説難

虎に翼

1 虎に翼を与える母かれ

 今年のNHKの朝ドラのタイトルは、「虎に翼」というらしい。 日本女性初の弁護士にして、日本の民事裁判所の設立に貢献した、三淵嘉子という方をモデルに描かれたドラマらしい。

 ネットで内容を検索したところでは、多くの方が好評価を訴えている。特に「日本国憲法が、GHQのまるっきり押し付けではなかったと、ドラマを観て初めて知った。」という感想は、私が持つ持論に一致するところでもあり、大変興味を湧かされる作品だ。 ただ、表題の「虎に翼」については、疑念を感じていた。

 ネット内での大半の説明では、表題の由来として、「中国の思想家・韓非子の言葉で、鬼に金棒のように、強いものにさらに強い武器が加わる。」を意味し、主人公、「佐田 寅子(トモコ)」のあだ名、「トラコ」に掛けて、付けられていると説明されている。

 昭和初期の、女性がまだまだ、地位が低く、勉学では大成するのは非常に困難な時期に、寅が、「法」という翼を武器に、逞しく道を切り開いていく様を描いているとか。

 まあ、韓非子ファンとして、彼の言葉を使ってくれるのは嬉しいものだが、これは、残念ながら、明らかに誤用である。

韓非子88篇「難勢篇」 「虎の為めに翼を傅(つく)る毋(な)かれ。将に飛びて邑(ゆう)に入り、人を択(と)りてこれを食らわんとす。」 勇猛な武将であったり、優秀で策略に長けたりするような部下は、頼もしく、よく君主を助けることになるが、その働きに応じ、褒賞を与えるときは、勇猛な武将に更なる軍権を与えたり、策略家に人脈を広げさせるようなものは与えてはいけない。

 韓非子を含め、古来中国では、虎は強く逞しいものであるが、忠義の面では評価が低く、あまり強くなり過ぎると、コントロールができなくなる物の例えとしてよく出てくる。 あくまで、部下は、狗であり、決して虎にしてはならず、それに翼を与えるなど愚の骨頂と、韓非子は説いている。 NHKさんは、せめて番組の公式サイトには真意を注記しておきべきだろう。

2 虎が持つべきは爪牙(そうが)

韓非子88篇「二柄篇」 「虎の能(よ)く狗を服する所以の者は、爪牙なり」

 虎が猛獣として恐れられるのは、その爪牙によるものであり、これを失えばただの大きな猫である。韓非子はこの虎の持つ爪牙を、賞罰を与える権力とし、それがなければ、君主は君主として君臨することができないと忠告している。

 なお、古来、権力者の条件としては、財力・武力・血筋と言うものを必要とするものだが、韓非子は、君主に対してそのようなものをあまり求めることがない。ここでも、韓非子が言っている「爪牙」とは、確かに「罰を与える威嚇」の部分も含まれるだろうが、それより、その賞罰を与えるという権力をいかに保持するかということを論じている。

 そして、その方法として、「法」と「術」が挙げられているが、「法」は、多くの国民が公正・公平と認めるものであらなければならず、その制定には、膨大な情報の収集と、その解析が必要であると訴える。そして、これを運用するにおいて、前述したように、虎に翼を与えるような愚策を取らないことをはじめ、幾つもの、「術」が紹介されている。特筆すべきは、この術の対象の多くが、国民ではなく、臣下にあることなのだが、その点を語り出すと長くなるので、後日とする。

 いずれにしても、韓非子は、君主に対し、筋肉マッチョを求めていない。

 2000年前、すでに彼は、人類という脳ある個体が優位に立つ種において、他を制する爪牙とは、情報と知識の集積と、これを活用する能力(リテラシー)であると説いているのだ。

 これらの意味合いと、前述のドラマの主人公トラコが、未だ、女性に対する偏見と蔑みの強烈な昭和初期(サブタイトルに採用されるいくつかの女性を蔑視した諺)の風潮を、勉学によって得た法学的知識を有用に活用することにより、覆していく様は、まさしく、虎が爪牙を研ぐが如くと見受けられる。 しかしながら、当該連続ドラマの題名が「虎に爪」だったら、これほど話題になっていたか否か難しいところだ。

3 異能を取り込む

 トラコは、弁護士になった後、女性ならではの観点で事件を捉え、これまでに取り上げられなかった意見を提示していくらしい。周囲の男性諸氏も、頭ごなしに否定せず、これを取り上げて、一緒に考えるという展開が、法曹界らしい柔軟性をよく表している。 もし彼女の登場が、男性社会では生まれなかったであろう、新しい正義の発見につながったというのであれば、それはとても喜ばしいことだ。

 パリオリンピックでは、男女の参加者がいよいよ同数になったと言う。格闘技や重量挙げ、投擲種目など、男性特有と思われた種目にも、チャレンジする女性がそれだけ増えたと言うことであろう。 しかし、私は男性にしかできないと言われたことを、女性もできるようになったと言うことについて、男女が対等になったと歓迎する風潮には、懐疑的である。

 私は、男女というものは「異能」の存在であり、両者間にあるハードルを取り除き、双方を同じ土壌に乗せることにより、「より進んだ何か」が得られる可能性を、男女共同参画社会の奇貨とおくべきだと考えている。従って、女性が男性と同じことができるようになったところで、それは、これまでに存在した既存の労働力が増えたに過ぎず、確かに表面上は対等と言えるかもしれないが、女性のみが持つ異能が活用されておらず、逆に、男性が持っていた誇りやプライドから来る地力を落としてはいないか?とまで考えてしまう。

 女性の嗅覚細胞の数は、意外なことに男性の1.5倍ほどだそうだ。私がこれを意外というのは、女性がそれだけ、嗅覚に対する反応が鋭いからである。しかし、嗅覚細胞の数が同じであっても、彼女たちは、男性より匂いにより様々なことを判断できただろう。誰かに教えられたわけではなく、いつの間にか身についている、女性だけが持つ観念・関心、これらから、私は女性を異能の存在と捉えているわけだ。

 観察力・持久力・記憶力、中でも記憶力には、目を見張る。複数の作業を行うマルチタスクも、最近話題になっている。 ただし、逆に、月経・妊娠・出産という、社会で勤労するという点では、ハンデとなる異能もある。

 男性もまた、女性からすれば異能の存在だ。腕力、瞬発力等、運動能力において、幾らかの格別な鍛錬を積んだ女性が、男性を上回ることはあるが、最上級クラスで争うオリンピックなどから、男女の運動能力差は明白に証明されている。

 このほか、よく理解力や判断力に優れていると言われるが、これらは、俯瞰的思考(高い視座からものを見下ろす、いわゆるホークアイ機能)と強い合理性(無駄なものは省きたいという欲求)によるものと思われ、これも、誰に教えられる事なく、男性は女性より強い目に持っている。

 一方で、社会で勤労するという点では、これといったハンデは無いように見える。 しかし、それは当たり前のことである。なぜなら、現在の労働社会は、男性が中心となって構築したものであり、男性の不得意とするものを取り除くか、ツールを開発して補ってきたからだ。

 例えば名刺文化。日本ほど丁寧ではないが、多くの国で名刺文化は存在する。中には、かなり懇意にならない限り名刺をもらえない国もあるが、女性が構築した労働社会では、名刺文化はきっと存在しまい。男性は、メモ帳を離せないだろう。

 男女共同参画社会を考えるなら、そのくらいのパラダイムシフトを想像すべきである。

4 社会を変えていくもの

 ところで、多くの人が、そのようなパラダイムシフトを起こすのは、歴史に残るような有名人だと考えているだろうが、それは誤りである。

 私は、ことあるごとに、ヨーロッパの結婚観を真似て、安易に離婚する日本人夫婦を批判するが、それは、ヨーロッパの女性が自立してきた歴史を少し勉強すれば明らかだからだ。ネットで、「ヨーロッパの女性の結婚観」で検索すればよくわかる。彼女たちに、「〜しなければならない。」は存在しない。

 「結婚したいからする。子供が欲しいから作る。夫が必要なくなったから離婚する。」 母子家庭になっても、仕事を続けられる。地域社会が協力してくれる。別れた夫ですら協力するのが当たり前。

 これに対して日本では、離婚は当人たちの自由と言いつつも、女性の経済力を支える仕組みが未完成であるため、止むを得ず次の収入源として、別の男と結婚する。それで治まるなら良いのだが、年に数度は、前の夫の連れ子が虐待の末、風呂に沈められるという悲劇を聞く。ノープランの離婚や行政の落ち度が指摘されるが、問題としては、日本とヨーロッパでは社会の構築の歴史が違うことを考えなければならない。 

 どうして、日本とヨーロッパはこんなに違うのか?

 それは、日本人は、「世の中は、偉い人が変えるものだ。」と思い込んでいるからだ。「自分の一票で何が変わるというのか?」。そんな疑問を考える前に、なぜ、自分には選挙権が有るのかを勉強しろ。女性の地位を向上してくれるのは、三淵嘉子さん(寅子)でも小池都知事でもない。彼女らは、インフルエンサーに過ぎず、個の輝きでは世界は変わらない。

 ヨーロッパでは、小学生でも選挙権が有る理由を的確に説明できる。自分の権利は自分たちの努力によって獲得し、維持していくものだという概念が染み付いている。決して人任せ、お役所任せにしない。

 だから、ヨーロッパの女性たちは、自分たちの主張する人生の選択肢は、当然の権利であり、これが保障される社会を望み、長い時間をかけて、構築してきたのだ。

 私は、両性は異能の存在であるといったが、一つだけ両性に差がないところがある。学力である。男子は理系、女子は文系などという観念は全く根拠が無く、どの分野においても、費やした努力と時間と成果の相関関係に男女差は無い。この点について、男女は確実に平等である。

 女児への初等教育が一般化されていくのは、ヨーロッパも日本も19世紀半ば以降らしく、その始まりには若干の差しかないのに、彼女たちがその爪牙を巧みに操り、現在の社会の構築に至ったのは、「権利は天から降りてくるもの」とは思わなかったからであろう。

 男性にとって異能である健全な女性の社会進出は、一部の女傑によって成されるものではない。大衆の女性がこれに感化されると同時に、自らも知識とリテラシーという爪牙を身につける努力が必要なのである。

シュテフィ・グラフ(1996年ウィンブルドン準決勝)

 せっかくのオリンピック期間であるので、スポーツも芸術になり得るものとして彼女を紹介する。その業績は紹介するまでもない。誰もが認める、テニス界の伝説、クイーンオブクイーンだ。 しかし、彼女の素晴らしいところはその業績だけではない。世界最強の矛と言われたフォアハンド、鉄壁の盾と言われたバックハンド。そのスタイルは、大砲と剣を交互に使い分ける攻撃オンリーの巨神ゴリアテのような男子テニスとは違う、戦いの女神アテナのしなやかさを想起させるものだった。 しかも、容姿淡麗にして、その均整の取れた肉体は、男女を問わず多くのテニスファンを魅了した。女優ブルックシールズが冷蔵庫に貼って、目標にしていたといい、その当時の、彼女の夫、アンドレ・アガシ(これまた伝説のテニスプレイヤーだが)が、8年間の片思いを実らせ、シュテフィと結婚すると言うのも皮肉で面白い。 その強さと美を兼ね備えたプレイスタイルは、「Unorthodox」と呼ばれ、当時のテニススクールでは採用されなかったが、今では、その異能もオーソドックスに取り込まれている。

 今回は、ヨーロッパの女性の結婚観について多くを語ったが、そうなると、これだけは外せない彼女の逸話が有る。 時は、1996年、ウィンブルドン準決勝、シュテフィは、対戦相手の伊達公子の猛反撃に遭いピンチに陥っていた。サーブ権を持つゲームで、彼女は、どのようなサーブも強烈なリターンで返してくる伊達に、サーブの選択に悩んでいた。 そんな静まった、センターコートに、観客席からとんでもない歓声が飛ぶ “Steffi,will you marry me!?”(シュテフィ!俺と結婚してくれ!) 多くの観客が、不謹慎と訝しがりながらも、含み笑いが堪えられない。 何食わぬ顔で、サーブの動作に入ろうとしたシュテフィであったが、思わず吹き出し、その観客に対し、伝説に残る切り返しをした。  “How much money do you have?”(あなた、お金いくらもっているの?)

 多くの人は、この言葉を「私と釣り合うにはお金がかかるわよ。」という意味合いで捉えただろう。私もそう思った。

 しかし、きっと活躍できる限界まで引退しないだろうと考えていた彼女が、アガシと結婚した後、あっさり現役を引退し、一男一女を育て上げ、もうじき銀婚式を迎えるという人生を選択したのをみて、もしかして、あれは、彼女にとって求婚者に求める本音の条件だったのかもと思わせた。 男は、カネとタネを渡せばいいのよ。と言わんがばかりのヨーロッパ女性の勢いに押され、すっかり、ヨーロッパの女性に対し、逆に偏った観念が芽生えていたようだが、それは、彼女たちの選択肢の一つであり、シュテフィのような、非凡な爪牙を持つ女性が、幸せな妻であり、母であることも、立派な選択肢であることを示したことは大きい。 伝説に彩られた彼女の人生もまた、人を感動させ、実はいつもそばで存在している何かに気づかせるという点では、芸術に値すると言えよう。