説難

ブレイクダウンⅱ平和が不都合な人たち

1 戦争の決算書

 以前より戦争を経済学的に、いや、もっと論理的に、会計学的に解析したいと願ってきた。

 戦争行為は、会計学的に損なのか得なのか?国民が株主であるとするならば、その所有物である国家が、その起こした戦争行為について、果たしてちゃんと国民の利益になったと言う会計報告書が出せるのか?という問いである。

 以前、ブレイクアウト〜非合理的な選択でも検証したが、少なくとも第二次大戦以降の戦争は、少し検討すれば、大赤字で、通常の経済主体が行う行為ではないことがわかる。

 ゼニ勘定ですべてが決まるものではないと言う人も居るだろうが、孫子に曰く(火攻篇)「利に非ざれば動かず」。数値と計算の根拠の無い国家の決断は、やはり合理的でない。

 なぜ、赤字とわかっていて戦争が行われるのか?そこでいくつか、うがってみていくと、平和が不都合な人たちや、戦火に笑う者の存在が見えてくる。

 

2 減損会計

 兵器の耐用年数と言うものがあることをご存知だろうか

 防衛省財務省に毎年決算報告を提出するのだが、その際保有している有形固定資産については、通常の財務諸表規則に乗っ取り、耐用年数に応じて減価償却した資産価値を計上することになっている。したがって、兵器にも耐用年数と言うものが存在する。

 実際の年数を示した資料を提示できなくて申し訳ないが、私の記憶するところでは、戦車は8年から10年、戦闘機は25年から27年、戦艦等に至ってはマンション以上の耐用年数があったかと思う。

 いずれも民間の同系物に比べるとやや長めに設定されている。考えてみれば当然だろう。民間のそれに比べれば十分に費用をかけているし、頑丈にできているのだから。それに、耐用年数が長いと言う事は、1年ごとの費用が少ないということであり、これを販売する業者にとってはセールスポイントにもなるだろう。

 次に減損会計と言う言葉をご存知だろうか企業と言うものは、含み損を隠したがるものだから、2006年に計上が義務付けられた会計で、最近注目されている項目だ。

 内容は、減価償却が終了していない耐用年数が経過していない)資産の実質的資産価値の滅失、もしくは著しく低下していることが見込まれる場合はその含み損を計上することを義務づけたものである。

 突然にこのような会計学的な話を始めたのには、私がこの減損会計を学んだ時に、他の損失とは違う強い違和感を受けたからだ。

 おおむねの企業の仕入れを含め出費と呼ばれるものは、対価としての資産が外部へ流出し、一見その企業としては損失であるが、反面これを受け取るものが存在するわけで、国民経済全体としてはプラスマイナスがほぼゼロになるはずだ。

 しかしながら、この減損会計とやらは、1業の損失がまるで誰の得にもならない不思議な損失に思えたのである。

 しばらくして、規格外の減損会計が存在している現実に気づく。

 兵器の使用だ。

 本来であれば民間の同様な資産に比べ十分に耐用年数がある機械や車両が、耐用年数の10分の1レベルで除却されていく。あまりにも莫大な減損だ。このまるで誰も得をしない経済活動がなぜ成り立っているのか疑問に感じた。

 しばらくして、ある結論にたどり着いた。「めちゃくちゃ得をしている奴がいるではないか!」

 もし兵器が使用されなければ、販売の機会が10年に1回しか回ってこない戦車が、2年に11年に1回、発注が行われるとなると得をするのは誰か?そう軍需産業である。

 

 皆さんこの話を聞いて、何を回りくどいことを言っているのだ。戦争が起きれば兵器が必要になる。そうすれば兵器を生産する軍需産業が儲かる。誰でもわかることだ。と感じるかもしれない。

 

 しかし、私が言いたいのは、兵器というものは使用しなければ長持ちするもので、人類を何回も絶滅できるほど各国が配備しきっている状況においては、軍需産業にとっては、新規の発注は当分見込めないわけで、そして、その耐用年数が尽きるまで、地代と人件費を払い続けなければいけないのである。

 じゃあとっとと事業規模を縮小すればいいのだが、ひとたび本当に戦争が起きると、軍需産業は、必需産業となるので残しておかなければならない。つまり彼らは、戦争で儲る人たちというよりも「平和が不都合な人たち」と表現すべきなのだ。

 

 最近の紛争のほとんどは、正直なところもう少し頭を使って、話し合えば片付くようなことが多いように思う。あえて言うが「平地に乱を起こしている」奴らがいるように思えてならない。

 護身用の専守防衛と言っては武器を持とうとする奴らが後を絶たないが、手に入れた武器は使用しなければ意味がないと必ず感じるのだ。黙って耐用年数分寝かせることができない。そこをついて、佞人(ネイジン)が、よからぬ工作をして、たぶらかされた連中が兵器の使用に大義名分をこじつける。自分たちが頭が悪い種族であることをそろそろ自覚すべきだ。

 

 この呪縛を抜ける方法は、兵器の製造を、国家が管理するという手法だ。大体営利企業に主導権が残っていること自体が問題なのだ。

 国家権力(つまり我々国民と言う主権者)が強制的に軍需産業からノーハウだけを買い取り、国家がしかるべき機関で監督し、万が一の事態が生じた場合には、そのノーハウを民間に開放し、工場設備を一気に稼働させれば良い。平時に不要な軍需産業設備施設があるから、耐用年数の終了を待てないのだ。

 

3 人的損失

 経済学の世界では、ある経済主体の損失は別の経済主体の収益となり、財がある程度循環すると考えられている。しかし、まるで循環しない財的損失がある。

 人命と言う財産だ。

 平時においては、非常に貴重なものとして取り扱われるわけであるが、戦時においてはその価値は紙以下に暴落する。このメカニズムについては、以前ブレイクアウトⅲ 命が深刻な問題でなくなる時 で説明した。

 おびただしい量の人命と言う財産が費消されるが、対応して収益を得る経済主体は存在しない。かろうじて彼らが人命を賭して励んだ労働により兵器が破壊される。すると、前述の減損が発生し、軍需産業に発注と言う収益がもたらされるが。空襲で焼かれる多くの民間人の命と言う財産の損失は、経済学上は、費用にも消費にも、ましてや収益や所得にもならない。

 経済学上は、「0」なのだ。

 さらに、戦時中に投下される膨大な量の労働力のほとんどが、戦闘上の兵器の破壊とそれを補充するための製造に投下されるわけであるから、結局は上記の減損会計の流れの通り、軍需産業の利益のために投下されたものとつながってしまう。どうせその労働賃金も、大義や名誉の名のもとに、実質より低く抑えられている。

 戦争中、私たち人間は何をしているかと言うと、命の価値を紙以下に暴落させられて、兵器の耐用年数を無理やりカットして、ひたすら減損を生み出し、軍需産業を儲けさせているということだ。

 

4 借入利息

 もう一つ、多くの人民の血が流れるなか、高笑い止まらない連中を紹介しておこう。

 膨大な戦費が一時に国家に存在するわけではないのに、降ってわいたかのごとく打ち出の小槌がいくつも現れる。多くの投資家や資産家が、国の戦争に加担しお金を貸すのだ。

 彼らは、「平和が不都合な人たち」ではない、ただの「戦火に笑う者」だ。

 先日、社会保障をまともに払えもしないのに、国債の利息はしっかり払っている、とこの国のことを揶揄したが、同じように戦災で疲弊した国民を救うことはできないのに、戦時国債の利息はきっちり払われる。国家は国民の窮状を救うよりも、国家の信頼の失墜を懸念する。次回戦争を行うために、その際お金が借りられるように自国の信頼を失わないことを優先するのだ。ここでもまた人命は紙より安く扱われている。

 

 さて、今回は、費用の面から戦争の決算を見てみた。

 これだけ食い物にされて、国家に何の身入りも無いのでは、さすがに悲しい。

 次回は「ブレイクダウンⅲ勝者の配当」と題して、収益面の分析を行う。

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 セザンヌ「サント・ビクトール山」

 セザンヌ後期印象派の画家。印象派は光を追い求める中、輪郭線の喪失に悩み始める。セザンヌは、現実世界には、輪郭線と言うものは無く、人が見ている情景は、色の違う「面」の集合であるという作風にたどり着く。彼は取りつかれたように、サント・ビクトール山を何度も描き、その度に、不要なものが滅失されていく。やがて、この情景を複数の「面」の集合体と捉える考えが、ピカソの「キュビズム」のヒントとなる。

 分割・削減・滅失が産む奇跡。半ばテーマにこじつけた感があるが、一つ感じてほしいことがある。

 セザンヌのファンの方には申し訳ないが、この絵画、光や音は捉えているが、空気や時間や命が失われかけている。そして、それは、名画と呼ばれるものが持つ必須アイテムでもある。(ちなみにピカソキュビズムは、見た目は意味不明だが、うるさいほどにそういうものを表現している。)

 同じように、人的損失を「0」と換算するようになったら、その戦争はどのような大義名分が有ろうと、チャレンジであろうと、名画にはなり得ないのである。