説難

片雲の風

 月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり、(中略)予も、いづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂泊の思ひやまず。

 

 勤務先の同じ部署の仲間と「格安!奥の細道ツアー」に参加した時、学生時代、無理くり、松尾芭蕉翁著の「奥の細道」を暗記させられたことに初めて感謝した。おかげで、俳句の十七文字に閉じられた「絶妙」という世界を実感できた。

 

 旅行は嫌いではない。しかし一人旅をすると誰かとくればよかったと必ず後悔するし、複数人数で行くと、幹事役をさせられ気遣いばかりが思い出される。それでも旅に出ると、やはり知らないものに触れる感動を受けるため、また旅行の企画をしてしまう。同じように、物事を知ろうとする行為も旅に似ている。

 

 Que sais-je? (私は何を知っているのか?)と言う言葉に出会ったのは、中学生のころだったと思う?「《文庫クセジュ》の創刊のことば」なのだが、詳細は覚えていない。調べてみたら、モンテーニュと言う人の言葉らしいが、私はその人の著書『エセー』と言う著書を読んだことは無い。「人間精神のもっとも高邁なはたらきによびかける」との趣旨だそうだが、そのように捉えた覚えはない。

 私の記憶では、「人類が万物の長に君臨する所以は、何物にも勝る好奇心と探究心であり、知識を得ることは本能的快感である。」という印象である。エセーさんに言わせれば、それが「人間精神の最も高慢なはたらき」と言う事になるのかもしれないが。

 とにかく、人は皆知識を求めている。理解できるものなら何でも習得したいと考えている。いや、かなりの確率で理解できないとわかっていても、一度はチャレンジしてみようと試みたりする。そういう「欲」が、人には備わっているのだ。

 「難しい話は嫌い。」とか「そんなことを知っていても、生きていくうえで何の役にも立たんわ。」とうそぶいていても、もしその知識が、USBメモリーを頭に差し込むだけで簡単に会得できるとしたら、大抵の人は、それなら欲しいというだろう。

 

 運動神経の悪い私にとって、4月~5月に行われる球技大会は地獄だった。クラス替えで、友人関係を再構築する時期に、赤っ恥を欠かされ、出鼻をくじかれ、いつも余計な苦労の種になった。

 運動が下手で、無駄に声が大きく、おまけに食べ物の好き嫌いが激しいという、いじめられっ子の素養を存分に具備していた私をどうにか守ってくれたのは、知識と言う鎧だった。昭和の家の風物詩で、多分ほとんどの場合は飾っているだけだけだったであろう、学研の百科事典30~40冊セットをまともに読んでいた私は、何かと物知りで、人の疑問に答えてあげることができた。

 それでも、その鎧が利いたのも小学校が限界。中学校になると深刻なイジメに会う。

 私にできる対処法は、ただ、人の知らない知識を得ることだった。

 人の好奇心を満たすことは強烈な武器だった。多くの人が、これでイジメるのを止めてくれた。

 私は、運動神経が悪くても、脳みそさえあれば生きてゆける「ヒト」という生物に生まれたことに感謝した。

 なお、しつこくいじめてくる人も居たが、最終的に、私はこわーい不良グループに気に入られてしまうので、その人たちも去っていく。

 ただ、知識を橋渡しに和解した前者と、バックに有る力に屈した後者とは、まるで違う。前者の人は、社会に出ても、私と知識を交換し合うだろう。後者の人は、きっと私の進む道に届くことすらないだろう。

 

 さて、知識を得ることが、人にとって至上の喜びであると確信した私であるが、そこへ、さらにそれを確定づける家庭教師に出会う。

 彼の講義は、半分は余談だった。その代り気違いのように宿題を出された。

 それでも、私は、彼の余談に食い入った。

 哲学、物理学(量子力学相対性理論)・化学・文学・芸術、とにかく分野を問わなかった。本チャンの受験科目よりメモを取ることも有った。

 彼が言うことが、私の今の持論にもなっている。

 「勉強は面白いからするのだ。受験の為だけに興味もないのに、一日10時間も参考書を暗記しているやつは、応用が利かないテープレコーダー(録音機)だ。」

 彼が、受験科目でない学問について語るのは、「学問」そのものを面白いと感じてもらうためであり、実際私はその術中にはまった。

 

 先日、ブログの一部を行きつけの主治医の先生に読んでもらった。しょぼくれた町医者のおじさんだと思っていたが、著書多数、各団体役員歴任の著名人と言う事を初めて知った。その人が、内容については大変感心したと言ってくれた。ただ、「ちょっと難しい言葉が多いように感じた。」という(ちたみにそういう先生の著書の方が、よっぽど専門用が多かったですけど)。

 さにあらん、私は、人が聞いたことは有るが、詳しくは知らない言葉を多用している。

 それは、人の好奇心を刺激するためだ。

 

 先日、アニメソング大賞という番組で、相変わらず「新世紀エヴァンゲリオン」の主題歌が、断トツのトップをキープしていた。

 しかし、社会現象を起こしたかの作品に出てくる、物理学・高等数学・電子計算情報技術、死海文書をはじめとする聖書の知識、どれをとっても一級品で、一般人が理解できるとは到底考えられない。

 にもかかわらず、社会現象に発展するほど人々はかの作品に魅了された。全ての人が、オタク趣味のエロティシズムに魅了されたとは当然思えない。

 視聴者の多くは、専門用語などすっ飛ばして、「わからないもの」に興味を持ったのだ。それが、人間の好奇心なのだ。

 

 その後に流行った、「もしドラ」。経済学者のほどんどの名前を学んだ私が、ドラッガーなど聞いたことが無かった。

 世界的ベストセラーとなった、トマ・ピケティの国際統一課税論は、正しいと思うが、5センチのハードカバーで売り出すほど何を語ったのか甚だ疑問だ。結局、多くの購入者が、核心以外の無駄な知識を得て、快感を覚えている。

 

藤原正彦氏著「国家の品格」は言う。

 「真のエリートの条件の一つは、文学、哲学、歴史、芸術、科学といった、何の役にも立たない教養をたっぷりと身につけ、それを背景として、庶民とは比較にもならないような圧倒的な大局観や綜合判断力を持っていること。」

 

 本カテゴリーの存在意義は、一つには、本来走っている伝えたいテーマに、敢えて集中させないように寄り道を作る事であるが、今一つは、そのようなよくは知らないが、興味を引きそうな話を掲載し、好奇心を喚起することであったが、前述の主治医の先生は、テーマが絞り切れずわかり辛いと言っていた。

 せっかくの忠告だが、それでいいのである。意味の分からないところに意味が有る作品を作りたかったから。

 

  Que sais-je? (私は何を知っているのか?)

 「知ることは楽しいことだ。それも難しければ難しいほど。」私は今でもそれを信じている。私が本ブログで取り上げたテーマは、決して簡単なものではない。正直、文章も拙いところも多かったろう。「好奇心」と言う伴走者が居て初めて完走できるという人も多かろう。

 

 つたない文章に耐えて、私のブログに付き合ってくれた人は、きっと本論を習得するだけでなく、多くの知識に対する好奇心を持つことができるだろう。

 そうしてまた、Que sais-je? の信者が増えることが楽しみだ。

 

 また、知識と言う片雲の風が私を誘っている。そろそろ、股引の破れをつづり、笠の緒付けかへて、三里に灸すうる日が来たようだ。

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レオナルド・ダヴィンチウィトルウィウス的人体図

 早口言葉かと思わせる画題でおぼえられないが、この絵を知らない人は珍しかろう。しかし、何を表しているかを知っている人もまた珍しかろう。

 しかし、人々は、この絵画に魅了される。

 色彩の妙も、構図にもきっと何の関心を持っていない。

 この絵画は、現代で言うところの「抽象絵画」なのである。

 その表現するところは、ダヴィンチと言う天才が習得した膨大な知識の一部を表している。我々は、その知識がなんであるかも知らず、 「知識」と言うものが持つ魅力にとらわれてれいるのである。

 

主権の鼎

パブロ・ピカソラス・メニーナス

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 本ブログの最初に取り上げた中世スペインの宮廷画家ディエゴ・ベラスケスの作品を、かの有名なパブロ・ピカソがオマージュしたものである。

 私は、東京都美術館で初めてこの作品に出合った時、震えが止まらなくなり、そのまま風邪をひいてしまった。

 

1 暗号

 暗号と言うのは、暗号文ばかりを見ていても決して解けることは無い。その暗号文が何を意味するかといういわゆる複合文(平文)を聞かされて、頭の良い人が、ようやく双方の関連性に規則性を見出し、解読する。

 私も、ピカソの絵は何枚見ても意味不明だった。

 しかし、平文のラス・メニーナスを知っていた私は、この絵に触れた途端に、彼がやっていることのほとんどを理解した。一見デフォルメの課程で、元の部品を相当割愛していると思いきや、何一つ割愛せず、濃淡をあからさまにして表現している。気になったものを強調し、気にならなかったものを軽く表現する。そのルールがわかれば、「泣く女」「夢」「アビニオンの女たち」「ゲルニカ」の元の姿(平文)がおおよそ予想できるようになってきた。

 ヘレン・ケラーが「water!」と叫んだ時のような戦慄を感じた。

 暗号が解けたのだ。

 

 しかし、ヒラメキには知識が必要だ。例えば、水=1、金=2、土=6なら「火」はなにか?逆に、3=「?」というよくある暗号クイズが有るが、これは太陽系の星の並びと言う知識を持っていれば簡単に解ける。逆に、それを知らない人はどこかでその知識を仕入れて来ない限り一生解けない。

 私も、もしこの二つの絵画に出会うタイミングが逆だったら、いや私は、この時点でラス・メニーナスの謎やディテールに相当詳しかった。もしその知識がなかったら、暗号は解けていなかっただろう。

 

 日本人にとって、「主権の鼎」は、敗戦と共に与えられたもので、高位の権力者を打倒して得たものではない。せっかく日本国憲法に書かれた素晴らしい主権の数々も、ピカソの絵のように、素晴らしい素晴らしいと人が言うので、そう認めているだけで、実はよくわかっていない、暗号のようなものと感じているのかもしれない。

 

 暗号を解く鍵は、知識と平文に有る。

 そこで私は、本カテゴリーにおいて、その知識として、憲法と言うものを主軸に主権とは何たるかを語り、平文としてその活用例を述べてきた。

 そしてその中で、最も訴えたかった暗号を解く鍵(複合キー)は、「主権は、多くの犠牲の上に獲得されたものである。」ということと「主権は、義務を伴い、制限を受ける。」と言う事であった。

 

2 申告納税制度

 この制度は、主権の一つであるが、その中でも最も複雑にして難解な暗号である。

 一見義務であるかのようだが、巧妙な仕組みを経て、強い主権に転じる。

 木っ端役人と称して、職種をあいまいにしてきた私だが、私の半生は、ほぼこの主権を維持せんがために捧げたようなものであるため、死ぬまでにどうしても書き残しておきたく、本カテゴリーの最終回にあたり、職種ばれを覚悟で語りたいと思う。

 いささか自伝的で、しかも普段の倍の字数と言う点は申し訳ないが、この私の実務における経験こそが、当該制度の平文となろう。

 是非その暗号を読み解き、主権の裏のそのまた裏を理解することの重要性を感じてもらえれば光栄である。

 

 申告納税制度は、戦後まもなくGHQの指導の下導入された。

 官憲が間取りや商業規模等で勝手に税額を決める「賦課課税方式」から、自分で利益を計算して申告する「申告税」への移行であった。

 納税は、憲法上は「義務」とされながらも、その計算と申告は、誰に強制されるわけではなく、国民が自主的に行うものとされ、それが、「国民主権」に立ったものである。という考え方であり、実に民主的な制度と言えた。

 しかし、世の中には、必ずズルをする者が現れる。「正直者が馬鹿を見る」社会がまかり通ったら、公平という国民の権利が守られない。

 そこで、国税組織はその任務として「適正公平な課税の実現」を掲げ、不適正な国民を取り締まり、もって、正直な「納税者」の公平という権利を守ること(業界用語で「公平を担保する」という)を目指した。

 主権者と行政官が協力して、人民の人民による人民のための納税を実現するための仕組であり、太平洋戦争で亡くなられた350万人の日本国民の屍の上に建てられた金字塔の一つである。

 これが自主申告制度の知識だ。

 

3 申告納税制度を担保するもの

 ここからは、我が国税組織が行ってきた、適正公平な課税の実現への戦いを通じて、その知識がいかに理解されず、苦難の道のりであったかを語ることで、実践例すなわち平文を示そうと思う。

 私が任官したころは、まだクロヨンなどと言う言葉が残っていて、給与所得者の所得の捕捉割合が9割に対し、事業所得者の所得の捕捉割合が6割と言われ、その不公平感が問題となっていた。

 適正に申告しない輩も蔓延っていたが、役所側にも問題を抱えていた。国家戦略を理解せず数字ばっかり追っかけている役人、そもそも、申告納税制度の存在意義を説明できないという、国家試験に通ってはいけないだろうという奴までいた。

 それでも、ここが我が組織の好きなところで、中長期で戦略を立て、一歩ずつ、少しずつ、悪しき習慣を駆逐し、攻略し、敵を仲間に引き込み、90年代以降、急速に改善、2003年の内閣府の報告によると、97年時点で、事業所得者の捕捉率は9割に達したという発表に至った。

 

 日々、困ったちゃんを見つけては、適正申告に導いている私達としては、まだまだ道半ばという印象は拭えないが、少なくとも、まじめな納税者が圧倒的に増えたことは、肌感覚としても実感している。以前のように、居酒屋で「真面目に申告する方がバカだ。」と吹聴するようなバカはいなくなった。日本の国でも、税金をごまかすことは恥であるという常識は備わってきたように思う。

 

 以前私は、「正直者がバカを見ない社会。」という、ややつかみどころの無いものが、私たちの任務だと考えていた。

 しかし、正直者が圧倒的多数になりつつある現在においては、「不正直者が損をする社会」という、かなりターゲットの絞られたものに変化してきた。

 すなわち、多数の国民が義務を履行することにより、官憲は、その履行者の権利の保全する(担保する)力をより強めるのである。官憲に統制されるのではなく、自分たちの行いにより、官憲を統制するのだ。これが、申告納税制度の裏の裏である。

 

 ただ、まだまだ、「税務署が怖いからまじめに申告する。」のであって、自分たちの権利が保全されるために官憲が存在するという考えに至りきれない人も多い。

 国力の基(もとい)なる、明日の税務を、官憲に委ねているうちは、真の主権の鼎を備えているとは言えないのだ。

 

4 サラリーマンたちの委任体質

 平成5年ごろからか、医療費控除などの還付申告がよく知られるようになり、多くのサラリーマンが税務署の窓口に押し寄せるようになったが、彼らは、ほとんどが確定申告書を自分で書こうとはしなかった。

 サラリーマンは源泉徴収制度により、普段は給料から天引きされた税金が、年末調整で精算されるので税金の計算をすることが無い。このため、彼らは、自分の税金の計算方法がどうなっているのかはおろか、自分の税金はいくらなのかすら知らなくて平気だったのだ。

 当初は、こちらで申告書を作成してあげていたが、来庁者の急増に、何とか自分で書いて自分で提出してもらうよう、大量の納税者の意識改革、「自主申告の推進」政策が始まった。

 

 元来、税務職員が確定申告書を代筆する行為は、税理士法52条につき違反である。それに、役所が提出書類を代筆するなど前代未聞だ。

 ユーザー車検陸運局に行ったことが有る。3万円の代行料が、激安に感じたよ。登記や遺言書、自分で裁判を起こす本人訴訟、役所は何一つ手伝わない。当たり前だ。それが、悲惨な戦争を経て勝ち取った国民の権利なのだ。

 国税組織は、適正に自主申告した「納税者」の権利を守るために存在する。従って、相談に応じ、指導を行うのは行政サービスの一環と言えるが、一向に独り立ちせず、自らその権利を放棄する者の自主申告による利益を保証する必要は無い。

 

 家業が会計事務所だった私は、過剰なサービスは申告納税制度の効果を損ない、国家の弊害となり得ると確信していた。

 そこを見込まれてか、ずっと、この「自主申告を推進」政策の最前線を渡り続けることになる。

 私の思考は苛烈だった。「公に服する者、弱者には手を差し伸べる。しかし、怠惰に手を差し伸べる必要は無い」。今は来庁者の不興を買い、痛みを伴ったとしても、将来全体として、自主申告の旗印が増える戦術を考案しては献策した。

 しかし、いつも近視眼で中途半端な正義感ぶったやつが、「来庁者が可哀そうだ。」と知ったような反対論を唱えた。

 しかも、そういう奴ほど裏では、「医療費控除なんかやめてしまえばよいのに。」などと言うのだ。まったく近視眼どころか、ものの見方すら知らんうすのろだ。医療費控除には何の問題もない。むしろ、サラリーマンが領収証を保存し、税金の計算を勉強する良い機会を与えているのだ。

 しかし、そんな論理や思考も、若く、力の無かった私には無用の長物だった。

 私の意に反し、来庁者とのトラブルを恐れ、自主申告の推進は一向に進まず、年々依存者が増え、来庁相談申告は全体の4割を超えるようになる。

 逆に言うと、残りの6割はまじめに、役所の手を借りずに申告しているのだ。なのに、その人たちの申告書の処理の時間が、どんどん圧迫されて遅れていく。

 

5 自主申告を進めるインフラ整備

 平成15年、その後「確定申告書等作成コーナー:通称「作コナ」」と呼ばれる、ネットで確定申告書が作成できるシステムが開発される。

 私は、たまたま、この前年に、電算系の虎の穴のような部署に出向し、泣く思いでパソコンを学んでいたので、当時誰にとっても難しかったこの新兵器の活用を任される。

 相変わらず、国家戦略の大綱を読もうともしない連中が、機械化を懐疑的に捉えて非協力的だったり、外側には、永年の習慣から、もはや役所が申告書を作成することが当然とまで考えている人まで増え始めていて、普及には相当苦労した。

 ただ状況は少し楽になった。「作コナ」は、毎年のようにリニューアルされたが、私は、どこへ行っても、どこが変わっても、誰よりこれを使いこなした。なぜなら、私が持つ自主申告推進のストラテジーと、国家が「作コナ」を通じてやろうしている未来構想・ストラテジーが一致していたからだ。何がしたいのかが分かるから、何をやっているのかが分かる。おかげで、私は一目を置かれることが多くなり、前線の指揮を任される機会が増えた。

 私が語る未来やスタラテジーを理解してくれた上司や後輩、そして何より、私の頼みなら少々難しいことでも喜んで手伝いますよ、と言ってついてきてくれた非常勤の職員さんたちのおかげで、最前線の一兵卒の局地的勝利に過ぎないが、転勤するごとに赴任先の作コナ使用率を飛躍的に向上させてきた。

 

 気が付けば、インフラも整い、中高年でもかなり自分で申告書を作る人が増えた。

 自力作成が「当然」となり、補助を受けるのは高齢者など特定の弱者に絞られるようになった。

 一人一人ができることをする。そうすれば官憲(役人)は、本当に必要な仕事に傾注できるのである。

 今では、指導する職員も熟練の知識を持っている必要がなくなり、更にスマホ申告の普及も始まり、申告指導の中心は若手にシフトしている。私ももはや前線ではお邪魔虫だ。

 高齢者や補助を必要とする来庁者の応対担当になって、やっと、直接「ありがとう」と言ってもらえる仕事に就けそうだと思っていたが、また次のスタラテジーが待っていて、そっちの前線に回されそうだ・・・

 

 しかし、「作コナ」の成功については、すべてを手放しでは喜べないところが有る。

 どうして、これだけの予算をつぎ込み、インフラを整備し、多数の人員を投入しないと、この結果に至らなかったのか?国税が開発した「作コナ」は素晴らしいシステムだが、民間の会計ソフトの需要を圧迫してしまった。

 やはり、国税は介入し過ぎたのではないか?

 

6 主権の鼎

 長い説得と推進の努力の中で、私は、日本国民の主権に対する自覚の無さと、その権利を官憲に委ねることに対する頓着の無さについて、非常に根深いものを感じた。

 官憲すなわち官僚や役人と言うものが信頼できる武士道文化の影響も考えられるが、官憲が五蠢化し、国家の運営が危ぶまれたとした時、実はその責任は自分に有るとは考えていない。当然、腐敗した官憲の責任だと皆主張するだろう。

 国民主権とは、勘違いされがちであるが、主権が国民一人一人にあると言う事よりも、国民一人一人が、国家の運営に責任が有ると言う事の方が重要なのである。

 木っ端役人の勤勉さと優秀さは今でも信じて頂きたいが、中央の官僚の方は、昔ほどレベルが高いようには思えない。主権者がいよいよ自覚を持つべき時代が来ている。

 

 日本初等教育では、実は、かなりの時間を割いて、国民の権利と義務について知識を与えている。しかし、これが上手く活用されていない。

 以前、社内の活動で英会話を習う機会を得た。この時、講師は言うのだ。「You don't say you don't know.You should say you can't remember.知らないと言ってはいけない。覚えていないと言うべきだ。」。「chugaku,koukou,daigakuも行きましたか?一体何年英語の勉強をしましたか?シラナイなんて有りえないデスヨ!」。まあ、確かに、その通りだ。

 日本人も、主権に関する知識は十分にあるのだ。しかし、英語と同じようにその使い方を習わなかった。その意義を習わなかった。その歴史を習わなかった。

 主権は、日本人にとっては暗号にしか見えないかもしれないが、西欧では平文であり、中学生レベルでもちゃんと権利に付随して義務が有る事まで理解している(日本では、権利だけを主張して、義務を忘れている人をよく見かけるが)。

 是非、日本人においても、それが常識になる日が来ることを望んでやまない。

 

平和の理

本カテゴリーの最終回にあたり、かねてより予告をしていた論文を掲載する。

 

「平和を科学的に考察する平和学の構築に向け柱礎として一例を呈す。」

 本論の目的とするところは、平和の希求について、立場や環境によって左右される道義的もしくは感情的な観点から考察するのではなく、客観性を持った科学的な知識と論理的な観点から考察することを推奨し、その一例を示すものである。

 

第1章 戦争と平和の損益計算

 客観的で、最も衆人の理解しやすい科学として、会計学と経済学を選択し、戦争と平和の効用について考察する。

1 戦争は赤字である

  戦争の効用 (収益)

 イ 戦略的利益

 開戦時におけるその国家の予定している収益は、領土や権益、一定地域の影響力と言った戦略的利益であるが、本ブログでも提示したように、その予定利益の多くは、国際情勢の均衡の中実現されない。

 「この戦争をやって良かった。」という戦争が有るとすれば、おそらく第二次大戦までだろう。しかし、それらも、敗戦国の経済に重い負担を負わせ、成長を遅らせた。

 ロ 戦勝の効用

 戦意の高揚と情報操作により、国民感情の炎上の結果、その目的は、当初の戦略的目的から、強く感情的なものとなり、一番の収益は国民の「相手を打ち負かした」と言う優越感に変ぼうする。

 これら戦勝の効用とも呼べる効果は、一時的に経済を発展させる可能性はあるが、一過性のものであると予想される。なぜなら、前述のイの通り、実質的利益が無く、後述⑵で示す通り、投下される労働力が全て、破壊と消耗しか生み出さないなら、戦勝時において、持続的経済発展を支える「資本」や「財」の裏付けを持たないからである。

 また、逆に敗戦国に残る怨嗟の念は、はるかに永く、国際経済上に悪影響を及ぼす。

 ハ すべての戦争が利益が目的でないという主張について

 「戦争は利益のためではなく、義理・人情のために引き起こされるものだ。」と主張する者が多いが、義理を立てるとは、負債を返済することであり、人情をかけるとはカシを作ることであり、将来の権益を約束させるものである。従って、イと同じものとして捉えられる。

 既得権益を侵害された場合のいわゆる「自衛のための武力行使」については、確かに収益を目的とした活動に該当しないが、それを以って会計学上の考察外とは言えない。現存資産を維持するものとして、「資本的支出」という資産勘定が有るので、これに振替えられたと考える。

 この場合も、支出と資産はイコールであることから、黒字を生み出さない。逆に黒字は生み出さないが、必要不可欠な行動であることは認める。

 但し、「自衛」については、拡張解釈の末、「自衛という名の加害」に発展する恐れがあるため、国際法による明確な定義付けが必要である。

  戦争の費用

 イ 人的損失

 戦時における熱烈な集団心理の中では、人命の評価は紙以下に下落する。多くの兵士も、動員された国民も、命がけの労働に見合った賃金を受け取ることはない。

 これらの投下された人的資源(以下経済用語として「労働価値」と呼ぶ。)が、建設的なものに使用され、国家として所得の上昇や財産の蓄積に寄与したというのであれば、ある程度は救われるが、大半は以下のロの減損会計に飲み込まれる。

 ロ 減損会計

 イに掲げた膨大な労働価値が、なぜ、何ら財を生み出さないのか?どこへ行くのか?

 兵器は本来通常の減価償却資産より長い耐用年数を持つ。これを破壊によって、強引に短縮している。これを会計学で「減損」と言い、労働費と同じく費用の項目に分類される。労働費は、「原価」という資産を形成するが、「減損」は、償却されるのみである。

 互いの国が多大な労働価値を投入することで、互いの労働価値をこの「減損」に振替えさせている。そこには、特攻隊員の決死の破壊活動と言う労働価値も含まれる。それが、会計学から見た戦争という行為の仕訳である。

 ハ 戦火に笑う者

 国家としては大損失この上ないのであるが、まだ労働価値は消えていない。ある経済主体の大損失の多くは、他の経済主体の利益になる。

 軍需産業がその直接の受益者と言えるが、投資や貸付により利益を得る者も多い。

 なお、軍需産業は、一応半分官業である。公共工事のように国民経済に波及しないのだろうかとも考えられるが、もし、そのようなトリクルダウンが正確に行われていれば、戦時下での「失業0%」状態は、バブル景気を生み出していただろう。

  結論

 戦争は感覚的にも赤字だが、経済学的に、そして会計学的に赤字である。

 参加者の多くが敗者であり、他国民の権利を蹂躙し、横暴に財貨を奪うことができた時代にのみ成り立つ経済活動である。

 

2 平和は黒字か

 (1) 平和の効用

 イ 将来の安定性

 平和の効用のシンプルにして最大のものは、「将来の安定性」である。

 誰かによって破壊されるかもしれないと言う不安があるのなら、誰もローンを組んで家を買おうとはしない。

 将来の安全性が約束されているから、家を買うし、子供をもうけ育てようと考えるし、企業も設備投資をする。

 平時においても失業の不安や災厄の不安が無いわけではないが、隣国との緊張関係が続いている状況に比べれば雲泥の差である。

 ロ リソースの平和転用

 リソースとは資源である。現在のところ、かなりの、人的資源・税金・工業力・学術、様々なものが、人殺しの為に利用されているが、安全が保障されれば、明らかに生産性が高く、有益な経済活動に投下され、効率よく成果物を上げることになるだろう。

 それらの成果物の中には社会に貢献するものも有り、新たな成果物を生むためのリソースになる。

 コンピュータやインターネットのように、人殺しの道具を作っている過程で、社会的に貢献する技術が生まれた例も有ると主張する人も居るが 、別に宇宙開発の競争でも生まれていたかもしれない。重要なのは、知性を活用する動機付けであろう。

 ハ アップデート

 よく、戦争は科学を進歩させたという意見を言う人がいるが、「誰もが納得する国際法」「武力を使わずにこれを維持する方法」「宗教・文化・習慣の違いをある程度受け入れる知恵」これほど人間の高い知性を求める課題は無いのではないか?

 争うよりも、共に生きる方が課題としては難しいのである。そこに人の進歩の原動力が有る。私たちが考えているより、歴史はずっと、その課題を克服するためにアップデートされてきた。

 知恵と理性で、多様性を融合しながら、人類は進歩する。DNAという生命体は、そのようにプログラミングされている。

 二 笑顔

 感傷は科学的ではないのだが、このパラメーターは加えさせてほしい。

 強制労働者がいくら涙を流しても、労働力は低下しない。

 しかし、毎朝家族に見送られて、笑顔で働ける労働者の労働力が向上したという科学的な報告はいくつも出されている。

 私たちは、平和を希求するにおいて、涙ではなく笑顔を数えるべきなのである。   

 (2) 平和の費用

 イ 平和の費用

 戦争には莫大な費用がかかる事は当然であるが、平和であれば費用が全くかからないのであろうか?

 そのような事は無い。

 ①まず、国際平和を構築し、これを維持する組織を運用する費用が掛かる。

 ②平和がもたらす空前の自由主義経済は、空前の貧富の格差を生み出し、社会に歪みを起こすかもしれない。そして、その歪みを是正するために、国家は資本主義を修正するために多額の社会福祉費を必要とするかもしれない。 

 ③平和と安泰により緊張感を失った社会は、退廃を生み出したり、理不尽な刺激を求める集団を生み出すかもしれない。

 しかし、このうち②③のような平和の弊害とも呼べる費用については、不確定要素が多く算定は難しい。なにぶん恒久平和というものを人類は体験したことが無いから。よって、まず、国際紛争の解決に主眼を置いて、この点については別項を以って考察する。

 ロ 負担

 いずれにしても、戦争ほどではないが、平和を維持するには費用が掛かる。

 私はこの問題について、二つの「税制」をもって対処することを提案する。

 兵器税

 自動車は環境を破壊し、道路網と言うその資産のみが利用するインフラを必要とする。ゆえに自動車税がかかる。

 兵器は「平和」を阻害する。ゆえに、平和の維持のために税を課す。

 兵器を削減するインセンティブ効果は説明するまでもないだろう。

 美しい累進税

 「稼ぎに追いつく税が無い」という理念を重視し、かつ租税法律主義に基づく、シンプルで美しい課税制度を構築する。

 まず、基礎控除を設け、貧困レベルの国家には負担を強いない。とにかく仲間に入れ、同調を促す。

 一方で、累進課税度を導入する。いろんな指標が考えられるが、とりあえずGDPの高い国家には、高税率の負担を依頼する。

 CSR(企業の社会的責任)という言葉をご存じだろうか?儲けの多い企業は、社会と言うものが健全であるから、その儲けを維持できている。だから、儲けの一部を社会に還元するのが当然だという考え方だ。

 発展した先進国には、是非その精神を持ってもらいたい。

  ハ 負担逓減のストラテジー

 平和のレベルが上がれば、その効用によりGDPは上がる。さらに紛争貧困国が立ち直った場合、新たな納税者が増えることになる。

 ほどなくして平和を維持するための資金は潤沢となり、各国のGDP税率は下げる必要を迫られる。これを経済用語でビルトインスタビライザーというのだが、もう長い間世界経済でこれが起きていない。ずっと長い間世界が不安定だったからだ。

 本当に世界平和のレベルが上がり、世界が安定すれば、その言葉も復活するだろう。

 そのためにもう一つ付け加えておく味付けが有る。

 負担逓減のストラテジーだ。

 フェーズと言われる概念を取り込み、平和維持費の負担国の増加、地域紛争・民族紛争の減少・航路陸路の治安等、予め定められた一定の国際平和基準を満たす度に新しいフェーズに移行したと宣言する。

 フェーズに応じて、税率を下げ、組織も縮小する。

  国際平和のフェーズが進めば進むほど、国際社会の負担が逓減されていく。

 平和を希求すればするほど、負担率が下がり、費用が逓減し、GDPが上がり、負担率が下がる。

 戦争を選択していたら絶対に実現できないダイナミズムだ。

  結論

 長期的に平和な時代という情報が無いので、費用の規模が明確でなく、断定的ではないが、運用方法一つで平和は圧倒的な黒字を生み出すということは疑う余地が無い。

 

3 是非も無し

 道義的・感情的な観点から考察すれば、双方に義が立ち、理が立ち、相まみえないところであるが、このように科学的かつ論理的に検証すれば、双方の効用は明白となる。

 おそらく、人類はまともに考えれば損得がはっきりすることをすでに気づいている。

 欲望・プライド・猜疑心・差別、人情と言うものは、どうにも抑制の効かないものである。「理屈はわかっているけど止めたくない」。だから、わざと、感情論に持ち込んで、答を先延ばしにしているのではないか?

 しかし、いつまでも、これほどに損得に格差のあるものの是非を判断できないとなると、人類というものは『知性が低い』と断ざざるを得ない。

 

第2章 国際紛争の解決

 さて、戦争は愚策であることを証明したからと言って、国際紛争がなくなるわけではない。戦略の選択の合理性を証明したに過ぎず、運用面における合理性を論ぜなければ、「ベルキャット」、絵に描いた餅である。

 ここからは、法理学・哲学と教育という概念を用いて、その問題の解決策を検討する。

1 主戦略

 私の根本的解決策は、国家の自由を無制限に認めると、「万国の万国に対する闘争 」が生じるわけであるから、一定の権限を国際機関に委ねるという、現在でも進行している国際契約論である。

 そしてその基幹となる戦術理念は、法の理の活用と「教育」である。

 

2 戦術

 ⑴ 万国布法(全世界に法理を理解させる教育)

 日本国憲法は、信条・思想・宗教・国体の自由はこれを認めるが、教育を受けさせる義務・勤労の義務は、公共の福祉を守るため、これを義務化した。

 「法律は警官が怖いから守るもの。」などと考えているようなレベルの人間が、国家レベルの集合体となるとサトゥルヌス(英名:サタン)になる。「自分たちの自由は義務を守ることにより存在する。」この単純なロジックを理解させる程度の教育は必要だ。

 独裁国家軍国主義国家も己の実権を維持するための国体護持は認めよう。

 しかし、ある程度の経済力を確保した国家は、人道的に飢える国民に食を与える義務が有るのと同様に、「初等教育」を受けさせる義務を負わせるべきである。

 ⑵ 法はすべての諸国民は救えない

 イエスキリストのようにすべてを寛容に受け入れるわけにはいかない。

 人民の自由は常に「公共の福祉に反しない限り」という制限を受ける。わかりやすくいうと、他国に迷惑を掛けない限りの自由なのだ。

 例えば瀕死の難民であっても、その国の福祉を侵害するのであれば入国できない。

 何をもって、一国の福祉が侵害されたとするかは、国際法でこれを定める。

 結果として一部の難民は死ぬしかないのかもしれない。しかし、ここで情に流されてはいけないのだ。

 世界に法理が確立し、紛争の種が無くなれば、暴君も減る。救済はそこから始まる。 

 ⑶ 賞罰の制定

 国際法を遵守させるにおいて、メリデメ(守らないより守っている方が利益が有る状態)を明確化させるためには賞罰の制定が必要で、それを維持するためには、一定期間武力が必要である。

 そして、その武力は国際社会におけるマウンティングを先に取っているものの都合に左右されがちである。

 「剣を持たない正義は無力であり正義を持たない剣は暴力である。」

 しかし、その正義の定義が難しいのである。

 結局、法を定めるものが、国際社会を統べることになる。

 このリーダーを的確に選ぶだけの、国際社会の成熟が必要となる。

 だから、⑴の万国布法が重要になる。

 ⑷ 国際紛争の一時的全面解決・凍結

 領土問題。現行通り実効支配を最も重視し、一定の期限までに国際法廷での提訴を認めるが、原則として科学的つまり歴史的証拠に基づく裁判のみを行う。結果として、ある時点でその国家の領土とみなし、また50年ごとに見直しの機会を与えるが、さらに実効支配の影響は重く、また同様に、採用される証拠は文献に限られることから、基本的に状況を覆す事はできないと言う不文律を確立する。

 ⑸ 格差の平準化

 富裕層の存在が問題視されることが多いが、格差の問題の根幹は貧困層の存在であり、それを生み出している「差別」思想である。

 単一民族国家で宗教もほぼ階差の無い日本人が、「差別」について語れることはほとんどないと私は感じているが、一つだけ試してほしいことが有る。

 被差別民族に対する、「初等教育」の実施だ。

 太平洋戦争で、日本人はアジアの人々に多大な迷惑をかけたが、見下していたはずの支配下地域の人々に、これだけは行った。

 それが今のアジアの礎の一つに数えることはアジアの人たちも許してくれるだろう。

 ⑹ 戦争を企図する者の規制

 軍需産業に対しては、撤退の利益を補償しつつ規制をかけて稼業を縮小してもらう。

 あるいは、その技術や資源を保全して、別の産業に転身の道を開くことができれば、理想的である。恒久平和に疑念を持つ人々の心理的安全保障にもなろう。

 環境問題の影響で、多くのプラスチック加工業者が職を失ったであろう。彼らを潰して、他の産業は潰していけない法は無かろう。商業の自由は経済の根幹だが、より大きな公益の前に聖域は存在しない。軍需産業の人達にもそろそろ、縮小傾向に入ってもらうべきじゃないか?

 

3 平和の弊害についての対応

 第1章2⑵で提起した、平和の弊害について対応策を示す。

 ⑴ リソース

 平和の効用の二つ目(同章1⑵)で示したように、対外政策へのリソースの分配の減少は対国内政策へのリソースの増加を意味する。

 同様に戦争の脅威が減れば軍事費が不要になり、国際平和に対する負担が軽減すれば、更に潤沢な資金が回せるということになる。これに以って、貧富の格差等に関する問題解決に充てる。

 ⑵ 教育

 平和には副作用が生じる恐れがあることを十分に認知し、基本的には教育や報道によってこれを抑制する。 

 また、2ハで示した負担逓減のストラテジーについては、各年度ごとに国民に知らしめることが望ましい。まず、平和は無償でないことを理解させ、自分たちが努力したことによりその成果が上がり、その効用により負担が軽減されダイナミズムを上昇させていると言う、心理的効用も共有させることに意義があるからである。

 退廃や無用な刺激を求める輩には、万国布法の提言で述べたように、「テメエらの享受している自由や平和は無料じゃねえんだよ!」という簡単なロジックを理解させる。

 

第3章 日本

 できれば日本人が平和学の論文を作成する際は、この章を加えてほしい。

 要するに持論の展開の後、その論陣の中で日本はどう振る舞うべきかを提議するのだ。

 私の論文の場合、日本は、平和の効用を最も永く享受し、その弊害も認知し、第2章で述べた運用面での維持条件を十分に満たしており、国際社会が本気で平和を希求するとなれば、最も模範となり得る国家である。

 しかし、正直なところ、日本は意外に過去を引きずり過ぎている。隣国に過去の過ちを突かれて不満を言っている国民も多いが、日本こそ、過去のことをいつまでもぐちぐち言っている。だから、最も平和に近い国でありながらそれを実現することができない。

 拉致問題にしても核兵器にしても、時代が進歩する中で、変わっていくものを抑えることはできない。現状を踏まえて、全てを飲み込み、本当の平和を希求すべきなのである。

 日本がその気になれば、まずアジアを本当の意味で平定し、次いで欧米との橋渡しも可能だろう。国連は中国の影響下に呑み込まれつつあるが、日本がその気になれば、欧米も東南アジアの諸国も日本に味方してくれるだろう。そうすれば2章に掲げたような、万国布法が実現し、公正な剣を持った国際司法が成り立つことも夢ではなかろう。

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ヨハネス・フェルメール「地理学者」(geographer)

 敢えて、英題のジオグラファーを付したのは、その響きに、エクスプローラー(explorer:探究者・冒険者)のイメージが重なったからである。

 一説には、この作品は、地理学者が探究の末何らかの「ヒラメキ」さらには「天啓」(神からの啓示)を得た瞬間を描いたものと言われている。左側にまとめられたカーテンと机上に押し込められた東洋風の絨毯が、彼のこれまでの探究の蓄積を表し、そこから何かのヒラメキを得た彼は、ディバイダ(コンパス)を取り出し、彼の着想の具現化を始める。そこに、窓からの優しい日差しが差し込む。

 そう解説されると、フェルメールの巧み過ぎる表現力に改めて感嘆する。

 そして私は思うのである。私のこのちっぽけなブログが、本職のエクスプローラーたちのカーテンや絨毯になってもらいたいものだと。

 

普通

 

 最近娘が、「結婚」や「養う」という表現に過敏に反応する。

 男が働き、女が家庭に入るという旧態依然とした常識がお気に召さないようだ。

 

 就活をしていた頃は、適齢期に結婚して子供を産み育てる将来像を描いていた娘も、入社して営業職に就き、同期はおろか先輩をも凌駕する成績を上げるようになると、自分のキャリアが出産・育児で遅れることを残念に思い始めたようだ。

 それを察した私が、ついつい、「縁が有るのなら早い目に結婚して、子供をもうけるのが一番。」的な話をするものだから、余計に反発を買ってしまう。

 私の家は、夫が正社員で妻がパートタイマー、子供が男女二人と言う、年末調整の説明会に出て来そうな、本当に「普通」の一家であるため、娘はその価値観を押し付けられるのでないかと強く警戒しているのだ。

 

 しかし、私は別に我が家の形態が一番正しい選択だとは微塵も考えていない。

 私が一番正解だと思う形態は、まず必ず子供は育てる。そして、妻も出産・育児期間を除いては仕事を続ける。男性は、なるべく育児の負担を減らす。である。何のことは無い、政府の子育て支援政策そのものである。

 ここで大事なのは、必ず子供が居ることと、彼らが成人するまでは決して離婚しないことである。

 

 前に、士官候補生として特別訓練校に行ったと話したことが有る。

 そこには当然女性の士官候補生も来ていた。

 異性ではあったが、皆さんコミュニケーションも高い方々で、節度を守った範囲で、結構親しく交流させてもらった。

 とても優秀で、行政のあるべき姿や組織の改革すべき課題なども語り合った。

 そんな中、私は彼女たちの抱える大変由々しき問題を聞かせていただくことになる。

 彼女たちの多くは、結婚についてはそれほどではなかったが、子供をもうけると言う事については、かなり否定的であった。

 

 士官候補生になった時点で、同期と半年の差がついている。その後も、こっちの階段の方がずっと段差が高いのだ。

 「何を恐れる必要がある?子供をもうけない選択を採る理由がわからない。」と言うと、女性たちは言うのだ。「私たちは、ここを出て、子供をもうけた先輩の姿を見ている。」と。

 調べてみるとすぐにわかった。士官学校を出た後エリートコースを進んだ女性で、子持ちは居ない。酷い話だ。しかも、士官学校入校時は既婚者だったのに、ほとんどが離婚していた。

 

 20年経った。私の士官学校同期は豊作だったらしく、みなさんずいぶん出世していた。女性エリートも多く育ったとか。ただ、みなさんお子さんはお持ちでない。20年経っても、状況は、数パーセントしか進歩していない。

 悲惨なのは、無駄に途中までエリートコースを歩んだ人で、子供ももうけず、夫とも不仲になった挙句、出世もできなかった。そして何人かは、独身なのに退官したという。その中に、特に親しく接してくれた人が含まれていたので、大変ショックだった。

 

 士官学校を出ても、必ずエリートになれるわけではない。人よりも功績を上げるチャンス(いわゆる特急券)を多く回せてもらえるのだ。私はその特急券をことごとく棒に振ってしまった。だから、エリートコースから外れた。自業自得だ。

 ところが、この特急券と言うのが女性にとっては、厳しいハードルになる。

 多くは、功績は期待できるが、切った張ったを覚悟する危険な仕事、若しくは、功績は期待されるが、精神をむしばむ業務だ。

 女性には向かない職務なので、当局はやらせない。

 女性職員の中には、泥仕事もできる人も居る。しかし、私も別にそれをやらせる必要を感じない。私に言わせれば、「おなべ」が働いているようなもので、気色が悪いだけだ。このタイプの女性は、幹部になっても何か勘違いしていてタチが悪い。

 女性には、女性の才能を生かした業務が有るはずだ。だが今のところ、そこには、特急券は無い。

 彼女たちは、やむを得ず特急券なしで、ひたすら実績を積み上げる。それだけ優秀なのだ。そうして、ある程度の実績を積めば、もともと幹部にするために特別な訓練を受けているのだから、幹部に昇格させてもらえる。

 しかし、そんな苦労を知らない男性社員からは、泥仕事を経験せずに出世していく女性幹部登用を「スカート人事」(女性登用実績の数合わせのための人事)と揶揄される。

 民間企業でも、営業が花形で、出世が一番の近道で、周囲もまた、その人事には納得するように、私の組織でも、やはり、「外回り」ができてこその幹部、という風潮は覆らない。

 それでも覚悟を決めて、出産育児に踏み切ったら、時は分進時歩のICT時代、1年半程度のブランクで、ウラシマ太郎状態。休みに入る前の後輩が、指導役になっていたりする。

 なるほど、これでは育児支援制度がいくら充実していても、キャリアを目指す女性にとっては、子供は邪魔な存在でしかない。

 

 しかし、子供を諦めても、今の社会では、簡単には男性には勝てない。

 フェミニズムの帰結_前編《本性》でも話したように、女性の多くは、男性が経済力を担当し、自分は子育てを担当することに別に異存はない。結果として、今の社会では、「自分しか収入源が無く、簡単に退職はできない」、「どんなに嫌なことが有っても、ここで生きていくしかない!」という、最初から背負っているものが違う男性が圧倒的に多数なのである。

 士官学校の女性たちの中には、士官学校に入るために子供を作らなかったと言っている人も居た。その苛烈な覚悟に関心もしたが、逆に、私は、子供が居たから士官学校を目指し、図書館に通って勉強もした。しょぼくれたお父さんにならないようにと思ったからだ。(結果的にはしょぼくれているが)

 図書館では、吐きそうな思いを何度もした。だって、攻略資料に書いていることが経済学以外さっぱりわからないのだから。しかし、妻と20年間楽しく過ごし、子供を立派に育てるには、この会社を楽しく20年間務める必要が有り、そのためには、エリートコースに乗る必要が有った。

 娘や士官学校で話し合った女性たちが、出世の先に何を見ているのかまちまちだろうが、私たち男性はまず、「その会社を辞められない。」から始まるのである。

 受験で言うと、その学校一点張りで勉強してくるやつだ。多分相当手強いと思う。

 

 

 娘も含め、世の女性の方々に強く訴えたい。

 子供を産むことを諦めてキャリアを追うのは止めた方がよい。

 確かに、未だに育児支援は形だけ、本当の意味でのキャリアの保全は見込めないかもしれない。しかし、子供を持たないという選択は、その数十倍の損失をもたらすと思われる。

 ①まず、上記に挙げたとおり、その賭けに勝つ確率は非常に低いということ。

 ②次に、育児支援が本当の意味でのキャリア保全になっていないことは、大手企業の多くが気付いていて、その改善に取り組んでいる。

 先日、士官学校同期の女性が子持ちだったので、行く末を案じていたが、幹部に昇格した。他の男性エリートに比べると遅いが、女性としては比較的早い方だ。

 本店勤務に抜擢されるような女性は、出産育児後も、平然と元のキャリアに収まっている。

 夜明けは近いのだ。

 ③そして、なにより子供という財産は、そこで落としたキャリアの何十倍も価値の有るものとなり得ると言う事だ。

 

 妻が妊娠の報告をもたらしたあの日から、20数年間、止まらないジェットコースターに乗り続けた。夫婦喧嘩に親子喧嘩、費やした金銭と、時間と膨大な労力、それでも大笑いしたり、大はしゃぎしたり、すったもんだで、ようやく、ひねくれ曲がった私よりは、もう少しまっすぐな人間を二人育て上げることができた。

 計画していたほど出世はできなかったが、いつまでも若く天然の妻、男前で友達の多い息子、可愛いいわりにギャグマシーンな娘。年末調整の説明会に出て来そうな「普通」の家族だが、バランスはよいと思う。

 「Official髭男dism - Pretender(2019年リリース)のサビが、リズムに合わせて歌えないと、笑われるんだ。」と周囲にこぼすと、「君の一家はいつも楽しそうだな。」と言われる。投資の数倍の配当は取り返せているのかな。

 その昔、あるドラマで(たぶん鎌田敏夫先生の脚本の台詞だったと思うが)、「普通が一番難しいのだ。」という台詞が有った。

 何らかの特殊事情を抱えている場合は仕方ないが、普通に離婚をせず、子供を成人まで育て上げることは普通のことだが、批判を承知で言わせてもらうが、この普通のことが一番難しく、それができていなくて、いくら若くして大量の部下を持つ立場に立ったところで何ほどの事か?と思うのである。

 いい加減目覚めなさい。人生にとって本当に大切なものは何なのか?

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「ミロのヴィーナス」ルーブル美術館所蔵

 1820年オスマン帝国統治下のエーゲ海にあるミロス島で発見された。古代ギリシャ彫刻の遺跡と思われる。腕は発見された当時から無かった。美の傑作にして完成形と言われ、多くの芸術家が手本とした。

 すべてが計算されつくしたバランスで成り立っているというが、腕が無いのならそのバランスは崩れるはずではないのだろうか?しかし、不思議なことに腕が無くても多くの黄金比が成立しているという。そのため、中には、最初から腕が無かったのではという学者もいる。

 もしそうだとしたら面白い。というのも、私はかねてからこの作品を見るたびに、女性の強烈な魅力・魅惑を感じつつも、まるで両手を縛られてて不自由を強いられているような哀れな思いに駆られるのだ。

 しかし、ヴィーナスは慄然と立ち、前へ踏み出そうとしている。

 私には、その姿が、多彩か卓抜して優秀な才能を持ったとしても、出産・育児と言うハンデに両手をもがれ、それでも前進する、強い、強い女性像を彷彿させるのである。

 もし、この像の作者がそこまで計算していたとしたら、圧巻の一言に尽きる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ブレイクスルー

 

 本ブログのテーマの1つは平和学の創設であるが、当初の目論見では経済学のように一般社会の全体の効用(幸福)が科学的思考によって最大化される手法を編み出す学問を嘱望していた。

 本筋の見解としては、平和の効用を科学的に証明し、その維持に必要な措置を検討する体系を取りたかった。いわゆる戦争批判によるアンチテーゼとしての平和の訴えは避けるつもりでいた。

 しかし、実際には、戦争の愚策を、感情や道義的な観点から訴えるのではなく、合理的に理性的に科学的に否定できることを主張したいという欲求の方が強くなり、その部分が大半を占めてしまった。これでは、現在すでに発展しつつある「戦争論」の一考に過ぎないものになりかねない。

 

 とは言え、今更当初の目論見に立ち返って議論を展開する期間はもうなくなってきた。

 しかしながら、これらの投稿が無駄になるものではないと考えている。

 というのも、最終論文においては、当初の目論見に立ち返って、平和の効用と、その最大化及び維持継続を中核とした論線を張ろうと考えているが、その中でも、当然対極に立つ戦争を否定する部分は不可避である。これらの否定根拠について多くの文面を割くことなく、本ブログの投稿の引用を用いると言う手段を使えば、当初の目論見である平和の効用の最大化がよりクローズアップできることになろう。

 

 ブレイクシリーズは、戦争の愚策を説き、その改善策をこのブレイクスルーで論ずるという構想の下に展開してきた。元旦の投稿でも示しているように、概ねの絵は描けていたのだが、ストーミングは常に変化するもので、ひとつ面白い発見が有った。

 私は、永らく、国民は国家が始めた、あるいは一部の利害者のために始められた戦争による犠牲者だと考えてきた。そして、合理主義によりその不合理を質そうと考えてきた。しかし、実は、私の合理主義に一番立ちはだかってくるのは、国民の欲望と熱狂と言う「集団心理」ではないかと感じ始めたのだ。

 なかなかに手ごわい敵であったが、この集団心理については、「自由」のうちの1つだと捉えることで、私の描きつつある合理主義的解決策に組み込めて行けるのではないかという発想に辿り着くことができた。

 

 さて、前置きが長くなったが、ブレイクスルー、戦争を回避する方法を考察しよう。

 

P 衝突を避けるロジック

 戦争とは、外交政策の決裂の先に有るものである。どの国も当然自国の利益を優先するのはもちろんである。また、それを行う事は国家の主権として認められた自由である。しかし何度も本ブログで伝えているように、自由とは公共の福祉に反しない限りの制限された自由である。すなわち他人に迷惑をかける自由は、あるいは他人の自由を侵害する自由は認められないのである。

 ある国家のある政策が、動悸が不純であろうと、野蛮であろうと、前時代的であろうと、差別が根幹に有ろうと、その国家の自由である。国民の低俗な熱狂もその自由の範囲内であり、私の前に新たに立ちはだかった国民の欲望と熱狂と言う「集団心理」もその自由の一つである。

 しかし、一つの国家の自由を無制限に認めれば、知っての通り、万国の万国に対する闘争と言う事になる。(残念なことに、世界の大半の国が、知的生命体が構築したものとしては実に不細工で無秩序な、この世界との境界線に居ることを恥じていない。)

 当たり前のことだが、自由とは、あくまで他国の自由(自国内の一部の集団の自由を含む)を侵害しないものである。小学生でもわかるロジックではないか?

 

D ベルキャット

 イソップ童話のネズミの発言「怖い猫に鈴をつけるというのはよいアイデアだが、誰がその鈴をつけるのだ。」

 他国の自由を侵害する自由は認められない。

 簡単なロジックだが、問題は、その逸脱した自由を誰が監視し抑制するかである。

 「やってはいけません。恥ずかしいからやめなさい。」で通るなら警察は要らない。

 

 国連と言う組織がその任務を担っていると信じているのだが、先日のWHOにおける台湾の出席拒否を見ていると、とてもその目的の通りには運用されているとは言い難い。

 どうして、国連は各国の利害を調整することに成功しないのか?

 

 国家内においては、ずいぶん前からジョン・ロックの社会契約論が取り入れられ、全員の自由を守るためにそれぞれが1部の自由を国家に預託すると言うシステムが確立されている。同じような考え方が世界的に適用されれば、国連ももう少しうまく機能するはずである。

 しかし、すべての国家が、ジョン・ロックの社会契約論の意味を理解できるだけの理性に達するのは非常に困難である。

 少なくとも、万人の万人に対する闘争を唱えたポップスやジョンロックの時代のイギリスのように、一般庶民が基本的人権とある程度の自由を既に獲得している状態でなければ、制限された自由と言うものが理解できない。

 私たち日本人は敗戦により与えられた自由のため、私たちですら社会契約論を論じることができる人間は少ない。ましてや抑圧された世界が当然で、教育的に国家元首を崇拝することを既定化されているような発展途上国にそれを求めるのかなり厳しい。

 

 しかし、「人は生まれ流れながらにして自由であり、反面その自由は、他人の迷惑をかけたり、他人の自由を侵害してはいけないと言う制約を受ける」。同じように、「国家の主権もまた他国に干渉されない自由を持つが、他国に迷惑をかけたり他国の自由を侵していけない。」という、その単純な話を、世界77億人の人々に伝えることはそんなに困難だろうか?

 すくなくとも、中国のようなある程度の経済力を持った国家が、いまだにこの程度の理念が理解できないようならば指をさして馬鹿にしてやる方が良いように思う。

 

 宗教や国体の護持のために普通選挙が行えないのは結構だが、ある程度の経済力を持った国には、「基本的人権」と「初等教育」の保全義務を与えるべきである。

 頭の良いネズミが増えれば、猫は鈴をつけられる前に悪さができなくなる。

 

C 勝てば官軍

 これは未だにまとめ切れていないのだが、平和を維持することによって、具体的にどれだけの効用が有るというのだろう?

 戦争の愚行については、散々コケにしてきたが、平和のもたらす緊張感の無い世界や競争心の低下が、人類にとっては、退廃や退化と言ったマイナスをもたらすという可能性も無きにしも非ずであろう。

 しかし、私には、やはり、感情的な選択の先に有るものが、理性的な選択の先に有るものに勝るとは思えない。

 ただ今のところ、その根拠はない。

 やってみなければ確かに、誰にも正しい答えとは言えないのだ。

 P,Dをやってみて、指標を評価し、勝っていれば官軍、負けていれば・・・。

 勝つまで問題点を修正し続けるのさ。

 それが正しいことは、一つの科学から証拠を提出できる。

 「歴史」が、人類はそうやって理性を追うことで発展してしてきたという事実を示しているのだ。

 

A やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ

 もっとナレッジが必要だ。

 ブレイクシリーズの中で、私は時折、経済学・会計学・社会哲学などの専門的な考察を取り入れてきた。中には、それが本当に必要かというものも有ったかもしれない。

 しかし、私の意図は、持論の正当性を難しい言葉でそれらしく見せようとしたり、ましてや知識をひけらかすことではない。私は、この、端的に言うと、理性と感情との戦いへの参戦が、どのような学問からも可能であるという、「科学的アプローチ」の可能性を示唆したかったのだ。

 何度か本ブログでも言っているように、私が、平和のプロトコルを見つけられるとは到底思っていない。

 いつしか、もっと知的レベルの高い人が、私のブログに触れることが有り、まじめに、いやむしろ面白がってでもよい、感情や道義的ではないアプローチから「平和を科学すること」がスタンダードになることに興味を持ってくれるよう、敢えて、専門的なところに踏み込んでいるのだ。

 経済学だって、300年経っても「経国済民」の理想を実現しているとは言い難い。

 Cで現れた問題点をことごとく解決し、戦争が選ばれず、理性的な平和がもっとも効用を最大化することを立証してくれる学者が現れることを期待して止まないのである。

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アルフォンス・ミュシャ『ジスモンダ』

 ジスモンダは、このポスター以降ミュシャを専属に指定する女優、サラ・ベルナールの劇場劇のタイトルである。

 しがない挿絵画家だった、ミュシャはピンチヒッターで引き受けたこのポスターの発表により、一躍スターダムにのし上がる。

 本来縦細い絵画なのだが、展覧会で撮影が許されたので、一番好きな上半身を見上げる角度の写真を掲載した。(せっかく撮影が許されているのに、天井のライトの映り込みが避けられないのは、主催者側のミスだな。)

 立体表現に限界のあるポスターと言う世界の中で、すでに、レンブラント並みの表現と、左手を飾るシュロの葉が、後にアールヌーボーと呼ばれ、芸術界を席巻する絶妙な曲線美を彷彿させる。

 世を動かす才能は多々あるけれど、世に出るチャンスを得られなかった画家をたくさん知っている。しかし、ミュシャのように、1枚の絵でその才能を発覚させた画家もたくさん知っている。

 私のブログに彼らに並ぶ才能が有るのか否かは至って疑問だが、とにかく専門家の目に触れられるチャンスが巡ってくることを期待する。

 

 

アルカディアにも税は有り

1 税制は経済政策の3本目の柱である

 経済政策は、ご存じのとおり、金融政策と財政政策にの二つに分かれる。

 税制は、この内財政政策の一つと位置付けられているが、私は以前からこれは間違いだと確信している。

 税制は、金融政策や公共投資補助金の分配を含めた財政政策と比較しても、その影響力が甚大である。

 財政政策とは別個の政策として論議するべきである。

 例えば、消費税の税率を2%3%引き上げることと、公共事業をどう展開しようと、国民の関心事は雲泥の差が有る。今回のコロナ騒ぎで、空前の財政支出が行われているが、「消費税を5%に戻す。」と言ってしまった方が、乾坤(天地)が逆転する大騒ぎになっていただろう。

 国民の意識を劇的に変化させ、ドラスティックな改革を行いたいのであれば、金利を下げるよりも、お札をバカほど刷るよりも、税制を操作することである。

 ただし、今回のコロナ騒動については、現状の形で良い。それは、税制は、短期的政策としては向かないという欠点が有るからだ。税制に着手する場合は、少なくとも将来5年~10年の展望を建てた、長期的ストラテジーが確立されている必要が有る。

 税金は主権者から財を徴収するという極めて高度な政治的問題である。「租税法定主義」=国民がそれを認めたもののみが税、という原則が有り、税政は多くの国民の合意の上に行われなければならない。当然ながらその運用は柔軟性を欠く。しかも、苦労して法案が通っても、その効果の波及は他の政策に比べ、至って遅い。しかし、それでも、一度法整備が成され、法が施行されたら、その影響力は絶大だ。

 なので、政治家が一生懸命、税制の話をしている時は、近視眼で話しているのか、深慮遠謀将来5~10年を見越して話しているのかを見極めたうえで、よく勉強して、選択をしてもらいたいものだ。

 

2 美しい課税

 「稼ぎに追いつく税は無い。」これは私の持論だ。

 稼ぎを超えて負担を強いる税金を含む公的負担は、貧乏人から無理やり資材を召上げていく江戸時代の代官のようなもので、美しくない。

 ⑴ 所得税

 所得税と言う税制は、一つの欠点を除いて、非常に美しい税法である。

 ひとつ面白い話をしよう。

 所得税法には、基礎控除38万円と言うのが有る。

 これは、憲法25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」に従い、生活に最低限必要な資金に税金をかけないという趣旨から成り立っているらしい。

 年間38万円で健康で文化的な最低限度の生活を営むことができるか否かは別にして、収入も無いのに、あるいはわずかな収入の大半、場合によってはその収入を超える負担を強いる、国民年金・健康保険税・市民税の均等割り、すべて『恥を知れ!』と言いたくなるほど不細工だ。

 中でも、実費経費である交通費を課税対象にしている健康保険税の制度設計者は、アタオカだ。小学校に戻って、算数の勉強をやり直してほしいとまで思っている。

 そもそも、健康保険税は、「租税法定主義」の原則を無視して、ほとんど国民に判断を仰がず、がんがん負担を引き上げてきた。せっかく働き方改革とやらで、家庭の主婦たちが103万円の壁を越えて収入を上げているが、わずかにはみ出たその収入に健康保険が重くのしかかる。(だって交通費に課税するんだもん)。国民の皆さんは、消費税の数%を議論する前に、この、厚生労働省の怠慢をもっと糾弾すべきだ。

 

 その点、所得税は、歴史が古く、長い年月国民の関心を強く集め、数々の解釈が訴訟によって整備されてきた。ちょっと気に入らない分離課税という金持ち優遇の特別措置法さえ無くしてくれれば、本当によくできた法律だ。是非可愛がって欲しいものだ。

 所得税には、他の税には無い素晴らしいシステムが二つある。

 一つは申告納税制度。この件については、後日投稿する。

 今一つは、累進課税制度である。富裕層により厳しい税率をかけることによって、大衆の税負担を軽減するものだ。

 あまり知られていないが、所得税率が20%以上になる高所得納税者は全人口の20%に満たない。この20%が、所得税と言う国税項目の80%を負担している。

 それでも、絶妙なバランスの中、「稼ぎに追いつく税は無い。」と言っても、反論する人はいないだろう。

 それでもある時期、あまりにも、この税率が高すぎた時期が有った。

 最高税率65%。

 稼ぎの3分の2が持って行かれる世界。

 さすがに富裕層も「稼ぎに追いつく税は無い。」とは言っていられない。

 そこへ登場したのが消費税だ。

 

 ⑵ 消費税

 全条文70条足らず。シンプルにして、不足なし。美しい税法だ。

 その当時で最も近代的な思想を盛り込んで導入されるはずだったのだが、諸外国で活用段階に入っていた商業取引のガラス張り化(インボイス)を畏れた勢力によって、その重要性を理解していない国民が扇動されて、骨抜きの税法になってしまった。

 未だに、とかく、税率の引き上げを「社会福祉のために仕方が無い。」と発言している人が居るが、ちゃんチャラおかしい。お札に色は付けられない。

 消費税には、巷では全く話題にされない強烈な政策能力が隠されているが、そのうちの1つが、「直間比率」の是正である。

 これは、あまりに税率が高すぎる高額納税者が勤労意欲を失ったり、海外に移転することを回避するために、直接税と間接税のバランスを見直すものである。

 従って、消費税の引き上げは、常に所得税の減税とセットで行われる。

 消費税導入前には、大幅な所得税減税が有ったし、橋本内閣により1997年(平成9年)4月に5%に引き上げられた時も、先行して、定額減税と言う所得税減税措置が行われている。そして、平成18年、更なる消費税率の引き上げに備えて、税率の構造を変化させる。参考:所得税の税率の推移(イメージ図) : 財務省

 ところが、消費税と言うものの本当の役割を知らない人達を扇動する五蠢のせいで、この鉄則が破られた。直税の減税だけが先行し、一向に消費税率の引き上げがされなかったのだ。

 財政のひっ迫に耐えかねて、富裕層への直税の増税が決まったころへ、アベノミクスで景気が回復。この機に乗じて消費税率も上げるという。全然直間比率の是正に見えないイミプーの改正になってしまった。

 前述の参考に有るように、結果的には、所得税の減税は成り、消費税(間接税)への移転は成功しているのだが、タイミングやらなんやらがぐちゃぐちゃで、誰もそれに気づいていない。

 それで、消費税は社会福祉の負担が増加したから率が上がったんだと言う事にされた。この論理ではいずれ「稼ぎに追いつく税は無い。」の原則を破る可能性を秘めており、美しくない課税を始める言い訳になる。鉄則を忘れてはならない。

 

 ただ、今回の改正で、消費税はようやくもう一つの重要な政策能力、商業取引のガラス張り化に向けて一歩前進した。

 消費税を含むいわゆる付加価値税若しくは一般間接税と言われる制度には、本来「インボイス」と呼ばれる全取引書類主義という性格が有る。これが、事業活動をガラス張りにし、税務調査を容易にすると言われている。軽減税率が導入され、この「インボイス」が必然性を増すことが期待されている。

 また、軽減税率品目の選定、所得税とバランスをとりながらの税率操作などにより、金利がどうのとか、公共事業がどうの等とは比べ物にならない経済操作が容易になる。

 そういうことで、消費税に文句を言っている人は勉強が足りない人だと思って、そういう人の話はあまり鵜呑みにしないようにしてほしい。

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ニコラ・プッサンアルカディアの羊飼いたち(我アルカディアにもあり)」

 アルカディアと言うのは、ギリシャ神話に出てくる平和で牧歌的な理想郷のことである。この絵の真ん中に有るのは、墓標で、「我アルカディアにもあり」と刻まれている。その意味するところは、「理想郷にも死は存在する。」という意味である。

 全く関係ないのだが、とある接待を伴う飲食店で、この名前の店があり、支払明細にサービス税が含まれていたのが面白かったので、引用してしてしまった。

 平和も、安寧や安泰も無償のものではない。理想郷にも死が有るように、税もまたそれを支える基盤として存在しなければならない。

 だから、その課税は美しいものであって欲しいと思うし、皆が勉強してそうなるように維持監督してもらいたいと願う。

 

 

五蠢

 秦の始皇帝は、韓非子55篇の内、孤憤・五蠹(ごと)の篇を読んで、いたく感激し、この人に会って直接話すことができたら死んでも良い、と漏らしたという。

 両篇、特に五蠢篇については、韓非子の法治理論・合理主義と並んで、「どのような素晴らしい献策も君主に見る目が無い、または、君主の目と耳が塞がれていたのでは、登用されない。」という、韓非子ならではの独特の 持論を展開するもので、登場は遅れたが、韓非子を語る上で欠かせない篇である。

 

《五蠹》

蠢(と):木の内部を食い荒らす虫のこと

 韓非子では、「学者」・「遊説家」・「遊侠」・「側近」・「商人、職人」の5つが列挙されているが、若干時代の背景がずれているのでわかりにくい。

 要するに、権力者の周りで蠢き、組織にとって非常に有益な献策も、逆に組織を危うくする非常に悪い情報も、己が私利私欲のために捻じ曲げ、または勝手に封印する輩であり、現在でもどこにでも見かける連中である。 

 

 わかりやすい例を一つ示そう。

内諸説下 

 その昔、魏王が楚王に美人を贈った。楚王はこの美人をとても寵愛した。しかし、元か居た正夫人は当然気に入らなかった。

 しかし、正夫人はまるで嫉妬していない振りを貫く、新夫人にも優しかった。

 そして、新夫人に忠告した。「あなたはとてもきれいだけど、王はどうしてもその鼻の形が気に入らないらしい。」と。そして「しかし、それを知られたと知ると、王はきっと私に対しても良い思いをしないだろう。」と付け加えた。(ここが上手いね)

 以来、新夫人はそこが気になって、鼻を隠すようになった。

 不思議に思った王が、新夫人に尋ねるが、答えようとしない。やむを得ず正夫人に尋ねたところ、当初は彼女も知らないと言っていたが、後になって「前から王の臭いを嗅ぐのが嫌なのだと言っていました。」と言うのである。

 そして、またその仕草をされた王は、怒って新夫人の鼻を削がせてしまった。

 

 君主に取り入り、あの手この手で利益を得ようとする者は、まず、情報を操作する。

 このブログで何度か話しているように、この国の君主とは我々国民のことである。

 私達は、気づいてはいないかもしれないが、いつの間にか誰かのささやきにそそのかされ、罪のない誰かの鼻を削ぎ落としているのかもしれない。

 

 安倍総理と言うのは護憲派の私にとっては、天敵のような政治家であったが、結構空気の読める総理大臣のようで、年表に乗るような政策はできていないが、日本に長期の安定をもたらしたことは認めてあげてよいと思う。

 しかし、彼は面白いほど脇が甘い。自分が直接利益を得ていないからだろうか?彼の政権下で儲けた連中の情報がよく漏れる。

 おかげで、国家予算に群がるたくさんの五蠢を白日の下にさらしてくれた。

 しかも、他に対抗する政治家が居ないいわゆる「一強」のおかげで、叩いても叩いても政権が倒れない。

 このため、追求は深くまで続き、官僚、国会議員、受託業者、まるで時代劇を見ているかのように次から次へと「越後屋」が現れて、その仕組み・手口まで、つまびらかにされてきた。

 司法はさすがに、このような事にまみれていないと信じていたが、残念ながら意外と彼らも行政化が進んでいたようだ。 ドラマや小説で、時折「検事は国家に尽くすものだ。」と言う表現が用いられるが、検事は法律に尽くすものであって国家に尽くすものでは無いことを忘れてもらっては困る。

 まあしかし、結果として、相当数の国民が「五蠢」の存在をがっつりと見定める機会を得たことになる。安倍政権、最大の功績ではないかと思ってしまう。

 しかし、感心ばかりもしていられない。そんな五蠢たちをのさばらせ、主権者に正しい情報を開示しなかった安倍総理もまた、五蠢の一人と言う事なのだから。そして、可哀そうにそんな五蠢のために命まで捧げた行政官も居るのだから。

 安倍総理の役目はそろそろ終わりのように思う。まだまだ、五蠢の存在を暴けそうだが、亡くなった行政官の遺族が動いた(遺書を公表した)タイミングが、本来潮時だったのだろう。コロナで延命しちゃって、その間に検事長・1億5千万円選挙資金の問題が出てしまった。

 安倍政権にさほどの失政は感じていないが、辞めるときか、辞めた後でもいいので、あの行政官の遺族には、自分の不徳の致したところを詫びて頂きたいと思う。

 

 さて、五蠢の存在は、かくのごとく国家にとって由々しき問題であるが、韓非子はその存在そのものをそれほど重視してはいない。 彼が重視しているのは、彼らによる情報操作である(ここテストに出ます)。

 

 情報セキュリティのリスク回避の方法は4つある。低減、回避、移転、保有

 このうち、保有とは、ある程度不合理であっても、スピードや確実性という需要の前に認容することも一つの選択肢とする考え方だ。

 巷にはつまらない五蠢も居るが、国家の中枢に巣食う五蠢は当然優秀だ。「けしからん」の一言で叩っ切るのは簡単だが、使いようは有るのである。欲は人を動かし、人を働かせる。これも韓非子の思想である。ある程度の五蠢もまた、保有(受容)の対象なのだ。重要なのは、主権者が正確な情報を常に掌握し、五蠢の動きも把握していることだ。

 結局鍵になって来るのは、正しい情報をいかに掌握しているかと言う事なのだ。

 

 実は国家予算に群がる五蠹は昔から存在し、彼らが少々割高に受注したからといって、国家運営がそれほど曲がる事はないのである。

 兎角不当な競争と言われる談合入札も、国家の業務には一朝一夕には請け負えないものがいくつか有るもので、全てが、一般国民が思っているほど簡単ではない。本当のところは、国としては経験者に頼みたいと言うのが本音である。

 しかしこれを隠したりごまかしたりするから問題になるのである。

 

 持続化給付金の問題もそうである。

 経産省にだって、言い分が有ろう。今回のようにスピードを求められる状況下、多少の強行軍が有ったところで、私は別に良いと思っている。

 問題なのは、それを、役所の中のブラックボックスにそのまま沈めてしまおうとする考え方だ!ちゃんと情報を公開して、拙い説明でもいいからちゃんと前に出して、国民の判断を仰げばいい。請負業者の協会は、堂々と前に出て、「私たちが20億円ピンハネしました。だって、僕たち電通にコネが有るんだもん。『4月末に通った法案に合わせて、3日以内に全国的システムの構築?』誰が頼める?」とはっきり言ってもよかったのだ。逃げ回るから問題なのだ。

 

 民主主義の根幹は、正しい情報が国民に伝わっていることである。主権者が、目を覆われ、耳を塞がれ始めたとき、その国家は滅亡へと向かうのである。

 

  「政治の腐敗とは、政治家が賄賂を受け取る事ではない。それはその政治家個人の腐敗だ。問題なのは、その事実が明るみに出ないこと。出ても批判ができない社会。それを政治の腐敗と言う。」田中芳樹原作「銀河英雄伝説ヤン・ウェンリー

 

 その点日本の報道機関は優れている。国営放送ですら、堂々と国家を批判する。

 

 高校生の時、新聞記者に憧れた私が、父にそれを伝えたところ、「誘拐殺人の被害者の家に土足で上がり、遺影を撮影するような連中だ。」とひどく叱られた。

 「表現の自由」「知る権利」その名の下どれほど酷い取材が行われて来たか?黒川元検事長のスクープを上げた「文春」は見事であったが、彼らとパパラッチとどれだけ差があると言うのだろう?

 報道機関への憧れは今も持っているが、どこまでがジャーナリストでどこからがマスコミなのか?未だに答えを見いだせない。

 それでも、健全なジャーナリズム無くして、健全な民主主義は望めない。

 前にも話したが、SNSの普及で無責任な情報が飛び交う現在、報道機関を名乗る方々の重要性はますます上がっている。

 私達主権者が五蠹の動きをきっちり監視できるように、正しい表現の自由を行使してもらいたい。

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ジョルジュ・ド・ラ・トゥール『いかさま師(ダイヤの札版)』ルーヴル美術館

 左の男の背中には、ダイヤのエースが隠し持たれている。右の若い青年がカモなのだろう。しかし、ディーラーの中年女性や給仕をしているウエイトレスまで、その不自然な視線の動きから、グルなのではないかと思わせる。

 自分の目先のカードだけに集中している青年だけが、本当に哀れで、一番裕福な格好をしているところがまた至って滑稽だ。

 まさに五蠢に良いように蝕まれている我々国民を「絵」に描いたようだ。