説難

三人市に虎を成す

韓非子55篇 内儲説 上
 「龐恭(ほうきょう)は太子の供をして邯鄲(かんたん)へ人質として向かうことになった。
 そこで魏王に言った。今、一人の男が、街に虎が出たと言ったら、王は信じますか、と。王は、信じない、と答えた。では、二人の男が、街に虎が出たと言ったら、王は信じますか、と。王は、信じない、と答えた。

 では、三人の男が、街に虎が出たと言ったら、王は信じますか、と。王は、信じるだろう、と答えた。

 龐恭は言った。街に虎がいないことは明らかですが、三人が言えば、虎が出たことになります。今、私は邯鄲へ行くために魏を去りますが、そこは街に行くよりはるかに遠いのです。私についてあれこれ言う者は三人ではとどまらないでしょう。願わくば、王はこのことをよくお考えください。」と。

 数年後、龐恭は邯鄲から帰ってきたが、魏王に謁見することさえ許されなくなっていた。まあ変な噂を流されたのだろう。

 龐恭の予言は的中し、魏王の治世は長く続かなかった。

 

 トランプ大統領ツイッターのフォロワーは、6600万人だそうで、いつの間にか巨大な影響力の源になっているらしい。

 しかし、先日あおり運転の同乗者について誤報を拡散してしまった市議が問題になっていたが、そもそもツイッターを含むSNSの書き込みは、裏付けのない情報なのだから、容易に鵜吞みにせず、注意することが重要だということは、ネットを生み出したアメリカ人ならよく知っているだろう?

 しかし、娘が言う、「誰もそんな論理的にものを考えてはいない。ケインズの美人コンテストと同じ、彼の言っていることが正しいか正しくないかは、もはや問題ではない。彼の発言によって起こる現象や影響が重要なのだ。」

 ケインズの美人コンテストを引き合いに出すところが、わが娘ながら聡明だ。

ケインズの美人コンテスト

 100人の女性から美人を選んで投票させるコンテストを催した。そして、コンテストの関心と投票者を増やすため、上位6名に選ばれた人に投票した人の中から、抽選で旅行券が当たることにした。悪くない提案だと思うが。

 コンテスト終盤になると、みんな6位以内に入りそうな人に投票するようになった。

 本来の美醜は関係ない。旅行券の抽選対象になるためだ。

 トランプが言っていることが正しいのか正しくないのか、そんなことはどうでもいい。ただ、もう彼が言う事はとりあえず世間を動かす。それによって、株が上がるか下がるか、それだけが重要だ。だから、フォロワーになって、チャンスやリスクを図っているのだ。

 堤真一主演の映画「クライマーズ・ハイ」では、いまだ航空機事故史上最悪と言われる、日航機墜落事故について、ローカル新聞の記者の主人公は、大手新聞社の度肝を抜くスクープを手に入れるが、「公式メディアは誤報を飛ばしてはいけない。」その信念と葛藤の末、そのスクープを逃す。

 その情報が真実であることの裏付け、「チェック、ダブルチェック」。それが、情報発信者の責務であり、彼のジャーナリストとしての信念だった。

 SNSの利便性は十分に理解しているし、その発展は大いに歓迎であるが、「チェック、ダブルチェック」がなされた情報と、そうでない情報は明らかに区分されるべきだ。

 携帯の動画に始まり、防犯カメラ、ドラレコ。毎日のように衝撃的瞬間の映像が流されている。私たちの時代では、写真、さらに動画ともなれば、そのドキュメンタリックな衝撃は凄まじく、信憑性を疑うことが無かった。

 しかしながら、一方でこれらの動画を修正する技術も進歩していると言う。

 オフィシャルなメディアは、推定無罪の原則、事実関係の未確認、ウラ(真実である証拠)が取れていない情報を流さない。誤報の怖さは、松本サリン事件で身に染みてわかっているからだ。しかし結果として、中途半端なプライバシー保護の影響で、中途半端な情報が流されてしまう。

 携帯の手元以外をぼかしたおばさんかお姉さんかもわからない映像。凶悪な行為を犯した犯人がやっと捕まったのに、その名前を言わん。

 大衆の多くはその理由がわからない。私もよく妻に尋ねられるが、私の方が知りたいと思うことがしばしばだ。しかし、大衆は知りたいのだ。身内の安全につながる事も有るし、何より、そいつの生い立ちに興味が有るのだ。そして、自分の子供や周囲の関係者にその傾向が無いかを早く知りたいのだ。そして、裏付けの無いSNSの情報に飛びついてしまう。
 

 私は、SNSの無責任な情報が拡散することを問題だとは思わない。

 

 SNSというのは、街中や公園、居酒屋で話される私的な会話にすぎない。

 そこには、確たる証拠など必要ない。むしろ演出のためのフェイクや装飾が有ったとしてもかまわない。大事な事は、それが真実であることが明確に示されているか、一般常識から真実でないと判断できれば良い。

とかく「言論の自由」とやらを擁護すると、斜に構えて観られがちだが、言論の自由は民主主義の根幹であると同時に、創造の源でもある。

中国のように、怪しいキーワードが入っているだけで、ブログを止められる世界などゾッとする。

しかし、ここからが私のブログのパターンだが、どのような自由にも「条件」が存在する。

 

一つ目は「法」

 誹謗中傷や名誉棄損など他人の権利を侵害するような表現の自由の濫用は、憲法がこれを制限し、法律が整備されている。

 さらに、SNS以前に世の中には、公共・広告というものがあり、その中で、おのずと公序良俗に反するもの、青少年の育成に悪影響を及ぼすなどの規制が整備されてきたのである。

 犯罪裏サイトなどが問題となり、SNSを規制する機運が高まっているが、既存の法で十分であろう。要は技術的に遅れているだけではないだろうか。

 

二つ目は、「フェイク」と「オフィシャル」を区分できることである。

 今のオフィシャルなメディアは、ダブルチェックを守っていると信じている。

 だから私は、彼らには、自分たちはフェイクではない立証を付して報道して欲しいと考えている。

 しかし、こういうと、ただでさえ、臆病風に吹かれ意味の分からない個人情報保護で、中途半端なボカシを入れて、余計、SNSの炎上のネタを提供してしまうかもしれないが、問題の解決は簡単だ。

そこを公表しない理由を、法律的根拠(例えば、この人の容疑は未確定だから。罪に問われるかどうか微妙だから。など)をテロップで表示するなり、アナウンサーが説明すればよい。そして、それ以上の詮索はしてはいけないことを視聴者に理解させ、無責任なSNSの情報を拡散させると、罪に問われる可能性が有ることこそ報道してあげるべきなのである。
 

 三人市に虎を成す。ケインズの美人コンテストのように、人は、人が信じる情報に寄り添っていくのである。事の真偽は二の次なのである。ダブルチェックを行っているオフィシャルな機関は、そのことを、視聴者にわかり易く発信し、SNSの動画や防犯カメラの映像を採用する時でさえ、「この映像は格別の加工がされていないことを検証済みです。」と付け加え、そこで採用されたニュースだけが真実であることを、明確に宣言すべきである。

 

 その昔、ウルトラマン仮面ライダーの後でも「この物語はフィクションです。実在の・・・」と流したり、バラエティのありえない罰ゲーム中に「絶対マネをしないでください。」と書いていたではないか?

 そのころは、あほかこいつらと思っていたが、それが、オフィシャルメディアの矜持だったのだろう。

 ということで、中途半端なぼかしや一部の情報を秘匿するのは、後々の憂いを避けるための「逃げ」ではなく、「自分たちは無責任なSNSとは違うから。」という意味であることを「明確に」「わかりやすく」報道してほしい。

 

そして、法を守りつつ自由なSNSとオフィシャルなジャーナリズムが両立して、健全な言論の自由が成り立ち、国民という主権者は、情報を得ることに障害を持つことなく、市にトラは現れないのである。

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ドミニク・アングル「グランド・オダリスク」 

 西洋絵画には、女性の裸体図が多いが、私はあまり好みではない。

 しかし、この絵画は、全面に裸体図であるにも拘らず、なぜかそれを感じさせないほど美しい。

 しかし、よく見ると、背中の左側が有りえないほど長く、右足の付け根も遠近法を考慮してもアンバランスである。

 これはアングルが意図して実像に対し、修正を加えたものである。

 この時代、まだ写真は発明されてなかったが、写真が発明されて以降、絵画は絵画にしか許されない表現を求めて模索を始める。その中で真実とはかけ離れた表現も現れる。しかし、それは画家が見た印象や感情を表現するがために、忠実なデッサンを飛び越えてしまったものであり、アングルのこの修正とは性質を異とする。 

 アングルのこの修正は、そうではなく、真実を偽って美を求めた結果の「フェイク」である。

 しかし、私はアングルを責めているわけではない。観客を楽しませるための演出やフェイクは是認されるべきである。重要なのは、それが真実なのかそうでないのかが明確に示されていることである。