説難

主権の鼎

パブロ・ピカソラス・メニーナス

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 本ブログの最初に取り上げた中世スペインの宮廷画家ディエゴ・ベラスケスの作品を、かの有名なパブロ・ピカソがオマージュしたものである。

 私は、東京都美術館で初めてこの作品に出合った時、震えが止まらなくなり、そのまま風邪をひいてしまった。

 

1 暗号

 暗号と言うのは、暗号文ばかりを見ていても決して解けることは無い。その暗号文が何を意味するかといういわゆる複合文(平文)を聞かされて、頭の良い人が、ようやく双方の関連性に規則性を見出し、解読する。

 私も、ピカソの絵は何枚見ても意味不明だった。

 しかし、平文のラス・メニーナスを知っていた私は、この絵に触れた途端に、彼がやっていることのほとんどを理解した。一見デフォルメの課程で、元の部品を相当割愛していると思いきや、何一つ割愛せず、濃淡をあからさまにして表現している。気になったものを強調し、気にならなかったものを軽く表現する。そのルールがわかれば、「泣く女」「夢」「アビニオンの女たち」「ゲルニカ」の元の姿(平文)がおおよそ予想できるようになってきた。

 ヘレン・ケラーが「water!」と叫んだ時のような戦慄を感じた。

 暗号が解けたのだ。

 

 しかし、ヒラメキには知識が必要だ。例えば、水=1、金=2、土=6なら「火」はなにか?逆に、3=「?」というよくある暗号クイズが有るが、これは太陽系の星の並びと言う知識を持っていれば簡単に解ける。逆に、それを知らない人はどこかでその知識を仕入れて来ない限り一生解けない。

 私も、もしこの二つの絵画に出会うタイミングが逆だったら、いや私は、この時点でラス・メニーナスの謎やディテールに相当詳しかった。もしその知識がなかったら、暗号は解けていなかっただろう。

 

 日本人にとって、「主権の鼎」は、敗戦と共に与えられたもので、高位の権力者を打倒して得たものではない。せっかく日本国憲法に書かれた素晴らしい主権の数々も、ピカソの絵のように、素晴らしい素晴らしいと人が言うので、そう認めているだけで、実はよくわかっていない、暗号のようなものと感じているのかもしれない。

 

 暗号を解く鍵は、知識と平文に有る。

 そこで私は、本カテゴリーにおいて、その知識として、憲法と言うものを主軸に主権とは何たるかを語り、平文としてその活用例を述べてきた。

 そしてその中で、最も訴えたかった暗号を解く鍵(複合キー)は、「主権は、多くの犠牲の上に獲得されたものである。」ということと「主権は、義務を伴い、制限を受ける。」と言う事であった。

 

2 申告納税制度

 この制度は、主権の一つであるが、その中でも最も複雑にして難解な暗号である。

 一見義務であるかのようだが、巧妙な仕組みを経て、強い主権に転じる。

 木っ端役人と称して、職種をあいまいにしてきた私だが、私の半生は、ほぼこの主権を維持せんがために捧げたようなものであるため、死ぬまでにどうしても書き残しておきたく、本カテゴリーの最終回にあたり、職種ばれを覚悟で語りたいと思う。

 いささか自伝的で、しかも普段の倍の字数と言う点は申し訳ないが、この私の実務における経験こそが、当該制度の平文となろう。

 是非その暗号を読み解き、主権の裏のそのまた裏を理解することの重要性を感じてもらえれば光栄である。

 

 申告納税制度は、戦後まもなくGHQの指導の下導入された。

 官憲が間取りや商業規模等で勝手に税額を決める「賦課課税方式」から、自分で利益を計算して申告する「申告税」への移行であった。

 納税は、憲法上は「義務」とされながらも、その計算と申告は、誰に強制されるわけではなく、国民が自主的に行うものとされ、それが、「国民主権」に立ったものである。という考え方であり、実に民主的な制度と言えた。

 しかし、世の中には、必ずズルをする者が現れる。「正直者が馬鹿を見る」社会がまかり通ったら、公平という国民の権利が守られない。

 そこで、国税組織はその任務として「適正公平な課税の実現」を掲げ、不適正な国民を取り締まり、もって、正直な「納税者」の公平という権利を守ること(業界用語で「公平を担保する」という)を目指した。

 主権者と行政官が協力して、人民の人民による人民のための納税を実現するための仕組であり、太平洋戦争で亡くなられた350万人の日本国民の屍の上に建てられた金字塔の一つである。

 これが自主申告制度の知識だ。

 

3 申告納税制度を担保するもの

 ここからは、我が国税組織が行ってきた、適正公平な課税の実現への戦いを通じて、その知識がいかに理解されず、苦難の道のりであったかを語ることで、実践例すなわち平文を示そうと思う。

 私が任官したころは、まだクロヨンなどと言う言葉が残っていて、給与所得者の所得の捕捉割合が9割に対し、事業所得者の所得の捕捉割合が6割と言われ、その不公平感が問題となっていた。

 適正に申告しない輩も蔓延っていたが、役所側にも問題を抱えていた。国家戦略を理解せず数字ばっかり追っかけている役人、そもそも、申告納税制度の存在意義を説明できないという、国家試験に通ってはいけないだろうという奴までいた。

 それでも、ここが我が組織の好きなところで、中長期で戦略を立て、一歩ずつ、少しずつ、悪しき習慣を駆逐し、攻略し、敵を仲間に引き込み、90年代以降、急速に改善、2003年の内閣府の報告によると、97年時点で、事業所得者の捕捉率は9割に達したという発表に至った。

 

 日々、困ったちゃんを見つけては、適正申告に導いている私達としては、まだまだ道半ばという印象は拭えないが、少なくとも、まじめな納税者が圧倒的に増えたことは、肌感覚としても実感している。以前のように、居酒屋で「真面目に申告する方がバカだ。」と吹聴するようなバカはいなくなった。日本の国でも、税金をごまかすことは恥であるという常識は備わってきたように思う。

 

 以前私は、「正直者がバカを見ない社会。」という、ややつかみどころの無いものが、私たちの任務だと考えていた。

 しかし、正直者が圧倒的多数になりつつある現在においては、「不正直者が損をする社会」という、かなりターゲットの絞られたものに変化してきた。

 すなわち、多数の国民が義務を履行することにより、官憲は、その履行者の権利の保全する(担保する)力をより強めるのである。官憲に統制されるのではなく、自分たちの行いにより、官憲を統制するのだ。これが、申告納税制度の裏の裏である。

 

 ただ、まだまだ、「税務署が怖いからまじめに申告する。」のであって、自分たちの権利が保全されるために官憲が存在するという考えに至りきれない人も多い。

 国力の基(もとい)なる、明日の税務を、官憲に委ねているうちは、真の主権の鼎を備えているとは言えないのだ。

 

4 サラリーマンたちの委任体質

 平成5年ごろからか、医療費控除などの還付申告がよく知られるようになり、多くのサラリーマンが税務署の窓口に押し寄せるようになったが、彼らは、ほとんどが確定申告書を自分で書こうとはしなかった。

 サラリーマンは源泉徴収制度により、普段は給料から天引きされた税金が、年末調整で精算されるので税金の計算をすることが無い。このため、彼らは、自分の税金の計算方法がどうなっているのかはおろか、自分の税金はいくらなのかすら知らなくて平気だったのだ。

 当初は、こちらで申告書を作成してあげていたが、来庁者の急増に、何とか自分で書いて自分で提出してもらうよう、大量の納税者の意識改革、「自主申告の推進」政策が始まった。

 

 元来、税務職員が確定申告書を代筆する行為は、税理士法52条につき違反である。それに、役所が提出書類を代筆するなど前代未聞だ。

 ユーザー車検陸運局に行ったことが有る。3万円の代行料が、激安に感じたよ。登記や遺言書、自分で裁判を起こす本人訴訟、役所は何一つ手伝わない。当たり前だ。それが、悲惨な戦争を経て勝ち取った国民の権利なのだ。

 国税組織は、適正に自主申告した「納税者」の権利を守るために存在する。従って、相談に応じ、指導を行うのは行政サービスの一環と言えるが、一向に独り立ちせず、自らその権利を放棄する者の自主申告による利益を保証する必要は無い。

 

 家業が会計事務所だった私は、過剰なサービスは申告納税制度の効果を損ない、国家の弊害となり得ると確信していた。

 そこを見込まれてか、ずっと、この「自主申告を推進」政策の最前線を渡り続けることになる。

 私の思考は苛烈だった。「公に服する者、弱者には手を差し伸べる。しかし、怠惰に手を差し伸べる必要は無い」。今は来庁者の不興を買い、痛みを伴ったとしても、将来全体として、自主申告の旗印が増える戦術を考案しては献策した。

 しかし、いつも近視眼で中途半端な正義感ぶったやつが、「来庁者が可哀そうだ。」と知ったような反対論を唱えた。

 しかも、そういう奴ほど裏では、「医療費控除なんかやめてしまえばよいのに。」などと言うのだ。まったく近視眼どころか、ものの見方すら知らんうすのろだ。医療費控除には何の問題もない。むしろ、サラリーマンが領収証を保存し、税金の計算を勉強する良い機会を与えているのだ。

 しかし、そんな論理や思考も、若く、力の無かった私には無用の長物だった。

 私の意に反し、来庁者とのトラブルを恐れ、自主申告の推進は一向に進まず、年々依存者が増え、来庁相談申告は全体の4割を超えるようになる。

 逆に言うと、残りの6割はまじめに、役所の手を借りずに申告しているのだ。なのに、その人たちの申告書の処理の時間が、どんどん圧迫されて遅れていく。

 

5 自主申告を進めるインフラ整備

 平成15年、その後「確定申告書等作成コーナー:通称「作コナ」」と呼ばれる、ネットで確定申告書が作成できるシステムが開発される。

 私は、たまたま、この前年に、電算系の虎の穴のような部署に出向し、泣く思いでパソコンを学んでいたので、当時誰にとっても難しかったこの新兵器の活用を任される。

 相変わらず、国家戦略の大綱を読もうともしない連中が、機械化を懐疑的に捉えて非協力的だったり、外側には、永年の習慣から、もはや役所が申告書を作成することが当然とまで考えている人まで増え始めていて、普及には相当苦労した。

 ただ状況は少し楽になった。「作コナ」は、毎年のようにリニューアルされたが、私は、どこへ行っても、どこが変わっても、誰よりこれを使いこなした。なぜなら、私が持つ自主申告推進のストラテジーと、国家が「作コナ」を通じてやろうしている未来構想・ストラテジーが一致していたからだ。何がしたいのかが分かるから、何をやっているのかが分かる。おかげで、私は一目を置かれることが多くなり、前線の指揮を任される機会が増えた。

 私が語る未来やスタラテジーを理解してくれた上司や後輩、そして何より、私の頼みなら少々難しいことでも喜んで手伝いますよ、と言ってついてきてくれた非常勤の職員さんたちのおかげで、最前線の一兵卒の局地的勝利に過ぎないが、転勤するごとに赴任先の作コナ使用率を飛躍的に向上させてきた。

 

 気が付けば、インフラも整い、中高年でもかなり自分で申告書を作る人が増えた。

 自力作成が「当然」となり、補助を受けるのは高齢者など特定の弱者に絞られるようになった。

 一人一人ができることをする。そうすれば官憲(役人)は、本当に必要な仕事に傾注できるのである。

 今では、指導する職員も熟練の知識を持っている必要がなくなり、更にスマホ申告の普及も始まり、申告指導の中心は若手にシフトしている。私ももはや前線ではお邪魔虫だ。

 高齢者や補助を必要とする来庁者の応対担当になって、やっと、直接「ありがとう」と言ってもらえる仕事に就けそうだと思っていたが、また次のスタラテジーが待っていて、そっちの前線に回されそうだ・・・

 

 しかし、「作コナ」の成功については、すべてを手放しでは喜べないところが有る。

 どうして、これだけの予算をつぎ込み、インフラを整備し、多数の人員を投入しないと、この結果に至らなかったのか?国税が開発した「作コナ」は素晴らしいシステムだが、民間の会計ソフトの需要を圧迫してしまった。

 やはり、国税は介入し過ぎたのではないか?

 

6 主権の鼎

 長い説得と推進の努力の中で、私は、日本国民の主権に対する自覚の無さと、その権利を官憲に委ねることに対する頓着の無さについて、非常に根深いものを感じた。

 官憲すなわち官僚や役人と言うものが信頼できる武士道文化の影響も考えられるが、官憲が五蠢化し、国家の運営が危ぶまれたとした時、実はその責任は自分に有るとは考えていない。当然、腐敗した官憲の責任だと皆主張するだろう。

 国民主権とは、勘違いされがちであるが、主権が国民一人一人にあると言う事よりも、国民一人一人が、国家の運営に責任が有ると言う事の方が重要なのである。

 木っ端役人の勤勉さと優秀さは今でも信じて頂きたいが、中央の官僚の方は、昔ほどレベルが高いようには思えない。主権者がいよいよ自覚を持つべき時代が来ている。

 

 日本初等教育では、実は、かなりの時間を割いて、国民の権利と義務について知識を与えている。しかし、これが上手く活用されていない。

 以前、社内の活動で英会話を習う機会を得た。この時、講師は言うのだ。「You don't say you don't know.You should say you can't remember.知らないと言ってはいけない。覚えていないと言うべきだ。」。「chugaku,koukou,daigakuも行きましたか?一体何年英語の勉強をしましたか?シラナイなんて有りえないデスヨ!」。まあ、確かに、その通りだ。

 日本人も、主権に関する知識は十分にあるのだ。しかし、英語と同じようにその使い方を習わなかった。その意義を習わなかった。その歴史を習わなかった。

 主権は、日本人にとっては暗号にしか見えないかもしれないが、西欧では平文であり、中学生レベルでもちゃんと権利に付随して義務が有る事まで理解している(日本では、権利だけを主張して、義務を忘れている人をよく見かけるが)。

 是非、日本人においても、それが常識になる日が来ることを望んでやまない。