説難

教育は国家百年の大計 最終回《平和》

1 平和主義

 国家百年の大計を担う教育とは何かを考えたとき、それは良き有権者を育てることであると私は定義してきた。そして良き有権者を育てる最も適正なテキストは主権者の定義を定めた日本国憲法にあると位置づけこのシリーズを展開してきた。

 日本国憲法が持つ 3つの原則と3つの義務のうち、これまで5つを紹介したわけだ。いよいよ、本日は最後の6つ目にかかる。

 しかし、この6つ目の平和主義に関しては、これまでとは若干様相が違っている。

 これまでの5つでは、有権者の持つ「主権」という権力に気づかせると同時に、その権能には、常に「公共の福祉に反しない限り」等の制限が設けられていると説き、それでも、その主権は重要なもので、これを維持していくには、不断の努力と義務を果たしていくことが必要であることを説いてきた。

 しかし、主権の権能と「平和主義」は直接リンクしない。また、思想の自由の観点から、「平和主義」を唱えることが主権を与えられるための義務となる事も無い。

 従って、これまでの論調とは全く違う展開で話が進むと理解願いたい。

 

 まず、私の持論では、良き有権者になるには「平和主義」は必要なものである。

 ご存知の通り、「平和主義」は、憲法前文に掲げられ、これに呼応して、憲法9条は武力を放棄している。

 憲法の前文とは、憲法を制定するに当たり、自分たちがどのような主権者を目指すかを宣言したものである。

 憲法は、当時のアメリ進駐軍(GHQ)に、無理やり飲まされたものだと主張する人たちに対し、私は、当時の日本の学者もこれに近い見解を持っており、日本人の意見も取り入れられているし、当時の世界の潮流の中でも、決して引けを取らない作品であり、GHQ草案鵜吞み説を真っ向否定する立場であるが、この憲法前文に関しては、どうにもGHQ草案そのもののようだ。

 そこから見えるものは、重大な過ちを犯した日本に対し、過大過ぎる理想を掲げさせ、強引に軍事化から遠ざけた意図が伺える。

 

 しかし、ではアメリカの策略に乗る必要はない。隣国が舐めた態度をとるなら、武力を以て紛争を解決すべきだ。と、日本国民は本当に思うのだろうか?

 憲法の前文を読み返してみよう。

 「われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和の内に生存する権利を有することを確認する。また、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないと考える。日本国民は、国家の名誉にかけて、全力をあげて崇高な理想と目的を達成することを誓う。」(一部編集)

 私はこの宣言文がアメリカ人が考えたものであろうと、火星人が考えたものであろうと単純に名文だと思う。

 このシリーズの最終回にこれを持ってきたのは、私たちは良き有権者となったのち、立派な国家を建築していくわけであるが、立派な国家とはなんなのか?その答えが、憲法の前文に表現されており、その象徴が平和主義であると考えるからである。

 

2 プロトコル

 私は、よく、子供たちに、学問を学ぶ上では、枝葉の技術でなく、その学問が持つ哲学を理解せよと言ってきたが、結局伝わったことが無い。

受験勉強を戦った者の多くが知っている。知識を積み重ね、積み重ね。やがて線となり、面となり、あるとき、その学問の根っこに横たわる原則のようなものに触れる。学問というものには、いずれかおそらくそのような、哲学のような原則があり、それさえわかれば、きっと知らない問題が出てきても対応できるようになる。そうなると、その学問では無敵だ。地獄と苦行の連続の日々に、しばし、喜びの時が現れる。

 

 書道において、「永」という字は、点、はね、はらいなど必要とされる八つの技法が凝縮されているという。つまりこれさえ毎日書いていれば、難しい漢字だって書けるし、そのうち武田双雲先生のようなものにもたどりつくかもしれない。

 

 わたしはこれらの、ある分野の深層に横たわっている哲学的規則を、コンピューター用語から「プロトコル」と呼んでいる。

 コンピューターに詳しい人ならわかるだろうが、あるシステムにおいて、それを司るプロトコルを操れるものは、そのシステムにおける「神」である。

 

 今では、キアヌ・リーブス主演のマトリックスという映画を知っている世代も減ってきて残念だが、是非観てほしい。

 映画の世界観は、近未来において、人は皆電線に繋がれ、バーチャル世界の中で暮らしているという設定だ。まだまだ、VRの世界は発展途上だが、そのうち自分が存在する世界がバーチャルの世界ではないと断言できない時代がくるだろう。

 そんな時代の話。映画マトリックスでは、悪人と戦う主人公NEOが、ある時、突然覚醒して、バーチャル世界を作り上げているシステムの基本言語を理解してしまい、バーチャル世界のアバターに過ぎないにも拘らず、自分の都合の良いように、その世界の設定を自在に変更できるようになる場面がある。

 観た人の8割が感動する場面だが、彼が見つけたものが、その世界の基本原則、プロトコルである。

 

 世界の物理学者は、必死で、時空の謎と戦い、とりわけ最も難敵である重力の謎と戦っている。彼らは、何を探しているのか?それは神の設計図、神のプロトコルなのである。

 

 プロトコルに触れたとき、人はその分野の神になる。

 

 世界で最も優れた有権者というのはどういうものなのか?それもまだきっと答えは出ていない。しかし、通常に人間が望むものは、たいていこうではないか?

 「幸福で、平和で、不満をあまり言わなくて良い世の中。」

 日本国憲法に定めらえた平和主義は、戦争を犯した者が、その咎として課されたものかもしれない。しかし、結果的に最も優れた有権者を目指すものと一致しているのではないか?

 私は、このブログで、平和を科学的に解明し得る学問を創設すべきだと言ってきている。その最終目的は、平和のプロトコルに触れ、自在に争乱を治める世界が来ることを目指すものだ。

 同じように、日本国憲法下にある我々は、それが、生まれたときには押し付けらえていたものだったにしても、「世界で最も先進的な有権者になると同時に、世界に先駆けて、平和のプロトコルに挑む。」ということを宣言した、理想高き国民であることを、是非、誇りに思ってもらいたい。

 5つの要件を理解することから、まさに主権者たるもののプロトコルを掌握し、この目標に挑まんとするような教育が叶うのなら、百年はおろか五百年は安泰であろうよ。

 

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ラファエロ・サンティ「美しき女庭師」

 優れすぎていると言っても過言ではない、聖母子像の傑作中の傑作であり、まさに、平和を語る本稿の挿絵にふさわしい。

 女性はマリア、左の子はイエス、右の子はヨハネと言い、将来イエスに洗礼を受けさせ宗教の道に導く者であるが、この幸せそのものの風景の中で、無関係に、イエスの将来を暗示する十字架を握っているところが、ラファエロらしい、「コントラスト」だ。

 この作品は、三角図法の傑作とも呼ばれ、そのバランスが評価されるが、その水準は補助線(プロトコル)から逆に作品が描けてしまうほど正確だ。

 

 筆舌に尽くしがたいので、動画を作ってしまった。↓

 ラファエロ「美しき女庭師」:隠されたプロトコル/Youtube