説難

新型コロナウィルス

 新型コロナウィルスについては、2月の27日わが組織において、運用上の大きな動きが有った時から原稿を書き始めた。

 しかしながら、当初明らかに大げさだと言う考えを持っていたところから、状況は日々変化し、現状では当時の目算とはまるで違う状況が展開されている。こちらの意見も日々変更を余儀なくされてきた。
 

 まさしく前代未聞の事態であり、同じ年のブログを装丁するからには、何らかの記事を掲載しておきたいと考えるのだが、本当に意見をまとめる間もなく、事態が急変を続ける。
 

 私は学生時代、新聞記者になりたかったのだが、新聞記者と言うのは先の展開の読めない状況で、現場からでき得る限りの観察力で状況とさらに展望までも伝えることを求められる。私はどうも大問題を見定めるのは下手なようだ。オウム真理教事件の時も、福島の原発事故の時も、発生当時は「大袈裟に騒ぎすぎる」と言っていた。

 今回のコロナウィルスについては、周囲に「「大袈裟な。」って言わないでね。君がそういうと、事件が大きくなるんだから。」とまで言われてしまった。少なくとも新聞記者と投資家にはなれそうにない。

 

 先日、正式に緊急事態宣言が出て、疾風怒濤の展開の中でいわゆる結節点ができたかと思う。この辺りで意見をまとめ、例え後でまるで明後日の意見だったと後悔するにしても、何らかの記事を残しておこうと思う。

 (と言いつつ8日の非常事態宣言から、たった3日で業務命令が二転三転するなど、本当にすごい年を経験することになった。)

 阪神淡路大震災の際は近隣に勤めていなかったので、極限の騒乱の中、役人などと言うものがどのように振る舞うべきかと言う経験を積む事はできなかった。不謹慎な表現になるかもしれないが、その後この経験不足が、いくつかの場面で私に二の足を踏ませることになる。

 今回の状況も、あの平成7年を戦い抜いた経験者に言わせると、全く落ち着いたものだと言われているが、司令部からの方針転換の連絡は、日々前日の16時45分を過ぎている。上位官庁の混乱ぶりが見て取れるようだ。

 前は、「もうちょっと早く連絡できないのか!」と愚痴っていたが、首をくくらんばかりの民間の事業者の状況を見ていると、海抜数十メートルのような安全地帯にいる私たちは申し訳ない気持ちにもなる。

 緊急事態宣言以降は、4割出勤で、後は在宅で内部業務をこなす。ほんと緩くて申し訳ない。ただ、現在私は、一支店に属さない広域特務部隊に所属しているので、要請があれば、複数の支店応援にいつでも駆り出される立場であると聞いている。(今日も感染の可能性が出た支店があり、検査結果と補充のための正式要請を待っている状況だ)。

 せめて、要請があれば、迅速に対応してあげたいと考えている。

 

 さて、緊急事態宣言が出た後も、完全に感染者数の増加は止まらず、先行きが非常に不安である。

 かろうじて死者の数が増えていないのが救いだが、感染者数だって、オリンピックが延期になる直前までは、1日の感染者数が十数人だったのに、突然40人、80人、200人となって、今日などは、全国で576人だ。もし死亡者がこのような増え方をしだしたら、 さすがに大惨事だ。

 本当は楽観的な観測も持っているのだが、私が楽観的なことを言うと、周囲が言うように被害が膨らんでも申し訳ないので、やめておこう。

  ただ、ノーベル賞受賞者の山中教授のコロナウィルス特設ページによると日本人にだけコロナが優しい可能性も出てきているようだ(一読に値するページだ)。

山中伸弥による新型コロナウイルス情報発信

 何が原因でもいい、このままこの程度に収まってくれて、収束してくれれば、苦しい営業状態の中、営業自粛を続けてくれた事業主の労苦が報われる。
 

 どんな予想も当たりそうにない状況だが、このまま収まったにしても長引いたにしても、確実に問題になるのは、経済的な落ち込みだろう。

 しかし、一つだけ明言できることが有る。

 災害により落ち込んだ経済を立て直そうとすることはしてはいけない。

 災害により、生活に困窮する被災者を援助することは必要だが、まずGDPの減少は当然として捉えること。税収は減少し、公共サービスは低下する。

 災害に合ったのだから仕方がない。国民一人一人が、政府を頼らず、踏ん張ることも必要なのだ。(かなり厳しい人は別ですよ)

 これを無理に、現金をばらまいて消費を下支えしようとしたり、財政支出をして景気を刺激しようとしたりしてはいけない。

 また、逆に、災害に合ったのだからと言って、社会の雰囲気を盛り下げ、消費を冷え込ませてもいけない。むしろ、社会を解禁ムードで盛り上げなければならない。

 自粛自粛で倒れる商店が有る一方、消費されなかったたくさんの財が残っている。無用にお金をばらまくと、相対的にその人たちの財の価値が下がるのだ。

 コロナが治まって、景気を回復させたいなら、まず、彼らの財を引き出すため、反動のようにイベントをバンバン打ち出し、社会のムードを盛り上げ、消費を刺激すべきなのだ。

 

 最後に、補償について、やたらとばらまき補償をやりたがっている連中が居るが、これはまさしく、補償のついでに景気対策をにらんでいるスケベ根性だ。こういう連中は、普段から打ち出の小槌を使いたくてしようがない、経済音痴だ。そんなことをしたら、福沢諭吉が小さくなるばかりなのだ。

 今は苦しい人を助ける事だけを考えなければならない。

 

 ちなみに、私が考えている保障の最もわかりやすい形は、自粛によって必要となった事業資金を無期限無利息で貸付、来年の確定申告の際に、①償還すべき貸付金②償還不要の貸付金(非課税) ③償還不要の貸付金(課税)に区分するというものだ。 

 パートの時間を削られて、収入が激減した方々においても同じことだ。まず当面必要な生活資金を、無利息無期限で借り入れ上記と同じように、後日落ち着いた時期に同様に区分して判断すればよい。 

 いずれもスピーディに補償され、後日審査を受けるので、補償しすぎることはない。

 もらい逃げする人もいるかもしれないが、今のばらまき案よりよっぽどましだ。

 

 しかし、経済学には多少自信が有る私も、今回だけは、先々の状況がどのように展開するかわからない現場においては、果たして正しい意見と言えるかどうか自信は無い。

 ただ間違いなく言える事は、200兆円になろうと言う経済対策は、単なる日本銀行券の印刷物の増加であり、日本円の価値を下げるだけである。

 実は誰も得をしていないことに気づくべきだ。 

 世界規模の未曾有の大災害が起きているのに、その翌年十分な税収が見込めるわけがなく、前年同様の公共サービスが受けられると考えること自体が誤りなのである。

 直撃を受けた被災者は救わなければならないが、経済全体を無理に救う必要は無い。

 みんながこの災害を受け入れ、少しずつ我慢すればよいのである。そのほうが健全な経済の立ち直りは早いはずだ。

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ジョルジュ・スーラ「グランド・ジャット島の日曜日の午後

 絵画の掲載については、悩んだのだが、コロナの事はみんなブログに書いている。絵画を掲載するから、私のブログなのだと信じて掲載することにした。

 スーラは光の三原則から、バランスと強弱をうまく調整した点描を打てば、人の目はこれを融合し、一つの色として捉え、「光」が表現できると考えた。

 残念ながら、私には、この絵から印象派のような「光」は感じない。不思議なものだ。決して理論は間違っていないのに。実際、この技術を応用して、絵の具でなく、電気的な光を使ったのが、カラーテレビの元祖で、今の液晶に繋がっていく。

 私はむしろ、この絵から、人と空気の融合を感じた。

 人も景色も三原色と言う原理の一線上に並んでいる。それを包括しているのが空気だ。

 この絵から、光はそれほど感じないが、流れる空気は捉えられないだろうか?

 

 全くとんでもないことを言わせてもらうが、「コロナもその空気の一つ」なのではなかろうか?

 流れる空気の点描のうちのいくつかがコロナなのだ。

 スーラには失礼だが、私は、コロナが感染していく様をニュースで聞いていて、この作品を思い浮かべていた。

 人間の天敵、ウィルスは、初期接触においては、大変な被害を及ぼす。しかし、彼らとて天敵を食い尽くすわけにはいかない。変異を繰り返す中、毒性を弱めていくというというのが科学的見解だ。(ただそれまで、人間は死滅しなくても、経済は破たんするかもしれないが)。

 いずれ、私が言うように、コロナが空気中に普通に蔓延しているグランド・ジャット島の日曜日に、人々が賑わえる日が来ると信じている。