説難

差別や偏見とやらにもう少し抗ってみたい

1 異=劣
 「人は結局分かり合えない。」—— Spy Family ドノバン・デズモンド。
 他人のブログを読んでいて、共感できる投稿もあれば、まったく理解できないものもある。同様に私のブログも、誰かには気づきを与え、誰かをガッカリさせるだろう。
 全面的に一致する関係は、むしろつまらない。適度な不一致は健全である。しかし、だからといって互いの違いを無制限に許容することが正解でもない。後から来た部外者が既存のルールを無視するのも、同様に正解ではない。
 とはいえ、もっとも避けるべきなのは、「自分たちとは違う」という理由だけで、相手を劣った存在とみなす姿勢である。違いをすべて許容する必要はないが、理解を放棄してよい理由にはならない。

 なぜ差別はなくならないのか。
 人は、自分に近い意見や価値観を持つ者同士で集まり、安定を保とうとする。異質な存在を避けようとするのは、混乱を回避するための自然な反応であり、既存の規律に従わない行動を批判すること自体は、必ずしも悪ではない。

 しかし、**「異なっている=劣っている」**と断ずるのは、明確な過ちである。

 「アホって言うやつがアホやって、母ちゃん言うてたで。」——その母親は正しい。
 人の優劣を測る物差しは、人の数だけある。誰が優れていて、誰が劣っているかなど、簡単に答えの出るものではない。むしろ、簡単に人を「アホ」と切り捨てる者こそ、明確に「アホ」なのである。

 ところが、それが“集団”になると、事情は変わる。
 自己肯定バイアスが強まり、物差しは同じ方向を向き始め、いつのまにか半世紀以上前に形成された“同質であることが善”という価値観が空気として定着する。
 本来は単純なメカニズムだが、そこに歴史的背景や、家庭や学校教育の非意図的な作用が重なり、問題はより複雑になる。
 「人の嫌がることをしてはいけない。」
 この普遍的な教訓は、世界中で語られ、教育が長年引き継いできた。しかし同時に、**「自分たちと違うものは劣っている」**という、やられたら誰もが嫌がる態度もまた、気づかぬうちに受け継がれてきた。
 ここに、私たちの社会が抱える最大の悲劇がある。

 まとめると、部外者が集団に入れば混乱の種となり得る。だから、一定のルールや慣習に従うべき場面は確かにある。
 だが、その事実が**「部外者=劣っている」**という結論に直結することは決してないし、隷従を強いる理由にもならない。

 かつて「これは差別ではなく区別だ」という表現がよく使われたが、最近はあまり耳にしない。国語を正しく理解していれば名言なのだが、誤用が多かったのだろう。

 ある集団に属する者と、そうでない者との間には“区”が有る。しかし“差”は無い。

 これこそが、偏見と差別をなくすための《基本姿勢》であり、『専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去する』ための重要な意識である。

2 疎=誤
 「欧米の一部では、いじめている側を“病んでいる”と判断するそうです。」
 ——『ミステリという勿れ』久能 整
 これは、私自身が二十五年前に論文として書いた主張とも重なる。
 いじめとは、アウェイに立つ勇気のない者が、自分が常にマジョリティ(多数派)側にいられるよう、他者をマイノリティ(少数派)として仕立て上げ、自らの恐怖を回避する行為である。マイノリティ恐怖症、あるいはマジョリティ依存症と言うべきか──平常な人間なら、そこまでして環境を保とうとはしない。それを敢えて行うから、病んでいると判断されるのである。

 ホームとアウェイの関係を理解するスポーツファンは、少数で敵地に乗り込むアウェイ応援団をむしろ尊敬する。しかし現実社会において、アウェイに乗り込むというのは、単純にリスクを負う行為である。だからこそ、人はマジョリティに寄りかかり、異論を排除する。従って、それ自体は異常ではない。
 問題は、マジョリティ側に立った人々が徐々に考えることをやめ、想像力を失っていく点である。
 本当は一人一人、微妙に異なる考え──それぞれのマイノリティ・リポート──を持っているにもかかわらず、それを封印するようになる。そして最終段階では、他者が発するマイノリティ・リポートを頭から否定するようになる。ここに偏見は生まれる。

 先日の高市総理の発言をめぐる報道も、その典型だ。
 誰も得をしない「台湾有事」の質問をした議員こそ最も軽率だったと私は考えるが、多くの報道はそこには触れず、代わりに「日中関係の悪化」だけを強調した。結果として、ネット上では「日本渡航規制大賛成!」「中国は悪い国。民主主義でない国は悪い国」といった単純化された断定が溢れた。

 ここで私が言いたいのは、中国を礼賛することでも、日本を批判することでもない。
 政治体制にはそれぞれ利点と欠点があり、どの国にも複雑な事情があるという、ごく当たり前の事実が空気の中で見えなくなるという点である。
 たとえば、中国には自由の制約という問題がある一方で、国民が日常生活と生業を維持できる程度の秩序は保たれており、それを評価する視点も本来は存在してよい。
 国際法についても、守らない国は中国だけではなく、国際法の運用体制そのものに課題があるという議論だって成り立つ。

 ところが、こうした“少数派の視点”を口にした途端、「中国擁護だ」と決めつけられ、議論そのものが封じられる空気がある。まさに、私が述べたように、マジョリティが“正義”を独占し、異論を排除する構造だ。

 世の中の正義は、しばしば論理ではなく空気が決める。
 そして、この“空気による正義”こそが、マジョリティ・リポートの思考停止を生み出し、偏見を育てていくのである。

 日中の緊張を喜ぶ人々は、自衛隊員の安全やその家族の不安に思いを至らせただろうか。「誰の得にもならない火種を撒いたのは誰か」という視点を持てただろうか。おそらく、気づいている人間もこう考えるだろう。「少数派が何を言っても無駄だ」と。
 それで良いのだろうか?
 太平洋戦争が、軍部の暴走だけでなく、国民の多数が「英米討つべし」と唱えた空気が背景にあったことは、今では資料で裏付けられている。

 確かに、マイノリティ・リポートは届かないことが多い。しかし、それが“誤り”だという証明にはならないし、マジョリティが“正義”である証拠にもならない。
 “マイノリティ・リポート=誤”──この思考停止こそが、最も巨大で、最も強力な偏見である。

 言論の自由を持つ国家に生まれながら、マイノリティ恐怖症の“病んでいる誰か”によって作られたマジョリティに思考を停止させられ、言論の自由が阻まれている。皮肉極まる現実である。

3 知=処
 「知の難きに非ず、知に処するは則ち難し」──韓非子『説難』第十二。
 ──知ること自体は難しくない。難しいのは、知った後にそれをどう扱うかである。
 前項の差別や偏見という問題を根源的に解決する鍵も、結局は「ヒトがどのように学び、その学びをどう処するか」にかかっている。
 その一例として、最近少し面白い体験をした。

◆スポーツ指導の変化が示す「知の扱い方」
 先日、体罰指導が消えつつあるにもかかわらず、日本人の金メダルが増え続ける理由について、知人と語り合った。
 そこで議論となった可能性が興味深かった。
 「青少年の知識レベルが上がったことが原因である可能性」
 かつて素振りや走り込みといった地味な基礎トレーニングを「重要なプロセス」と認識していたのは、せいぜい一部の人間だった。試合形式の練習ばかりを望む部員にとって、三ヶ月も基礎練習が続けばやる気は萎える。
 「この地道な努力が後で効いてくるんや!」とどれだけ言われても、納得できず、結局は鬼コーチの怒声や暴力によって継続させられる。
 そして苦行を乗り越えた者が、確かに試合で安定したフォームを見せる。
 世界の盗塁王福本豊氏が野球解説中、ボソリと「走り込みが足らんねえ」と呟くあの感覚——努力は嘘をつかず、怠慢は一瞬に表れるという教訓だ。
 しかし私たちが学生だった頃、地道な努力の価値を論理的に理解できる者は多くなかった。だから暴力が支配した。

 では、今は何が変わったのか。

◆「知識の共有」が暴力を不要にした
 現代のスポーツ漫画やアニメでは、もはや星飛雄馬の大リーガー養成ギブスのような“根性装置”は出てこない。
 代わりに、スポーツ科学に基づいた基礎トレーニング、戦略、身体の使い方が丁寧に描かれる。
 今の青少年は知っている。
 上達には地味な努力が必要で、その効果にも科学的理由がある と。
 その結果、昔であれば暴力が必要だった練習も、説明次第で自発的に継続できるようになった。
 教える側も変わった。
 従来の練習に論拠がなかったわけではないが、その論拠を言語化し、学習者の理解を促し、ときには「これは大谷翔平選手も取り組んでいた練習だ」と魅力的に示すといった、「知をどう伝えるか」という技術を磨くようになった。

 暴力が批判され、変化が求められたことは確かだ。
 しかし本質的には、教える側も教わる側も、昔に比べてずっと“頭が良くなり”、知識をうまく扱えるようになった結果である。

 差別も偏見も、他者との違いを知り、理解し、その知識を処することが、成熟した人たるものの常識(絶対的マジョリティ)となれば、かなり低減できるのではないかと私は信じる。

レオナルド・ダ・ヴィンチ「岩窟の聖母」

 ダ・ヴィンチの「岩窟の聖母」には、2つのバージョンが有る。一つは、ここに掲載したルーブル美術館所蔵のもの、今一つは、ロンドンナショナルギャラリー所蔵のもの。圧倒的に、このルーブル所蔵の方が有名であるが、ナショナルギャラリー版を見ないとわからない謎が一つ有る。聖母子像のスタイルとして、マリア、イエス、そして洗礼者ヨハネは、どれかわかるのだが、右手のランドセルを背負っている女性は誰?という話。
 実は、ナショナルギャラリー版では、この女性の背中には翼が描かれているのである。つまり彼女は天使。その名は、ガブリエルともウリエルとも言われているがはっきりしない。
 面白いのは、ルーブル版の方が後で描かれたのだが、ダ・ヴィンチが、彼女の翼をマントで隠したことだ。「天使が、それとわかる姿で、容易に人間界をうろつくものか?」という、科学者の一面を持つ彼らしいリアリズムである。
 論理的で知識が豊富な科学者は、「頭が硬い」と思われがちだが、知識があるからこそ、このような突飛で柔軟な発想が浮かぶのだろう。
 そして、30数枚しか描かれなかったというダ・ヴィンチの作品のうちの、2枚が、両方とも、500年以上の時を超えて今なお現存するからこそ、この感動を味わえるわけである。
 地球上に生きる数億種の生物のうち、生殖機能を失っても生き続ける生物は、人間を含めて数種しか居ないそうだ。それは、我々が、遺伝子だけでなく「知」を継承する種であるからであろう。