説難

多様性を取り込む_その1

1 「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」

 何度聞いても胸の奥にスーッと風が吹くような言葉だ。

 夏目漱石の著書は、文学好きには人気のようだが、結構、長ったらしい割に、何が言いたいのかよくわからないところが多くて、私はほとんど読破していない。それでも、「草枕」のこの冒頭のフレーズだけは忘れたことがない。

 発表から120年を経とうとする現代においても、人の世の住みにくさの理由はほとんど変わっていない。まあ情に棹させば詐欺に会い、意地を通すほどのスペースも無くなってしまったところは変わったか?

 しかし、この中で最も残念に思う人の世の悲しい所は、「智に働けば角が立つ。」という所だ。

 

 知り合いの精神科医の分析によると、日本には「ムラ社会」という残念な因習が根強く残っていて、変化や異端を忌避する傾向にある。そして、智者が正論を語ると「角が立つ」という悲しい現象がなかなか減らないらしい。

 

韓非子「孤憤篇」にこのような一説がある。

「智者は策を愚人に決せられ、賢士は行を不肖に程(はか・量)らる。」

 簡単に言うと、智者と相談する機会を得ながら、その智者の意見について、側近の凡人に相談し、賢者に出会う機会に恵まれながら、その賢者の印象を、側近の凡人に尋ねるという。

 これは、日本のムラ社会の悪いところに酷似している。素直に受け入れば良いものを、逐一、変化を異端とし、画期的な発想を規格外と恐れる仲間に相談しているのである。

 これでは、合理的で賢い治世を望むことは難しい。

 

 「智に働けば角が立つ。」習慣は、日本だけにあるものとは言えないが、日本人はとても保守的である。異端や規格外な発想をあまり信用しない。日本という国が発展したのは、いわゆる猿真似からのアレンジに優れていたというもので、アメリカのような、全くの0から1を生み出すような発明に縁はない。

 話は変わるが、先日、YouTubeで、これから200年の世界各国の栄枯盛衰についてGDPを尺度に予想したグラフが紹介されていた。グローバルサウスが発展して、中国ですらランクを落としていく、日本は間も無くベストテンからも消えていく。しかし、面白いのは、アメリカで、200年間ずっとトップに君臨する。あくまで、その人の計算や推計による予想だが、私は彼の国が、勝ち続けることに賛成である。

 まだまだ、人種や宗教による対立は残っているが、彼の国ほど「多様性」というものを取り入れている国は他にない。闇鍋を見るようなカオス的発想のるつぼ。あくまでイノベーションを起こすのは、そのほんの一部の発想だ。途方もない数の空クジの先にある。しかし、それでも当たりクジを引けるだけの土壌・器のデカさがある。だから、次から次へとイノベーションが波打ち際のように飛沫を上げ続けるのだろう。

 

 どんな馬鹿げた発想が世界を動かすかわからない。みんなそのことには気づいている。

 しかし、日本人の性格は、馬鹿げた発想はもちろんのこと、ある程度、根拠やエビデンスを持つ有益な発想ですら耳を傾けないところがある。正直、基礎教育が成り立っていない人の話まで聞く必要はないと思っているが、智者や賢者の話は耳を傾けた方が良い。

 ここでいう智者や賢者とは、著名な学者や政治家のことではない。もっと小さな世界で考える話だ。例えば、職場における問題点を指し示し、解決策を献策する者。つまらぬ争いをしている人間に、教養を活用して、一段高い立場から、つまらない争いであることを諭す者。不平等や理不尽が蔓延っているのなら、理非曲直を語りこれを正す者。

 だんだん、気づいてくれると嬉しいのだが、いずれも悪いことをしていないのに、「角が立って」忌避される存在だ。

 問題解決・紛争解決・公明正大。一体何が気に食わないのか?

 これが日本人最大の難点だ。

 後日、日本人が、外国人や障害者といった、多様性を受け入れる上でどうしようもない問題を抱えていることについて論じる予定であるが、その前に同類の日本人同士でも、自分のコミュニティに属さない者なら、いかに自分より頭の良い者であっても素直にその言に従えないという、KUSOみたいなムラ根性を叩き潰さないといけない。

 そして、それは、ムラ意識をカモフラージュにした、敗北をも認めたくないただのプライドなのかもしれないことに気づくべきである。

 

 結局。「智に働く者」はそれを認める者にのみ、みそめられ、活用され、彼らだけが、その恩恵を享受する。場合によっては、その利益は国外に流出しているかもしれない。

 

2 鶏鳴狗盗(けいめいくとう)

 史記

 戦国の政治家、猛嘗君は、たくさんの食客を抱えていた。中には、鶏の鳴き真似が得意な者や、猿のような動きを見せ、さらりと財布をスルという特技を持つ者もいた。世話をする家人は、「あんな人たちが何の役に立つのやら。」主人の物好きにすっかり呆れていた。

 しかし、彼の国に政変が起き、危険が迫ったとき、このくだらない特技を持つ二人が、見事、猛嘗君を脱出させ、後に政権に復帰させる。

 どんな個性が役に立つかは、高度に不可思議なものだ。

 

 知り合いが勤める大企業には、変わり者がたくさんいるらしい。何が何でも持論を曲げない人、一日中ぼさっとして、全くアポを取ろうとしない営業担当、社内の応接で客と話すときは、いつもビクビクしている、端末操作がまるでできない。なぜか毎日叱られている。

 なんで、こんな人たちが、一流の大企業に居られるのだろうと不審に感じていたらしいが。不思議と大富豪のファンがいたりして、ノルマを落とすことがない。

 彼女は、営業の「正攻法」は、相手のニーズを素早く読み取り、十分に蓄えた商品知識を組み合わせて、お客さんにとって最も有利な選択を薦めることだと考えていたようだが、お客さんは自分の思い通りの選択はしない。

 よくわからない、自分には無駄としか思えない商品に興味を示したりする。そして、なぜか、前述の不思議な従業員にこれにやたら詳しい人がいたりする。

 営業マンが息つく暇なく喋くりまくり、まるで話題のつきないのを面白がるようにいつまでも聞いていられる客、逆に、客が、どうでも良い世間話を何十分しようとも、相槌を打って聞いてくれる営業マン。人の心は何に鷲掴みされるかわからないのである。

 確かに、正攻法というものはあるだろう。それで平均点は取れるだろう。しかし、人の心情は方程式では割り出せない。何が功を奏すか?それは高度に不可思議なのだ。

 

 「ロングテイル」と言う言葉をご存知か?ブロントザウルスの胴体を「売れ筋」とし、尻尾を「ニッチ」と捉えた時、しっぽは、胴体よりも体積が多い可能性があるらしい。一流の競争社会ともなれば、ニッチを捉える個性もまた重要なのである。

 いかにして、跳ね上がる個性を組織内に保有し、かつ、他の社員の福利に差し障りが無いようにするか?それができてこその一流企業なのだろう。

 

3 ペルソナ

 先日、インボイス制度について書いた「王様は裸だ」を読んでくれた方から、「ペルソナ」という言葉を聞いた。「他人から見た自分の姿」という意味だそうだが、他人に自分の意見を聞いてもらおうとする場合、自分が今どんな表情をしていて、相手にどう見えているか、という「ペルソナ」を意識することが重要だという。

 ブログや、自分主催の講習会などの場合は、そんなに気にする必要は無いそうだ。それは、客が離席する自由があるからだそうで、インボイス説明会のように離席し難い場で、持論を語るには、「ペルソナ」をよく意識するべきだとのこと。なるほど面白い話を聞いた。

 

 SDGsが語られるようになってから、企業も行政も幾らかの努力はしている。

 私の職場でも教材が配付され、自習や研修も受ける。しかし、残念ながら、うちの組織には「ペルソナ」が見えていない。

 時折、この教材は誰が作ったんがというほど、誤解の塊を一生懸命語っているテキストがある。これについても後日例を挙げて、詳細を話そうと思うが、とにかく、やるならちゃんと知識人や専門家にチェックしてもらえ!と言いたい。形だけのSDGsなのである。ちなみに、SDGsを日本語に訳せる者は、2割も居ないだろう。

 自分の思い込みや、誘導したい情報のみを配信して、例えば「WLB」とは、夫が育児に参加する事(だけ)だと誤解させたりしている。この辺りの問題点は、いずれまとめて論じたいと思っているが、5000文字は超える。

 

 それから、「面談」という機会が増えて、平民の話も聞いてもらえるようになったが、どうやらここでも「智に働く者は角がたち」、智者や賢者は本当のところを話さないようだ。

 代わりに、同じ仕事ばかり長くやっているので無駄に力を持っている人や、無能だが、作り話だけは得意な人間が、上司を上手に誘導している面がある。

 陳情は、必ず真偽を正確に抑えること。他人の批判については、真偽を確かめることはもちろんのこと、必ず、相手の言い分にも耳を傾けることは最低限の鉄則だ。

 賢者や智者に話されるにはどうすれば良いか?それは、自分でこれを見つける事である。

 多彩な職をそつなくこなし、人を性格ではなく得意分野で振り分ける。そして、何より誠実で職務に忠実である。ただ一つ声は小さい。

 これらを登用すると、古参や既得権者からは角が立つだろうが、それこそムラ社会的風潮を拭えず、本来の目的を見失っている今の自分たちの「ペルソナ」を見つめて改心する時である。

 

 「智に働けど角立たず」。そう言う国にならなければ、この国は、世界が目指すSDGsの目標で、ことごとく順位を下げ続けるだろう。

マルク・シャガール「7本指の自画像」

 シャガールは、ロシア出身の画家。印象派からピカソという常人が理解できる最終形に至る絵画の変遷期の中で、かなりゴールに近い側に位置する。市立図書館の実物大レプリカを初めて見た時から忘れられないインパクトがある。

 パリのエッフェル塔が。画上の風景は、故郷の景色で、彼の作品の象徴と言える馬が描かれている。

 3項で紹介した、感想で、「ペルソナ」の話を聞いた時私は、この絵画を思い出した。

 バックに見えるのはエッフェル塔で、画上には、故郷ロシアの風景。そんな郷愁に浸る、自分自身を他人が見たらどう見えるのか、その「ペルソナ」を表現しているように見える。

 それを「苦悩」と捉える人もいるが、私には、躍動感と活力を感じてしまう。このどう見ても気持ちの悪い絵が誰かに気に入ってもらえるという自信。それだけで天晴れだ。

 私は、彼が「智に働いている」場面だったとしても、何も不快感を感じない。

 異端や規格外に不快感を感じていると、いつの間にか、くだらないものを大事に握りしめているかもしれない。