説難

Borderline

 中学高校とひょんなことで馬が合った不良グループと付き合っていた。

 人とは違う経験をさせてくれるとても大切な友人たちだった。

 

 兄の影響でサーフィンを始めた。運動がまるでできなかった私だが、なぜかこいつだけは必死で打ちこめた。当時不良少年とサーファーというのはセットみたいなところが有って、瞬く間に友人たちの間でも広がった。

 高校3年の夏休み、良波を求めて、四国を旅行中、国公立大学(今でいうセンター試験、当時は共通一次と言われていた)を目指していた私は、友人たちに、「この旅行が終わったら、一日10時間の地獄の日々に突入する。」と宣言した。

 「半年くらい家にこもるが、終わったらまたバカをやろう!」

 しかし、友人たちの反応は予想以上に深刻だった。

 「いつか言わなければいけないと思っていた。お前は俺たちの仲間じゃない」と。

 「受験でしんどい時が有ったら助けてやる。勉強は教えられんけど。でも、受験が終わっても帰って来るな。お前の進む道に俺らのような存在は不釣り合いや。」

 

 実は私も、他の友人や先輩・親、警察にまで言われていた。ずっと一緒には居られない。居てはいけない間柄だ。と。だから、本当は戻れないかもしれないと感じていた。

 

 四国のローカル線の車内、グループ全員が押し黙った。

 当時は、列車の中でラジカセ(音楽を流す機械)を聴くのが主流だったが、テープの反転中らしく、音楽も止まっていた。

 沈黙が続く中、列車はトンネルに入り、ゴーゴーと騒音が響く。

 

 トンネルを抜けて、広々と田園地帯の景色が広がり、騒音が止んだ瞬間、オルゴールをつま弾くようなイントロが聞こえ始めた。

 

Madonnaの名曲「Borderline」だった。 (リンク:YouTube_Official Music Video)

 

 あまりの劇的なタイミングに、一同「ウォオー」と感嘆の声を上げる。そして爆笑。

そして笑みをたたえつつ涙。

 

 受験のために付き合っている友人と別れるなんて、あまり聞いたことが無いという人も多いだろうが、すでに中退はもちろん、時折鑑別所や少年院にご旅行に行き、何人かはお肌に絵も描かれている人たちにスカウトされ、電話番なんぞのアルバイトも始めているような次第で。

 それに比べて、喧嘩はまるっきり弱いし、そもそも気が弱い。そのうえ、後日事情を話すが、中学3年生の時から家庭教師を付けてもらっていて、そこそこ勉強はできた。

 だから友人たちはずっとそう思っていたようだ。

 「こいつと居ると楽しいけれど、こいつの為にはならないのだ。いつか俺たちの道はたがう。」

 ここが私たちのborderlineなのだろう。

 

 帰宅後、宣言通り地獄の受験に入る。

 誰もが受験中のヘビーローテーションを持っているだろう。

 私のヘビーローテーションは、当然このBorderlineとなる。まあ、受験の合格ラインをborderlineと言うしね。

 その日の勉強量が8~9時間ごろになって、目標の課題にまるで追いつけそうになく、泣きそうなとき、こいつを聴く。

 「捨てなければいけなかった、大切なものを思えば、採算の合う成果を得るしかない。」

 

You just keep on pushing my love over the borderline

 「『あなたは私の愛を境界線の外に押し退け続ける。』悲しいねえ。思いがどうしても届かないんだね。」札付きの不良少年を、国公立受験者にまで導いた私の家庭教師は、その歌詞をこう訳す。(英語の歌を耳コピで訳し、字幕を読まずに洋画を見るこの大学生に憧れたのも頑張れた要因の一つだが)。

 

 Madonnaは何度もシャウトして訴える。borderlineを超えらないくやしさを。 

 borderlineには、もともと、壁や段差のような立体的物理的障害は存在していない。平面上に、描線すら存在しない。

 borderlineには、そこに入る資格を有するか否か?その違いしか存在しないのだ。

 

 私は大学生になりたかった。できれば国公立の。

 私の母校は、お世辞にも進学校とは言えない高校だった。

 学年の進学率は、3割程度だろう。当時、現役で4年生の国公立に合格した生徒は創立以来まだ居なかった(浪人組や国公立の短大なら居たのだが)。

 推薦・私学と試験が終わっていく中、500人の同級生のうち、共通一次(後のセンター試験)に臨む生徒は、十数人しか残っていなかった。それでも豊作の年だったらしい。

 

 若干の不運(後日話すが)と学力不足で、昼の大学には行けなかったが、憧れの国公立の夜学に合格した。

 その年、我が校は、創立以来初の現役での4年生の国公立合格者を二人輩出する(私は夜間で5年制だけどね)。

 

 少し話が逸れるが、ちょっとやばい目の不祥事を起こして、事なかれ主義の校長に、直接、退学勧告を受けた事が有った。私自身もやけになりかけていたが、熱意の有る数人の教師に救ってもらい、退学は免れた。

 あの校長に青少年の可能性を見せつけられたかは定かではないが、助けて頂いた先生方には、多少恩返しができたかと思う。

 

 それと並行して、同じ高校3年生の冬、今の役所の試験に合格した。

 そこで、夜間学校に通いながら、仕事をすることになる。

  

 1年間全寮制の研修所に監禁され、久ぶりに地元に帰った時に、親友のSに連絡してみたら、あっという間に仲間が集まり、みんなで春先の海に行った。

 相変わらずの馬鹿騒ぎをしていたら、地元の人だろうか、イケイケの兄ちゃん達に注意されてしまった。

 喧嘩上等の連中である。まず乱闘は避けられないと覚悟した。

 しかし、私の友人たちは、「失礼しました!」と言って気持ち悪いほど素直にその場を離れた。

 ほっとしていたら、近場で角材などの武器を拾い始めた。むしろ展開が悪化しているではないかと焦った。

 ところがSが突然私の首根っこを掴んで「ほな、こいつは俺が連れて帰るわ!結果はまた教えてや。」と言って私をバイクの後部座席に乗せてしまった。

 戦力にならない私を外すのは有りにしても、Sは並みのボスキャラレベルではない。彼を欠くのはかなりの戦力ダウンだ。

 しかしみんなはそれが当然の選択であるようで、ニカニカ笑うばかりだった。

 

 帰りのバイクでSの背中に抱き着いていると。

 「一日会うただけでこれやもんなあ。ええ歳こいて、やってる事変わらんちゅうか、さらにひどくなるだけやわ。」

 「公務員かあ。すごいなあ。元暴走族の公務員てどれくらいおるんやろうなあ。

 あ、でも絶対そんなこと言うたらあかんで。」

 

 また私の中にあのフレーズが流れる

You just keep on pushing my love over the borderline

 

 夜学とは言え、一応関西では名の知れた国公立なので、授業の方は本格的で、夜間だから手を抜くと言う事はなかった。多少単位の取得のハードルは低かったかもしれないが、仕事をしながらと言うハンデの前に、多くの同級生が進級できずに去って行った。

 それでも、私は、手放したものに見合う成果物を得るまでは、その道を進むしかなく、とりあえず留年することなく、5年で卒業した。

 残念ながら職場で私がそこの卒業生であること知っている人は少ない。高卒のくせに小難しいことを知っていると言われて、逆に損することの方が多かった。

 それでも、私が自力で獲得した最大のエンブレムだ。

 踏ん張りの効いた原因は、数え上げるときりがないが、たくさんの人の協力と応援と支えを感じる中、ひときわ際立つのは、四国のローカル線で聞いたBorderlineの思い出なのだった。

f:id:Kanpishi:20200509234331j:plain オーギュスト・ルノワール「雨傘」

 印象派の重鎮で知られるルノワールであるが、実は肝心の印象派展には、第3回を最後に基本的には参加していない。

 光を求めるだけでは真の幸福は描けないと感じた彼は、何度も野外でカンヴァスを並べた親友、クロード・モネとも道をたがえていく。

 この作品は、ルノワールの作風が、一転していること示す貴重な作品として有名だ。

 画面右側の傘を指す女性と、特に愛らしい少女は、従来の印象派的手法を色濃く反映しているが、左の買い物籠を持つ女性の筆致は、明らかに違っていて、ルノワール特有の輪郭線の曖昧さが消えている。

 印象派と袂を分かち、新しい作風を模索して、必死であがいていた様子がうかがえる。彼にとっては、この作品は、Borderlineなのだ。

 私は、印象派時代の彼の作品が好きだが、それを脱皮した後の作品を高く評価する声は多い。

 Borderlineを飛び超えることが、必ずしも成功につながるとは限らないだろうが、私の経験では、borderlineを超えるには、必ず捨てざるを得ないものが有って、その代償を求めることが、その先の道のりを突き進む原動力になると信じている。

 後年リウマチに悩まされながら、筆を手首に結び付けて描き続けていたルノワールは、78歳のある朝「花の絵を描きたい。」と女中に依頼し、女中が持ってきたアネモネの絵を描き始め、伝説の名言、“ようやく何か分かりかけてきたような気がする。” を呟き、その日の夕方に他界する。

 後ろを向くのも含めて「暇な人生なんて存在しない」と信じさせてくれたエピソードだ。