1 発想の転換?
世に名を残す人の多くは、これまでの固定観念を覆す「発想」によって名を知らしめているようであるが、コペルニクスやアインシュタインの発明は、それまでの常識を覆したと言うものでは全くない。先日も紹介した漫画「チ。地球の運動について」を参照するまでもなく、天動説は太古よりその矛盾が指摘されており、私の知る限り、コペルニクスが、彼オリジナルの発想、すなわち「コペルニクス的転回」をしたと言う記録は全くない。彼の論文が評価されるとすれば、それまでの研究者の積み重ねを矛盾のないようにつなぎ合わせただけである。
電話機の発明者が実は2人いて、ほんの1時間位の差で特許申請を終えただけで、電話呼び鈴の名が発明者の名にちなんで「ベル」となった逸話は有名だ。いわゆる発明と言うのは決して天才が格別な発想の転換をしたわけではなく、それまでの研究者の研究の積み重ねの上に成り立っているのである。
アインシュタインを事あるごとに「天才」「天才」ともてはやす人たちが居るが、彼もまた当時すでにかなり矛盾が指摘されていたニュートン力学の、疑問の答えを探す多くのライバルの中で、その競争に勝ったに過ぎない。
ただ、私は彼らの偉業を否定するつもりは毛頭無い。既に氾濫している玉石混交の情報の中から、適切なものを選択し、点と線を繋いだという功績については、最大の敬意を表する。
2 作曲のメカニズム
以前、とある歌番組で、シンガーソングライターとアーティスト達が話していたのだが、作詞・作曲、どちらが先か?と言う質問に対し、「メロディが先だ。」と言う回答が、かなり多数派だった。しかも、アニメやドラマの主題歌など、ストーリーの情報がある程度入っていても、作詞よりメロディが先行するらしい。
これは私の想像で有るが、ミュージシャンという職業は、朝から晩まで音に囲まれ、常に音に意識が集中しているのでは無いだろうか?別にスタジオでなくても、いやむしろ、街中の方が様々な音が溢れているのかもしれない。
前述の番組に出演していたミュージシャンの一人が言っていたが、メロディが浮かぶのは、時と場所を選ばないので、いつもスマホに録音するらしい。
そういえば、何千曲も作曲した人気作曲家が、オファーに追われている時、突然飲み屋で、箸袋に譜面を書き始め、それを持って帰ったという逸話を聞いたことがある。
それぞれのメロディは、力強いものもあれば、逆に哀愁を誘う物悲しいものであったり、疾走感を感じるものだったり、リラックスを感じるものだったりするわけだが、これらをストックしておいて、何らかのオファーがあった時活用するのだろう。
ヒット曲を生み出したいという世俗的な願望もあるだろうが、多くのミュージシャンはきっと作曲が好きなのだろう。音の中に紛れ、車の走る音、誰かが椅子を引く音、遠くで鳴り続けている換気扇の音、そんな、まるで無関係な音をつなぎ合わせて、メロディを生み出す。私のような音痴には到底真似できないが、彼等はきっと「音の中を泳いでいる」のだ。
更に、これが極まると、音は聴覚の制限を超える。肌に当たる風,目をさす光、香り,味覚、そして雰囲気、空気。これらが全て音に変換される。
妄想が過ぎているだろうか?
しかし、音感の無い私などには、譜面や楽器では表現できないが、このアプローチから音楽を感じる時の方が多い。本や映画・動画で感動した時。楽しくて仕方なく大笑いしている時。全治数年単位のメンタル的ダメージを受けた時。頭の中で、擬音では済まされない、銅鑼の音やファンファーレ、セレナーデが流れている。
3 交響曲第五番「運命」
ヴェートーベンの「運命」と言えば、冒頭の「ジャジャジャジャーン」が有名であるが、このメロディは、主題と呼ばれ、4楽章30分間の間に、リズムを変え、4音の間に別のメロディを挟んだり、という具合で、何度も何度も出てくるそうだ。これは、バロック期のクラシックの流行りだったそうだが、ジャジャジャジャーン病かと思わせるような一貫性を持ちながら、30分間飽きさせないその技術は圧巻であり、今なお、このメロディを知らない人は居ないであろう。また、逆にいうと、彼は、たった4音の旋律から、30分の長大なストーリーを描けるということでもある。ヴィバルディーの「四季」や、ドヴォルザークの「新世界」などは、少しずつ変幻自在に変化しつつも、結局は、主題が繰り返し出てきているそうで、大変興味深い。
いずれにしても、わずかな閃きから、長大なストーリーを描くことができるのは、別に彼らが天才なのではなく、やはり彼らが持つ、音・リズム・楽器の知識をどれだけ広範囲に持っていたかによるのではないかと思う。きっと音の世界に深く深く潜水し、毛先から爪先まで音を感じ、分析するえげつないスパコンのような存在になっていたのかもしれない。
4 T型人材
ここで、冒頭のコペルニクスやアインシュタインの話に戻すが、彼等のすごいところは、玉石混交の学術論文の海を泳ぎ、時には深く深く潜り、行ったり来たりを繰り返しながら、的確な断片を紡いで、名曲を完成させたということになる。
詰まるところ私の言いたいことは、いずれも、日頃の鍛錬と努力の結実であり、「天才」というのは、ちょっと違うように思うわけである。
しかし、広範で豊富な知識だけでは偉業には辿り着けない。
一つや二つは、「非凡」トピ割れる程度の人より優れたものを持っている必要である。
例えば、アインシュタインは、その話だけで一稿書けるくらい、数学の才に長けていた。コペルニクスは、論理的整合性と哲学的美意識への執着心が異常だったそうだ。
一芸に秀でていて、かつ、広範で豊富な知識を持っている。これを「T型人材」と言って、ビジネスや研究分野ではとかく注目される。私は、歴史上の偉人の多くが、このT型人材であったと考えている。
生まれつき天才でなければ、世界を変えることはできないか?その答えはNoである。
誰でも得意分野というものを持っている。それを縦軸に、あとは、本でも、人の話でも、YouTubeでもなんでも良いから、広範で豊富な知識を得れば良い。
そして、一つ、疑問を持つことかな?
なんで、日本は明らかに経済成長しているのに、給料は上がらないんだ?こんなに、みんな礼儀正しくて、優しい人が多いのに、幸福度ランキングは低く、街中で「誰でも良いから殺したかった」ちゃんが出てしまうのは何故か?
私は、「いったい何世紀になったら、人類はゴリラから脱皮できるのか?」という疑問を抱えて、もう100稿近い投稿をしてきた。それでも、まだまだ、足りないようだ。
まあ仕方がない。私は、学者でもなければミュージシャンでもない。
私の小難しい話を聞いて、好奇心の高い人が、少しでも、「知らなかった。面白い。」と思ってくれれば十分かな。

アルフォンス・ミュシャ『四芸術:音楽』
ミュシャの作品には、四芸術を初め、四季・花・宝石・天体・朝夕晩までもが擬人化されて表現されているものがある。
ポスター画家だった彼は、誰もが共感するわかりやすい表現を好んだ。画題を聞かなくても何を表しているのか概ね想像がつくくらい。
現代の、画題を聞いてもさっぱり共感できない抽象絵画に比べると、至って大衆の想念に沿ったものだった。そして、その想念は、彼の卓越された曲線美を描く技術により、特有のオリジナリティを持ち、後に「アールヌーボー」と呼ばれる世界を揺るがす芸術界のムーブメントを引き起こす。
大衆という水平の想念と、縦軸に走る曲線美の技術。これもまた、T字型の思考が生み出した芸術ではないかと思う。
6 天才と非凡
最後に、この人は本当に天才かなと思った人の話を紹介する。
前述の番組に、かの有名な宇多田ヒカルさんも作曲について語っていた。
彼女の作曲手法は群を抜いて、異次元だった。
彼女がいうには、街を歩いていたり普段の生活の中で、ふと誰かの残り香のような微かな旋律に出会うらしい。ちょっと気になって、それを持ち帰り、彼女の持つ膨大なメロディーのパーツと組み合わせていく。まるでパズルのように、ピースがハマればこれを繋ぎ紡いでいく。驚くべきは、この作業中、彼女はそのメロディがどのような感情や状況を表したものかには全く興味を示していない。
やがて、スープのようなものができてきて、その中に、ちらりちらりと具材が顔を出すようになり、この辺りでようやく、きっかけとなった旋律が、どのような感情・状況から生まれたかを知るらしい。そして、詞(言葉)をはめて、曲ができるらしい。
そして、彼女の話ぶりから察するに、その感情や状況というのは、ちょっとした日常の出来事、「好意を持つ人を街で見かけた喜び。」「信号待ちひとつでバスに乗り遅れた悔しさ。」など、本当に些細な心の動きから発せられたもののようなのである。
彼女を、フェスやイベント会場や千葉の夢の国、あるいは多くの命が失われた現場に立たせたら、いったいどれほどの曲を作ってしまうのだろうかと思うと空恐ろしい。
彼女のように、他人の思念を感知し、旋律に昇華する域に達してこそ、「天才」と呼ぶにふさわしいのだろう。
広範で豊富な知識を得ることは、最終的には他人の想いを取り込み、自分の持つ特技(縦軸)で錬成され、世界を動かす新しい何かを生み出すかもしれない。だから、我々が「天才」だと崇める著名人の多くは、実は「非凡」な努力家に過ぎないのではないだろうか。
しかしそれは、逆に言うと、「天才」でなくても、「非凡」ならば世界を動かせるということである。