説難

ブレイクスルー

 

 本ブログのテーマの1つは平和学の創設であるが、当初の目論見では経済学のように一般社会の全体の効用(幸福)が科学的思考によって最大化される手法を編み出す学問を嘱望していた。

 本筋の見解としては、平和の効用を科学的に証明し、その維持に必要な措置を検討する体系を取りたかった。いわゆる戦争批判によるアンチテーゼとしての平和の訴えは避けるつもりでいた。

 しかし、実際には、戦争の愚策を、感情や道義的な観点から訴えるのではなく、合理的に理性的に科学的に否定できることを主張したいという欲求の方が強くなり、その部分が大半を占めてしまった。これでは、現在すでに発展しつつある「戦争論」の一考に過ぎないものになりかねない。

 

 とは言え、今更当初の目論見に立ち返って議論を展開する期間はもうなくなってきた。

 しかしながら、これらの投稿が無駄になるものではないと考えている。

 というのも、最終論文においては、当初の目論見に立ち返って、平和の効用と、その最大化及び維持継続を中核とした論線を張ろうと考えているが、その中でも、当然対極に立つ戦争を否定する部分は不可避である。これらの否定根拠について多くの文面を割くことなく、本ブログの投稿の引用を用いると言う手段を使えば、当初の目論見である平和の効用の最大化がよりクローズアップできることになろう。

 

 ブレイクシリーズは、戦争の愚策を説き、その改善策をこのブレイクスルーで論ずるという構想の下に展開してきた。元旦の投稿でも示しているように、概ねの絵は描けていたのだが、ストーミングは常に変化するもので、ひとつ面白い発見が有った。

 私は、永らく、国民は国家が始めた、あるいは一部の利害者のために始められた戦争による犠牲者だと考えてきた。そして、合理主義によりその不合理を質そうと考えてきた。しかし、実は、私の合理主義に一番立ちはだかってくるのは、国民の欲望と熱狂と言う「集団心理」ではないかと感じ始めたのだ。

 なかなかに手ごわい敵であったが、この集団心理については、「自由」のうちの1つだと捉えることで、私の描きつつある合理主義的解決策に組み込めて行けるのではないかという発想に辿り着くことができた。

 

 さて、前置きが長くなったが、ブレイクスルー、戦争を回避する方法を考察しよう。

 

P 衝突を避けるロジック

 戦争とは、外交政策の決裂の先に有るものである。どの国も当然自国の利益を優先するのはもちろんである。また、それを行う事は国家の主権として認められた自由である。しかし何度も本ブログで伝えているように、自由とは公共の福祉に反しない限りの制限された自由である。すなわち他人に迷惑をかける自由は、あるいは他人の自由を侵害する自由は認められないのである。

 ある国家のある政策が、動悸が不純であろうと、野蛮であろうと、前時代的であろうと、差別が根幹に有ろうと、その国家の自由である。国民の低俗な熱狂もその自由の範囲内であり、私の前に新たに立ちはだかった国民の欲望と熱狂と言う「集団心理」もその自由の一つである。

 しかし、一つの国家の自由を無制限に認めれば、知っての通り、万国の万国に対する闘争と言う事になる。(残念なことに、世界の大半の国が、知的生命体が構築したものとしては実に不細工で無秩序な、この世界との境界線に居ることを恥じていない。)

 当たり前のことだが、自由とは、あくまで他国の自由(自国内の一部の集団の自由を含む)を侵害しないものである。小学生でもわかるロジックではないか?

 

D ベルキャット

 イソップ童話のネズミの発言「怖い猫に鈴をつけるというのはよいアイデアだが、誰がその鈴をつけるのだ。」

 他国の自由を侵害する自由は認められない。

 簡単なロジックだが、問題は、その逸脱した自由を誰が監視し抑制するかである。

 「やってはいけません。恥ずかしいからやめなさい。」で通るなら警察は要らない。

 

 国連と言う組織がその任務を担っていると信じているのだが、先日のWHOにおける台湾の出席拒否を見ていると、とてもその目的の通りには運用されているとは言い難い。

 どうして、国連は各国の利害を調整することに成功しないのか?

 

 国家内においては、ずいぶん前からジョン・ロックの社会契約論が取り入れられ、全員の自由を守るためにそれぞれが1部の自由を国家に預託すると言うシステムが確立されている。同じような考え方が世界的に適用されれば、国連ももう少しうまく機能するはずである。

 しかし、すべての国家が、ジョン・ロックの社会契約論の意味を理解できるだけの理性に達するのは非常に困難である。

 少なくとも、万人の万人に対する闘争を唱えたポップスやジョンロックの時代のイギリスのように、一般庶民が基本的人権とある程度の自由を既に獲得している状態でなければ、制限された自由と言うものが理解できない。

 私たち日本人は敗戦により与えられた自由のため、私たちですら社会契約論を論じることができる人間は少ない。ましてや抑圧された世界が当然で、教育的に国家元首を崇拝することを既定化されているような発展途上国にそれを求めるのかなり厳しい。

 

 しかし、「人は生まれ流れながらにして自由であり、反面その自由は、他人の迷惑をかけたり、他人の自由を侵害してはいけないと言う制約を受ける」。同じように、「国家の主権もまた他国に干渉されない自由を持つが、他国に迷惑をかけたり他国の自由を侵していけない。」という、その単純な話を、世界77億人の人々に伝えることはそんなに困難だろうか?

 すくなくとも、中国のようなある程度の経済力を持った国家が、いまだにこの程度の理念が理解できないようならば指をさして馬鹿にしてやる方が良いように思う。

 

 宗教や国体の護持のために普通選挙が行えないのは結構だが、ある程度の経済力を持った国には、「基本的人権」と「初等教育」の保全義務を与えるべきである。

 頭の良いネズミが増えれば、猫は鈴をつけられる前に悪さができなくなる。

 

C 勝てば官軍

 これは未だにまとめ切れていないのだが、平和を維持することによって、具体的にどれだけの効用が有るというのだろう?

 戦争の愚行については、散々コケにしてきたが、平和のもたらす緊張感の無い世界や競争心の低下が、人類にとっては、退廃や退化と言ったマイナスをもたらすという可能性も無きにしも非ずであろう。

 しかし、私には、やはり、感情的な選択の先に有るものが、理性的な選択の先に有るものに勝るとは思えない。

 ただ今のところ、その根拠はない。

 やってみなければ確かに、誰にも正しい答えとは言えないのだ。

 P,Dをやってみて、指標を評価し、勝っていれば官軍、負けていれば・・・。

 勝つまで問題点を修正し続けるのさ。

 それが正しいことは、一つの科学から証拠を提出できる。

 「歴史」が、人類はそうやって理性を追うことで発展してしてきたという事実を示しているのだ。

 

A やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ

 もっとナレッジが必要だ。

 ブレイクシリーズの中で、私は時折、経済学・会計学・社会哲学などの専門的な考察を取り入れてきた。中には、それが本当に必要かというものも有ったかもしれない。

 しかし、私の意図は、持論の正当性を難しい言葉でそれらしく見せようとしたり、ましてや知識をひけらかすことではない。私は、この、端的に言うと、理性と感情との戦いへの参戦が、どのような学問からも可能であるという、「科学的アプローチ」の可能性を示唆したかったのだ。

 何度か本ブログでも言っているように、私が、平和のプロトコルを見つけられるとは到底思っていない。

 いつしか、もっと知的レベルの高い人が、私のブログに触れることが有り、まじめに、いやむしろ面白がってでもよい、感情や道義的ではないアプローチから「平和を科学すること」がスタンダードになることに興味を持ってくれるよう、敢えて、専門的なところに踏み込んでいるのだ。

 経済学だって、300年経っても「経国済民」の理想を実現しているとは言い難い。

 Cで現れた問題点をことごとく解決し、戦争が選ばれず、理性的な平和がもっとも効用を最大化することを立証してくれる学者が現れることを期待して止まないのである。

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アルフォンス・ミュシャ『ジスモンダ』

 ジスモンダは、このポスター以降ミュシャを専属に指定する女優、サラ・ベルナールの劇場劇のタイトルである。

 しがない挿絵画家だった、ミュシャはピンチヒッターで引き受けたこのポスターの発表により、一躍スターダムにのし上がる。

 本来縦細い絵画なのだが、展覧会で撮影が許されたので、一番好きな上半身を見上げる角度の写真を掲載した。(せっかく撮影が許されているのに、天井のライトの映り込みが避けられないのは、主催者側のミスだな。)

 立体表現に限界のあるポスターと言う世界の中で、すでに、レンブラント並みの表現と、左手を飾るシュロの葉が、後にアールヌーボーと呼ばれ、芸術界を席巻する絶妙な曲線美を彷彿させる。

 世を動かす才能は多々あるけれど、世に出るチャンスを得られなかった画家をたくさん知っている。しかし、ミュシャのように、1枚の絵でその才能を発覚させた画家もたくさん知っている。

 私のブログに彼らに並ぶ才能が有るのか否かは至って疑問だが、とにかく専門家の目に触れられるチャンスが巡ってくることを期待する。