説難

合理主義

  本ブログの柱の一つは、諸子百家の中でいまいちメジャーになりきれなかった韓非子について、その魅力を紹介するというものだ。そこで、彼の主張を紹介すると同時に、皆が聞いたことのある故事成語や説話が、実は韓非子の出典であることをアピールしてきた。しかし、それがためか、若干、各論に偏って来てしまった感がある。

 彼の魅力はむしろその独創的な総論の観念だ。

 終盤にかけては、その辺りに着手していきたいと思う。まずは彼の代名詞ともいえる合理主義だ。

 

〇合理主義の定義:感覚・経験ではなく、理性・論理(辻褄)・合理性に依拠する態度。(By Wikipedia)。

 他にもWEB上ではいろんな説明が載っていたが、総じて理にかなうもの(理屈に適合するもの)を基軸に考え、感情や感覚を否定または排除する考え方とされているようだ。

 このため、合理主義者は、基本的に冷たく非情な性格であると考えられがちである。

 

 しかし、実際の合理主義者と言うのは、決して、感情や感覚を否定する者ではない。

 私も合理主義者の端くれではあるが、すべての事象において理にかなうことを求めるわけではない。海・空・花木に対する感激はいつも無条件だし、異性に好意的に接せられると、やはりその子は可愛いと思う。絵画に関しては、いささか知恵がついたせいで、理屈が先に立つことが多くなったが、それでも、「どうしてあなたはそんなに・・・」と画前に立ち尽くす事はいくらでもある。

 いずれの事象も、なんらかの因果関係(理由)が有ることは承知しているが、別に詮索しようとは思わない。必要無いからだ。

 

 合理主義の真髄はある目的を達するにおいていかに無用なものを排除し、どれだけ効率的に目的を達成するかということである。一つ一つの手段が理にかなっていればおのずとその答えになると考えられている。

 そこに感情や感覚は不要であると考られているが、それは目的によって違ってくる。すなわち美しいものに感動する場合は、余計な詮索の方こそ不要なのだ。

 

 韓非子も国の統治において、合理主義を強く訴えたため、「非情な思想家」というレッテルが貼られてしまっているが、彼が合理性を求めているのは、統治者に対してである。

 代表的なものでは、「法を適用するにあたっては決して感情を挟んではいけない。《法》」「如何に信用できる臣下であっても、賞を与える権力と罰を与える権力(二柄)は与えてはいけない。《術》」といったものだ。

 ちなみに、この《法》《術》の2点は、韓非子の思想のメインシャフトであり、それさえ守っていれば、凡庸な君主でも宗廟に座したままで国が治ると言う(用人篇他各所)。(この凡庸な君主でもと言うところが私は大好きだ。)

 一方で人身の感情や感覚を否定したり、統制するような考えはまるで無い。むしろ、多くの人間が「そうしたい」と考えるもの、そう、人の欲望というものをつぶさに観察し、これを効率よく利用することを訴えている。

 それでは、まるで非情な人ではないじゃないか?と言うことになるのだが、事はそれほど単純ではない。ただ、今回は、合理主義というものについてもう少し考察したいので、その件は後日とする。

 

-閉話休題- さて少し変わった話をしよう。

 合理主義は科学の象徴であり、その対極に位置するものと言われているのが「神」だ。そこで宇宙創造を例に両者について考察してみよう。

 

 現在時空を構成している最も小さな素粒子は、「粒」ではなく輪ゴムのような「弦」ではないかと言われている。1つの粒子が固定の状態で安定するためには、動かずにじっとしているよりも、安定したリズムで揺れている弦である方が、いろんな実験から辻褄が合うらしい。

 しかし揺れていると言う事は、動いていると言うことであり、そのリズムが常に安定している保証は無い。

 

 その昔宇宙は1つの素粒子で、安定したリズムを刻んでいたが、なんらかの理由でそのリズムが揺らぎ、そのバランスが崩れた。

 ノーベル賞受賞者南部陽一郎氏は、これを「対称性の自発的破れ」と呼び、そのバランスを戻そうとして発生する粒子をヒッグス粒子と呼んだ。

 揺らぎはバランスを戻そうと別の素粒子を生み、その素粒子もまた不安定なリズムを刻むものだから、連鎖的に症状は悪化をたどり、一定の数の不安定が集積した時一気に大爆発が起こった。これがいわゆるビックバン宇宙論だ。

 

と言うことで

 キリスト教ユダヤ教イスラム教が信じる神ヤファイエは、宇宙の創造主ではない。

 大日如来もだな。

 創造主がいるとするならば、最初の弦を弾いたやつだ。こいつには何の意思も計画も無い。

 人は、運命を何らかの意思が働いた結果だと考えようとするが、身も蓋も無い言い方をすると、神にすがって九死に一生を得るのも、慈悲を受けられず生皮を剥がされるのも、あるルール上の一つの解、例えばカードゲームで選ばれるカード、すなわち「確率」に過ぎない。

 これが合理主義の世界だ。

 

 ところが、如何に科学が宇宙開闢に神は関係していなくて、この宇宙を意図的に操作できる存在はいないと証明したとしても、多くの人はきっと神を信じるだろう。

 実際、私も信じている。出世のチャンスが訪れる度に、パワハラ上司に巡り合せやがった意地悪な神を。

 悲運はもちろん幸運だって、人はそれが確率の産物に過ぎないと言われても、嬉しくないのだ。

 どこかに、運命を変える力(すなわちは確率を操作する能力が有るという夢想的な話なのだが)が存在して、それを信仰することによって現実の苦しみから救われる、あるいは将来に期待が持てる。その観念は漫然と存在するのだ。

 これが、感情の世界だ。

 

 合理主義は、これを排除するのではなく、むしろ効率化のために利用する。

 

 現在、多くの国が、この信仰を利用して効率的に国を治めている。そうなのであれば、信仰と言う感情は、一つの目的を達するのに無用なものではなく、むしろ有益なものである。

 韓非子の手法は、これに近いと言って良い。

 ただし、一応言っておくが、信仰は自由でなければならない。指定された神を信じなければ基本的人権を保障されないなどと言う国家は近代国家とは言えない。

 

 ところで、目下、平和学を起草する私も、戦争の悲惨さを感情的に訴えることよりも、科学的に経済学的にその行為が損失であることを説明しようとしている。当初は、感情的に悲惨さを訴える事も、情報の拡散のために必要だと言っていたが、最近の論調では、むしろミスディレクトを引き起こす邪魔な存在とまで考え始めていた。

 人民の立場に立ち、その感情を掌握した上での合理主義。と言う韓非子先生の教えを忘れ始めていた。

 

 韓非子を始め、法家の人々、兵法の孫子マキャベリ。非情な思想家と言われた彼らは、古典の中でも人間観察を行っている点ではおそらく卓抜していると思われる。ぜひ他の諸氏と読み比べてもらいたい。

 合理主義に必要なのは理にかなっているものだけを集めることではなく、無用無益と思われるような感情感覚もよく観察し、その上で目的を達する上で必要なものは取り組み、邪魔になるものを排除していくことであり、それにより、優れた効率的なシステムが作られていくのである。

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ヨハネス・フェルメール真珠の耳飾りの少女

 北欧のモナリザと言われた傑作。かなり有名ですね。

 以前は「青いターバンの少女」とも呼ばれていたんですよ。

 フェルメールブルーと言われるラピスラズリのウルトラマリンブルー(直訳して海を越えてやってきた青)が、とても印象的です。何で改名したんでしょうね。

 しかも、この真珠の耳飾り、完全体じゃないんですよね。

 フェルメールの卓越した、技法が使用されているんですが。

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 真珠の上部と下部が描かれ、間が抜けていますね。フェルメールはまだフロイトが生まれる前から、人間の脳が、自然に足りない部分を補足する現象(錯視)を見抜いていたんです。

 そして、あえて空白とした部分を、鑑賞者が自由に補足することで、観る人によって違う真珠の耳飾りを演出したのです。

 人間の心理を巧みに掌握し、自分は手を施さず完成に導く。韓非子の目指した君主の如きですね。