説難

マグナ・カルタ

 高校くらいで習うのだろうか?知る人ぞ知る、世界最古の憲法である。

 習ったころは、受験のための暗記用語の一つくらいの意識だったが、30歳を過ぎて、立ち読みした本(痛快!憲法学:小室直樹著)から、この法典が、世界最古の憲法と言われる本当の理由を知り、それ以来、歴史上の人物のように、この法典がお気に入りである。

 

 そもそも、憲法とは何か?

 私のそれまでの知識では、「法律の中の法律」「国のあらましを宣言したもの」といった感覚で、漠然と「法律の中で最も強い法律」と考えていた。

 確かに憲法はその国の最高法規であり、これに反する法律は無効である。

 しかし、その知識だけでは、憲法の本質を理解しているとは言えない。

 憲法とは何か?

 憲法とは国家権力を制限もしくは統制するために存在する。

 現行の日本国憲法では、国民の義務や権利について記述されているところが多く、国民に対して義務や権利を示した法律であるかのように勘違いされがちであるが、憲法とは国家権力に対して、権限と義務を指し示しているものである。

 

 「立憲主義」と呼ばれるこの考え方は、憲法を議論する上では絶対不可欠な認識なのだが、私は、大学でも職務上でも、何度となく憲法を学んで来たが(それこそ砂川事件などディープな話まで)、30歳になるまで 、その立憲主義という考え方を知らなかった。そして、その後も、情報番組で護憲派的なコメンテーターがたまに発言するのを聞くくらいで、全くそのフレーズや意味合いが話題に上がることはなかった。

 私が無知なだけで、常識過ぎて今さら言わないのか?と感じるほどであったが、私の周囲に立憲主義を説明できる人間はほとんどいなかった。一応彼らもそれなりの大学を出て、法に仕える者として法理に明るい連中である。

 年に四、五回は、憲法改正を巡る話題が取りざたされるのに、こんな根本原理が無視されていて大丈夫なのか不安になる。

 

 表題のマグナ・カルタは、そもそも、1215年、時のイングランド王ジョン王に対し、統治を受ける貴族や地主が、王の権利の濫用を防ぐために、その権力の範囲を規定し、権力を制限するために作成されたものである。

 (参考:このページが詳しいhttp://www.y-history.net/appendix/wh0603_2-007.html)

 その後、アメリカ独立宣言、アメリカ合衆国憲法の起草においても多大な影響を及ぼし、我が国の日本国憲法においても、立憲主義の理念は脈々と引き継がれてきた。

 私が、マグナ・カルタが大好きでたまらないのは、別にその六十数箇条を全て把握している訳ではないが、それが、現代の余計な修飾がなく、国家権力を統制するという、憲法の純粋的な目標のためだけに作成された、いわば憲法のアーキテクト(ゼロ号機的存在)であるからである。

 

 遅れる事400年、同じイングランドからトマス・ホッブスが登場、人類社会における国家権力の必要性を唱えつつも、その著書の題名「リヴァイアサン」は、伝説の怪物の名であり、国家権力を歯止めなく認めると手のつけられない怪物となる事を示した。

 

 国家権力には、憲法という鎖が必要なのである。

 

 国民が、治安や国際情勢の不安から、より強力な国家権力を求めるのであるならば、鎖を緩めるのも、正しいと言えば正しいが、今のように、内閣総理大臣や一部の政党から言い出すのは、本来筋が通っていないのである。彼らは、言ってみれば、マグナ・カルタ制定時のイングランド王(ジョン王)の立場であり、「どの口がいうとんねん!」という話なのである。

 それでもまあ、自民党は、この国の本当の自主独立のため、自主憲法を欲するのが党是であり、それに賛同する者が集まっているのだから、改憲を望むのも一つの考えと認めましょう。

 しかし中身もろくすっぽ理解していない有権者に、「アメリカに押し付けられた憲法なのでダメな憲法」という触れ込みで宣伝するのはやめてほしい。

 日本国憲法の起草原案の出所については諸説有り、機会を設けてその誕生の秘話を話せたら良いとは思っているが、少なくとも、当該憲法交付時においては、近代の憲法理想の結実とも言われるワイマール憲法に、更に平和主義を付け加えるという、ウルトラC的進化を遂げた、最も成熟された最新型の憲法であったことは、疑う余地はない。

 ただ最新型過ぎて、考え方が終戦時か終戦時以前の状態のまま70年以上遅れている諸外国とは、折り合いがつかないのだ。

 古いのは日本国憲法ではなく、いつまでも武力を最上の解決策と信じている世界の大半の人類なのである。

 

 ただ、どっちが遅れていようが進んでいようが、現時点で齟齬があるのなら、憲法改正が本当に必要かどうかは意見が分かれるところとなるだろう。

 しかし、少なくとも「立憲主義」の考え方からすると、主権者である国民の世論からでなく、一部の政党の施策として改正論が出るのは理屈が合わない。単に国民に行政の長を付託されたに過ぎない臣下である総理大臣や一部の政党が、己がやりたいことがあるだけで、国権のなんたるかを定義し、自分たちの暴走を抑えるために存在する縄をほどけと言っている理屈になっていることに気付いてほしい。

 わかりやすく言うと、

 「私達からこんなこと言える立場ではないのですが、これ以上、諸外国になめられるのは耐え難いので、この手錠を外してくれませんか?」

 「その昔、西欧の力に屈しないためだったとは言え、国民を騙し、支配地の庶民を虐げ、自国だけで350万人、アジアに1000万人の死者を生み出す大惨事の原因となりましたが、今度はうまくやりますから、いい加減、縄を解いてくれませんか?」

 と言うべきで、その上で、国民の理解と総意を求めるべきなのである。

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「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢の肖像」

 印象派の巨匠、ルノワールの傑作。

 その美しさに目を奪われるが、被写体のイレーヌ嬢は、なんと当時8歳。

 とてもそうは見えないが、手元の辺りのあどけなさなどから、有り得るともいえる。

 絵画において、実在する被写体は憲法であり、キャンパスはその解釈の場である。

 絵画も進歩の過程で、被写体を忠実かつ精密に描くことが正解だった時代から、解釈を広げた表現が模索され、最終的には、ピカソのように、原型がまるで無視されたかのような絵画に至る(ちなみにピカソのデッサンは、極めて忠実で、かつ精密である)。

 印象派は、その中間に位置し、被写体というコードを守りつつ、表現の限界に挑んだ集団である。

 8歳という、素朴で派生のしようの無い被写体を、ここまで美しく表現できた、ルノワールの優れた観察眼と技術に感銘を覚える。

 翻って、ろくにそのコードも理解できていないのに、「被写体が悪いからうまくいかないのだ」と主張して、「被写体を変えれば、良い絵が描ける」と短絡的に考えていては、おそらく、いつまたっても、美しいものからは無縁であろう。

 

想像

 「百聞は一見に如かず」とは、古今を通じて名言だと思う。

 

 先日、家族で香港・マカオに行ってきた。

 ちなみにうちはそんな金持ちではない。10数年ぶりの家族旅行だ。

 海外に限らず、旅行をすると、この「百聞は一見に如かず」を圧倒的に痛感できる。

 インターネットの普及により、かなり具体的な情報を得ることができるようになっても、情報から、想像していたものと大きく違っていて感激するのはもちろんのこと、想像していた通りであっても、「本当に有るんや!」と感激できる。

 さらに、海外旅行ともなると、沖縄や北海道に行くのと飛行時間がそう変わらなくても、私のような庶民は、言葉が通じないというそのシチュエーションに、テンションバリ高なのである。

 そして、それはおそらくネットでの情報だけでは実感出来ないものであろう。

 

 「想像」という言葉は、実は韓非子55編から引用された故事成語として有名である。

 韓非子55編に[解老篇]というのが有り、「死象の骨を得、その図を案じ、その生を想う。」という言葉からきている。

 その心は、当時の中国では生きている象を見ることはできなかったようだが、時折、象の骨を発見することは有ったらしい。そこで、人は、骨と言う断片的な情報から、生きている象を「想像」したと言う。この「想像」という表現を初めて用いたのが、この一説であると言われている。

 もちろんこのような、断片的な情報から、他の不明瞭な部分を想像によって補ったものが、正確なものであるはずがないのだが、韓非子はここでその行為を全く否定していない。

 大いに「創造」を働かせ、後刻、大局を知る者(生きている象を見たことが有る者)が、思い違いや認識のずれを修正すればよい。としている。

 

 似たような説話に「群盲象を評す」というものがあり、こちらの方は結構有名だ。

 これも韓非子の出典とされていて、私も昔、書物で確かに読んだ覚えがあるのだが、投稿に当たり、改めて韓非子55篇の中を検索したが、見当たらなかった。

 

 説話の示すところは以下のようなものだ。

 昔の中国では、象と言う動物は滅多に見られない珍獣であった。

 ある実力者が、これを手に入れた際、試みに、数人の盲人(目の見えない人)を呼び、これに触れさせ、「それは何物かわかるか?」と尋ねた。

 

 足元を触っていた盲人は「これは切り株です。」と答えた。

 鼻を触っていた盲人は「これは蛇にございます。」尻尾を触っていた盲人は、「馬」と言い。耳を触っていた盲人は、「鳥ではないか?」と、答えはまるでまちまちとなった。

 この説話について、モノは、人の見方や立場によって変わるもので、合間見えないものだと説明する人が居るが、それは誤りである。

 この説話の意味するところは、仏法等でも盛んに取り沙汰されている比喩で、「それぞれの視点の過ちも、同じもの(例えば、道や真理)を求めて思考を巡らした結果であり、それぞれが尊い。だから、もし実像を知る者が居るのなら、補足してやればそれでよい。」というものである。

 

 「想像(イメージ)」することは重要な思考活動である。しかし、想像だけでは、無意味である。把握できるのであれば、「事実(ファクター)」によって、正確な事象へと「修正(リロード)」されなければならない。それが韓非子の説いた「想像」である。彼が、思考活動に初めて「想像」という文字を当てた。つまり、「想像」という言葉を創造したために、多方面で引用されている「群盲像を評す。」も彼の作品と勘違いされたのかもしれない。

 

 さて、かくのごとく、わずかな情報から思考により想像を巡らせるのは、決して悪いことではないと、古来より言われているようだ。しかし、一見の真実による修正もまた重要な活動であるとも指摘されている。

《結論》

 「百聞は一見に如かず」は、「(情報からの)想像」に対するアンチテーゼと思われ勝ちであるが、その原点をたどると、実は、両者は何れも同じベクトルのテーゼを示している。

 すなわち、「想像」は大いに奨励されるものであり、一見というファクターにより補完されることにより、更なる浮力を得ると言う事である。

 

 考えても見よ。私の手はそんなに長くはない。この香港旅行だって、いつかは行ってみたいと言っていた時から数えると25年もかかっている。

 さらに言うなら、逆に一見した程度で、まさか中国人にはなれない。

 生きている象を一見したところで、かの生態・棲家・好物を理解できるわけでもない。

 「一見」もまた断片的な情報に過ぎず、想像がその大半を補って、不確実とは言え、全体を捉えているのだ。

 思えば、今日の科学の発展は、大方その想像力を原動力としている。すなわち、想像力は、人類固有の能力で、人類発展の源であったのではなかろうか?

 そう考えると、「百聞は一見にしかず」は名言だが、「想像」はそれを凌ぐものと言えよう。

 

 さて、現代の一般庶民は、果たして「想像」の翼を広げているのだろうか?

 上司・同僚・顧客など、直接かかわりのあるものと対面する場面では、きっと、ある程度、頭を回転させて、先を見越す程度の想像は、常に駆使しているだろう。

 しかし、一会の顧客がその日の対応によって、どれだけの人にどれだけの影響を与えるのか?とか、所属している組織や団体のビジョン・戦略、さらには、この国はどこへ向かおうとしているのか?そんなことを想像しながら働いている人は、どの程度いるのだろうか?

 そして、ジョン・レノンのように all the people living life in peace(みんなが平和に生きている世界)なんて想像ができるだろうか?

 私は、できると信じている。

 一番広い宇宙は、人間の頭の中だからだ。

 しかし、そのためには、それを想像したいという積極的意思と、死象の骨のように、その取っ付きとなる情報が必要となるだろう。

 

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香港島・シンフォニーオブザライト」(向かいの九龍半島より本人撮影)

 今回の家族旅行では、各人が行きたいことしたいことを、一つは持ち寄り、それをミッションとして掲げていた。

 私を除く3人は、無事ミッションをコンプリートできたが、私のミッションは、音に聞く「100万ドルの夜景」を、山か高層ビルの展望台から見ることで、あいにく、天候に恵まれず、高所からの展望は叶わなかった。

 しかし、その日は、なぜか香港のクリスマス(日本より1か月ほどずれる)だったので、毎晩やっているという、香港島ビル群のライトアップショーがひときわ美しく、高所からの夜景も十分に美しいものであることを想像させてもらえた。

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ローヌ川の星月夜」フィンセント・ファン・ゴッホ

 この絵は、実際現物を見たことがあり、その時はあまり感動しなかったのだが、香港島のイルミネーションを見ていると、思わずこの絵が浮かんで来て、ゴッホの書きたかったものが急にわかったような気がした。

 なんじゃこりゃ?と思う絵でも、一応名作と呼ばれるものくらいは、ちゃんと記憶にとどめておくもんだな。感心した。

教育は国家百年の大計1:租税

 以前、就学前の幼児向けに税について説明するための人形劇があり、その脚本の募集に応募したことがある。

 

 ストーリーを簡単に話すとこうだ。

 「動物村のリスさんの家には毎日たくさんの子供たちが遊びにくる。理由はリスさんから、読み書き算数を教えて貰うためだ。しかし、噂が広がり、リスさんの家は満杯。見兼ねた村の大地主のタヌキさんが、自分が金を出すから、学校を作ろうと言う。

  ところが、その費用を計算してみて、その高額なことに、タヌキさんはショックを受け、寝込んでしまう。

 そこで、村の人たちは話し合い、それぞれが少しづつお金を出し合う事にする。

 そして、見事学校ができる。」と言う話。

 

 就学前の幼児にはとっておきのテーマだったので、評価され、次年度の脚本に採用され、記念品を頂いた。

 しかし、その後プロの脚本家さんが補正して、まあ一応創作者として、実際の脚本を見せて頂いたが、タヌキさんが費用におののき寝込んでしまうところはカットされていた。就学前の幼児に話しても難しいと判断したか?現実に金額の話をするのは、支障を感じたのだろうか?

 でも、わかる人にはわかると思う。

 そここそが、税金というシステムが必要な理由で、なぜこの世に税が存在するかという本質を示しているのだ。

 当時、私にも同じような年頃の子供がいて、そちらにはこのバージョンで話をしてあげた。すると、「学校ってそんなにお金がかかるの?」という質問を受けた。

 この質問を引き出すことが重要である。

 当たり前のようにある学び舎、街を走るパトカー、救急車、信号、横断歩道。どれもただではないのだ。気のいいお金持ちが、札束はたいて買ってくれたものでもないのだ。しかも、もっと重要なことは、一人や二人のお金持ちが気前よく札束をはたいてくれたところで、信号機が2、3本立てば良いという、とんでもない現実を彼らには知っておいてもらう必要が有るのだ。 

 

 私は答えた。「学校を建てるのに大変なお金がかかる。それは、とても一人や二人ではどうしようもできないくらい。覚えておいてほしいことは、なぜ税金が必要かというと、みんなが楽しく安全な街を作るには、一人の力じゃ、結局何もできないということで、だからみんながお金を出し合いということだ。」と。

 

   もう一個作っていたが、半分どっかで読んだ絵本のパクリなので、応募は控えた。

 「象は象一頭、ネズミはネズミ一匹の仕事をすれば良し」

 という話で、もともと感慨深い話なのだが。我ながらとても上手く租税教育向けにアレンジできたと思っている。

 「どうぶつ村で、大事な橋が嵐で流された。村人達は、総出で橋を作り直す事になった。力持ちの象さんは、丸太を運び、ネズミさんは釘を運んだ。器用な猿は、縄を結び、トラはハンマーを振り下ろした。 

 おかげで、立派な橋ができたが、作り直してみて、前の橋が流されてしまったのは、重い動物が通り過ぎて、支柱がめり込み、橋全体の高さが下がってしまうことが原因だとわかった。

 そこで、象さんは、一日一往復しか橋を使用しないで欲しいと頼まれた。

 横で聞いていた象の子供が激怒した。

 「お父さんは一番重い丸太を何本も運び、誰より橋のために働いた。ネズミさんなんか釘しか運んでないのに、何度通ってもいいんだろう?それなのに、お父さんが一番使ってはいけないなんておかしいじゃないか!」

 しかし、お父さん象がこう言った。

 「坊や、お父さんは誰よりも働いたわけじゃないよ。確かにたくさん汗もかいたけど、ネズミさんほど辛くはなかった。ネズミさんは、汗びっしょりで、ゼーゼー言って、倒れないか心配したくらいさ。

 回数だって気にする事はない。お父さんは浅瀬ならあの川を渡るだけの力があるからね。まだ渡れない坊やが使えるなら十分さ。そういえば、カワウソ君なんか、使う時などないはずなのに手伝ってくれたな。

 みんなが幸せになるには、誰もサボらず、でも誰も働き過ぎず、ただ象は象一頭、ネズミはネズミ一匹の仕事をすれば良い。そういうことさ。」」

 

 察しの良い人には想起してもらえると思うが、累進課税を説明しているものである。ちょっと就学前の子供たちには難しいかもしれないが、どこかで絵本になっているくらいだから、きっと、子供たちの情操教育の中に組み込まれ、どこかでその知識がつながる可能性を信じて、是非、寝床話に加えてほしいと考えている。

 

 それにしても、秋の「税を知る週間」ともなると、「税金」と習字で書かせて、学校中に貼りまくって、作文を書かせているが、果たして、それでどれだけの税金の本質や重要性が、ちゃんと子供たちに伝わっているのだろうか?

 まるでどっかの国がやっているように、意味も分からず君主を仰めさせているようで、すこぶる見苦しい。

 社会インフラがなぜ税金で作られるのか?なぜ、所得税だけ累進課税なのか?税金のなぜを考えるのはいいことだ。小学校も高学年くらいになればもう少し判断がつくだろう。さっきの童話なら、低学年でもわからせることができよう。

 気持ちの悪いマスゲームをさせるはそろそろやめてみては?

 

 ただ、この点については、大人だって実は怪しい。大人も税金の本質を忘れているんじゃないか?いや、そもそも、教えてもらわずに成長して、ただ税務署に言われるから払っているだけじゃないだろうか?

 先ほどの説話も、確かに累進課税の話をしているが、決して富裕層にのみ訴えるつもりはない。みんなが幸せになるために、富裕層も貧困層も応分の負担を担うことが、民主主義社会では重要なのだが、そう捉えることができただろうか?

 そうだ、そうだ、象はたくさん税金を払うべきなんだ!と短絡的に感じているようなら、それは誤りである。

 やむを得ない事情で福祉を受けるのは、仕方がないが、擬態して福祉を受けている人の存在は憂慮すべきである。

 日本国憲法30条

 国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。

 日本は、洗練された民主主義国家であるが、この義務を果たさない限り、その主権を主張することはできない。特殊事情を持つ者のみが受けられる福祉制度を、それを擬態した者が受けている人々に主権は保障されるべきでない。また、そのような行為が漫然と放置されるようでは、まじめな納税者の公正と言う、権限が保障(担保)されない。

 

 高福祉国家で知られるフィンランドでは、「良き納税者を育てる。」教育が進んでいるらしい。

 しかし、現在の日本のように、その高福祉がザルのように行われているのでは、優秀な納税者を育てる事は難しいと考える。日本に必要なのは、その問題点を認識し、その解決策を模索する優秀な「有権者」である。

 そして、確立・維持しなければ、自らの負担の公正が危ぶまれる、租税と言う分野を十分に理解する租税教育は、その入り口として至って重要だと考えるし、それは、就学前の子女を対象にしてでも初めておく戦略だと心得る。

  何しろ、有権者の責務の本質は、収税された税金の使い途を決める事だからだ。

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『マタイの召命』

 バロック期(16世紀末から17世紀頭)のイタリア人画家、カラバッジョ出世作。 

 イエス・キリストが存命のころ、徴税人(今でいう税務職員)という嫌われ者の仕事をしていたマタイは、「どうせ自分は嫌われ者。神など信じるだけ無駄。」と考え、その頃、イエスが喧伝していた「神の国」など信じていなかったが、イエスの神秘的な誘い(召喚)を受け、改心し、十二使徒に加わる。

 しかし、まあ、国の支えの基(もとい)なる、明日の税務を担う税務職員が、こんな時代では嫌われ者だったんですね。

 小学校の壁に、「税金」の習字を張りまくる習慣は、税金は何だか知らないにしても、社会に必要なものだという考え方を定着させ、徴税人を悪人とする考え方から、マタイを救ってくれた点ではよかったと言えよう。

 

 

説難

1 韓非子

 紀元前3~5世紀。秦が中華を統一する前夜、十数国の小国が生き残りをかけてしのぎを削っていた。そんな中、国を守り繁栄させ安定させる手法を求めて、多くの政治思想とそれを唱える思想家が生まれた。

 俗に言う、諸子百家である。

 なかでも、論語を記した孔子を始め、老子孟子荘子くらいまでは有名だろう。

 その中に、韓非子と言う、知る人ぞ知る名士がいる。

 義理・人情を否定し、理屈と法によってのみ国を治めるというという徹底した合理主義を唱え、同じく、適正な統治のためには感情は無用と、強く唱えたベネティアのニッコロ・マキャベリになぞらえて、東のマキャベリと呼ばれている。

 韓非子の著書は、韓非子55篇と言う非常に長いものであるが、その中には、現代でも通用するたくさんの教訓が説話形式で綴られている。

 韓非子と言う名前は聞いたことが無いにしても、「矛盾」の語源や、守株、逆鱗、完璧、想像、蟻の一穴、こういった言葉の語源が、この韓非子55篇にあると聞くと驚く人も居るだろう。

 なんでそんな有名人が、孟子荘子より知られていないのか?その点については、追々話していこうと思う。

 

 ところで、この韓非子55篇の一篇に「説難」と言う項目がある。

 この中で韓非子は、どのような良いアイディアでも、権力者に受け入れてもらうまでには様々な障害があり、なかなか聞き入れてもらえないことを説明している。

 権力者の心を読み、彼の欲するものに合わせて、提言することを求めている。

 しかし、その続きの中で、場合によっては身の危険を伴うこともあるという。例えば、同僚やライバルの妬みや嫉みによる妨害である。

 

 韓非子は、その著書にいたく感銘した秦の始皇帝に呼び出され、直接著書の解説を求められる機会を得る。当時、中華統一を目前に控えていた秦の官僚に抜擢される大チャンスである。

 しかし、皮肉なことに、自らの著書に記したように、己の利益を保全しようとする同僚の李斯(同じく荘子に学んだ同門の兄弟弟子)の讒言(うわさ話)により、始皇帝の不興を買い、最後は自決に追い込まれる。

 

2 現代の説難

 韓非子を始め、いくつかの書物を読み漁る中で、不肖ながら、私ごときにも諸子百家のように、当世を鑑み主君に訴えたき義、あるいは多少社会の効用に貢献できそうな独創的なアイディアと言うものが浮かんできた。

 さて、これをどこへ持ち込めば効率的かと言う事になるのだが、それはやはり時の権力者と言うのが、もっとも効率的と考えられる。

 韓非子の時代、権力者と言えば君主つまり王様と言うことになるのだが、これを現代に置き換えると、権力者とは何を指すのであろうか?一見国会議員や官僚、気の利いたところでマスメディアなどと言う答えもあるだろうが、制度的には民主主義である以上、国民一人一人が権力者なはずである。

 しかし国民一人一人が君主と言うのであれば、これはまた、扱いにくい代物だ。

 賢者もいるだろうが、空気に流され、ろくに思考しない者も多い。国家・社会のことなど語りだすと、煙たがられるのが落ちだ。本心から国の行く末を憂う国士の声は、いつも吹き荒む風の中のように感じるのは、私だけだろうか?

 韓非子は、このように、君主が君主の自覚を持たず、良案名案に耳を傾けようとしなかったことを「説難」の一つとして上げている。

 そして、もう一つ、重要な説難として、「君主が情報を遮断され、奸臣(五蠢(ごと)と呼ばれるが、後日詳しく取り上げる。)にとって都合の良い情報しか入ってこない状況」を挙げているが、これはまさしく、今の社会で言う所の、「情報公開の欠如」若しくは「情報操作」のことである。

 ちなみに、この原稿を書いている2018年1月ころ、時の安倍総理は、森友問題や加計学園問題が発覚し、火消しに奔走していた。どういうわけか、私たちが最後の砦として期待する中央省庁が、歯切れの悪い答弁を繰り返している。

 特にショックだったのは、官僚の中の官僚である財務省事務次官の体たらくだ。彼には、公務員の信用失墜行為の罪で刑務所に入ってもらいたい。

 いずれにしても、現状では、偏った情報のみを与えられ、一部の臣下とその身内だけが利益を享受する、適正公正を欠いた行政が行われているが、どうも主権者たる我々はそれについて正確な情報を得ることができていないようだ。

 韓非子は、その著書の中で、君主が君主の自覚を持たず、情報を正確に掌握しなかったためにほろんだ国家の例をいくつも挙げている。

 

 私の説難は韓非子の時より険しいかもしれない。

 民主国家に生まれ落ち、昔に比べれば、言いたいことは自由に言えるし、このようなSNSのように、持論を訴えられる場も多い。

 しかし、聞く側はどうだろう?少なくとも今の日本において、自分が君主であるという自覚を持っている人がどれほどいるだろうか?

 

3 民主主義って

 民主主義は、人類の政治形態の最終形で、争いの無い、洗練された文化的な、理想の世界へと人類を導いてくれるものと信じているが、その道は、君主制よりもずっと難しいのかもしれない。

 そもそも、民主主義においては、自分が主権者であり、権力者であると同時に、責任者であることを自覚しているかということから怪しい。「え?僕って王様だったの?安倍さんて、僕の部下だったの?」。そのような認識では、一国家の安寧すら危ぶまれるのではないだろうか?

 しかし、韓非子は、権力者に多彩な才能や卓越した能力を求めない。ただ、賞罰の権力を離さないこと(二柄と言われる彼の思想の重心の一つであるが、これも後日投稿する)と、説難を廃して、見て、聞くこと。これだけができればいいという。

 私はこれから、この著作で、いくつかの提言を示したいと思っているのだが、そのためには、並行して、当世に臥する説難を排するため、民主主義下において、主権の何たるかについても提言していく必要が有るかとも考えている。

 おそらく、それほど難しいことを理解する必要は無い。自分たちが主権者であり、勝手に妙なことをしているような連中が居たら、処罰できると言う事がわかるようになれば十分だろう。

 今回は初稿であるので、まず、自分が主権者であることを自覚し始めれば、説難に妨げられているものがいろいろ見えてくるのではないだろうか?という点のみ述べておこう。

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ラス・メニーナス」 ベラスケス

 中世スペインの宮廷画家ベラスケスの傑作。日本語で女官(今で言うメイド)たちと言う題名なのだが、登場人物がたくさん描かれている。

   「さて、この場を実効支配している登場人物は誰でしょう?」と問えば、実は結構、知れば知るほど深い問いであることに気づくでしょう?

 女官をはべらす王女マルガリータ?胸を張って尊大に立つ画家ベラスケスの自画像?いいえ、この場を支配しているのは、この絵画の制作を依頼したマルガリータの父フェリペ国王である。

 出てないじゃん!

 いえ、それが、出ているのです。マルガリータの左上の鏡に、一連の作業風景を鑑賞するフェリペ国王夫妻が。

 国民主権も、目立たないところで目を光らせている、このようなものであるべきなのかもしれない。

今週のお題「2018年の抱負」

 自分の考えが、「あまり人に知られていない貴石ではないか?」そんな「マイニング妄想」から抜け出すには、その考えを、なるべく多くの他人に聞いて貰う必要があった。

 アカウントを取得して、半年以上放置していたが、ようやく初号記事を投稿できた。

 気合が入りすぎて、無駄に文章が長くなったので、見かけた人に、ちゃんと読んでもらえるか?とても心配だ。

 しかし、それより、次の記事の投稿が、また何ヶ月も開かないか心配だ。

 世の中に対して言いたい事はたまっていて、ネタは豊富なので、文章の稚拙は気にせず、どんどん投稿していきたいと思う。