説難

韓非の空

 事は密を以て成り、語は泄るる(もるる)を以て敗る 

韓非子55篇 説難篇》

 前半を聞いたことがない人は珍しいだろう。そして、この言葉もまた韓非子の出展であることを知っている人は珍しいだろう。

 大変思い入れのある言葉で、当然序盤で紹介したいと思うものであるが、あえてこの最終回まで取っておいた。

 その心は、その言葉の通り、事を成らせるにおいては、自分の真なる想いをなるべく悟らせないことが重要であるからである。

 緻密に策定した計略が、成功目前で、利害を反する者に漏れ、破断する。

 嬉しい人事異動を、ついつい周囲に話していたら、目前にひっくり返される。

 そのような経験をしたことのある人は少なくあるまい。

 特に「人事は、ヒト事、他人事」と言って、現にその席に座るまでは、決して人に話してはいけない。その席は、あなたが座る数時間前まで、幹部たちの机上で消しゴムのかすにまみれ揺れ動いている。(実際その現場を見ている。)

 

 何度も、泄れた語のために、痛い目を見てきた私は、いつしか、この言葉を座右の銘にするようになった。(但し、座右の銘を聞かれた時は、「決まっていますが、人には話せない言葉です。」と答えるが。)

 

 いずれにしても、格別な策略が有る場合を除いては、未決の情報を不用意に漏らして、ベターな事はおそらくなかろう。

 

 事を密にするには、もう一つ重要な意義が有る。

 密にしていると、完結しないと、自分の努力が誰にも評価されない事だ。

 もし、資格試験などにチャレンジすることがある人は、決してそのことを人に話さないことを勧める。

 「私、今、こういう資格にチャレンジしようと思って、勉強しています。」この発言をした時から、あなたの合格率は、50%は落ちるだろう。

 人知れず、コツコツ、合格を目指す。学校に通うにしても、独学にしても、苦しいことなく取れる資格は珍しい。止めたくなる時、あきらめたくなる時はきっと何度か訪れる。その時、受験のことを秘匿している人ならこう考える。「今ここで止めたら、誰も私の苦労や努力を知らず終わってしまう。積み重ねた努力も時間も、全く誰にも見てもらえない。」

 そう、それを回避するには、「合格」するしかなくなる。「がんばったけど不合格だった。」そんな話を後からしても誰も興味を持たない。

 眠気が差したあなたは、後1時間、後過去問1回、してから寝るようになるだろう。

 試験勉強中をひけらかす連中はまず合格しない。合格するとしたら、それは、その人にとって、すでに習得している技術であるなど、今さら取得すべき資格ではなかったということだろう。

 

 事を密にして楽しいことが有る。

 それは、事が成って、タネ明かしをするときだ。

 密かに勉強を積み重ねていた資格を、ジャジャーンと公開する。

 参考書が分野ごとにばら売りするから全巻そろえるべきかずいぶん悩んだとか、毎週図書館に行くなど平均一日7~8時間は勉強しただの。いくらでも苦労話を自慢できる。しかも、話しているのは、受験者じゃない。合格者だ。試験すら受けていない受験者が、ペチャクチャ受験の苦労話をしていることが滑稽に見えてならない。

 その手に握られている合格証書の重みは甚大だ。

 本当の意味で、すべての努力が日の目を見、耐え忍んだ時間が報われる。

 

 さて、いよいよ、本ブログも最終回の最終回である。

 各カテゴリーの最終回も終わったと言う事で、事ここに成りと判断して、楽しいタネ明かしの時間に入ろう。

 

 本ブログを立ち上げた時、すでに主題となるテーマと自分なりの結論への思考、そしてそれを掲載するタイミングはおおむね計画されていた。とくに、活動期間を2年半から3年以内とするターゲットは明確に定めていた。そこから、中長期的計画(ストラテジー)、フェーズ・プランを組んでいった。

 確か、2018年1月1日の初稿の段階で、概ねの曼荼羅は描けていたという記憶が有る。

 

 ブログと言う記載内容に制約の無い世界で、自由に振る舞うようで、実は話したいテーマが有ったが、なるべく話をランダムに配置して、それを悟らせないようにした。

 著作を手掛ける人ほど、序盤にテーゼ(提案・主張したい事)を示すことを求めるものだが、私にとってそれは、「語は泄るるを以て敗る」であった。

 読書を好む人ならよくある事だろうが、序盤に著者の持論がガミガミ出てくる。自分に合っていたり、興味の魅かれるものだったりしたら、引き込まれる要素となるが、気に食わない考え方だと、もう、表題に釣られて、その本を買ったことを後悔し始める。

 

 私のブログはエッセイだ。元来、持論もテーゼも無い。しかし、私はそこに複雑な構成を編み込んで、私の伝えたい物語(私はサーガと呼んでいるが)を密かに組み込んだ。

 すなわち、韓非子の合理主義からの平和学、教育に立脚した主権論、双方を支える人智と法理。などである。

 重要なのは、それらが連環していることなのであるが、その連環が見破られると、主張がくどくなってしまう。

 なるべく軽妙なリズムを保ちつつ、最終的には、「韓非子のファンとかいうおっさんが、自由気ままに言いたいことを言っているのを聞いていたら、いつの間にか、平和だの主権だのを考えるようになって、いろんなことに好奇心が湧いてしまった。」という考えにたどりつかせるのが目標だった。

 

 しかし、事はそれほど簡単ではなかった。

 無秩序のエッセイに秘める秩序あるサーガ。未熟な発想から論理的主張の展開へ。書いているものですら困惑する複雑な構成。果たしてどれほどの読者に受け入れられるのだろう?

 読者がついてきてくれなければ意味がない。いろいろ趣向を凝らした。

 興味を引く説話を盛り込んだ。大好きな韓非子を登用することは、執筆の前提であったので、ちょっとした説話には事欠かなかった。

 絵画と言う様々な意味合い(リリック)を持つアイテムを用いて韻(イン)を踏むというアイデアは、初稿の直前に浮かんだものだ。

 それでも、サーガの全貌に気付くのは、さすがに困難で、遅からず、物語とエッセイのどっちつかずの半端ものと捉えられることが予想された。

 そこで一部の解る人には、お節介かもしれないが、中間時点で、ストラテジーの全容を公開した。すなわち、無秩序に隠れていた4つのカテゴリーは、各個いずれ確証に辿り着き、収束し、最後は本カテゴリーに集約される。というものだ。

 なお、この中間報告は、思い付きで行ったものではない。ブログ開設の初期段階ですでにタイミングは固定され、投稿の検討に入っていた。一番悩んだのは、カテゴリーごとの名称だった。

 

 とまあ、お概ねは計画通りに進んでいたのが、反面まるで計画通りにいかなかったところもある。

 実のところは、ブログなので、時より受けるコメントなども参考にして展開することも考えていたのだが、寂しいことに、今回の挑戦では、虎狼の旅であった。

 閲覧カウンターは上がらず、寂しさは否めなかった。

 それでも、最終的には、一冊の本にまとめることが目標なので、読者を意識しないことは無く、あまり振り回されて、読者の思考が溶解しないようにも配慮した。

 

 私はなぜ、そうまでして読み人知らずの状況にも拘らず、複雑な計略と手法を駆使して、このブログを書いたのか?

 その答えこそが「説難」なのだ。

 如何に素晴らしい考えも、意見も受け入れられるには、様々な障害を受ける。

 まず拒まれてはいけない、軽視されてはいけない。面白がらせなければいけない。興味を持たせなければいけない。飽きさせてはいけない。妬ませてはいけない。卑屈になってもいけない。それでも、伝えるべきことは伝わっていなければならない。

 

 そして今、このブログに最後まで付き合って下さった方々は、私のサーガに気付いている。賛否のいずれに立つにしても、テーゼは受け取ってしまっている。

 説明は最小限に、されど持論は尖るほどに存分に提示できたと信じている。愉快だ。

 まさに、「事は密にして成り」となった。満足のいく結果である。

 

最後は彼女に閉めてもらいましょう。

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サモトラケのニケルーブル美術館所蔵

 1863年サモトラケ島で発見された古代ギリシャの大理石彫刻である。頭部と両腕は発見当時すでに失われていた。

 ニケとは、ギリシャ神話に登場する勝利の女神である。

 ブログにおいては、メインチャプターとして使用してきた。製本の際に表紙をデザインできるなら、この作品を選ぶだろう。

 なぜ、彼女だったのか?

 まあ、単純に「どうして君はそんなに・・・」と立ち尽くしてしまうだろうと思わせるほど美しい。ルーブルに行ったら、モナリザなんかより絶対これを見に行くだろう。

 腕も首もないのに、衣服のヒダの表現が実に躍動的で、今にも歩き出しそうだ。

 

 しかし何より、広げた翼。スポーツシューズメーカーNIKEが、その名称の由来とし、そのロゴはこの翼を表していることは有名である。 

 私には、この翼が想像力の象徴に見えた。

 韓非子は、不幸なことにその知性の高さとは裏腹に、人前で話すと緊張してほとんど話せないという難病を抱えていた。それでもなお、既存の学術を否定し、新たな哲学を構築している。彼の名が2000年の時を超えて、生き残っているのは、彼の学力のみの問題ではない。明らかに彼の想像力の賜物である。

 ニケの翼は、知識と言う浮力さえ与えれば、強力な想像力を得て、どこまでも高みに運んでくれるような気持ちにさせてくれる。

 だから私は、韓非子の想像力を思い、ニケの翼に乗って、今一番やりたいことを完成させることを誓い、今それに到達した。

 感無量である。