説難

死刑にすればいいってもんじゃないんじゃないの?

1 要因
 京アニ放火事件の青葉被告の死刑判決が出た。当然の結果であろう。
 彼のように既に人生が破綻し、自分の命がさほど重要でなくなったものにとって「死刑」と言う刑罰は、どうやら凶悪犯罪を抑制する効力を失っていることを実感する。
 池田小学校の児童大量殺人事件以来、このような人生破綻者による道づれ大量殺人が続いている。彼らにとって、死刑はむしろ救いであるかのようである。
 そうなると、「死刑判決」や、それが当然としか思えない裁判に、何の意義があるのだろう、という疑問にぶち当たるわけだ。
 しかし、全身大火傷で近畿大学に運ばれてきた瀕死の状態の青葉被告を、懸命な救命措置で蘇生させた鳥取大学の上田医師は言っている。「目の前で死にかけている人間を救うのが職務であるが、それもさることながら、このような残虐非道で悲惨な犯罪が、彼だけの問題で起こるとは思えない。青葉被告が裁判に立つことによって、そのいくつかの要因が明らかになることを願った。」と。
 実際、裁判の過程の中で青葉被告の通常とはかけ離れた、かなり悲惨な半生が語られている。それに比べ、大阪市北区で起きた精神科医院放火事件(被疑者を含め死者27名)については、被疑者が死んでしまったため、被疑者の動機はほとんど明らかになっていない。
 上田医師の指摘するように、青葉被告の場合は、被告自身の問題だけでなく、それを取り巻く社会的な問題がある可能性が垣間見える。
 しかし、一審の審議だけでは、垣間見えるに留まっている感が否めない。
 「親が離婚して、貧困の中、虐待され、まともに進学できなかったから、社会に適用できず精神を病んだ。」という点が示されたに留まっていて、上田医師が言うような社会的背景や問題の考察は薄いまま進んでいる。
 弁護側の戦略が、ここから妄想癖に繋げるためであろう。

 以前このChapter2の冒頭で語っているが、日本と言う国は一見豊かな先進国のようであるが、その裏ではその強烈な勤勉さと言う国民性を利用して、何十年もポテンシャルに見合った対価を支払わず、搾取している現状が続いている。そのフラストレーションは例えばいじめであったり、パワハラであったり、ネットにおける誹謗中傷といった形で、他人を傷つける行動に現れている。
 子供の虐待もその一つだ。ちょっと昔は、DVといえば、妻に対するものが多かったように思うが、21世紀に入って、子どもへの虐待が急増している。妻は、逃げたり、訴えたりすることができるから面倒なのかな?卑劣極まりない。
 しかし、そのような逆境の中でも子供と言うものは自分で人間になっていくわけであり、大人になっていくわけである。多少心に傷は持っているものの、何とか社会に順応しようとするものである。青葉被告が定時制の高校を皆勤で卒業しているのは、驚くべき事実だ。
 彼に、もう少し、何か良い出会いがあれば、何も起こっていなかったかもしれない。
 ただ虐待を受けて育った者の幸福への道は険しい。
 
 「日本人は、勤勉で親切だ。」
 多くの一般人は、勤勉な親に育てられ、それが当たり前の社会で育つ。そのため、怠けたり、手抜きをしたりすることが逆にできない。財布を拾って届けない人が不思議に見えるように、さしたる用も無いのに、気分が悪いと言って早退する人間を認めることができない。どんなに仕事ができても、いつも遅刻ギリギリに来たり、うとうとと居眠りをしたりしている人間も許せない。
 しかし、理不尽な虐待を受け、まともな情緒と感性を受け取れなかった者にとっては、その当たり前は、残酷過ぎるハードルとなる。
 虐待の過去を話そうとしない彼らは、身障者にもなりたがらず、ヘルプマークも持たない。だから、その心情を汲み取れと言われても難しいことかもしれない。また、本当に怠惰でだらしない人間と区別する事も難しい。しかし、別に不真面目というわけではないが、どこか常識についていけていない様に見える者は、自分たちとは違う家庭環境からのサバイバーかもしれないという意識は必要かも。
 かつて、受験戦争の過熱ぶりから、「落ちこぼれ」が問題となり、ゆとりの重要性が主張された。ゆとり教育を悪く言う人もいるが、多くの落ちこぼれが救われた。
 今は生真面目で潔癖な人々も、実は薄々気づいているはずだ。過酷な搾取の中で、欲求不満が深層心理で膨らんでいて、ゆとりを失いつつある自分に。
 今はたまたま、安全運転ができているだけ。離婚したり、失職したり一たびバランスが崩れれば、窮屈すぎる生き方をしている自分に気づき、青葉被告が感じていたハードルの虚しさに気づくだろう。
 青葉被告ほどではないが、日本において勤勉と言われる人々も、いつでも、八つ当たり的な犯罪を犯す可能性を秘めている。
 この裁判によって、そういう、一見幸福な先進国のゆとりの無さを皆が考えるきっかけとなるのであれば、上田医師の功績は甚大である。

2 結果
 判決の文言の中に殊更にその死者数が前代未聞の「36人」と何度も唱えているが、青葉被告は、果たして、計画的に36人を殺したのであろうか?確かに「皆殺しにしてやる。」という意図はあったとしても、例えば、戦場において、ある施設に出入りする30名以上の人間を、一人残さず殺戮または捕縛しなければいけない作戦があったとして、かつそれを一人で成功させなければいけないと命じられた時、あなたにその作戦を立案することができるだろうか?
 青葉被告は、あの建物は吹き抜けになっているから、上層階までの火の回り、煙の充満が早いと考えていただろうか?屋上に出る扉は普段施錠されていて、緊急時にも開かないと知っていただろうか?ガソリンというものに火をつけた経験の有る者は少ない。その延焼力の強さをどの程度知っていたのか?実験はしたのか?確かに一番逃げやすい玄関フロントに火を放ったのは、残虐ではあるが、実は裏口の方がデカかったり、スプリンクラーが作動したりして、ただの間抜けになっていた可能性は十分有るわけだ。
 これに比べ、大阪市北区精神科医院に放火した被疑者は、院内の見取り図をよく理解した上で、非常階段に出る扉をテープで目張りしたり、消火栓の場所が分かりにくくなるようにカモフラージュしたり、かなり周到な、殲滅計略をたてられている。

 この辺りについて裁判では全く触れられていない。それを以って前代未聞と言い切るのは、いささか法曹にあるまじきと考える。
 
 このように被害が甚大化した要因を青葉被告の計画になかったものとすることで、彼の罪を軽減すると言う考えは毛頭無い。軽減したところで、彼が死刑になる事は変わりない。ただ、被害が甚大化した要因については、細かく検証し、今後このような残虐な放火犯罪が起きても、被害を最小化する防護策が検討されるべきなのである。
 例えば、私の勤務先では、以前から非常口や屋上の扉は「緊急時以外開閉禁止」と言う簡単な封印がしてあり、緊急時にはその紙を破るだけで脱出が可能である。京アニにおいても屋上の扉がこのように臨機応変して対応できていたら、十数人の命が救われたと考えられる。
 さて、現在この事実を多くの人が報道で知っているのであるが、皆さんの企業においてこのような発想の転換や緊急脱出口の工夫、またおかしな放火魔が突然現れた場合の対応等について話し合われたことがあるだろうか?
 そのような影響を考えると、殊更に犠牲者の人数の多さだけを強調し、そのように被害が甚大化した理由を議題に上げようとしない今回の地方裁判所は阿呆だ。

 それから、ガソリンの管理についても考え直すべきだろう。アメリカの銃乱射事件より簡単に多数を殺傷する、とんでもなく危険な代物だ。
 しかし、今でも、セルフG Sでは、簡単にポリタンクにガソリンを入れることができる。
 「車のガソリンタンク以外には入れないでください。(防犯カメラ作動中)」の一言も書いていていれば、かなり抑止効果があると思うのだが。これも、本裁判で、被害が甚大化した要因についてしっかり議論しなかったことが問題である。
 弁護人は、本人の妄想などどうでも良いから、計画的に殺した人数は何人だったかについて争えば良かったのだ。

3 控訴
 多くの遺族が、弁護人による控訴について難色を示している。聞くところによると、青葉被告本人も控訴には消極的だとか。
 確かに、遺族の言うように、「機械的な控訴ならやめてほしい。」という指摘は正しい。
 正直、今の弁護士での控訴審は無駄だろう。
 ただ、私が犠牲者か、遺族の一人であるとしたら、控訴審は行なってほしい。
 一つは、青葉被告がまだ妄想から冷めていない事。
 法廷で、「京アニがアイディアを盗むことは問題にしないのか?」と発言している。
 ちゃんと、彼の出展作品を精査し、一体どこが盗用されているのか?はっきりさせてやるべきだ。たとえ似たような点があっても、それが盗用であることを立証することは難しい。もし、彼に十分な資金があり、裁判に持ち込んでいたら果たして、盗用は認められたか?彼の脳髄までわかるように、徹底的に説明してあげれば良い。その上で、「私は、裁判では無実となる人を殺したんだ。」と言うことを、死刑の日までに1日1万回唱えされば良い。
 次に、1項で挙げたように、この事件は、青葉被告だけの問題では無いことをよく考えるべきである。後を絶たない、道連れ放火の連鎖。彼らは、この事件を手本にそれを起こしている。
 コロナ禍が過ぎ、景気を取り戻し始め、明るく平和な日本が戻って来つつあるが、一部にゆとりのない人間がいる。障害者問題を考えるように、彼らのことを考える必要がある。
 少子・高齢化、国の借金、周辺国の情勢不安。問題は山積だが、健全でゆとりのある国民が多ければ多いほど、内政も外交もうまくいくものだ。少なくとも日本という国はそう言う国であり、日本人というのはそういう国民だ。まずは、働きに見合った賃金を獲得し、不満が無く、ゆとりのある社会を築いていけば、悲惨な生い立ちを持つ者を救う手立ても増えよう。
 京アニ事件について、「自分たちには理解のできない気狂いが、訳のわからない事をほざいて、たくさんの人を殺した。」としか見られないとしたら、亡くなった36人は浮かばれない。もっと深く、もっと多角的にこの問題を考察するために、私は控訴審を望む。

ドラクロア「サルダナパールの死」

 18世紀に入り、絵画は、それまで主流であった理性的・合理的で「完全な美」を求める古典的教条主義と呼ばれる束縛から放たれようと、事実を多少粉飾したり、場合によっては、あからさまに創造したりする事によって、より、叙情的で、感情に訴える表現を求め始める。これをロマン主義という。絵画が、被写体に忠実という限界から逃れ始めた最初の胎動である。
 サルダナパールは紀元前、アッシリアに君臨した暴君で、その実権が奪われる時、道連れに女官を惨殺する。その悲劇は、バイロンの戯曲「サルダナパロス」として、当時流行していた。
 いつの時代も、自分勝手に道連れ殺人を犯す者は居るようだ。いや、本当、死にたいなら一人で死んでくれよ。と願いたくなるが、死を覚悟した者は、他人の命も軽視するということだ。
 ところで、この絵画は、見ていると気分が悪くなるほど、恐ろしい場面を、克明に描いているのだが、200年経った今でも、ドラクロワの代表作の一つとして挙げられ、またロマン主義の象徴としても挙げられる。それだけ、人の心を震わせて来たのだ。そして、このようなグロテスクな絵に心を震わされるような人々は、いつでも、サルダナパールになり得るわけで、そのような情緒が、200年も支持されてきたということだ。

韓非子を非情と言う勿れ

1 非情の思想家

 中国の思想家、韓非子は何かにつけて「非情の思想家」と呼ばれるが、それは何故か?

 一般的に言われることは、彼は人を信用せず、冷酷で厳格な法律を以って国を統治する強権的な法治主義を唱えたからであると言われている。

 しかし、私は彼の韓非子55篇を全て把握しているわけではないが、少なくとも君主に対し冷酷さを求めたと言う記述は見当たらない。

 兵法家孫武孫子)が、ある君主に「女でも立派な兵隊にできるか」と問われ、宮中の女官を練兵させられた際、真面目にやらない女官たちに対し、「命令が不明確で徹底せざるは、将の罪、命令が既に明確なのに実行されないのは、指揮官(隊長)の罪なり」と言って、隊長を務めていた君主の寵姫を処刑する。すると、女官たちは、その後、孫武の号令に必死で従ったと言うエピソードは有名だ。

 しかし、韓非子55篇に、何百編も有る説話の中に、このような冷酷な話は一度も出てこない。逆に、部下に裏切られる君主の末路については、やたらと脅すような残酷な説話をいくつも取り上げている。

 わかるだろうか?両者の違い。

 孫武は、法を守らせるためなら、このくらい冷酷であるべきだと説き、韓非子は、法を守らせないと、あなたがこのような悲惨な末路を辿りますよ。と言っているのだ。

 どっちが非情な思想家だっちゅうの!

 まあ、孫武が扱うのは兵法だから、苛烈で当然とも言えるが、孔子孟子が言っている言葉でも、非情な表現や、冷酷な判断を促す局面が無いと言えるだろうか?私は、こちらの方にはあまり詳しくないので、確証の有る具体的な例は挙げられないが、有名人だけにいろいろ悪い方のエピソードも聞いている。

 

 まあ、他人と比較する必要も本当は無い。

 韓非子55篇を見る限り、彼は一度も冷酷さを求めていない。また、強権力で強引に従わせろとも言っていない。

 彼が求めたのは、法の厳格なる適用である。

 法を施行するにおいて、一つの重要な観点がある。

 「これをやったら、この罰を与える。これができたら、この賞を与える。」と定めたら、必ずその通りにこれを実行することである。罪人が知り合いだったり、気に入らなかったり、で答えを変えてはいけない。つまり、法の適用において、決して感情を介入させてはいけない。ということである。だから、そこには「非情」が存在する。

 人がルールを守るのは、答えが決まっているからである。これを「法治における予測可能性」という。これが守られなければ、「不公平」が生じる。すると、法治は瓦解する。

 従って、この「非情」は、法治の根幹に関わる要素なのであり、国家国民の公平のための「非情」なのである。

 それでも、彼を非情の思想家と呼ぶべきか。

 

2 法治主義の欠陥

 そもそも、韓非子は、当時主流となっていた、孔子が唱えた「徳治主義」、すなわち、君主が率先して、正しい道を示し、道徳を奨励すれば、国は安泰するという考えに対するアンチテーゼとして、「法治主義」を唱えた。

 孔子の言う道徳などと言う、時代や慣習によって変わる曖昧なものを主柱に据えることと、その道徳を全ての国民が実践しなければいけないと言う、とんでもなく窮屈な社会に、どれだけの人間が賛同できると言うのだ。というのが簡単な反論だ。

 では、法律にがんじがらめにされる社会は窮屈では無いのか?

 

 韓非子55篇に記された法規則及び制定方法は、君主が如何に臣下を支配するかという点に集中している。どう言う部下が悪さをするか?どうやったらそう言う部下を見つけられるか?君主はそう言う部下を生み出さないためにどうあるべきか?という話が大半を占めている。

 直接、庶民について論じているところが有るとすれば、法を定めるときは、軽罪ほど厳しく取り締まれ(水は形懦にして、溺るる者多し)、とか、明確な利益が示されていれば、庶民でも勇敢となる(利の在る所は、皆な賁諸と為る)と語っている点くらいである。

 すなわち、韓非子が求めた法とは、国民をがんじがらめにするものではなく、権力者を統制するものだったわけである。決して、国民にとって、窮屈な社会を望んだわけでは無い。

 

 しかし、韓非子の理論を受け継いだ秦の始皇帝は、その便利さにハマってしまいこれを濫用してしまう。この辺りは、以前「韓非子2000年の悲運」でも記したが、今回はこの点について、別の視点で見てみるとする。

 

 実は、法治主義には、大きな欠陥が有る

 法はあくまで社会全体を統制するための制度であり、個々の行動や価値観を完全に規定することはできない。従って、法が及ばない範囲での個人の道徳的な選択や行動は、どうしても存在する。始皇帝は、そのような人身の個々の事情、慣習、道徳心まで法律で規制しようとした。つまりそれが秦の一番の過ちと言えよう。

 例えば、病気の肉親を抱えた家庭であっても、法は厳格に適用してこそ公正が保たれるとし、「法令通りの税を納めなければ、万里の長城の現場に行ってもらい、骨と皮になるまで働いてもらう。」と命じたら、本人はもちろん周囲の人々も納得しないだろう。

 法は本来その適用が厳格であればあるほど、予測可能性を保持し、公正を保つ訳であるが、それは統治者側にとって重要な要素であって、庶民には、それぞれ公正や平等より、孝行や友情・信頼など、道徳的に重要なものがあり、その点どうしても官民に意識のずれが生じる。

 「法治主義」の不可欠な要素である「非情」は、庶民的には、不道徳に類するものである。如何に、国の統治に欠かせないものと言われても、庶民にはもともと受け入れ難いのだ。

 ましてや、秦の二代目の時期は、中央権力の横暴が蔓延り、法治の利点である、公正・平等も失われた。まさにただの非常で不道徳な統治者だ。誰も従うまい。

 

3 修正法治主義

 韓非子は、法治主義のこの欠陥を理解していた。

 前述の通り、韓非子55篇の記述は、行政機構の統制に重きが置かれている。庶民の直接統制についての記述は少ない。

 韓非子の特徴的な統制術の中に、まず、相手の事情を聞き、その者が叶えられる目標を申告させ、それが叶えばこれを賞するとした(形名参同)というものが有る。もし、庶民に対して何らかの法を定める必要が生じていたら、彼は、庶民に対しても同じことを求め、同じ賞罰を与えただろう。

 しかし、その記述はない。なぜか?

 

 「善吏徳樹」という四字熟語にもなっている説話がある。韓非子が、行政官とはどうあるべきかを語った有名な説話である。前巻で紹介したことがあるし、最近では、漫画のキングダムのおかげで、韓非子もかなり有名になってきたようなので、簡単に検索で出てくるので、詳細は省略する。ただ、一時期私が座右の銘にしていたほど感動的な説話なので、一読していただけると嬉しい。

 この説話では、行政官の誠実さが、罪人の心を動かし、善人に変貌させるのだが、この「善吏徳樹」という言葉自体は、実は孔子の言葉の引用である。

 孔子法治主義についてどう考えていたのか、文献上の判断は難しいらしいが、「法治では、道徳は育たない。」という法治主義の欠陥を看破していたという説がある。しかし、孔子の理論の大原則は、権力側の姿勢が道徳的であれば、支配される側にも徳が及ぶというものであったから、法治主義も運用方法によっては、道徳を養うこともできると考えていたかもしれない。上記のような言葉を残しているのがその証左と言えよう。

 だから、韓非子も、支配する側の役人をしっかり統率すれば、庶民を直接統率する必要はないと考えていた可能性が高い。

 しかし、残念ながら、「孔子は庶民の道徳性を楽観視し過ぎている」と説いた韓非子は、君主の道徳性を楽観視し過ぎてしまっていたようだ。

 

 この法治主義の欠陥を補いつつ、その有用性を最大利用したのが、秦を引き継いだ漢帝国である。これも以前、「韓非子2000年の悲運」で紹介しているが、その時の表現では少しわかりにくいので、ここではっきりいうと。漢帝国は、法治主義の弱点である「道徳」を儒教というわかりやすい規範で補い、行政官には厳格に法を適用した。この見事なハイブリットが400年の治世を実現する。

 

4 自発的正義に補完された法治主義

 しかし、この体制にも問題はあった。世の善悪は全て儒教によって定められるわけで、信仰・信条の自由が無かった。

 第三者が規定したルールである限り、その厳格なルール適用は「非情」と捉えられるのはやむを得ないわけであり、自発的な善である「道徳」を規範する何らかの補完を行わない限り「法治主義は非情」という謗りを免れない。

 このジレンマの解決は困難を極める。韓非子は、この難問を、庶民を取り締まる行政官を厳しく統率することで回避しようとしたようだが、法は難しく、官民の距離を詰めるのには、双方がかなり進歩する必要が有るようである。少なくとも市民革命が起きた、近代以降の民度が必要だろうし、行政官にも道徳の規範となるくらいの高度な資質が要求される。非常に困難な思想である事は間違いない。

 近年、多数の国々で法治主義が採用されているが、まだまだ民衆の教育のレベルは低く、行政官の資質も低いため、その適用が強権的であったり、道徳の方は宗教などに委ねられたりするケースが大半である。だから、互いの正義が食い違い、国境を外すことができず、争いも絶えない。

 

 しかし、一国だけ、宗教に頼らず、強権力も振るわず、厳格な法治主義と高い道徳観を併存させている国が存在する。現在その成功の秘訣、あるいは起源となるものの研究中である。

 後日、本稿の続稿として投稿する予定である。

ボッチチェリ「ヴィーナスの誕生

 ギリシャ神話におけるヴィーナス誕生の逸話は非常に乱暴で、ギリシャ神話特有のエロスをまとっていた。そのため、ヴィーナスの誕生と言うものは、ボッチチェリが描いたような強烈な神格化されたものではなく、19世紀に書かれたアレクサンドル・カパネルの「ヴィーナスの誕生」 の方が逸話を忠実に再現していると、以前紹介したことがある。

 しかし、「愛」という崇高な理念の象徴の誕生とするのであれば、ボッチチェリのこの作品の方が遥かに適切であろう。

 理念や思想の統合というものは、多様な意見を取り入れ、それを合意形成(コンセンサス)する高度な民度が要求される。従って、気の遠くなる、醸造と生長(胎児の発育のこと)という過程を経て、ようやく誕生するものであるから、これほどドラマティックで祝福される場面であってちょうど良い訳である。

 法治主義も同じである。その完成には、おそらく気の遠くなる年月の醸造と生育の期間を要するだろう。

 韓非子の思想を体現するという、ヴィーナスの誕生の如き祝福を受け得る国が有るとすれば、一国しか思い当たらない。

 法治主義のヴィーナスが舞い降りているその国を研究することで、法治主義は永遠の課題を克服し、「非情」の誹りを免れられるかもしれない。

賢者の贈り物

1 Eve

 クリスマスイブにプレゼントを交換する習慣は、イエス・キリストが生まれる前兆を遥か東方の三人の宗教的司祭が知り、長い旅を経て、イエスの生誕地、ベツレヘムにたどり着き、そこに居た、乳飲み子を抱くマリアの前にひざまずき、その乳飲み子のために、黄金、乳香、没薬といった贈り物をした事が、始まりだと言われている。

 ちなみに三人の司祭は「東方の三賢者」と訳されることが多いが、単数形ではマグストいい、三人いるので「Magi(マギ)」というらしい。これを聞いたら、エヴァンゲリオン好きはぞくっとするだろう。

 よくクリスマスイヴに、プレゼントを渡すときに、「メリークリスマス」というべきか悩むところであるが、メリークリスマスを和訳すると、「良き生誕祭をお迎えください。」または、「救世主の誕生を楽しんで下さい。」という意味となる。

 年末の最後の出勤日の退社時には、「良いお年を」と言って別れる習慣は今でもあるのだろうか?とにかく、前日でも当日でも、その日(生誕日)が良き日であることを祈願する言葉なので、プレゼントを渡すタイミングで発することは、別に問題ではないし、その方が盛り上がるだろう。

 

 しかし、なぜプレゼントは、前日に渡すのだろうか?私は、ずっと三賢者がベツレヘムに到着したのは、イエスが生まれる直前で、イエスが生まれる前に贈り物を渡したと考えていたのだが、ネットで調べた限りでは、三賢者が到着した時、すでにイエスは生まれていた。ということは、彼らがイエスに出会った時、日付はすでに25日になっていたことになる。

 これには、当時の暦の考え方が関連しているらしい。当時は、日が沈むとその日は終わり、次の日が始まると考えられていた。従って、イエスが0時を過ぎて生まれたのかどうかわからないが、25日の夜明け前に生まれたわけで、前日の夜も25日、つまり生誕日に含まれるというわけである。三賢者は、星のひかりに誘われてイエスの家に辿り着いたと言われているので、生まれたのは夜だったのだろう。

 さらに、クリスマスイブの「Eve」について、クリスマスの“前日”とか、クリスマスの女性形で、“予備日”的な印象を連想する人も少なく無いと思うが、「Eve」が「evening」の短縮語と知れば、疑問は全て解明される。

 そう、昔の暦で言うと、一日は、日没から始まる。従ってクリスマスイヴとは、イエスの誕生日とされる25日が始まってから、深夜辺りとされるわけで、イエスが生まれたのは、おそらくこのeveningである可能性が最も高い。

 というわけで、前日の夜がイエスの生まれた時で、プレゼントを渡すタイミングということになる。

 さてそうなると、25日夜明け以降の方には何か意味があるのだろうか?

 25日は、暦の連続性も有って、生誕祭という行事が行われる。実は、クリスマスの「マス」は、「ミサ(礼拝)」が語源となっている。

 

2 Holy Night

 ところで今更ながらの疑問であるが、イエスが生まれたのがイヴであったとしても、現代のイヴはかなり違った趣の象徴となっている。

 そう、恋人たちの、いや、片思いでも恋をしている人たちの、さらに、恋に憧れる人たちにとっても、とても重要で、深い意義を持っている。もし、交際している男性が、「24日は予定があるから会えないが、25日なら一晩中フリーだ。」と言われても、多くの女性は興醒めだろう。

 好きな人がいる人や、恋に憧れている人は、この日に何か起きないか、強い期待を持ち、実際に勇気を振り絞って行動に出る者も少なくなくない。

 クリスマスイヴは、イエスの誕生日である。子供を作る日でも、それを誓う日でもない。

 何から派生して、恋人たちの夜になったのだろうか?

 いろいろ調べてみると、やはり、クリスマスイヴにプレゼントを渡す事が主なる要因となっているようである。考えてみれば、プレゼントを渡すという行為を取り上げれば、両親が寝静まった子供達の枕元に、こっそりプレゼントを置き、翌朝の反応を楽しみにするのも、なかなかの一大イベントである。

 しかし、それなら、誕生日や女性が作る「何とか記念日」だって同じではないだろうか?

 いや、クリスマスイヴは特別だ。

 クリスマスイヴは、別名Holy Night(聖夜)と呼ばれる。ここでいう「神聖な」を表すholyの語源は、whole(全体)と同語源で、「完全な」の意味から「穢れのない」を意味する。何だか、スケールのでかい話になってきたが、とにかく聖夜というのは、イエスの誕生だけを祝うものではないということである。

 イエスの誕生により始まるはずだった、平和で安全な世界、それを祈願しているのだ。

 いかんせん、世界は完全に平和でも安全でも自由ですらない。

 だから、せめて、身近なものの平穏と安泰を願うわけである。

 そしてその感情は、もっと洗練され、「最も愛しい人が、最も喜んでくれそうなプレゼントを贈ろう。」という形に結実したわけである。

 

3 Gift

 少し前、gifted(ギフテッド)という言葉が流行したが、giftと言うものは与えられるものにとっては無償で与えられるものと考えられている。しかし、大谷翔平にしても、羽生結弦にしても、神から与えられた才覚だけで、その高みに居るわけではないという事は、多くの人が認めるところであろう。あるいは、逆に神が彼らに与えたギフトとは、彼らに尋常ならざる試練と苦行を強いているのかもしれない。まあ、厳しい世界戦の直後に「今一番何がしたいですか?」と聞かれて「練習」と答えるような方々に同情する余地もないが。

 ところで、神が与えるものは別にして、Giftというものは、与えられる側にとっては無償であるが、当然与える方は有償である。その代償の尊さを見事に表現したのが、オー・ヘンリー作「賢者の贈り物」である。

 本稿作成に当たり、東方三博士の贈り物を調べていると、元になったそのエピソードより、オー・ヘンリーの「賢者の贈り物」の記事の方が多く出てきた。

 有名すぎて、紹介は無用だろうが、忘れている方のために、簡単にまとめると、

 「ある貧しい夫婦が居た。生活は苦しかったが、互いに自慢できるものを持っていた。夫は、妻の艶やかで美しいブロンズの髪を誇りに思っていた。妻は、夫が先代から引き継いだという立派な懐中時計を自分のもののように誇りに思っていた。

 クリスマスが近づき、夫は、妻の見事なブロンズを飾る髪飾りをプレゼントすることにした。妻は、夫の懐中時計を持ち歩けるように、それに見合う、金のチェーンをプレゼントすることにした。

 イヴの夜、夫は、すっかりベリーショートになってしまった妻の髪型に驚かされた。

 妻は、誇らしげにチェーンを見せて、この髪を売って、これを買ったの。あなたの懐中時計に付けさせて。と言う。

 夫は、半分笑いながら答える。この髪飾りを買うために売っちゃんたんだよ。」

 私は、彼の短編集が大好きで、そこから、初めてペーソス(哀愁)という言葉を知り、それを独特のユーモアと融合させる奇跡的感動を何度も味わったが、このエピソードはその中でも傑出していると考えている。

 

 人間には、他人にプレゼントを贈ることによって感じる喜びや幸福感を持つ傾向が有り、心理学ではこれを、「善意の行為による幸福感」と呼ぶ。しかし、これにはたいてい裏があり、若干の報いを求めるという条件がつく。素直に喜んでくれれば良いが、ぞんざいに扱われると、「蛙化現象」並みの失望が待っている。

 また幸福感を味わうがために、身の丈以上のプレゼントをして、身を破滅させる、ホスト通いの少女たちもいる。

 

 一度話しておきたいと思っていたのだが、特殊詐欺に騙される高齢者の多くは、詐欺の事実を伝えても、信じようとしないらしい。「自分は、孫を助けたんだ。」「息子の危機を救ったんだ。」と言い張り、終いには、「嘘を言っているのはおまわりさんだ。」という。

 どうせ、墓場までは持って行けないお金、いつか何かの役に立てよう。ずっとそう考えているのだろう。

 「すわ一大事」「ここだ!この時のためにこのお金を置いていたのだ。おいぼれでも、立派に人を助けられるのだ。」と。杖も忘れて銀行に向かう。

 ある銀行員がATMの前で、特殊詐欺からの指示で預金を降ろしているのを止めたそうだが、その高齢者はATMの前で、嬉々として、ほくそ笑んでいたらしい。

 

 本年は、バブル期以来のクリスマス商戦が起きて、景気に弾みがつきそうだが、身の丈を超えた出費にはくれぐれも気をつけて欲しい。また、受け取る側も、いかにサプライズであっても、相手の懐具合は心配してあげた方が良い。それは失礼なことではない。女性として「しっかり」しているということだ。

オーギュスト・ルノワール「団扇を持つ女」

 ルノワールの作品を観ているとつくづく思うのだが、やはり女性には花束が似合う。花には、思うに意志のようなものが有って、女性と並べられるとギアをあげて、見栄えを誇るように見える。特に自分が美しいと感じている女性と花束が並ぶと、その競演は余計にレベルを上げるように見える。ただし、さすがにそれは贈呈者の主観に過ぎないので、客観的美醜とは無縁であろうが。

 愛おしい人を思い、彼女を見てギアを上げる花束を選択し捧げることは、ブランド品を贈るよりもずっと崇高な行為だと思うのだが、きっと受け取る側の大半は、ブランド品を好むだろう。

 デートの最初に渡すと、どこへ行っても邪魔になるし、とにかく耳目を引く。持って帰る頃には萎れていて、花瓶に入れても長持ちしない。残念ながら、デートを予定している場合は避けた方が良さそうだ。

 郵送で送るという手も有るが、私は、彼女がそれを受け取った時の喜びの笑みと、花たちのギアアップとがハーモナイズする瞬間が見たいのだ。

 というわけで、駅のコインロッカーに、十分な養生をして保管しておいて、別れ際に渡すというのが良いのかな。

 彼女は、きっと帰りの電車でたくさんの視線にさらされるかもしれないが、イヴの夜だったら、その視線の多くは、温かく、慈しみに満ちたものであろうと信じる。

天下の大事は必ず細より作こる(韓非子:喩老篇)

1 Destiny

 「どうしてなの?🎶今日に限って🎶安いサンダルを履いていた🎶」

 科学的に考えれば、全ての事象は確率によって支配されている。

 全ての結果には原因が有り、この因果関係を逆手に取ると、とある結果を求めるのであれば、その原因を造れば良いことになる。

 自分を振った相手に再び会ったとき、「惜しいことをした。」と思わせ、見返してやろうと思うのであれば、常に、身なり服装に注意を怠らないようにしていれば良い。

 安定した将来を求めるなら、良い大学に入れるように勉学に努めれば良い。

 しかし、サンダルを履けない生活はとても窮屈だ。多感な青春時代を勉学だけに投じることは、人生全体から考えるとマイナスのような気もする。

 従って、完璧な原因を築くことはできないわけであり、結果は確率に委ねられる。

 受験の場合、いろいろな方法で合格率なるものを計算してくれるので、ある程度自分の努力の過不足を予測することができる。それでも確率の範囲は超えておらず、100%ということはあり得ない。

 月に1日くらいサンダルを履く日があったとしたら、その日に元カレと出会う確率は約3%あるわけで、見返すことができる確率は100%ではない。

 従って、どのような不運な事象も確率論の上では間違いとは言えないのである。

 

 しかしながら、やはり、どう考えても納得のいかない事象は起こるものである。そして、幸運というものは、当事者の努力が幾らか作用しているように感じられるのに対し、不運というものは、無関係な第三者の不可思議な関与が絡むことが多いように思う。

 恋路などを例に挙げるとその兆候は顕著だ。ばったり会ったり、二人きりになる場面ができたりするといった幸運の方は、互いが好意を持っているから起きやすい。それに比べ、不運の方は、かなり無理があるような事が平然と起こる。人目に付かないタイミングを見計らって、勇気を振り絞って声をかけ、ようやく二人で話せる機会を得たというのに、ほとんど付き合いも無い知人にばったり会い、なぜか、挨拶だけでは去ろうとしない。とか。詰まったコピー機を直して、爪の先が真っ黒な日の夜の飲み会で、わざわざ回り込んで隣に座ってくれたり、靴下に穴が空いていたり、不運は、それを引き寄せる因果は何も存在しないのに起こる。

 努力したのに、あり得ない少数確率を引く。世の中はままならず、確率論ではあまりにも不可思議な事象、人はそれを Destiny(運命)という。

 恋路や受験なら、まあ幾らか修正が効くものだが、生死・五体に関わるとなると、英語で気取ってはいられない。

 

2 神仏

 私は生粋の合理主義者であるが、神仏の存在や運の良し悪しを信じる。

 前項の通り、その存在無くしては説明も納得もできない事象が世の中に溢れていることは否定できないし、体験もしている。むしろ確率論に準じた前項前半で示したような、当たり前の計算の方が虚しい努力のように感じる事すらしばしばである。

 ひねくれた私ですらそう感じるのだから、素直に思考する普通の人たちが、有り得ない不幸に見舞われ、確率論的努力(すなわち理性的計算)を見限り、神仏に助けを乞うということは、容易に理解できる。

 

 ただ、私のいう「神仏」は信じたり、祈ったりしたからといって、自分たちに有益な結果をもたらしてくれるとは限らない。 私の考える「神仏」とはまだ解明されていない何らかの意識を持ったエネルギー体で、確率上起こるべき事象(因果)を捻じ曲げる力を持っているもの。という程度だ。わかりやすくいうと、この宇宙には透明生物がたくさん存在していて、そいつらが因果を変化させている可能性があるということだ。

 

 量子力学や、宇宙の成り立ちを究明しようとする学者たちの報告は、年を追うごとに、理解不能で不可思議で、もはや究極の秩序を追っているのに、その答えは無秩序(何でも有り)になりつつある。従って、透明生物が存在し、因果を捻じ曲げていると言っても、バカにできる学者は居ないだろう。

 しかし、そう考えると、一生懸命神仏に祈りを捧げている人たちは哀れだ。私の考えた神仏には、慈悲の心も、そもそも、人語を解するかすら怪しいわけだからだ。

 悪いが、祈ってひれ伏せば、不運から守られるというのは誤りだ。それに頼って最大限の努力を怠れば、不運の確率はむしろ上がる。

 

 成功する者は、不運に見舞われた時、自省を始めとし、要因を検討するというが、私も含め、凡人はそこまで理性的ではない。確率論から外れた考えられない不運に見舞われると、何よりもフラストレーションが抑えられない。「せっかくあれだけ努力したのに。」「私が一体何をしたと言うのだ。」これらのフラストレーションを何かに転嫁しなければ精神的バランスが取れない。そこで矛先となるのが「神仏」だ。

 

3 信仰

 日本人は無宗教だと言われるが、寺社仏閣に対する敬意、神仏に対する畏怖の念は他民族に引けを取らない。初詣に行ったことがないとか、神仏に懇願した経験が無い日本人もおそらくほとんどいない。中年男性の腕につけているパワーストーンの普及率は、もはや民族衣装かと思うほどだ。

 

 さて、信仰の目的とは何か?

 私を含め日本人の場合言えることは、何らかの幸運を求めるか、謂れの無い不運に見舞われないことであり、悲しいことに、後者の理由が圧倒的に多いだろう。

 確率論上あり得ない不運に見舞われた時、人は理性を保つために、それは神仏の仕業であると考えるのである。逆に、成功を重ねている者は、基本的に努力が実を結んでいる訳であるから、世の中が確率論的である方が都合良いのだが、周囲にはどうしても納得のいかない不運が転がり過ぎている。だから、パワーストーンを巻いて、己の努力が確率論通りの結果を表してくれる事を願うのだ。

 

 しかし、ある意味信仰は便利過ぎて、過剰になる傾向がある。努力もせずに成功を願うとまでは言わないが、よくよく考えれば、自分が不運の因果を引き起こしているのに、神仏のせいにして、安易にフラストレーションをなすり付ける。題目を唱えていれば、いくらか気分が楽になる。それを西洋では「救われる」というのだ。

 

 実はちっとも救われていない、己が努力を怠る言い訳に利用しているだけだ。

 

 しかし、信仰は悪いものではない。真面目に取り組めば、宗教というものには、己を律するヒントがたくさん散りばめられているから。ただ、深く因果を考えず、安易に神仏のせいにすることは危険だ。人生万事塞翁が馬、それは、明日の成功のための試練かもしれない。特に、若い人は、可能性が有るわけであるから、一度や二度の不運は、むしろ追い風さ、と乗り切ってもらいたい。

 

4 争いの権化

 さて、いよいよ本稿の本題に入る。

 これまで話してきたように、私の考えでは、神仏と言うものは、信じたところで、祈ったところで、人語を解しない透明生物のようなものであり、少なくとも、決して慈悲深くはない。いたずらに、人の運命を惑わし、無駄なフラストレーションを生み出し、これを集めて、膨張するという不気味な悪循環を作り出している。もしかしたら、それが目的のエネルギー体かもしれない。そう考えると背筋が凍る。世界中の人たちが、謂れの無い不運に見舞われる度にそれを引き起こす不気味な生物を膨らませているということになるからだ。

 そのロジックから戦争を見てみたらとんでもないことになっていることがわかるだろう。フラストレーションをかき集めて膨張した信仰と言うモンスターが互いに争い、相手を傷つけ、互いのフラストレーションをさらに高めている。

 私は、「惨劇や悲劇を報道し、人々の感情に訴えても戦争は止まない。理性的に考えれば、 戦争で利益を得るのは武器商人か機関投資家ぐらいで、命の無駄遣いだ。」と、ずっと主張してきた。

 しかし、昨年のウクライナ侵攻から先日のパレスチナガザ地区の紛争などを見ていると、どうにもいくら損得勘定を説明したところで無駄であることを確信した。

 

 ハマスを操るロシアの思惑は見え見えだし、その思惑通りイスラエルは世界を惹きつけ、ウクライナの報道は全く届かなくなった。そのお粗末さを見るにつけ、こいつらはただ、日々の暮らしの中で起きる謂れ無き不運、いやもしかしたら、きっちり因果のある不運まで、まとめて固めたフラストレーションをぶつけ合っているだけじゃないのか、と疑念を持ったからだ。

 

 わずかな領土や利権の争いが戦争に発展するのには理由が有る。主に、歴史的背景、人種、偏見、不平等、政治体制の対立などが挙げられる。

 しかし、これらは思考により生まれたものであり、実態はなく、また互いに優劣もない。従って争う要因とは言えないのである。しかし、日々の欲求不満、フラストレーションがそれを「信仰」とし、やがて「正義」とし、ゲームでゾンビを撃ち殺すように、現実の人間を撃ち殺すことに免罪符を与えている。

 

 本当の争いの権化は、武器商人でも、機関投資家でもなかった。

 

 本稿で語ったロジックを直線で結べば、争いの権化は、「その日に限って安いサンダルを履いていた」という、確率論的にはあり得ない不運ということになる。

 

 

 しかし、ChatGTPは、私のこのロジックを否定した。

 「それは、裕福な先進国に生まれた人間の主観です。」とまず一喝。

 

 「育った環境や社会の背景によって、人々が驚くフラストレーションや問題は違います。裕福な先進国と比較して、経済的に不安定な地域や社会では、問題に対するアクセスや解決策が制限されることがあります。異なる状況にある人々の経験や視点を冷静に、共感することが、より多様性を内宮できる社会を築くための一歩となります。」

 

 確かに、この指摘は痛烈で、当事者の立場になって考えていないと言えばそういうことになる。この点修正はすべきかと思う。しかし、彼らの立場に立つと、そのフラストレーションは、生死に関わるものであり、私のロジックからすると、もっと強力なモンスターを潜在させている。つまりそこは、マッチ一本火事の元なわけだ。

 

 そして、双方の陣営に、関連は有るものの、安全なところから観戦している者がかなり居る。そして彼らの方が、おそらくそのマッチを握っている。

 踊らされる阿呆に踊らす阿呆だ。

 「カイジ」という漫画で、貧乏人達に命懸けの綱渡りをさせて、失敗するのを喜んでいる気色の悪い人たちと同じだ。

トゥールーズロートレック
「Rousse (La toilette)/赤(化粧室)」

 ゴッホドガゴーギャンなど、ポスト印象派と言われる画家の一人。ロートレックの名を知らなくても、「ムーラン・ルージュ」という言葉なら知っている人は多いだろう。彼の代表作である。

 先天性の障害により、両足が常人の半分の長さしかなかったことでも、彼は有名である。本稿において、五体に関する不運という表現を使用したが、身体障害者を蔑視する意思はない。また、本稿の挿絵として彼の絵画を紹介したのも、身体に障害があっても素晴らしい才能を持つ者もいるなどという、知ったかぶった事を言いたいわけでもない。

 

 私は彼の作品に在る、華々しいムーラン・ルージュダンスホールとは裏腹の、貧困の末、当時のフランスでは最下層の者が従事していたと言われる娼婦、踊り子のような夜の世界の女たちの、フラストレーション的な一面、そのありのままの姿の描写に添えられた次の言葉を紹介したかったからだ。

 

「人間は醜い。されど人生は美しい。」

 

 私は、豊かで自由な国に生まれながら、その当たり前を得るために命懸けで戦い続ける人々のことを、結局はただのフラストレーションのぶつけ合いではないか!と断じてしまった。しかも、その過ちをAIに一喝された。

 しかし、私はそれでも、努力不足を安易に信仰に転換する危険性を指摘したい。また、戦場の当事者達も、自分たちを操っている人々の無責任を想像して、それこそこちらの立場に立って自分たちの姿を見てもらいたい。自らの知的レベルの低さを実感し、身なりは窮屈でも、もう少し美しい人生を得る方法があるのでは、と考えて欲しい。

 

 人間は醜い、しかし、されどもう少し利口なはずだ。

多様性を取り込む_その1

1 「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」

 何度聞いても胸の奥にスーッと風が吹くような言葉だ。

 夏目漱石の著書は、文学好きには人気のようだが、結構、長ったらしい割に、何が言いたいのかよくわからないところが多くて、私はほとんど読破していない。それでも、「草枕」のこの冒頭のフレーズだけは忘れたことがない。

 発表から120年を経とうとする現代においても、人の世の住みにくさの理由はほとんど変わっていない。まあ情に棹させば詐欺に会い、意地を通すほどのスペースも無くなってしまったところは変わったか?

 しかし、この中で最も残念に思う人の世の悲しい所は、「智に働けば角が立つ。」という所だ。

 

 知り合いの精神科医の分析によると、日本には「ムラ社会」という残念な因習が根強く残っていて、変化や異端を忌避する傾向にある。そして、智者が正論を語ると「角が立つ」という悲しい現象がなかなか減らないらしい。

 

韓非子「孤憤篇」にこのような一説がある。

「智者は策を愚人に決せられ、賢士は行を不肖に程(はか・量)らる。」

 簡単に言うと、智者と相談する機会を得ながら、その智者の意見について、側近の凡人に相談し、賢者に出会う機会に恵まれながら、その賢者の印象を、側近の凡人に尋ねるという。

 これは、日本のムラ社会の悪いところに酷似している。素直に受け入れば良いものを、逐一、変化を異端とし、画期的な発想を規格外と恐れる仲間に相談しているのである。

 これでは、合理的で賢い治世を望むことは難しい。

 

 「智に働けば角が立つ。」習慣は、日本だけにあるものとは言えないが、日本人はとても保守的である。異端や規格外な発想をあまり信用しない。日本という国が発展したのは、いわゆる猿真似からのアレンジに優れていたというもので、アメリカのような、全くの0から1を生み出すような発明に縁はない。

 話は変わるが、先日、YouTubeで、これから200年の世界各国の栄枯盛衰についてGDPを尺度に予想したグラフが紹介されていた。グローバルサウスが発展して、中国ですらランクを落としていく、日本は間も無くベストテンからも消えていく。しかし、面白いのは、アメリカで、200年間ずっとトップに君臨する。あくまで、その人の計算や推計による予想だが、私は彼の国が、勝ち続けることに賛成である。

 まだまだ、人種や宗教による対立は残っているが、彼の国ほど「多様性」というものを取り入れている国は他にない。闇鍋を見るようなカオス的発想のるつぼ。あくまでイノベーションを起こすのは、そのほんの一部の発想だ。途方もない数の空クジの先にある。しかし、それでも当たりクジを引けるだけの土壌・器のデカさがある。だから、次から次へとイノベーションが波打ち際のように飛沫を上げ続けるのだろう。

 

 どんな馬鹿げた発想が世界を動かすかわからない。みんなそのことには気づいている。

 しかし、日本人の性格は、馬鹿げた発想はもちろんのこと、ある程度、根拠やエビデンスを持つ有益な発想ですら耳を傾けないところがある。正直、基礎教育が成り立っていない人の話まで聞く必要はないと思っているが、智者や賢者の話は耳を傾けた方が良い。

 ここでいう智者や賢者とは、著名な学者や政治家のことではない。もっと小さな世界で考える話だ。例えば、職場における問題点を指し示し、解決策を献策する者。つまらぬ争いをしている人間に、教養を活用して、一段高い立場から、つまらない争いであることを諭す者。不平等や理不尽が蔓延っているのなら、理非曲直を語りこれを正す者。

 だんだん、気づいてくれると嬉しいのだが、いずれも悪いことをしていないのに、「角が立って」忌避される存在だ。

 問題解決・紛争解決・公明正大。一体何が気に食わないのか?

 これが日本人最大の難点だ。

 後日、日本人が、外国人や障害者といった、多様性を受け入れる上でどうしようもない問題を抱えていることについて論じる予定であるが、その前に同類の日本人同士でも、自分のコミュニティに属さない者なら、いかに自分より頭の良い者であっても素直にその言に従えないという、KUSOみたいなムラ根性を叩き潰さないといけない。

 そして、それは、ムラ意識をカモフラージュにした、敗北をも認めたくないただのプライドなのかもしれないことに気づくべきである。

 

 結局。「智に働く者」はそれを認める者にのみ、みそめられ、活用され、彼らだけが、その恩恵を享受する。場合によっては、その利益は国外に流出しているかもしれない。

 

2 鶏鳴狗盗(けいめいくとう)

 史記

 戦国の政治家、猛嘗君は、たくさんの食客を抱えていた。中には、鶏の鳴き真似が得意な者や、猿のような動きを見せ、さらりと財布をスルという特技を持つ者もいた。世話をする家人は、「あんな人たちが何の役に立つのやら。」主人の物好きにすっかり呆れていた。

 しかし、彼の国に政変が起き、危険が迫ったとき、このくだらない特技を持つ二人が、見事、猛嘗君を脱出させ、後に政権に復帰させる。

 どんな個性が役に立つかは、高度に不可思議なものだ。

 

 知り合いが勤める大企業には、変わり者がたくさんいるらしい。何が何でも持論を曲げない人、一日中ぼさっとして、全くアポを取ろうとしない営業担当、社内の応接で客と話すときは、いつもビクビクしている、端末操作がまるでできない。なぜか毎日叱られている。

 なんで、こんな人たちが、一流の大企業に居られるのだろうと不審に感じていたらしいが。不思議と大富豪のファンがいたりして、ノルマを落とすことがない。

 彼女は、営業の「正攻法」は、相手のニーズを素早く読み取り、十分に蓄えた商品知識を組み合わせて、お客さんにとって最も有利な選択を薦めることだと考えていたようだが、お客さんは自分の思い通りの選択はしない。

 よくわからない、自分には無駄としか思えない商品に興味を示したりする。そして、なぜか、前述の不思議な従業員にこれにやたら詳しい人がいたりする。

 営業マンが息つく暇なく喋くりまくり、まるで話題のつきないのを面白がるようにいつまでも聞いていられる客、逆に、客が、どうでも良い世間話を何十分しようとも、相槌を打って聞いてくれる営業マン。人の心は何に鷲掴みされるかわからないのである。

 確かに、正攻法というものはあるだろう。それで平均点は取れるだろう。しかし、人の心情は方程式では割り出せない。何が功を奏すか?それは高度に不可思議なのだ。

 

 「ロングテイル」と言う言葉をご存知か?ブロントザウルスの胴体を「売れ筋」とし、尻尾を「ニッチ」と捉えた時、しっぽは、胴体よりも体積が多い可能性があるらしい。一流の競争社会ともなれば、ニッチを捉える個性もまた重要なのである。

 いかにして、跳ね上がる個性を組織内に保有し、かつ、他の社員の福利に差し障りが無いようにするか?それができてこその一流企業なのだろう。

 

3 ペルソナ

 先日、インボイス制度について書いた「王様は裸だ」を読んでくれた方から、「ペルソナ」という言葉を聞いた。「他人から見た自分の姿」という意味だそうだが、他人に自分の意見を聞いてもらおうとする場合、自分が今どんな表情をしていて、相手にどう見えているか、という「ペルソナ」を意識することが重要だという。

 ブログや、自分主催の講習会などの場合は、そんなに気にする必要は無いそうだ。それは、客が離席する自由があるからだそうで、インボイス説明会のように離席し難い場で、持論を語るには、「ペルソナ」をよく意識するべきだとのこと。なるほど面白い話を聞いた。

 

 SDGsが語られるようになってから、企業も行政も幾らかの努力はしている。

 私の職場でも教材が配付され、自習や研修も受ける。しかし、残念ながら、うちの組織には「ペルソナ」が見えていない。

 時折、この教材は誰が作ったんがというほど、誤解の塊を一生懸命語っているテキストがある。これについても後日例を挙げて、詳細を話そうと思うが、とにかく、やるならちゃんと知識人や専門家にチェックしてもらえ!と言いたい。形だけのSDGsなのである。ちなみに、SDGsを日本語に訳せる者は、2割も居ないだろう。

 自分の思い込みや、誘導したい情報のみを配信して、例えば「WLB」とは、夫が育児に参加する事(だけ)だと誤解させたりしている。この辺りの問題点は、いずれまとめて論じたいと思っているが、5000文字は超える。

 

 それから、「面談」という機会が増えて、平民の話も聞いてもらえるようになったが、どうやらここでも「智に働く者は角がたち」、智者や賢者は本当のところを話さないようだ。

 代わりに、同じ仕事ばかり長くやっているので無駄に力を持っている人や、無能だが、作り話だけは得意な人間が、上司を上手に誘導している面がある。

 陳情は、必ず真偽を正確に抑えること。他人の批判については、真偽を確かめることはもちろんのこと、必ず、相手の言い分にも耳を傾けることは最低限の鉄則だ。

 賢者や智者に話されるにはどうすれば良いか?それは、自分でこれを見つける事である。

 多彩な職をそつなくこなし、人を性格ではなく得意分野で振り分ける。そして、何より誠実で職務に忠実である。ただ一つ声は小さい。

 これらを登用すると、古参や既得権者からは角が立つだろうが、それこそムラ社会的風潮を拭えず、本来の目的を見失っている今の自分たちの「ペルソナ」を見つめて改心する時である。

 

 「智に働けど角立たず」。そう言う国にならなければ、この国は、世界が目指すSDGsの目標で、ことごとく順位を下げ続けるだろう。

マルク・シャガール「7本指の自画像」

 シャガールは、ロシア出身の画家。印象派からピカソという常人が理解できる最終形に至る絵画の変遷期の中で、かなりゴールに近い側に位置する。市立図書館の実物大レプリカを初めて見た時から忘れられないインパクトがある。

 パリのエッフェル塔が。画上の風景は、故郷の景色で、彼の作品の象徴と言える馬が描かれている。

 3項で紹介した、感想で、「ペルソナ」の話を聞いた時私は、この絵画を思い出した。

 バックに見えるのはエッフェル塔で、画上には、故郷ロシアの風景。そんな郷愁に浸る、自分自身を他人が見たらどう見えるのか、その「ペルソナ」を表現しているように見える。

 それを「苦悩」と捉える人もいるが、私には、躍動感と活力を感じてしまう。このどう見ても気持ちの悪い絵が誰かに気に入ってもらえるという自信。それだけで天晴れだ。

 私は、彼が「智に働いている」場面だったとしても、何も不快感を感じない。

 異端や規格外に不快感を感じていると、いつの間にか、くだらないものを大事に握りしめているかもしれない。

初心者でもできる!青色申告で年間30万円の節約(後編)

1 会計ソフトの可能性
 私の実家は会計事務所だった。税理士が少なかった当時では、ちょっと大きめの企業の顧問にでもなれば、安定した収入が得られたであろうが、父は、開業初心者や記帳アレルギーの事業者を連れてきては、その経理を手伝っていた。当然、報酬は少なく、家族から不満も出ていたかもしれないが、当時小学生だった私には、父が何かを楽しんでいるようにしか見えなかった。
 大した実力がなかったのではと疑われるかもしれないが、彼はおそらく簿記の女神の祝福を受け、我々経理を学ぶ者が最後に求める、会計学プロトコルに届いていたと思われる。
 当時、会計ソフトは未完成で、試行錯誤を続けていたが、父は、その会社と契約して、それを活用して財務諸表を作成し、不具合を調整するアイディアを出し合っていた。
 そして、私にはこう語っていた。「簿記のアルゴリズムは単純なものだ、コンピュータが発達したら、計算機くらいのサイズの電子帳簿ができるようになる。そうなれば、記帳に悩まされる個人事業者はもっと減るだろう。」と。
 1983年TKCという今でも有名な会計ソフト会社が、日本初のパソコン用会計ソフトを発売するが、まだまだ高価だった。そして、父の余命はこの時点で5年を切っていた。

2 会計ソフトの大々的普及
 私が40歳を過ぎた、ある年、国税庁が戦慄の戦略を打ち出す。
 「これからは会計ソフトの時代。経理の機械化を大々的に推進するため、すべての記帳指導を会計ソフトで行う。」というものだった(記帳指導とは、国税庁税理士会と協力して、開業者や記帳初心者を支援し、無料で指導を行う制度である)。
 二世議員についてどうこう言う人がいるが、士業というものは、歴史を平らげて資格をとり、未来を読むことで収入を得る。その語られた未来に出会う度に、やはり一般人とは違う世界観を持ってしまうものだ。ただ私の父は20年早すぎたわけだが。

3 前編メソッドの研究
 その頃、私は簿記の女神、会計学プロトコルを求めて、簿記一級を目指していた。しかし、なかなか振り向いてもらえない状況だった。
 国税庁の発表を受け、父に追いつけないならせめて、会計ソフトだけでもマスターしてやろうと戦略を転換。会計ソフト技能者資格1級を取得した。そして、その最大の武器が、「自動転記」であり、これにより、二つの帳簿を完成させるだけで、B/S・P/L、いわゆる複式簿記の財務諸表が自動的に作成されることを悟った。中でも預金取引明細は、もともと、預金元帳という完成された帳簿であり、やっていることは、これをただ写しているだけであること、そして、これを入力すれば、現金出納帳の骨組みが自動転記によって作成されることも知った。
 あと何が足りないかは、長年の経理の経験から、自ずと絞り込むことができた。
 さらに、個人事業者の記帳をサボる言い訳もよく聞いていたので、どこをどう省けば楽になるかの目線で、メソッドを組み上げた。多少後付けを許すところは厳格にいうと法律違反になるのだろうが、一生懸命記帳をしようとしている事業初心者のそんな仕方のない事情を問題視することはない。
 それより、会計ソフトは、嘘でも、間違っていても、粗悪なものなら、現金が赤字でも貸借対照表を作ってしまう。これを携えて提出し、65万円の控除を受けている人の方が問題だ。
 私は、個人事業者が複式簿記を行う上で最も重要となる、事業費と生活費を区分し、生活費=「事業主貸」の仕訳を組み込んでいる。ここが、上記のような「できちゃったB/S」との大きな違いだ。

 今の会計ソフトは、預金取引明細やカード取引明細を自動的に吸い上げる機能がついている。要は、数字の動きと残高は先に入っていて、あなたは経費なら経費科目を入力し、そうでなければ、「事業主貸」と書けば良い。しかも、現金と預金との取引は仕訳済みである。

 ちなみに、会計ソフトを買いに行くと、4〜50,000円のが普通に並んでいるが、それらは上級者用だ。「やよいの青色申告」とか「ソリマチみんなの青色申告(会計王シリーズ)」といった、12000〜20,000円くらいのが有るので、それで十分だ。

「男一匹、事業を立ち上げたのなら法人を目指せよ!」。月1回、できれば週1回整理すれば、家畜小屋から出ることができる。今回は青色申告特別控除をテーマにしているが、記帳による節税方法は、もっといくらでもある。
 私は、それで違う景色を見るようになる人たちを、幼少期から何人も見てきた。だから、父は楽しんでいるようにしか見えなかったのだ。
 論語に曰く「好きなことを生業とすれば、一生働く必要は無い。」

4 小石の退け方
 さて、会計ソフトを実際に始めようとすると、通常人が今まで聞いたことがない言葉が平気で使われていてイラっとする。
⑴ 開始仕訳
 無一文で事業を開始するわけでない。売上が入る前に経費を払ったら、現金残高はマイナスになる。そこで会計ソフトは、最初の資産は、どこから来たもの?と聞いてくる。これが開始仕訳。一番わかりやすいのは、事業用の財布に幾らかの現金、事業開始日の預金通帳残高を、相手勘定「事業主借」で登録すれば良い。
事業から得た利益を生活費に消費した場合は、「事業主貸」だったですね。事業が無一文だから、資金を投入する場合は、「事業主借」とする。個人の青色申告貸借対照表には、「元入金」という、真っ当な税務職員でもほとんど説明できない変な科目があるのだが。上記のルールを守って計上していれば、これも勝手に計算してくれる。
⑵ 出遅れてしまった人
 以前は、貸借対照表を作れない原因で、最も多かったのは、開業から、所得計算を始める12月までの記録をまるで残していないというものだった。
 しかし、昨今の開業者はある程度意識が高く、現金について領収書程度の記録は残しているものだ。これさえあれば、預金明細やカード明細などは、後からでも費用を払えば入手できる(確かネットで頼めば1ヵ月で120円、12ヶ月で1,400円位だったと思う)。
⑶ 立替交通費
 フリーランスは、交通費やいろいろな経費を負担してもらうことが多いが、これらを全て収入に上げてから、経費に落としていると、売上金額が大きくなる。
 結局、売上✖️2%になってしまった、インボイスの世界では、売上は少ない方が良い。だから、後からもらえる交通費は、「立替交通費」として計上して、売上が振り込まれた時、内いくらいくらは「立替交通費」として減算する。
⑷ レシートのない経費
 現場の若人集に自販機でジュースを買って配ってやった。立派な経費だ。
 レシートなんか要らない。カレンダーに書いておけば良い。
 どうも、生活費に使った覚えもないのに、事業用の現金が少ないんだよねえ→もう消耗品費で計上しとけ。これもレシートなんぞ要らん。
 証拠は、「その日の残高が一致した。」俺のジュース代が嘘なら、この減った現金はどこへいったんだ?
 勘違いされがちだが、税務署は、原始記録(領収証)がないだけで、経費を否認することはできない。特に、複式簿記で残高を確認されている場合は。
 なお、インボイス制度開始に伴い、原始記録保存義務が発生したが、一万円以下は、対象外である(令和11年まで)。
⑸ カード決済
 正しくは、カードで支払ったとき、相手勘定に借入金を立てて、その塊がこの日に落ちるという経理をする。会計ソフトによっては、これを自動で行うものもある。
 ただし、初心者は、前編で説明した形の方が覚えやすい。
預金出納帳の時、カード払い58,520円について、①新幹線27,500円②自宅CATV9,800円③生命保険11,000円④キャッシング10,000円⑤同手数料220円(合計58,220円)に分解して計上している。
 ①新幹線代は、得意先負担なら、立替金で上げておくと得する。
 ②と③は、生活費だから「事業主貸」になるね。
 ④は、まだどこにもフローしていないから現金(ストック)。
 ⑤は、こんなものはどっちとも言えないから、事業経費で良い。
 最後に、その日の預金残高が一致するか確認すれば、記帳漏れは無し。
⑹ 電子決済
 これからはこれがややこしいことになるだろうが、逆に現金払いの明細を取り寄せることできるので楽だ。預金出納帳のカード決済と同じように考えれば良い。
 60,000円の事業用現金を引き出し、10,000を電子マネーにしたとする。
 現金で払った経費が44,000円あって、電子マネーでの支払いが8,000円だったら。現金残高16,000円と電子マネー残高2,000円で、現金出納帳残高が、18,000円だったらOKということになる。
⑺ 現金不一致の問題
 前編では、とりあえず事業主貸を使って合わせておけば良いと説明したが、現金が極端に少ない時は、大きな経費の計上漏れがあるかもしれないから、注意が必要だ。それから、立替金は、基本的に0になっていることが重要だ。現金が妙に多い時は、立替金を回収している可能性がある。

5 Phase3 決算を理解する
 忘れかけていたが、もう少し、事業規模の高い人のために、決算についても話しておく。
 決算の要諦は、①残高照合:預金残高・現金残高・立替金・借入金の残高を照合(支払利息の計上)②未収・未払取引の調整③減価償却④棚卸⑤自宅兼事業所の事業所経費の計上などが続くが、正直、個別にネットで調べて勉強する必要がある。
 フリーランスレベルでは、①はしっかりしてほしい。
 ②未収売上:25日締め翌1月10日払いの報酬は、今年の売上に計上が必要(相手勘定は未収売上)なので注意を。

 最後に、「家内労働者特例」について、特定の取引先から収入を得ているだけのフリーランスは、最低経費55万円が認められる。これだけ、預金通帳やら現金出納帳から経費をかき集めてもそれに満たない場合は、その差額を経費に計上できる。この時の仕訳は、
経費:家内労働特例/ストック:「事業主借」となる(会計ソフトでは、「振替仕訳」という画面に入力する)。
 この形、つまり複式簿記で計上したら、これを差し引いた所得からさらに65万円控除してもらえる。

 以上、前後編完読ありがとうございます。私もようやくこの思いを打ち明けられてスッキリしています。

アメリ世界遺産:statue of liberty(自由の女神

 自由の女神のモデルは、ドラクロア作「民衆を導く自由の女神」で、当該画中では、女神はフランス国旗🇫🇷トリコロールを掲げているが、彫刻の女神は「希望」を表すたいまつ(トーチ)を掲げている。
 韓非子・外儲説左上に「燭(しょく)を挙げよ」という故事があり、「挙燭」という成語にもなっているエピソードが有る。
 内容としては、外交文書の作成中に起こった些細な勘違いで加筆された「挙燭」という言葉が、受け取った国のその後の運命を大きく変えたというもの。
 しかし、私はこの原稿で引用を考えるまで「挙燭」は燭(台:明かり)を挙げよという意味なので、受け取った国で反乱が起きたと覚えていた。実際には「有能な人材を登用せよ。」という意味に誤解され、たいそう国が発展したそうだ。
 まあ、韓非子の示すところは、些細な行動が大きく世を変えることが有るという2000年前のバタフライエフェクトを示したものだから、出来事は重要ではない。
 

 開業者や記帳初心者があまりの重税に怒り、希望のトーチを掲げて左手に貸借対照表を持って、税務署を訪れ、65万円控除適用者が、前年比110%ともなろうものなら、日本経済界にかなりの衝撃が走るだろう。上手くいけば、また、経済大国と呼ばれるようになるかもしれない。願わくは、その世界は、モーレツ社員やパワハラサービス残業が跋扈するくだらない昭和の経済大国とは全く違うものであることを望む。

初心者でもできる!青色申告で年間30万円の節約(前編)

 コロナ禍により蓄積された潜在的消費性向、記録的猛暑、そして18年ぶりのタイガースの優勝も重なり、世はまさに空前の好景気を迎えようとしている。
 にもかかわらず、経営者たちは、利益の労働者への還元こそがさらなる利益の増加につながるという資本主義の大原則を忘れ、証券取引所からの「君たち安全運転が過剰!」に対し、自己の株主だけを守る戦術で、まだ逃げを打っている。
 こんなシブチンたちは、いい加減見限って、独立して事業者になった方が報酬は上がるのだろうが、ここに、税金・国民健康保険税(以下保険税)が立ちはだかる。
 私は故あって、少年時代より、経理が商人を助けると信じてきた。
 そして、会計ソフトの飛躍的進歩を受けて、最低限これだけの努力と記録を残せば、約30万円の節税ができるという確信に至った。
 インボイス導入で、さらに個人事業者への負担が増すことを鑑み、満を辞してこれを紹介する。
 なお、今回の投稿は、長文につき二部構成とする。

 前編は、細かい根拠や理屈はすっ飛ばして、「とにかくここに書いている通りにすれば、憎たらしい、国保税や税金を30万円減らすことができる。」というメソッドのエッセンシャルトピックスを語る。
 しかし、それでは信頼性や実効性に不安を感じるのは当然であろう。そこで後編では、このメソッドが持つバックボーンを語るとともに、前編が詳細を割愛する分、実践段階におけるさまざまな小問題(小石)の退け方も説明する。

 とにかく、前編の分量は多い。前書きはこの辺にして早速本題に入ろう。

1 青色申告特別控除


 記帳義務を課す代わりに、純利益から10万円の控除が受けられる。
 さらに、複式簿記を使って、貸借対照表を作成し、電子申告で提出すれば、65万円の控除が受けられる。
 仮に20.42%の所得税がかかっている人の場合、住民税10%、国保14.81%(大阪市)、合計45.23%の国民負担率であるから、65万円控除すると、29万円超の節税になる。
 その道は一見険しいと思われるかもしれないが、私は会計ソフトの特性を活かして、最少努力・最短ルートでこれを達成するメソッドを考案した。
 しかし、これを達成するには、事業主が本気になって、必要な記録を残し、あるいは収集してくれなければならない。そこで、以下の話を聞いてもらう必要が生じる。

2 記帳レベルのPhase


Phase0 期末ドタバタ集計
 一般的な開業間もない個人事業者の収入源は、1箇所から3箇所程度。これらを集計して年間の「売上」を割り出すことはエクセルも要らない。
 問題は、とりあえず「経費になるかもしれい。」と考えて、とっておいた領収証の整理と、カードで支払った経費の振り分けだ。
 事業初心者の9割以上がおそらくこの作業を、年末から確定申告期限の3月15日までの間に行う。そして多くの人は、仕事を優先して2月以降にこれをはじめ、何をどうしたら良いか分からず税理士に泣きついてくる。
 税理士だって、2月以降に入ると、扱い一つで数十万の税金が変わるような相談を抱えて、そんなおサボりさんを相手にしている暇は無い。「どうせ合計しても事業者に認められた最低経費55万円(家内労働者特例)には満たないのだから、そっちを使っときましょう。」で終わってしまうだろう。
 あなたが、とりあえずとっておいた領収証は、この場合全く無駄になる。
 開業初年度はそんなところで良いかもしれない。少なくとも「事業所」と言われるだけの設備を持たない限り、55万円を超える経費を積み上げるのは難しい。家の一部屋を事務所にしていると主張するおこがましい人をよく見かけるが、せいぜい経費に認めてあげられるのは、パソコンとプリンタ、及びインク代くらいだ。
 しかし、人に給料を払ったり、仕入れを行ったりしている人は、55万円の家内労働者特例も受けられない。それどころか、「決算」というプロの領域が入ってくる。年内には、税理士に相談しに行っとかないとかなり痛い目を見ると思った方が良い。 
 Phase0と示したが、こんなドタバタ劇を、2年目も3年目もやっている事業者は、まず成功しない。サラリーマンより苦しい重税と保険料を抱えて、一生家畜小屋から脱出することはできない。
Phase1 単式記帳
⑴    現金支払い経費は領収証が無いと経費に認められないと、コンビニでも領収証の発行を求めている可哀想な事業者を見かけるが、事務用品、取引先に持ち込んだ手土産代なんかは、レシートで十分。これらを、残す理由は、税務署に見せるためでなく、自分が後でそれを足し算するためだ。
 さて、その足し算の方法だが、さっきも言ったように、財布に溜まったレシートをさらにビニール袋や、お菓子の空き缶に集めておいて、年末に振り分けているようでは、アウトだ。
 アウトというのは、税法的にアウトというわけでなく、これからインボイス制度のもとで戦っていかなければならない個人事業者としてアウトということだ。
 Phase0からの脱出方法として、私が個人事業者に勧めてきたメソッドが、「カレンダー記帳」だ。カレンダー式の手帳というのが百円で売っている。スマホのカレンダー機能でもよい。 財布に溜まったレシートを領収証保管用のお菓子の空き缶に入れるとき、その日付欄に、支払先と金額を書き込んでから入れる。
 こうしておくと、年末に空き缶を開けて、領収証の塊にうんざりすることはほとんどない。支払先名で大体なんの経費か(経費科目)は、想像つくだろう。さらに言えば、月1回くらいは、経費科目ごとの集計をして、月末日か、月別の余白があればそこに、⑪交通費〇〇円、⑭交際費〇〇円、⑰消耗品費〇〇円と書いとくと、記憶も確かだし、年末かなり楽になる。 なお、この⑪⑭⑰は、青色決算書の記入欄番号で、現金支払い経費の代表格である。
⑵    銀行取引とカード払い取引は明細をスクショ
 昔は、マメに通帳記入に行くか、まとめ記帳されたら、銀行に明細を請求すればよかった。今は便利と言うべきか面倒と言うべきか、ネットを使用して自分で調べることになっている。しかも、掲載期間が2ヶ月とか90日とかやたら短い。
 しかし、取引日・取引内容・取引金額が、ほぼ公的に証明された記録である。月に一度明細を開いて、スマホならスクショしておくだけで、前述のカレンダー記帳以上の情報と証拠を押さえることになるので、最低限やった方が良い。
⑶ 月別集計表
 カレンダー記帳と、スクショを集めたら下図の月別集計表を作成する。

「月別集計表」(Excelが有れば最適だが、ネット上に色々な雛形が紹介されている)

 個人のフリーランスを想定して説明すると、銀行取引については、①得意先からの報酬の入金、②各種引落:携帯電話料金他通信費、水道光熱費、地代家賃、損害保険、生命保険、健康保険、税金、③カード払いの引き落とし、④現金の引き出し、の4つに分けることができ、どれをどの欄に入れたら良いかは、日本の義務教育を受けている人なら、まあ大体わかるだろう。ただ、例えば、水道光熱費や地代家賃はここに載せて良いのか?といことになる。 これは家事関連費と言って、自宅の一部を事務所とする「自宅兼事業所」とした場合、その事務所部分にかかる者は経費に認められる。しかし、前述した通り、フリーランスレベルで、事務所経費が認められることは難しい。
 生命保険や健康保険は、まず書くところがないが、生活費なので無関係。損害保険料は、事業用車両もしくは、事務所兼自宅とする場合に計上する。
 カード払いについては、カードの請求明細(これも、毎月ダウンロードしてスクショ)から、同じように、生活費と経費に分けて、経費となるものは、これと思われる欄に書き込む。
 なお、これまでスクショで残してきた、取引は、正しくは紙として出力して、保存することが義務付けられている(これを省略できるのが電子帳簿保存法だが、そんな話は大企業だけがやっていれば良い)。どのみち、どれとどれを計上したかわからなくなるので、コンビニで出力して、経費計上分は、フリクションペンで、マークする(なんでフリクション?このチェックをやる人かどうかで、次のPhaseに行けるかが決まるのだが、初心者が1発で揃えられるほど簡単な作業じゃないから)。
 次に現金取引の書き込みに入るのだが、ここで⑴のカレンダー記帳の各月末にその月の合計を書いていた人は、かなり楽であることがわかるだろう。
 これで、登場人物は勢揃いしたことになる。
 総売上から経費の合計を差し引けば、単式記帳による所得金額の算出が完成する。(上図の集計表では、特別控除前所得と書いている欄。) これがPhase1だ。青色申告控除額は10万円。節税額は、45,000円。

Phase2 会計ソフトの導入(複式簿記
 私は、可能な限り省エネルギーでPhase0の不幸な方々に、適正な貸借対照表を作成させ、65万円控除、推定節税額(29万円超)へ導きたいと考えている。もしPhase1の段階で、出来そうにないと考えているなら、私にはその人を救うことはできない。
 ⑴ 複式簿記
 さて、65万円に向かうには、「複式簿記」という言葉を理解することが避けられない。
 Phase1のように、「入ってきたお金から、出ていったお金を引いたら利益が出る。」という単純な考え方を「単式簿記」という。最近の若者は便利な言葉を知っているので説明しやすい。。よく、フローとかストックとかいう言葉を聞いたことがあると思うがが、単式は、このフローだけを見ていて、その結果どのくらいのストックができたかを考えていない。
 1年間働いて、いくらいくら利益が出たようだが、その金はどこにいったのか?その金額通り貯金が増えていたら良いのだが、そんな人はいない。まあ、ただ少しでも預金が増えていたら、ストックが増加したということだ。借金が減ったというのであれば、これは負のストックの減少。しかし、最も大きな振替先は生活費だ。預金も借金も別に減っても増えてもいないが、手元に何も残っていないのは、全て生活費に消費されたからだ。そして、それがごく一般の人。
 では、「消費」というのは、なんなのか?一見お金が出ていくのだからフローと思いがちであるが、個人事業者の複式簿記の世界では、これらは、事業主に貸し付けた「事業主貸」というストックになると考える。
 この辺りが難しくて、大方の事業主は脱落してしまうのだが、難しいことは考えなくて良い。生活費=「事業主貸」という発想だけを頭にねじ込めば良い。
⑵ 会計ソフト
 複式簿記を行う場合は、例えば、交通費を支払ったとしても、それは、現金で払ったのかカードで払ったのか、つまりどのストックを減らしたのかという「相手勘定」というものをいちいち求められる。これを、商業高校で簿記を習ったことのない人間に仕訳させることは相当エネルギーが必要である。
 じゃあ、素人が会計ソフトを買っても使えないじゃないか?
 そこで私は、仕訳が分からなくても、そして、可能な限り省エネルギーで会計ソフトを活用するメソッドを考えた。

⚫︎ 預金出納帳(よきんすいとうちょう)
 会計ソフトは、銀行取引を最初に入力せよ!
 どの会計ソフトにも、普通預金元帳、または、預金出納帳という画面がある。ここに、金融機関から取り寄せた取引明細に書かれている通りに増減を入力する。振り込み入金の相手勘定は、「売上」、通信費の引き落としなら相手勘定は「通信費」。
 水道光熱費や家賃など、経費にならない引き落としは、生活費である。ここで、前述した、生活費=「事業主貸」」というルールを適用する。
 なお、現金引き出しや入金は、売上でも経費でもないので相手勘定は「現金」。
 ちょっとややこしいのがカード払いの扱いだが、1行に書こうとするから無理がある。下図のようにカードの明細通り入力して、引落額を一致させれば問題ない。

(カード払いについては、後編でも詳細を説明する。)

⚫︎ 現金出納帳(げんきんすいとうちょう)

同じ会計ソフトの「現金出納帳」画面を開く

 預金出納帳を入力してから、「現金出納帳」画面に移ると面白いことが起きている。上図2月6日の取引に注目して欲しい。預金出納帳で記録した現金引き出しが反映されている。これが、会計ソフト最大の武器「自動転記」だ。

 この機能のおかげで、シンプルな事業者なら、預金出納帳と現金出納帳の入力だけで、青色65万円申告に必要な、複式元帳・財務諸表が自動的に作成されるのだ。
 それでは、銀行引き出し以外の現金取引を入力していこう。
 ここで、カレンダー記帳で記録している経費を打ち込む。
 会計ソフトのもう一つ良いところは、勝手に日付順にしてくれるとこだ。だから、カレンダーに載せ忘れた領収証や、奥さんに渡した生活費など領収証の無いものも、日付通り入力すれば、日付順にしてくれる。
 そうすると、引き出しては手持ちがなくなり、また引き出すという流れが面白いように見えてくる。妙に膨らんだり、マイナスになったりする日が有るようなら、その原因を考えた方が良い。何かが間違っているということだからだ。(この違算箇所探知機能も会計ソフトならではである。)

 なお、ここで理解しておく重要なことがある。生活費に使った現金の相手勘定は、やっぱり「事業主貸」であるということ。
 前述の預金出納帳で、収入が入った直後に生活費120,000円が引き出されている。これも、現金出納帳の現金増に反映されているが、その日のうちに奥さんに渡してしまうので、「事業主貸」120,000円を計上し、現金残高を減らす必要がある。
 預金出納帳にわざわざ(生活費)と記入したが、預金取引明細にそんな言葉は載っていない。自分で区分する癖をつけることが重要である。また、事業用として引き出した60,000円は、財布を分けて、事業経費以外には使わないようにする。それでも急な要件で、生活費として消費したときは、また「事業主貸」として計上する。

 だんだんわかってきてもらっているかもしれないが、個人事業者にとって、複式簿記の難しいところは、生活費を「事業主貸」として仕訳することなのである。逆にそれさえできれば、難しいことは会計ソフトが全てしてくれる。

 最後に、法律上は毎日だが、月に一回で良い。事業用の財布の現金残高と、会計ソフトの現金残高を照合すること。そして双方に差額が有れば、「事業主貸」を相手勘定にして、会計ソフトの残高を財布の残高に合わせる。ここで重要なのは、“必ず、実際の現金残高に、会計ソフトの残高を合わせること”。現金の方を減らしたり、足したりしてはいけない。
 会計ソフトの残高は、あくまでバーチャルで、目の前の現金がリアルだからだ。

 以上でPhase2はクリアーだ。シンプルな個人事業者なら、この時点で、65万円控除に必要な、複式簿記貸借対照表の作成はクリアーしている。後は、会計ソフトの電子申告機能を使用して、確定申告書を作成し、送信すれば、29万円超の節税は成功する。 

 本来、Phase3「決算」というのがあるのだが、決算は、事業所を持っていたり仕入を行ったりする業者において問題となるものなので、後編で話す。

 うーむ、これだけ絞っても、6000文字かぁ。やむを得ん。言い足りなかったことは後編で話そう。

記帳指導説明会資料「記帳なし」から「貸借対照表」へ

 とある、開業者や記帳初心者向けの説明会の前説で、記帳のメリットを説明するために配付された資料。