

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。

 

 さて、これで一つのロジックが成立する。

 すなわち、私たちは、すでに憲法の定める労働権の庇護下にある。従って、その憲法の規定する「勤労の義務」を果たす義務がある。

 これで、私の勤労に関する主張は完結するか?

 すまない。まだもう少しお付き合い願いたい。実は、このシリーズを構想した際は、本稿の主張はこれで完結していた。しかし、やや、理論漬けの感が拭えないので、さらに補足する。

 

 実際には、新入社員の多くは、理想と希望を携え、ある程度のハイテンションで社会の門を叩いてくる。小理屈をこねて、勤労を蔑む者など至って稀だ。

 にもかかわらず、彼らの何割かは、2年や3年でその美しい瞳を曇らせてしまう。

 セクハラ・パワハラサービス残業が槍玉に上がり、これだけ労働環境の改善が進んだ現代において、何が彼らの瞳を曇らせるのか?正直私にはわからない。しかしそれが単純に彼らの考えの甘さだけに起因しているとは考えられないと感じている。むしろ、そんな風に世代のせいにして、若者の可能性を信じようとしない、くたびれた大人がつまらない社会を作っているからではないのかとも思うが、定かな所はわからない。

平成の始め、まだパソコンもなく、コピー機すらまともでない頃、クセの強い上司や先輩の下で、明らかにILO違反の労働環境下、なぜか、ユーモアと余裕が有った。

 働くことは楽しく、面白いところもたくさん有った。今でも一部の若者は楽しげに働いている。

 楽しげに働ける一つの要因は、問題を解決する能力に長けていることだ。今更ながらに、ここに勉学の重要性が有る。

 しかし、一方で得体のしれない「おもしろなさ」を昨今感じる。

 組織も政府も、頑張って働きやすい社会を目指しているのに、小理屈をこねる異端児だけでなく、まじめに自分の努力を信じる人までが意欲を失っていくように見える。

 

 今回私が提示した「勤労」は、憲法27条の権利に裏付けられ、同12条により、その保全と維持が義務付けられているものということになるが、最低限の労働権でなく、「楽しい労働権」が保全される世の中を志向する必要があると思う。

  

 今、将来の勤労のために勉学に励む人の中には、通常の勤労を飛び抜ける学力に達する人もいるだろう。しかしそれならば、官僚や弁護士といった、最上層を飛び、是非、後続する若者たちが「楽しい労働権」が先立っている事が実感できるような社会の構築に尽力願いたい。 

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フランソワ・ミレー「晩鐘」

 18世紀フランスの画家ミレーは、パリ郊外のバルビゾン地方で、貧しいながらも献身的に大地と共に生きる農民の勤労を美しく描いた。

 後にゴッホが同じテーマにチャレンジするが、それと比べれば、その神々しさが比較にならないことに気付かせる。

 有名なのは、なんと言っても「落穂拾い」なのだが、実は描かれているのは、畑の持ち主が刈り取りの際取りこぼした「落穂」を拾う、土地を持たない極貧農民の姿という事なので、美しい絵なのだが、今回はテーマにそぐわないとして、選出から外した。

 厳しい農作業の合間に、祈りの合図である晩鐘に敬虔な姿勢を示すこの絵画もまた、その神々しさが、勤労の尊さ美しさを感じさせてくれる。