説難

大器は晩成、大音は希声

 

Cyndi Lauper  衝撃のファーストアルバム「She's So Unusual」

1 He's so unusual

 1980年代、松田聖子中森明菜を始めとするアイドルが大活躍、チェッカーズがデビューし、日本音楽会は、最盛期を迎えたと言えよう。しかし、そんな邦楽全盛期に負けず劣らず流れ込んで来たのが、80‘sという今では伝説となっている洋楽の大流行だ。

 当時中学生だった私は、前述したような、歌の上手な日本のアイドルたちの楽曲も、嫌いではなかった。しかし、性格が捻くれていたせいか、周囲の当然のように熱狂する姿に、素直に従うことができなかった。何か人とは違うものを求めていた。その欲求に応えてくれたのが「She's So Unusual」(彼女は普通じゃない)だった。

 当時、ファーストアルバムだと言うのにシンディー・ローパーは30歳。中学生からは、おばさんとも見える彼女が放つ、常人離れした歌唱力とレインボーに変化するボイスに、私は初めて歌手も楽器の一つであることを思い知った。そして、30という遅れたデビューに隠された何かがそう感じさせたのだろう、同じく80‘sの扉を開いたと言える、マイケル・ジャクソンやマドンナですら、表現できていない、強烈な個性を楽曲に吹き込んでいた。
 中でも、アルバム終盤に収録されている楽曲「He’s so unusual」は、革命的と言えた。蓄音器風のレトロな音調でしかも、モノラル再生で、1分半、とある少女のくだらない愚痴が語られる。

 Oo, what that boy knows He's up in his Latin and Greek
 But in his chicin' he's weak  cause,
 When I want some lovin' And I gotta have some lovin'
 He says 「please! stop it please」
 he's so unusual....

 「彼ったら何でも知っているのよ。ラテン語ギリシャ語もお手のもの。
 だけどそんな彼にも苦手なものがあるのよ。
 彼といいことがしたくなってちょっぴり愛し合おうとすると
 彼は『お願いだからやめてくれ』って言うの。
 彼ってとっても変っているの…」

 銃声が2発鳴って、アルバムラスト曲の「Yeah Yeah」のイントロがリズミカルに流れる。

 シャッフル再生しか知らない現代っ子にはわからない痺れる演出だ。

2 We‘re so unusual

 本来、本稿は本Chapter1の最終稿として投稿し、そのChapterタイトル「unusual」について、種明かしをするためのものであった。
 しかしながら今回の孤憤篇においては、第1稿から重い社会問題を取り扱い過ぎて、いささか疲れが出てきた。
 そもそも私は、現在の政治や社会に不満ばかりを抱えている革命戦士でもなければ、つまらない不平屋でもない。
 私は保育園から大学まで公立で、今は税金から給料をいただいていてこの国には、恩義こそあれ恨みなど毛頭無い。コロナの時は私も罹患したが、迅速かつ手厚い対応に感動した。
 先日のサミットのゼレンスキー大統領のサプライズ出席はマジで感激した。多くのマスコミが言うように、グローバルサウスを味方につける抜群のタイミングだった。日本の外交力も捨てたもんじゃ無いと感心している。
 しかし、だからこそであろう、本来の主権者たる諸国民が一部の五蠹(よからぬことを企む者)によって、その勤勉がもたらす成果物を巧妙に搾取されていく様を見過ごせないでいるわけだ。

 Chapter1のタイトル「unusual」は、普通じゃないという意味で、意訳すれば「非常識」とも言い換えられる。しかしてその心は、「あなたの常識は本当に正しい?」である。

 前述の歌詞の中で、おしゃまな女の子の常識は、初な大学生にとっては非常識であった。

 この国は確かに安定している。治安も良い。おばあさんが殺された途端に、ルフィー1派を掃討したところなんて痛快だった。しかし、どこか貧困を感じることはないか?なぜか豊かではない。働いても働いても楽にならない。
 それは、絶対当てる気のないミサイルに怯えさせて、軍事費を増大させたり、産めよ育てよの掛け声の割には、子育てパートタイマーが最も集中する収入ベルト、100万円から150万円に、群がるように保険料・年金・地方税を課したり、このままでは年金制度は破綻すると将来の不安を煽っては、せっせと貯蓄させ、その貯蓄は国の借金に化けている。
 消費税のインボイスの問題は、結局、免税事業者の納税8割引などと言うウルトラCを飛ばして、骨抜きにしやがった。元来これまで、払いもしていない免税事業者への支払いについて、課税仕入として控除し、実質益を得ていたのは、中小の下請業者じゃなく、元請けの大企業である。インボイスが導入され、その益税が失われる時、これを贖うのは大企業の務めなのに。

 とまあ、こんな具合に、私たちは、不勉強なため、一部の人間が不都合な情報を操作して、不当な搾取をする、unusualな世界に生きている。

3 I’m so much unusual

 Chapter1では、もう2、3点、世のunusualにスポットを当てたいと考えている。現在執筆中の「少子高齢化問題にアバダケダブラ(アブラカタブラ)」では、年金制度に回天的な(天地がひっくり返るような)解決案を示そうとしている。しかし、ビジョンは捉えているのだが、そこへ繋げるストラテジー(道筋)が、なかなかまとまらず、もう2ヶ月くらい座礁している。

 もともと、この孤憤編を執筆するにあたっては、かなり葛藤があった。
 以前も話したが、私は多弁症の治療のため、不眠症に悩む方々が欲しがる市販の導眠剤の、数倍の威力のある睡眠薬を1日6錠処方されている。常人では起きていられる事が不思議なくらいなのに、それでも私の頭の中は、無駄に回転を続けている。
 1年足らずしか従事していない業務なのに、効率化案を4つも5つも考えている。まさに病気だ。それが、口からはみ出て来ないのは、気狂い並みの薬物療法のお掛けで、詳細な立案ができないためだ。
 私のような、中途半端な士官候補生崩れは、どこの部署も願い下げで、どうしても人手不足の部署を転々とすることになる。当然どこへ行っても新参者で、「何かをやらかして道から外された奴」という看板付きだ。だから、まさか、業務の効率化案など唱えた日にゃあ、総スカン間違い無しであり、お薬さま様様と言う訳なのである。

 その代わり、文章力は完全に失われた。
 前回投稿の「借金王国万歳」については、仕組みそのものは単純な話なのに、興味を惹くことや、エビデンスを示すという約束事を意識し過ぎて、5400文字にもなってしまった。

 どういうわけか、私のブログのアクセス数ダントツの1位は、前作の序盤に書いた「マグナ・カルタ」だ。まあ私が憲法学に目覚めるきっかけをくれたエピソードを語っているもので、興味を持ってもらえることはとても嬉しいことである。私自身、先日読み返してみたが、我ながら、上手くできた文章だと感心した。しかし、その文字数に愕然とした。

 2800文字!

 執筆中の「少子高齢化問題にアバダケダブラ(アブラカタブラ)」は、主眼の年金問題解決策に入ろうと言うところで、4400文字になっている。まだまだ文章の練り直しが必要だ。やれやれ。

 主治医は、私の才能を高く評価していて、やたらと退官して独立することを勧めてくるが、彼以外にその選択肢を薦める人はいない。私はあまりにもunusual過ぎて、きっと何をやっても上手くいかないと判断されている。まずは社会に適合するようになってからの問題だと言う訳だ。

4 So unusual may change the world

 しかし、焦ることはない。韓非子は言っている。
 (韓非子_解老篇「大器は晩成、大音は希声」)
 「その昔、楚(そ)の荘王は、即位してから三年もの間、法令を発することもせず、全く政務を執ろうともせず、日々、遊蕩をつくすばかりだった。将来を不安視した大臣が、ある謎かけをした。「南方の丘に鳥がとまっています。その鳥は三年もの間、羽ばたきもせず、飛ぶことも鳴くこともしないで、ただ黙って静かにしています。これはいったいどのような鳥でしょうか?」と。
 荘王は答えて言った。「三年も羽ばたきをしないのは、そうすることで翼をより大きく伸ばそうとしているのだ。飛ぶことも鳴くこともしないのは、そうすることで人々の生き方を観察しようとしているのだ。今は飛ばないが、飛ぶときが来ればきっと天まで昇るだろうし、今は鳴かなくても、鳴くときが来ればきっと人々を驚かすだろう。」」果たして数年後、荘王は、天下の覇者となった。かの有名な、「大器晩成」の逸話である。

 前作の私は、発想力と想像力、奇抜な展開、そして巧みな文章力を駆使して、自分の才能の限界にチャレンジし、これを残した。今は、社会適合性を重視し、リミッターの範囲で発想し、ある一人の常識人の助言を取り入れながら、慎重に発言を選んで執筆している。
 その代わり、前作より、より過激な社会批判を展開している。
 いずれ、リミッターを外せるようになったとき、この声を抑えて、良識の範囲で翼を養った経験が、ただの普通じゃないunusualを演出してくれるかもしれない。
 孔子は、自分と理想を共有できる君子を求めて転職を繰り返し、56歳を過ぎて、これを諦め、自分が師匠になることにしたところ、3000人の弟子を持つに至ったという。私も、まだ50代、まだまだ成長し、名著(大器)を記す時間は残されている。

God save the loan kingdom 借金王国万歳!!

1 やっぱり異常⁈日本の借金

 2023年5月12日 財務省の発表によると「国の借金」と言われるものの、累積額が1,270兆円を超え、ついに人口1億2200万人で割ると、国民一人当たり一千万円を超えることがわかった。一人当たりという事であるから、4人家族の人は、4千万円抱えている事になる。

 その異常さを国際的に見てみると、金額ではアメリカについで世界第二位であるが、対GDPと言われる借金の重みを測る測定法だとダントツの世界第一位である。(ちなみにアメリカは、対GDPで測ると12位である)

 すなわち、この地球上で稼ぎに似合わない借金を一番しているのは誰だと言うと私たちだ。ちなみに、経済破綻で国が倒れそうになったギリシャは今でも残念ながら、ワースト2位。それでも対GDP比 172%まで下げてきている。日本はなんと対GDP比 261.3%。

 これでよく国が倒れないものだと危惧している人も居るだろう。

 しかしこの危惧に対して多くのマスコミや政治家がこんなことを言っている。

 「日本の借金1200兆円はほとんど日本人から借りているものなので大丈夫。EUや外国人からユーロで借りていたギリシャとは違います。」

 なるほど外国人なら他国が滅びようが関係ないからいつでも借金を引き上げてしまうが、日本人が借りているのなら、日本が滅んでは困るから、強引に借金を引き上げる事はないだろう・・・全くの嘘です。

 金を貸す人、すなわち投資家と言うものは儲かる所には金を貸す。そして潰れそうなところにも金を貸す。それは潰れたときに儲かる仕組み(いわゆる「逆ザヤ」)が世の中にはあるからだ。

 そして、世界には機関投資家という怖い人たちがいて、まやかしの資産でフラフラしている企業を見ると、その弱みに付け込み、破綻させ、逆ザヤをガッポリ儲ける人たちがいる。

 1997年7月、微笑みの国タイは、この機関投資家の餌食に遭い、その通貨バーツは紙よりも価値の無いものになりかけた事がある。東南アジアASEAN諸国で必死に支え合い、なんとか乗り切ったが、機関投資家という連中が、武器商人より恐ろしいことを思い知らされた。

 しかし、その機関投資家が、なぜか、この危なっかしい借金王国、日本を狙おうとしない。それはなぜかと言うと、この借金を貸している人が絶対に借金を引き上げようとはしないことをわかっているからだ。つまり多少揺さぶりをかけても、日本の借金は日本を揺るがさないのである。

 

2 日本に金を貸している人

 いったい日本に多額の金を貸してくれて、しかも、絶対に引き上げない人たちとはどう言う人たちなのだろう?

日本の借金とは、基本的に日本銀行が発行する国債であり、これを購入してくれる(引き受けてくれる)人が、日本に金を貸してくれている人達だ。だから、国債保有している人たちを探せば良い。

 

 その考察に入る前に、日本の借金1,200兆円はまやかしだと唱える人の主張の中に、「日本は、国有財産をたくさん持っているから、いくら借金しても、それで返す事ができる。」と言うのがある。これについて検証してみよう。

 確かに、日本の国有財産は、600兆とも700兆とも言われているが、そのほとんどは、土地や建物といった固定資産だ。それらの大半は、現実問題として不売品と言って良い。例えば、「法隆寺」はとても高価な国有財産だが、果たして売れるだろうか?と言う話。少なくとも林野庁管轄の膨大な資産は皆同じだ。他の省庁の資産は、庁舎や官舎など公務に資する必需品だし、流動性があって、価値が期待できるのは、民営化した元国営事業の株券くらいだが、こいつは、借りている借金より利息を生んでいる。

 しかし、実はこの空虚に近い国有財産説は、あながち嘘ではない。

 日銀が自分で発行している債権を自分で保有しているという事を知っている人は多いだろうが、その額が500兆円も有ることはあまり知られていない。

 自分で借りた金を、自分が貸主として引き受けているのだ。おかしな話である。 ただ、その根拠として、上記のような、売れるかどうかわからない資産が、担保になっているとのことである。どうにも危ない話をしている奴のようにしか見えないが、とりあえず1,200兆円のうち、500兆円は、日本銀行が引き受けているわけだ。この500は、貸し剥しに会うことはない。

 

 次に残りの700兆円の引受人を考察していこう。

 私も含めて、周囲で株を始めたと言う人は見かけるが、国債を持っていると言う人は、喫煙コーナーで葉巻を吸っている人間を見つけるくらい難しそうだ。どうせ、どこかの富裕層か大企業がガッツリ囲っているんだろう。と思いがちだ。

 

 10年ほど前、トマ・ピケティはその著書「21世紀の資本」の中で、世界の上位10%の富裕層が世界資産の7割から8割を保有していると語っている。おそらくこの富の集中はその時期よりもっと進んでいるだろう。

 しかし、2017年の資料だが、日本の金融資産総額1,500兆円の内、上位4%の富裕層が300兆円しか占めていないことがわかっている。そして、逆に総資産5000万円未満のマス及びアッパーマス層と呼ばれるいわゆる庶民階層の保有資産が3分の2の900兆円を占めていることもわかった。まあ、金融資産だけをみた話だが、国債を誰が引き受けているかを考えるだけなら、それが富裕層に集中している様子はない。生活保護に頼る人も増えたが、まだまだ中間層は頑張っているわけだ。

 

 では、大企業が買い占めているのか?

 2022年、国内企業保有資産時価総額ランキング(銀行預金を除く)によると、一位はTOYOTAなのだが、2022年の有価証券報告書を見る限りでは、公社債保有高は1,125億円。桁が違い過ぎる。

 いや待て待て、なんで銀行預金を外す?「だって、銀行預金は人からの預かり金だから、その企業固有の資産とは言えない。だから時価総額ランキングには反映されない。」しかし、銀行の預金というのは、人に貸すために集められているもの。そして、国債は、彼らにとって、列記とした貸付金ではないか?

 と言うことで、メガバンク4社の有価証券報告書を見てみた。

 出ました!三菱UFJ 33兆円、みずほ25.6兆円、りそな25.6兆円、三井住友15.7兆円。驚いたのが、ゆうちょ49兆円と、金融機関じゃない日本郵政34兆円だ。

 

 そうです。日本の借金を支えているのは、日本の金融機関です。というか私たちの貯金です。日本郵政がしこたま溜め込んでいる国債も、かつて私たちの両親の世代の人たちが、「一番安心な銀行」として愛親しんだ郵便貯金が元手です。

 

 かつて小泉純一郎と言う総理大臣は、日本政府が郵便貯金国債を引き受けさせて、無駄遣いの限りを尽くすので、この関係を断ち切ろうと郵政省を民営化した。ところがこの偉業に気づいている国民はほとんどいない。

 「日本の借金は日本人から借りているから大丈夫。」と言われ、どっかの富裕層か大企業が貸しているのかと思っていたら、なんのことはない、貸しているのは自分たちなのだということをまるで気づいていないのだから、この借金は引き上げられることはないわけだ。たとえ、今この話を聞いて気づいたとしても、この借金を引き上げたら、自分の貯金がなくなるのだ。そりゃ誰も返せとは言うまい。

 

 とまあ、回りくどい話をしたが、これは後半の話をわかりやすくするため。手っ取り早く知りたい人は、ネットで「国債保有者」で検索すれば、トップヒットする。

国債等の保有者別内訳. (令和4年9月末(速報)

 

3 God save the loan kingdom 借金王国万歳!!

 この状況がへんてこりんなのは、まず一つ、「なんで俺たちは利息を払っているんだ?」という話。国家財政逼迫の折、国債の償還に係るいわゆる国債費は令和4年度予算で24兆円。そのうち利息に相当するものは8兆円。なんじゃそりゃ。わしの金やないかい!

 今一つ不思議なのは、どうして富裕層や大企業は怒らないのだろう?

 私の預金など勝手に使われて、なぜか利息を払わされても、大したことは無い。自分の預金に利息をつけられて、預金額も払う税金も多い富裕層や大企業の方が、痛手では無いのか?そして、知的レベルの高い彼らが、このへんてこりんな状況に気づかないはずもない。

 しかし、おそらく、彼らは国債よりもより利回りの良い金融商品を購入して運用しているのだ(もし国債の方がお得なら、TOYOTAの余剰資産はもっと公社債に注ぎ込まれているだろう)。だから、金融機関は、この資金については、もっと利回りの良い運用を迫られる。その分、利回りの悪い庶民の預金は国債で堅実に利ザヤを稼ぐ。そうすれば、彼らの持つややリスキーな資産で損失が出ても、それで補える。

 なるほど、富が集中しておらず、金融資産総額1,500兆円のうち、900兆円をマス及びアッパーマス層が保有している日本だからできる狡猾で巧妙な仕組みだ。

 国債は、今は1%以下の利回りしかないが、かつては、8%の時期が20年以上続いたときもある。経済成長や、好不況に合わせて変動する公定歩合や市場金利に確実に連動する。親方は日の丸で、戦争でも起きない限り倒れない。そして一応日本は、憲法上戦争はできない。なるほど、理想的な貸付先だ。

 さらに付け加えると、国は、突然借金を棒引きにしたり、利息の支払いを延期したりするような裏切り行為はできない。なぜなら、それで、銀行が破綻したら、預金保険制度により、一人1000万円まで、損失を補填しないといけないからだ。 

 誰が考えたのか知らないがよくできた仕組みだ。

 

 しかし、この仕組みでは、随分、私を含む、マス及びアッパーマス層は損な役回りをしている。結局、私たちの預金は、私たちに対する貸付金に振り替えられ、私たちはその利息を払わされている。年間10万円の税金を払う人なら、そのうち8千円がその利息だ。その利息は、銀行では、富裕層が持つ高利回り商品がそれを実現できなかった時の損失補填に回される。結局、富裕層の利益を盤石にするために預金をしているようなものだ。今更悔しいからと言って、10万円ほど国債を買っても、今の利率では500円ももらえない。

 コロナにしても、防衛費にしても、私たちはそれが本当に必要かどうかもあまり考えず、催眠術にでもかかったように政府に支出を要求する。政府は苦渋の選択をしたかのように、また国債を発行するが、その裏で「これでまた富裕層の利益を守れる。票がもらえる。」とほくそ笑んでいる。

 

 後世に借金を残してはいけないと、年金を減額し、社会保険料を釣り上げ、増税も行うが、国債が増発されなかった年は無い。この振れば振るほど大きく強くなる打ち出の小槌を手放すはずがないのだ。

 まさに、“God save the loan kingdom 借金王国万歳!!”だ。

 

4 利の在る所は民これに帰し(外儲説篇・説林篇ほか)

 韓非子は、聖者の治道には、1に「利」、2に「名」、3に「威」が必要と言われるが、中でも「利」が最も重要だと説く。そして、その「利」は「民」に帰すことで国が安定するという。例えば、民は利益の前では、蛇のような鰻でも手掴みし、女性ですら毛虫のような蚕を丁寧に扱う。弱者が利益の前で勇猛になることこそ、国力の源になるからだ。

 逆に「臣」と呼ばれる、行政機関及び、公共機関が利益を得るようになると、国が傾くと、強く警戒している。もともと力のある者が、庶民の財や利益を専横していて、楽に利益を得るようになったら、国力は下がる一方だからだ。

 

 国債を減らすことは困難だろう。だから、まずは、国債保有する利益を民へ移管し、国債総額が多いと一部の人が得するという不思議な仕組みを変える必要がある。

 

 例えば、新発の国債を引き受けた者にふるさと納税並の大胆な、つまりほぼ同額の税額控除を認める。但し、富裕層優遇にならないよう、上限額を100万円に設定する。

 もちろん所得税の収入は減ることになるが、上限設定を設けているため、おそらくその金額は2、3兆円に収まるだろう。

 担保は無い。銀行と違って、裏切られて棒引きになるかもしれない。しかし、税金の一部と引き換えに得たものなのだから、しばらくでも金利がもらえるだけマシだろう。とにかく、狙いは、マス・アッパーマス層が直接国債保有することだ。

 重要なことは、本来の利益を民に帰することである。さすれば、民は、国力を上げ、利率を上げることにも勇猛になるであろう。

レンブラント・ファン・レイン「放蕩息子の帰還」

 レンブラントは、バロック(barroco(ゆがんだ真珠)のこと。16世紀末から18世紀に欧州で流行した芸術様式)の巨匠の一人で、精密な表情描写から、「感情」と言うむしろ抽象的なものを画上に表現する天才として、その技術は今なお勝るものはいないと私は確信している。

 画題は、新約聖書の逸話で、父親に財産の生前贈与を迫って、放蕩に明け暮れた挙句、極貧に陥った息子が、図々しくも、帰宅して、「召使としてでもいいから雇ってくれ。」と泣きつくが、父親は、怒るどころか、息子の帰還を大いに喜び、祝宴をあげると言うもの。

 どんなに悪いことをしても、悔い改めれば必ず赦しが得られると言うキリスト教らしい逸話。背中越しにも感じる放蕩息子の悔恨の思いと、帰ってきたことだけに安堵する父親の姿が、レンブラント晩年の傑作と呼ばれる面目躍如といえよう。

 まあ、どんなにどうしようもないものでも、なくなるよりはマシだとも言える。

 ああ、私たちの預金もいい加減借金になんかに振り替わって、悪さばっかりしていないで、私の元に帰ってきてもらいたいものだ。元のままとは言わない。ボロボロになって、片足の靴がもげていても、今の状況を改善できるなら受け入れてあげるから。

LGBTについては話せない

1 名前を言ってはいけないあの人

 USJのアトラクションとして大人気の「ハリー・ポッター」。原作はハードカバー7巻に及ぶ長編小説である。この中で主人公ポッターの敵役となるのが、かつて圧倒的魔力により魔法使い達の世(魔法界)を、恐怖のどん底で支配した、ヴォルデモートと言う最強の魔法使いである。

 この敵役について、序盤では「名前を言ってはいけないあの人」と言う表現で表され、魔法使い達は決してその本名を語ろうとせず、本名が公表されるのは2巻以降になる。その示すところは、その名前を挙げて悪口を言う事はもちろんのこと、肯定的意見を述べることも災いの種となるということである。しかし、怯えて何も話さない人もいる一方で、「名前を言ってはいけないあの人」と言う主語をつけていろいろ話す人もいて徐々にその情報が集まってくる趣向となっていた。

 

 少し前の、政策秘書官のオフレコ発言が公表され、当人が更迭されるに至った件について、テレビの報道を見ていて、私はこの「名前を言ってはいけないあの人」の話を思い出していた。

 マスコミや政治家は、決してLGBTを批判する事はしない。少数派(マイノリティー=社会的弱者)の権利を擁護することが正義であると強く訴え、それに反する意見を言う者は、あたかも時代遅れの愚者であるかのような扱いだ。LGBT問題は、先端的で知性と理性を必要とする問題だ。学の無い庶民は黙っていろと言わんがばかり。そして多くの者にとってLGBTは、肯定も否定もできない、「名前を出してはいけない人たち」になっていった。

 

 なお、私は、LGBTを否定する気は無いし、思想・信条に批判的な考えは全く持っていない。

 中高生の分際で深夜の繁華街に出入りしていたため、何度も男色買春の誘いを受け、非常に不快に思った事や、友人が巧みな誘いに掛かり、菊の門に、拭えぬブラックタトゥーを彫られたと言う憎らしい事例も見て来たが、個別(ケース)の問題としてちゃんと整理できている。

 人類は多様化を受け入れることで進歩してきた。彼らの趣向と願望の先に、「女性しか妊娠できない。」という神が与えたもうた難問のうちの一つを蹴破るかもしれない。それくらいの認識は有る。

 しかし、それを受け入れられないからと言って、「進歩的で無い。」「思慮が浅い。」「思考が狭量である。」と批判するのも間違っていると思っている。

 つまり、今回の投稿は、LGBTの良し悪しを問う物でなく、その報道のあり方について問うものである。

 

2 メディアの責任

 多様性を受容することの重要性も、LGBTが常識化し現行の法律がもはやこれに対応しきれて無いことも事実である。

 これに対し、西欧ではここ2、30年で法整備を整え、インフラ(三つ目のトイレや浴場施設等)の整備にまで取り組んでいる。タイや台湾・インドネシア・マレーシアなどアジアも例外ではない。

 日本は、なんとかこれに追いつこうと焦っているように見える。

 私も、西欧信奉者の一人ではあるが、あと数十年で「パパ・ママ」の概念がなくなりそうな離婚率にはうんざりしている。人権や社会制度という文化の高さは認めるが、こと「節操」という概念に関しては疑問符が付く。

 そして、日本人は、この「節操」を重視する傾向が強い。

 その答えが以下の現状ではなかろうか?

 ・2021年NHK世論調査

 https://www.nhk.or.jp/gendai/comment/0029/topic023.html

 同性婚に対する回答が注目である。

 他人事なら、消極的賛成を含め57%。自分の家族となるとこれが45%に落ちる。積極的賛成の変化はさらに顕著で半減している。

 もし、政府やマスコミがこれらの日本人の文化を無視して、単に西欧の成功を追いかけているというのであれば、それは「顰みに習っている」愚か者だ。

「顰に習う(十八史略):優れた人の所業について、その本質を理解することなく、ただ形だけをまねること。 猿真似 (さるまね) 。」

 

韓非子55篇 内儲説篇 上 七術

(説6:韓昭侯、爪を握り、而して佯(いつわ)りて一爪を亡(うしな)うとして、これを求むること甚だ急なり)

 韓の昭侯は爪を切り、その一つを手の中に隠しておいて、「爪が一つなくなった。早く探せ」。と、そばの役人たちをせきたてた。すると、ひとりが自分の爪を切って、「見つかりました」と、差し出した。

 

 韓非子は言う。「君主は決して、自分の好き嫌いを表に出してはいけない。それを忖度する者が周囲に増えて来て、真に賢なるものの声が聞こえにくくなり、彼らを遠ざけてしまう。」

 LGBTの立場や悩み、歴史、病理的知識、反対派の論理といった、理解すべき事項(本当の爪)は蔑ろにされ、みんな適当な爪を拾って、中には自分の爪を切って(持論を放棄して)、「有りました。」と言い始めることになる。これは、「集団極性化」と言い、現代では科学的に立証されている。

 

 表向きは賛成していても、中身はバラバラ。

 ・社会的マイノリティーを擁護して正義を翳す連中

 ・社会的マイノリティーを理解する人々

 ・社会的マイノリティーに寄り添える人

 ・よくわからんが、みんなが賛成しているから賛成する。

 そしてこの中の一番の多数派は四番目で、具体的に船が動き出すと一番慌てふためき文句を言い出す連中だ。

 

 偏った世論がこれに反する意見を封印し、政道を硬直させる。

 日本を太平洋戦争に向かわせたものは、軍部だけでなく、世論の圧力が相当影響していた事は現代では周知の事実だ。今の軍拡路線も同様である。一体何度同じ間違いを繰り返すのだろうか?

 

3 オフィシャル VS ノンオフィシャル

 地震が起きたら、「NHKを点けろ」と言われたのが昭和世代の常識だった。TV・新聞、中でもNHKが最も即応的で、正確な情報、つまりオフィシャルな情報を与えてくれると信頼されていたからだ。

 しかし、最近のZ世代の若者は、もうテレビや新聞の言うものにそれほど信頼を置いていないように見える。

 先日Z世代の後輩がこう言っていた。

 「今時、ググって、1ページ2ページで世間を知ったつもりでいてはいけない。4、5ページまで読んで、多彩な意見を取り込んでいないと説得力を失って聞こえる。」

 なるほど、1、2ページ目は、大手新聞社・放送局関係が続き、その内容は、LGBT理解の推進派、または擁護派だ。

 しかし、4、5ページ目になっていくと、批判的な意見が多く現れてくる。意見は多様性に富み、その問題が、オフィシャルメディアが言うほどシンプルではなく、もっと複雑なものであることを示している。

 最も手厳しいのはYouTubeだ。めくれどめくれど、LGBT批判のオンパレードである。LGBTの当事者までもが「余計なお世話は不要」と言う記事を何人も挙げている。

 しかし、これらのいわばノンオフィシャルな意見には弱点がある。その情報および内容の信憑性が確実に担保されているかと言う点である。

 言いたいことを言っているだけなら、的確な反論とは言えない。論拠・根拠・事実といったエビデンスというものが必要である。しかし、個人の経験や知識・収集できる情報は限られている。

 これに対し、大手報道各社と言ったオフィシャルなメディアの強みは、その潤沢な情報源に裏付けられた情報の精度の高さであり、それを保証する十分なエビデンスにある。

 また、発信先の量にも大きく差が有る。ネットのニュースは、かなり話題を呼んだものでも数百万回再生程度であるが、テレビの視聴率を単純に信じるなら、深夜番組でも数百万人~1千万人の視聴者が居る。

 これは、いずれも本当にそれだけの人が観ているかどうかという問題ではなく、発信する側が負う責任の重さを表している。

 従って、嘘をついたりしていないかどうかという点だけを論じれば、オフィシャルなメディアに軍配が上がる。

 

 しかし、問題なのは、昨今のオフィシャルなメディアには、口裏を合わせて同じ方向性の発信を行い、自分たちが好んでいる国民性へ誘導しようとしている節がある点だ。そして、万人の賛同を得たわけでもない「正義」を勝手に作り上げている。

 前述の政策秘書官の発言は、本来オフレコと言われるいわゆる口外無用のものであったが、ジャーナリストは「正義」の下にこれを公表したと言う。しかし、先ほどから述べているように、この問題は決してシンプルなものではない。その正義が万人の賛同を得ているとは考えられない。

 

4 これから求められるのはリアリティだ

 若者たちだけでなく、多くの人々が、オフィシャルメディアから離れてきている。もう右向け右の判で押したような報道にうんざりしているのだ。普通はもっと多様な意見があって然るべきである。つまり、確たる真実を報道しているにもかかわらず、リアリティがないのだ。

 TikTokの次に来るのがBe REALと言われる、突然指定された時刻に、目の前にある光景を加工なしに配信すると言うアプリらしい。要は、加工された、編集された動画に魅力がなくなって来たのだ。

 昨今、ネットの記事の配信者は、無駄な虚飾を極力減らしている。それがウケなくなって来たからだ。そして、かなりエビデンスを示し、記事の信憑性を高め、リアリティをアピールする。

 だんだんジャーナリズムとしてのレベルを上げつつある。このままでは、その内「地震が起きたら、スマホを開け」になるだろう。

 実際、東日本大震災の時はネットの方が情報展開するのが早かった。

 

 しかし、オフィシャルメディアには、まだ頑張ってもらう必要がある。なぜなら、国民が本当に必要とするリアルを発信できるのは、今のところ彼らの方が優位にあるからだ。

 確かにリアルな映像のインパクトは強力である。しかしリアルとは加工や編集がされていないことだけを言うのではなく、その情報が、歴史や実話(エピソード)、科学的根拠、論理的思考など、何らかのエビデンスによって真実であるという、いわゆる「ウラが取れている」のであれば、それもリアルなのである。

 そして、国民の意思決定という重要な場面では、映像による瞬間的なリアルではなく、そのような長期間語られ続けた実績を持つリアルの方が重要視されるべきなのである。

 

 例えば、こんなエピソード。

 コンピュータを発明したのは、国や企業ではない。その原理の大半は、イギリスの「アラン・チューリング」と言う青年が設計したものだ。しかし、彼は同性愛者であったがために、長年その功績は秘匿され、ノーベル賞はおろかその偉業を知る人すら少ない。

 彼は自分の設計では、完全なAiは作れないと予言し、さらなる研究を進めようとしたが、同姓愛者を矯正するためのホルモン治療のため精神を病み、41歳で自殺する。彼の死後70年、チューリング式コンピューターはある限界に達しAiにはたどり着けないと言われているが、これを打破する次の天才はまだ現れていない。

 

 科学的な話をすると。

 生物の多くは、基本素体は全員女性であり男性ホルモンがこれを男性化する。つまり材料は同じで調味料が違うだけであると言われている。

 発情期(人間の場合は思春期と言うべきか)に入ればホルモンが脳を支配することにより異性に関心を持つようになる。しかし知能が高い生物ほど発情期までに与えられる情報が多いためホルモンが発動した時、これに戸惑ったり、はねのけたりしてしまう現象が起こる。性同一性障害は魚レベルでも起こるのだ。

 

 論理的思考で考えてみると。

 同性愛者に尋ねるが、あなたは、幼児に性欲を持つ者や、犬やペットといかがわしい行為(獣姦)を行う人を見て、不快に感じることはないか?

 同じように、普通に異性を恋愛の対象とする者から見れば、普通でない性癖は不快に感じるのが通常であり、理性でこれを容認しているに過ぎないのである。

 

 こうやって、リアルな事実を積み上げて、意見をぶつけ合えば、潤沢な知識と情報源を持つオフィシャルメディアの方がずっと面白い話、素晴らしい意見、そして、適正な解決策への糸口を見つけ出すきっかけになるはずなのである。

 結託して大衆を導こうなどと言う傲慢な事はやめて、自分たちの情報力の総力を挙げて、ガチンコで知識を競い、リアルな論争を繰り広げれば、ネットへ流れた視聴者も帰ってくるだろう。

レオナルド・ダヴィンチ「モナ・リザ

 ダヴィンチの現存する絵画作品は16作ほどしかない。そのうち3枚が彼の亡くなるまで売却されずに手元に残されていた。そのうちの1枚がこのモナ・リザである。

 もう1枚知る人ぞ知る名作「洗礼者ヨハネ」というのがあるが、この2つに共通するもので、モナ・リザは、女性を描いたにもかかわらず、どこか男性像を思わせる、洗礼者ヨハネは、男性を描いたにもかかわらず、どこか女性像を思わせると言う点である。

 ダ・ヴィンチは、両性具有とも言われるこの2作を手放さず、死の直前まで筆を加え続けていたという。そこには、人間の本当の美しさとは、性が分かれる前のものでは無いのかと言う思いが有ったようにも見える。

 

韓非子2000年の悲運

1 性善説性悪説

 この言葉についてみだりに論じようとする人は、概ね知識が浅いというのが、私の経験上の印象だ。

 性善説とは、「人間の本性は善である。」という考え方で、孔子儒教路線を汲む、孟子が唱えた説。孟子以後は儒教の中心的思想となった。

 これに対し、韓非子の師匠である思想家荀子が唱えた「人の性は悪なり、その善なるものは偽なり」という主張。なお、ここで言う悪とは、「弱い存在」という程度の意味であり、「悪=罪」という意味では無い。

 さらに重要な事は、韓非子は師匠のこの思想をさらに発展させ、「善」などというものは、時代や環境によって変わるもので、その時代・環境に合った規則、すなわち「法」を定めることを重要視している点である。

 よく、韓非子について性悪説を採る人と考えている人も多いようだが、これは全くの誤りである。彼にとっては、人が生まれながらにして善であるか悪であるかと言う前に「善」と言う用語自体が定義不十分なのである。(定義不十分=分別不能

 性善説性悪説を口の端に上げるなら、最低限この程度の知識は持っていて欲しい。

 しかし、現在でも書店に並ぶ韓非子に関する著書には「非情の帝王学」「情けは無用」「簡単に人を信じては行けない」といったワードが欠かせない。おかげで性悪説の言い出しっぺの荀子よりも、韓非子の方が代表者のような印象を与えているのは残念なことだ。

 確かに、彼の主張する「法律」が世の中を治めると言う法家思想においては、法律を遵守させるためには「情」はもちろんのこと忠、義、孝などと言う感情は、全てその目的を達する上で邪魔なものであり、排除すべきものとなる。その点が人情のない人間と解される事はわからないでもないが、韓非子をよく読むと、その人間観察の鋭さに感銘を受けるところが多々ある。

 彼が、人間というものをある定義に嵌め込んだ所が有るとしたら、「人は賞を受けることを喜び、罰を受けることを畏れるものだ。」という点(この概念が、外儲説篇 左下「信賞必罰」を重要視する主張につながる。そう、「信賞必罰」も韓非子由来の成語だ。)くらいで、彼は、その定義も絶対ではないと考えていたようだ。しかし、この定義、2000年経った今でもまったく揺るぎないと思いませんか?彼が否定した人情派学者の代表とも言える孔子の唱えた、当時の常識よりずっと普遍的見解だ。

 法の適用が厳格過ぎるという意見もあるが、暇があればぜひ、外儲説篇 左下_善吏徳樹のエピソードを読んで欲しい(前編:「説難」20180527_善く吏たる者は徳を樹う - 説難)。ただ厳格に適用することだけを求めているわけでないことが分かるでしょう。

 また、彼は、法の適用において貴賤を区別しない。つまり、人は法の下に平等と主張した。これは、2000年前では、とても考えられない思想である。しかも、韓非子は、継承順位こそ低かったが、一応、韓という小国の公子である。200年前でもこんな公子は存在しまい。

 にもかかわらず、まあ彼の評判は、「冷血漢」「無情」「人間不信」果ては「残酷」「無慈悲」と散々である。

 私がこのブログで折に触れて紹介しているように、韓非子55篇から引用された説話や故事成語は枚挙にいとまが無い。なぜ、これほどの名著が2000年以上も日の目を見ず、未だ悪評の的にされているのか?

 

 それでは、彼の著書が性悪説の汚名を着せられ、長年不遇の歴史を辿った理由を探る旅に出ましょう。

 

2 焚書坑儒

 そもそも韓非子は、当時常識であった孔子の開いた儒教の精神に疑問を投げかけていた。孔子のいう、礼・義・情・忠・孝などというものは、人によって思い入れが違うし、時代によって変化している。人間社会が発展して、昔は簡単に譲れたものも、今は簡単には譲れない(尭舜の禅譲)。まず、その時代における善悪を定義し、これに応じて法を定め、賞罰という二つの権力(二柄)のみを操れば、君主は孔子のいう君子でなくとも凡人でもなれる。このように、彼は論陣を展開した。

 

 これを読んで、手を叩いて喜んだ人物が居た。

 後に始皇帝となる秦王政だ。

 彼もまた、儒教の古い考え方には、変化が必要であると考えていた。

 織田信長比叡山石山本願寺を滅亡させたように、古い宗教勢力というのは、新しいビジョンを持って新世界を開こうとするものにとっては、非常に邪魔な存在である。  しかし、言うことを聞かないという理由だけで排除することはできない。

 これに答えたのが、韓非子五蠹篇だった。

 当時、儒教は、いわば絶対的規則に近いものであった。

 従って、韓非も、儒家について批判するには相当の覚悟をかけて、「古い習慣の守り神として祭り上げられているだけで、もはや時代遅れで役に立たない献策をするのみで、あたかも国という大木に巣喰い内側から食い荒らす虫である」と、痛烈に批判している。さらに、ウサギを待ち続ける男(守株)、足の寸法書を忘れた男の間抜けなエピソード等を表し、旧習を守り続けることの愚かさを論理的に提示した。

 

 そして、始皇帝は、中華を統一するや否や、法治国家の建設に乗り出す。秦そのものが、すでにかなり法整備が進んでいたので、それを地方の習慣に合わせて微調整しながら広げていくわけである。度量衡など統一できるものは、法令によって統一していった。最も進んでいたのは、統治する側の行政機構、役人に課せられた法律だった。この行政官庁網の完成度の高さが、のちに中華を支配する国家のインフラとして利用され続け、現在に至っている。

 庶民より官僚を統率することを重要視するところなどを含め、始皇帝の政策は、韓非子55篇の影響を強く受けていた事は明らかである。

 しかし、急速な世の中の変化の中で、困った人たちが居た。

 これまで、先生ともてはやされていた儒家の人々だ。

 始皇帝の世では、儒教の教えを守る必要はない。始皇帝の法を守れば良いわけで、これに詳しい者が重宝される。

 また、韓非子は、人情や義理などというものは、法律を破る理由にならない。と言っていたので、儒家たちは、世の中から、人情や義理は退廃するのではと危惧した。

 そして、織田信長比叡山のような衝突が起きてしまう。

 そして、始皇帝が行ったのが天下の悪行、「焚書坑儒」である。

 この、儒家儒教にとっての最大の悲劇を、儒家たちは、どういうわけか韓非子のせいにしたところから、彼の悲劇が始まったわけである。

 確かに韓非子は、始皇帝に心酔され秦に呼びつけられた。そして、確かに、自分の著書の解説も行ったという記録が史記に残っている。しかし、同じ史記の記述の中で、韓非子には吃音(言葉が滑らかに出ない)の癖があり、本を読む方がわかりやすいとして、面会は一回か数回に過ぎなかったという。その上、韓非の才能に自分の地位を脅かされると危惧した、時の秦の宰相・李斯(実は同じ荀子の下で学んだ兄弟弟子)の策略により、投獄され、秦が中華統一を成す前に自決している。にもかかわらず、なぜ、焚書坑儒は、彼のせいで行われたことになったのだろう。確かに、韓非子儒教を痛烈に批判しているが、儒家を悉く抹殺すべきとは書いていない。

 一つには、韓非子が残した法治国家思想、儒教の排除という思想は、実際に実行されたわけで、死んでいようが、その点では、韓非子に因果がないとは言えない。

 そして、もう一つ、あまり知られていないが、「焚書」という言葉の語源もまた、実は韓非子なのである。

 多くの文献で、焚書の語源は、始皇帝焚書坑儒だと示されているが、当時の人々も、初めて聞く言葉だったろう。

 韓非子55篇喩老篇に「焚書王寿」という言葉が有る。エピソードの内容は割愛するが、別に儒学の本を燃やせと言っている話ではない。

 しかし、始皇帝が「焚書を行う」と下知を飛ばした時、初めて聞くその言葉が、彼の愛読書「韓非子」に載っていたら、やっぱりあいつが、儒教最大の災厄の根源だということになったのも想像に値する。

 

3 儒教の国教化

 秦はわずか11年で滅びた。その理由としては、急激な社会改革、法律の厳格すぎる適用、立て続く重税と労役、始皇帝の不老不死狂い、など、様々な憶測が建てられているが、どれも人々を納得させる説は未だ定まっていない。しかし、史実として、佞臣が正統後継者を謀殺して実権を握ったことは確かで、これは皮肉にも、韓非子が最も恐れ、亡徴(国が滅びる兆候)の1に掲げたものである。

 私の私見ではあるが、始皇帝儒教の考えを断ち切り過ぎたのではないかと考えられる。農民のように学が無い者にしてみれば、儒教の説く道徳はとても分かりやすかった。それに比べ、法を守る者が正しいと言われても、その正義は国が決めたもので、自分から発した者で無いから受け入れ難かったのでは無いかと思う。

 要は、秦の法治理念は、当時の庶民には崇高過ぎて、単に厳しく取り締られているという怨嗟の念しか残さなかったのだろう。

 

 結果的に、秦は陳勝呉広の乱に代表される、農民発起の反乱から瓦解を始める。

 

 そして、これになり代わり誕生した「漢」帝国は、秦の失敗を調整し、優れた法治理念は残すものの、その厳格さを緩め、同時に庶民が簡単に実践できる儒教を復活させ、さらに、実質これを国教化した。

 庶民と言うものは、身近な人々に賞賛されるか否かによって善悪を判断するものである。儒教の教えに従っていれば、たとえ法に背いていたとしても、身近な人々からは、徳のある人(君子)として賞賛される。秦が求めた厳しい法治理念よりずっと分かり易かったのだ。かといって、治安を維持するには「法」もまた必要である。

 そこで、自発的に行おうとする正義と政権から押し付けられる正義、これを塩梅よく調整するハイブリット体制が確立されたのである。

 漢帝国は400年続き、その後も儒教を国教とする政策は、隋・唐へと引き継がれた。

 さてその間、韓非子の評判はどうなったか?

 韓非子は、「国教の天敵」、キリスト教社会でいう「ユダ」である。

 何度もいうが、韓非子儒教の全てを破壊しろとも滅亡させろとも言っていない。今風で言うと、「昭和の考えの人」を少々痛烈に批判した程度である。しかし、その古い考えの方が、成熟し切っていない庶民には居心地が良かったのだ。

 そんな時代が1000年以上も続き、韓非子は、悪名として取り沙汰されるか、その存在すら語られなくなる。

 

4 儒教の日本上陸

 隋・唐の時代になり、日本にこれらの「法」と儒教のハイブリット政策が上陸してきたが、日本の支配者たちもこれを歓迎した。

 日本では当初、仏教的道徳が珍重されていたが、武家政権が続く中で、より細かい道徳を規定した儒教を重んじるようになっていく。

 大事なことは、自発的な正義と、社会的正義のハイブリッドである。

 周囲の人に簡単に喜んでもらえる自発的正義。国や支配者に逆らわない社会的正義。後者が、韓非子が説いた法治理念なのだが、庶民においてはいつも前者が重視された。

 現代でもそうではないか、法律を真面目に守る者よりも多少違反行為を行っても、周囲に実利を与える者の方が珍重され、世の中をうまく渡っていける者も多いだろう。しかしそれは至って近視眼的思考である。

 江戸時代になるとこの信仰はさらに制度化され、階級社会の存在理念と結びつけられるようになる。それが「朱子学」である。

 朱子学というのは、儒家の中でも、偏狭でかなり独自アレンジがきつく、儒家と呼ぶのも怪しいと呼ばれている人物、朱熹(しゅき)の著作である。非常に権力者に都合の良い解釈がされているのだが、一応儒学の筋を辿るものであるから、「これを守っていれば、徳のある人(君子)ですよ。」と言われて、諸国民が250年間、法度より重視したというのだから始末に追えない。全く困ったものだ。何でも、盲目に信じているから、うまく利用されることになるのだ。

 

 こうなると法さえあれば、人々はその法の前に平等であると言う韓非子の考え方はとてつもなく危険な思想になってしまう。

 こうして韓非子の思想は埋もれ続けた。

 

 韓非の没年は紀元前233年と言われている。韓非子55篇が記されたのもおよそ同年代であろう。その価値が眠ること2200年。

 私が初めて諸子百家の本を読んだ20年前。韓非子のページは300ページのうち20ページも無かった。しかし今では30人の知名度の高い諸子百家を並べ、その中でランク付けをしたところ7位にランクインしたというサイトを見た。

 未だに、ビジネス本でしか扱ってもらえていないところが寂しいが(もうちょっと社会哲学として扱って欲しいものだが)、少しずつ彼の偉大さを知る人々が増えてきているように思う。

 

 未だ、ならず者国家が跋扈し、諸国が合従連衡を繰り広げ、国際法は国際司法が腰抜けなため名ばかりで、無法・無秩序なこの世界において、かつて、数十国がひしめいた中華を最終的に統一した思想。

 そろそろ、韓非子さんの出番じゃないの?

ツタンカーメンの黄金のマスク』 大英博物館所蔵

 ツタンカーメンの王墓がほぼ完全な状態で発見されたのには、一つの皮肉な幸運が有る。彼の父、アクエンアテンが、勢力を増す神官たちの力を弱めるため、宗教改革を行った。それまで、多神教だったエジプトにおいて、神は太陽神ラーのみであり、ラーと繋がることができるのは、国王のみであるとしたのだ。残念ながらこの企ては失敗したらしく、ツタンカーメンの若すぎる死には、暗殺の疑惑が尽きない。

 そしてこの親子は、エジプト王と認められず、歴代の王の名を連ねた王名表(カルトゥーシュと呼ばれる、王名を表す彫刻版を並べたもの)から削り取られた。そして、あらゆる歴史書から抹殺された。これが幸いして、科学が発達して、削られたカルトゥーシュに興味を持った学者がこれを解読し、消された歴史が蘇るまで盗掘の対象とされなかったわけである。

 

 韓非子の思想は、前述の通り、儒教という大きな障壁に阻まれ日の目を見ることができなかったわけであるが、中世の人々にその崇高な理念が伝わったかは疑問である。「衣食足りて礼節を知る」。韓非子の法治思想は、諸子百家に名を連ねながらも、薄く削られたカルトゥーシュのようにひっそりとその存在を維持し続け、「自由民主主義」という法律と自らの正義と国家の正義が一致する制度の登場をずっと待っていたのかもしれない。

 この運命的出現が、黄金のマスクのような輝きにつながるかどうかは、今この人物・著書を知り始めた人々の解釈次第だ。

Castling

1 Castling

 韓非子は類稀なる国家運営思想を発案したが、それを君主に伝えることの難しさを強く嘆いている。これが宗廟に籠り、ひたすら世の理不尽を駆逐し、世の民の安寧を願っても叶わない「孤憤」となって記される。しかし、その強烈な憤激と既存の概念を覆す発想は、宗廟に収まらず、世を席巻し、秦の始皇帝にまで届く。

 これに倣い、本編では、多少過激、あるいは奇抜な発想と捉えられても、敢えてBlack Kanpishiとなり、インパクトのある議論を展開することにより、一言言ってやりたくなるような刺激を読者に与えたいと考えている。

 その奇抜な発想が、画期的なものなのか?それとも、単純に私が知識不足なだけで、一言の反駁で論破される愚論なのか、その辺りが一番知りたいのである。

 しかし、ホームとしていたはてなブログの方では、残念なことにほとんどアクセスが無い様子だ。3年ほど放置しているうちに、利用者が減ったのかなあ?せっかく冒頭のつかみのところで、現在に通じる諸問題の考察をしているのに、時期を逸してスルーされそうだ。

 そこで、第一章完結を待たずして、NoteにCastling(城替え)しようかと考えている。こちらの方は未だ盛況で、どんな投稿でも、結構アクセスしてもらえる。利用者の多さもあるだろうが、好奇心の強い人が多いのだろう。

 リアクションを求めるというのは、実は非常に怖いものだと考えている。

 

2 逆鱗 (説難篇)

 韓非子は、新しい進言が君主に伝わらない理由として、①君主を取り巻く臣下の多くは、自らの利益に敏感で、新しい考え方が取り入れられると自分にとって不都合が生じる可能性があるので、君主に近づけようとしないこと②君主にも好みと言うものがあり「名誉を重んじる者」には、民を喜ばせ名誉を得られる進言を、「財産を求めるものまたは贅沢を求めるもの」には、あからさまに気づかせないよう、結果的に倹約できるような進言をしなければならない。③そして、最も注意するものとして、新しい政策を提案する以上、場合によっては、現場の施策に対して苦言を呈する必要が生じる(まぁおそらくそうだろう)。この時、決してやってはいけないことがある。その政策が君主のお気に入りであったり、その国にとって不可欠な習慣であったりする。これに触ると君主の激怒を受けることになる。

 韓非子はこれを、龍の首の下に1つだけ逆さまに付いている鱗が有って、それを触ったら龍が激怒して食べられるという伝説から「逆鱗」と名付けた。

 これに触ると、もう理屈も何もなくなってしまう。それ以上話を聞いてもらえないどころか、命の危険さえある。

 全く君主に持論を展開するのは恐ろしい。現在の君主は国民一人一人である。これらを説得する事は1人の大統領を説得するよりずっとずっと難しいね。逆鱗もきっとあちこちにあるのだろう。

 

3 巧詐は拙誠に如かず(説林上篇)

 「説難」の時は、論説の構成にかなり気を配ったものだが、どうもやっぱり以前に比べ、キレもなければオチも曖昧。何より構成にブレを感じる。前半の論調と後半の論調がずれていたり、無駄に言葉を変えて同じことを言っていたり。手直しを試みるのだが、いじっているうちに、だんだん逆に本当に言いたかったものがなんだったのかゲシュタルト崩壊し始めることも有る。そこで、やむを得ず、元の文章に戻ってしまうと言う次第で・・・。こうやって、無駄に言い訳を連ねているのもスマートじゃない。

 「日朝国交樹立」案にしても、本当は、その戦略構想は、東南アジア・インドを巻き込み、台湾の主権保護、西洋以上に東南から圧力をかけて、中国を介して、ロシアを大人しくさせるところまで考えていた。

 しかし、日朝国交樹立案の条件設定に力を入れ過ぎて、うまく纏まらなかった。

 それを、他の投稿で補足しようとしたので、意図が伝わったかどうだか疑問だ。

 しかしまあ、これについては、単純に考えて思うのだ。なんで大した喧嘩のネタのない北朝鮮と一生懸命喧嘩しているのか?世界には、あれより忌むべき国はたくさん有る。私の提唱した方法を実践すれば、数十兆円と言う税金が不要となると言うのに。私は、メディアもグルになって国民をマインドコントロールして、裏では武器商人が儲けを山分けしているんじゃないかとさえ考えている。

 そして、ネット上を散々探したが、こんな素朴な疑問が、まるで統制でもされているかのように見当たらなかった。愚問なのか?それとも画期的発想なのか?

 いずれにしても、「巧詐は拙誠に如かず(説林上篇)」。素朴な疑問が、学術的に検討の重ねられた巧妙な論文より勝ることもあろう。綺麗な文章を書くことよりも、その発想を表に出してみる事が重要なのだと考える。

 私の知力では実現できなくても、もっと優秀な人の目に留まって、その発想からより良い道を導き出されることもあるかもしれない。

 

4 およそ人主の国小にして家大に、権軽くして臣重きものは、亡ぶべきなり

 大臣の家の規模が君主の家より大きくなり、臣下の権威が君主の権威をしのぐ、このような時、国は亡びるであろう。韓非子亡徴篇(47の国が滅びる兆候)の第一に挙げられている。今一番私が「孤憤」を抱いている事象だ。

 日本における君主とは、我々国民一人一人であり、ここでいう臣下とは、総理大臣を含める行政機関及び国会議員のことだ。

 本編では、意図した訳ではないが、戦争関連の話が多くなってしまったが、私は単純な反戦論者ではない。

 以前、ある議題の講師として、自衛隊駐屯地に招かれた時、講義中に当時最新鋭の10式戦車が運ばれているのを見て、思わず「あれもしかして10(ヒトマル)ですか?」と受講生の自衛官に尋ねてしまい大笑いされた経験も有る。

 40歳くらいまでは、兵器、地理的戦略構想にも詳しかった方だ。

 ちなみ、前述の講義の後、自衛隊の士官から「10型を自走させますが見ていきますか?」と言う、少年の心をそそられる誘いを受けたが、駐屯地に入って以来、すれ違う人すれ違う人に、立礼(足を止めて頭を下げ挨拶する)を受けていた。

木端役人とて、公に服するにおいては、彼らに同じ。惜念を堪えて「本当は好きなのですが、公務で来ておりますから。」とジョーク以上の戯れは控えた。すると、士官は、即座に私の心境を察し、「では、後日一般公開の機会があればお越しください。」と敬礼した。親しき仲に背筋の伸びる理非曲直を感じ、敬服したものだ。

 それに比べ、なんだ、あの防衛大臣や総理大臣が不似合いな軍服とヘルメットを被って子供のようにはしゃいでいる見苦しい映像は、一応「視察」(公務)と言うことではあるのだが、明らかに戯れているではないか!

 

 ここで言いたいことは、主権者でもない臣下(政治家や総理大臣)がのさばり、君主の目を覆い耳を塞ぎ、勝手に血税をばら撒き、兵器を買い込み、貨幣の価値及び国家の品格を下げ、そして何より、君主に先んじて、「法」(それも国権の制限を定めた憲法)を逸脱しようなどと言う状況を問題視しているのである。

 兵器・戦略・戦術に長けることは、ある意味必要であるが、孫子の兵法によれば、それは全て無用な戦争を避けるためのものであり、止む無く砲火を交えるとならば最も効率的に戦略的目的を果たすためである。私が詳しかったのも同じ理由だ。だから、兵器が格好良いと言う面があることも知っているが、ガキのようにヨダレは垂らさない。

 今の政治家にどの程度その素養があるのか甚だ疑問だ。

 

5 良薬は口に苦し (外儲編)

 前編「説難」では、平和学の創設を訴えるなど、かなり、戦争と平和について議論を展開した。しかし、その後いろんな人の意見を聞いて、この問題については、世代間の違いも大きいが、とにかく人によって考えがかなり違うことを知った。それはなだらかな折れ線グラフのような違いではなく、スペクトラムのように、類似した隣同士の意見でも相容れないように思えた。

 しかし、それは戦争や平和に対する考えだけじゃないのではないか?

 例えば、少子化問題や障害者・外国人の流入、先進国のくせにどこか鈍臭いところの有る我が国のこととか。

 韓非子は、適切な「法」を定める上で、君主は、厳しい反論こそ良薬として耳を傾けるべきだという。民主主義の我が国では、一人一人が君主である。だから、世情の諸問題について語るのであれば、宗廟で「孤憤」を漏らしているだけでなく、他者の苦言に耳を傾け、良薬をして修正し、そのような混ざり合わないスペクトラムから、最大公約数としての「法」となり得るものを生み出していかなければならないのかなあ。とも思うのである。

 最近通うようになったカラオケの歌詞によく出てくる「怖いのは自分だけじゃない。」「一人では見られない色というものがある。」。

 持論は、論破されて脱皮する。良薬の処方をお待ちしています。

ボッティチェッリプリマヴェーラ(春)」

 賑やかであったり華やかであったりする絵画は別に苦手ではない。しかしこの作品はやや賑やかすぎるように感じる。神話の画家と言われたボッティチェッリらしくよくまぁこれだけ様々な神話を1枚の絵画に詰め合わせたものである。登場人物が多すぎて神話のパエリアになってしまっている。

 しかし、どこかでネットの世界を表現しているようにも思える。ガヤガヤとあちらこちらで、自分勝手な会話がなされている。中央で聞いているヴィーナスは、 つまみ食いをするかのように、人々の話に耳を傾け、知識を得ていくのだろう。

 騒がしいところは苦手だと言う人もたくさんいる。しかし、この会話のカオスの中に飛び込み、ヴィーナスの位置に立たなければ、「孤憤」は自我を獲得することができない。

Article 9

1 「Article9」(アーティクルナイン)

 今年の1月から日本は国連安保理事会に非常任理事国として参加することになっている非常任理事国は、各国の各ブロックから1国が投票等で選出されるわけであるが、アジア太平洋ブロックから日本はこれまで12回選出されており、この回数は世界でダントツの1位である。さらに、今年の7月から1ヵ月行われる世界安全保障理事会の議長国となることも決定されている。

 GDPは伸び悩み世界第4位のドイツがすぐ後ろまで来ている。国民一人当たりが抱える借金の金額は、世界1位。にもかかわらず、国家のデジタル化ランキングでは驚きの26位、さらに幸福度ランキングでは54位。それでもアジア太平洋の国々、いや、おそらくアジア太平洋だけでなく、世界中の国々が日本に何らかの大きな期待をしている。

 もう昔のようにODAで他国を支援したり、工業技術で世界のテクノロジーを牽引したりするような国ではなくなった。それでも世界各国は、日本に何を期待しているのだろう?

 

 「Article9」と日本人が聞いてもおそらくあまりピンと来ないだろう。しかし国連安保理事会で、この言葉が飛び出せば、誰もが日本の憲法9条を思い浮かべる。

 冷戦の最中、なんだかんだと憲法の解釈を広げて、今では、世界ベストテンに入る武力を保持している。とかく、その点について、実情に合わせて憲法を改正したらいいじゃないか?という声が出る。

 ちなみに、ドイツは、60回もの憲法改正を重ねて、他国に自軍を配備し、自国に核兵器を配備出来るところまで進んでしまった。

 自由民主党が、「自国固有の憲法を」の掛け声のもと改憲を党是としていることを知っている人も多いと思うが、なぜ、自民党はほとんどの期間、政権をとっているのに、「自衛隊」を「日本軍」に改称することすらできなかったのだろうか?

 衆参両院で3分の2の賛成が必要という改憲発議条件が厳しい?そうでもないんだよなあ。その気になれば、よく見る議席の円グラフの分布なんていくらでも操作出来るものだ。本当はあの円グラフの分布がいつの間にか、選挙結果と変わっていたら、「おかしい」という声が上がるだろうが、今の国民にそれが期待できるかは甚だ怪しい。

 国民投票過半数が取れるかが難しい?確かに戦中派が影響力を強く持っていた頃ならそうだったかもしれないが、平成世代の意見としては、どっちでも良いか、むしろ、改憲派寄りのように見える。実際、徴兵制なんかが始まったら、戦場に送られるのは、彼らや、彼らの子供なのにね。

 というわけで、自民党はこれまでも、多少小細工(根回しと強行採決の連発)を使えば、憲法を改正できたと私は考えている。

 しかし、彼らは、圧倒的有利な状況になる日をずっと待った。なぜか?

 

 これが、「Article9」の魔法だ。

 自民党が恐れているのは、もはや、政治に無関心になったどころか、平坦なGDPに甘んじて、車の免許すら取ろうともしなくなった自国民ではなく、今まさに、眼光をギラつかせて、GDPを引き上げているアジアの諸国民である。

 日本が再軍備することについて、アジアの隣国は、かつての侵略戦争を引き合いに出し激しく非難した。にもかかわらずなぜかこの間も、日本は国連安保理事会の非常任理事国に選出され続けた。アジアでは、日本のある姿勢に感銘するところがあったようである。

 1990年、湾岸戦争の際、国連加盟国が多くの軍人を出す中、日本からは1人も軍人を出さなかったため、「金しか出さない日本国」と揶揄されたと、国内のメディアは大々的に報道していたが、これにより、逆に世界では、アジア人が日本を評価するある姿勢の源である「Article9」という言葉が囁かれ始める。

 「なんだいそれ?」「もう50年も守っているそうだぜ。」「何度、政治家が説得しようとしても国民が許さないんだって。」

 アメリカが日本に要求しそうな事はみんな知っている。日本は、何度もそれをArticle9ではね除けながら、それでも、国際平和に貢献する道を模索している。

 ドイツのように改憲したら簡単なことだ。でも、日本は変えない。だから、その道は険しく、活動範囲を広げようとする度に議会は紛糾し、知恵を絞り出す。

 結局武装はしてしまった。でも今のところ、威嚇も使用も自衛以外の措置では行なっていない。集団的自衛権などを認めてしまったら、果たしてどれほどその信念を曲げることになるのだろう?でも、我が国は、この鎖を持ち続ける。ある時、その力が暴発したり、目的外に使われたりすることがないように。ひた向きに、この重い鎖を引きずりながら、アメリカとキリキリの鍔迫り合いをしている。

 その姿を、隣国だけでなく、欧州や中東も認め始めている。

 もうじき日本はこの宣言を守ること80年となる。これこそ、世界平和遺産に指定されてもおかしくない。だんだん、日本の9条ではなく、世界のArticle9になってきている。

 アジアの隣国は明治からの日本を見て知っている。この国は、二つの道が有れば難しい方を選ぶ。SoCoolなのだ。

 だから、安保理事国にも12回も選出されるわけだ。

 日本なら、安易で多くの民が損をする策よりも、難しくても多くの民が末永く幸福を得られる策を選ぶ、またはその策を捻り出す、と。

 

2 戦争は無くならない?

 先日、友人に、11月15日投稿の日朝国交回復からの、中国包囲策について意見を求めたところ、「そんなことしても、余計に相手を刺激することにならないか?」「まあ、武器を使わずなるべく友好と連携で国際紛争を解決していくことは正しいと思うが、ウクライナの戦争にしたって、報道ではまるでロシアが一方的に悪者のようになっているけど、ウクライナも国内の親ロシア派を迫害していたという問題があるんやで。」「要するに、争いの種というのは常になくならない。イコール戦争は無くならないってことちゃう?」

 「だから、その紛争の解決方法が何で絶対西部劇の決闘やねんと、俺は言いたいねん。」

 若い方々のために西部劇の決闘と言うものがどういうものか説明しておこう。

 アメリカ西部開拓時代、土地や採掘等の権利をめぐって個人同士や集団同士が争うことも何度かあった。西部の荒野はほぼ無法地帯、当然裁判所もろくに機能してない。そこで「決闘」と言う形で決着をつけたものであった。その方法とは、最初に背中あわせに立ち、両方が反対側に1歩2歩3歩と歩き3歩目で振り返り、お互い銃を抜いて撃ち合う。被弾してより大きな怪我を負ったもの、あるいは命を落としたものの負けである。なんでわざわざ背中あわせになって歩いて振り返り撃ち合うのか?それは背後から撃つ事は卑怯であり、向かい合って撃ち合えば正当防衛が成り立つわけで、殺人罪にはならないからだそうな。めちゃくちゃ無法地帯なのに、不思議と法律を守っているところが面白い。

 今、まともな先進国で、こんな方法で民事訴訟を解決しているところが有るか?

 私にしてみたらウクライナの戦争なんてこの決闘を、規模を大きくしただけの愚か極まりない戦いだ。なんで裁判で決着をつけないんだ。どっちも1度は先進国と言われたソ連の一員ではないか!基礎教育を受けてんだろう!

 

 Article9の「国際紛争の解決手段としての武力行使は放棄する。」という思想は、別に日本国憲法9条が発祥でもないし、日本だけが持っているというものでもない(例:コスタリカ)。9条が制定される20年以上前から世界のトレンドとなっていたフレーズだ(1945年にアメリカに押し付けられたと言っている人に言っておくが、日本も1928年自分から宣言している)。しかし、この時はまだ早過ぎた。世界には支配する者と支配される者がおり、万民が平等ではなかった。しかし、第二次世界大戦以降、世界は新秩序の時代に入った。未だに紛争を続けているのは「ゴリラ」だ。

 日本国内では、憲法9条は世界秩序が未熟な現代には早過ぎたという人も多いが、私は、「ゴリラ」どもが遅れていると思っている。ただそれが蔓延っている事が現実であることも確かだ。しかし、今の時代に合っている思想は、本当はこっちであり、その現実は転換しなければならない。

 

3 ゴリラにシューズを

 この思想を、坂本龍馬になぞらえて、「シューズ」に置き換えて考えてみよう。

 よく聞く逸話だが、二人のシューズの営業マンが命令で行かされた国では、みんなが裸足で暮らしていた。1人の営業マンは、「こんなところでシューズが売れるわけがない。」とふさぎ込んでいたが、もう1人の営業マンは嬉々としていた。「おい、ここでシューズの便利さ・素晴らしさをわからせることが、できれば俺たちは大儲けだぜ。」

 日本人は、もう80年近くこのシューズを履いている。かなり重い物だが、長い間身につけていたから、使い方(ノウハウ)は、かなり習得している(はずだ)。「大丈夫。これを履いていればこんな世の中でも襲われることはない。いや、同じシューズ仲間として守ってあげるよ。今まで培った知恵と友好でね。」

 この一言で、かなりArticle9シンパが増えると思うが、さらにこれを効果的にするためには、シューズを持った者がいかほどのものか見せつける必要が有る。

 そこで提案なのだが、せっかく安保理事長国になったんだから、ウクライナ紛争を解決しちゃうというのはどうだろうか?(正直、私如きの才では完全な戦略は建てられていないのだが)

 まず中国だ。私には良い案は浮かばないが、何かこの紛争を解決して得になる道を絞り出す。中国は、台湾情勢のことも考えれば、なるべくこの件には携わりたくないはずだから、どんな土産を用意するかが知恵を要するところだ。

 しかし、中国が動いて仲介役になってくれれば、停戦は確実に成る。

 さすれば、後は終戦条件を国連の席で話し合い。これは多分そんなに難しくない。どうせ両国とも、出口探しに困っているのだから、国連の言いなりだ。まあ、親ロシア派の領土の割譲を条件にNATO入りを認めさせるというところが落とし所でしょう。

 世界の80%がシューズを履いたら、ゴリラは裸足でいられるだろうか?自明でしょう?

 日本人という民族は不思議な民族だ。このゴリラの檻の中で、無茶振りとも言えるこんな重い鎖を80年近く引きずり続けた。私は、これを誇りに思うと同時に、ぶっちゃけこのままゴリラどもがいつまでも新秩序を否定し、ゴリラの世界を続けるなら、一人くらい人間として、侵略されて滅亡する国があっても良いくらいに思っている。

 100年後には、称賛の的となって年表に刻まれるだろう。

 12回も世界の平和を構築するための委員に選ばれているのなら、一度それくらいの覚悟でゴリラどもを説得してもらいたいものだ。

クロード・モネ『ジヴェルニーの日本の橋と睡蓮の池』

 印象派の巨匠で、光の本質を追い続けたことから「光の画家」の称号を持つ、クロード・モネ。彼は熱心なジャポニズミスト(日本画および日本文化に魅了された芸術家)で、晩年の邸宅に大規模な日本庭園を構築し、それを描き、おびただしい量の作品を生み出した。しかし、その作品群はまるで何かを探究しているようにも見えた。
 直接文献は残っていないが、彼は日本の何が自分をこれほど惹きつけるのかそれを探究していた節がある。

 彼が答えにたどり着いたかは不明であるが、この太鼓橋と睡蓮の絵画を見れば、日本人の私には一撃でわかってしまう。

 「大胆さと静謐の共存」

 ワールドカップのサポータが示してくれた通り、日本人というのは、争うときはとことん争うが、それでいて清廉で静謐なところが、Bravo!なんだよね。

手製の銃弾が残したもの

1 銃による暗殺

 2022年(令和4年)と言う年を締めくくる上でどうしても外せない話題がある。

 今年7月、まさに日本では考えられない暗殺事件が起きた。

 殺害されたのが元首相であると言う衝撃も強かったが、多くの人は、日本では歴史上初となる「銃」による凶行というキーワードに震撼したと思う。

 しかし、私は、そこに付け加えられていた「手製の銃」という言葉が興味深かった。

 当時警護を担当していた奈良県警は、各方面から散々に非難を浴びていたが、私は日本と言う国の治安の高さを強く感じていた。テレビや映画では簡単に手に入るコルトやトカレフはどうしたんだろう?

 自衛隊経験のあった山上容疑者(なぜか異例の長さの拘留が続き公判が始まっていないので、容疑者のまま)は、なんらかの経験上、この国においては、どのようなルートを使用したにしても、「銃」を入手した者は官憲にマークされることを悟っていたのではないだろうか?

 実際、私の知る限り、カタギの人間が個人レベルで銃を使った犯罪の歴史上、その銃は、正規のルートにより実名で入手したものか、事前に盗難に会っていて、官憲の探索中だったものしかない(暴力団や過激派のような組織的なものは別である)。

 銃を買う金がなかった?いや彼は、花火からかき集めた火薬を乾燥させるだけのためにワンルームを借りている。

 それにしても凄まじい執念だ。今時花火師でもやらない硝酸アンモニウム等からの火薬の配合といい、不足分を花火の微量な火薬をかき集めるなど、想像を絶する根気と気の遠くなる時間をかけて、彼は、何度も何度も、憎んでも憎んでも憎みきれない仇を殺し続けたのだろう。怨恨もここまで来れば天晴れというべきかも。

 

 いずれにしても、銃による暗殺と聞いて、「日本も物騒な国になったものだ。」と感じている人達は、そんなに不安を感じる必要はない。こんなケースはおそらく相当稀有なもので、日本の銃刀法の規制は十分に機能しており、治安だけは他国に自慢できる国であることについては変わりない。

 ただ、それは、銃刀法という武器に対するものだけであって、山上容疑者がこの事件によって投げかけた、宗教団体や詐欺集団から、無辜の市民が安全に守られているかというと難しいところがある。

 そして、そのような集団と手を組んで議席にありついている政治家が山ほど居て、その悪事が見過ごされていた可能性があると言うおぞましい事実は、強烈なインパクトを与えたと言えよう。

 正々堂々と宣戦布告をせず、無予告に行われる暗殺やテロリズムは、卑劣なものだ。

 そのような違法行為によって社会に変化が起きることは、法治国家においては、決して認められない事態なのだが、山上容疑者の行為は、結果的にリクルートロッキード並みの激震を起こし、社会に大きな変化を起こした。それは、山上容疑者が、容易に手に入るサバイバルナイフではなく「銃」を使用したからである。

 確かに接近戦を望めない状況から「銃」を選択することはわからないでもない。しかし、積年の怨嗟を積み重ね完成させたその銃の殺傷力は、クロスボー(ボーガン)程度、いやそれ以下だっただろう。暗殺が成功したのは、サバイバルナイフでも殺せるほどの距離に接近できたからに過ぎない。

 この山上という人物、実は優秀な進学校を出ている。殺害はたまたま上手く行っただけのこと、彼の狙いは、「銃」による襲撃そのものであったように考えるのは私だけだろうか?そして、世間に訴えたかったのは、統一教会の非道だけだったのだろうか?彼が花火から丹念に火薬を抜き取り、床に均等に敷き詰め乾燥させる姿を想像すると、彼ほどの知者がその程度の目的に突き動かされていたようには思えないのである。

 すなわち、ターゲットは最初から、安倍元首相であったのではないだろうかと考えられるのである。

 

2 バチが当たるは誹謗中傷?

 アベノミクスが始まる前夜、株投資の損失が繰り越せる税制改正が有った。長い低金利に痺れを切らし、株の投資に走る人が増えていたが、いかんせんまったく儲からない。繰越損失は、数百万から2〜3千万円に膨れている人も居た。ところが、アベノミクスが始まると、株価は高騰し、その莫大な赤字が全部消えて黒字にひっくり返る「黒転」という現象をたくさん見たときは、安定政権の重要性を強く感じた。

 もともと、護憲派の私は強硬な改憲派である安倍首相とは相容れない立ち位置にあるのだが、思想が違うからといって、善政を行っている首相を非難することはない。従って当初は、彼の政策を強く支持していた。

 

 しかし、森友学園騒動辺りから少々雲行き怪しくなってきた。

 そして、その疑念は、自殺した近畿財務局職員、赤木俊夫さんとその遺族に対しての対応を見て確信に変わった。

 誰が彼を自殺に追い込んだのか?改ざんを命じた上司でしょう?

 そんな簡単なことか!?

 例え、安倍元首相や昭恵夫人が直接関与していないにしても、歴代一位の在任期間によって出来上がってしまった忖度という闇に対して、行政府の長として、彼は赤木さんとその遺族に詫びるべきであった。

 「権力は腐敗する。」19世紀の英国の歴史学者ジョン・アクトン卿の言葉だが、権力は長期化するほど腐敗するものである。韓非子は、孤憤編で、君主そのものより、取り巻きの重臣やその部下(重人(じゅうじん)と名付けている)の行為こそ注意が必要であると語っている。プーチン習近平の政権が延命されるのは、実はこのような既得権益を握った重人の謀略かもしれない。

 行政の長たるものは、己を律するなど当然のことで、部下の行動を十分に監視し、不備あらば責任を負ってこそ長と言えるのである。よく、任命責任などというくだらない責任を追求している暇な政治家が多いが、私は未来まで予想しろとは言わない。ただ、その部下が起こした不祥事によって生じた損失や痛みを補填することは望む。

 在任中はいろいろ事情があろうと思い我慢していたが、コロナ対応でやりたいことがしにくくなってきた途端に政権を投げ出した時は、「もういいだろう?赤木さんの墓前に線香でもあげに行け。」と考えていた。ちなみに妻の雅子さんは、麻生(当時)財務大臣には、弔問を願ったというが、これも無視されたという。

 この頃から、私は公然と「彼はいずれバチが当たる。早く赤木さんの墓前に挨拶に行くべきだ。」と言ってはばからなくなった。

 昨年の岸田氏が当選した総裁選でも、「えらい元気やないか?」と言いたくなるほど、だんじりの大工方のように、跳ね、跳び回っていた。

 その裏で、あんないかがわしい宗教団体の応援を大々的にして、もう時代劇に出てくる悪代官、いや悪将軍だ。さらに、先日の岸田総理の会見で知ったが、11月15日の投稿「日朝国交回復」で取り上げた、防衛費引き上げ案の立案者も安倍元総理だそうではないか?そういえば、「拉致問題」を国民に刷り込むのに一番熱心だったのは、あの人だったな。もうこうなると、国家反逆罪だ。でもって、「国葬」だって。岸田さんもバチが当たるかもしれないね。

 外交では評価されているようだが、自分の国を売って良いのなら、私でもそれなりの成果を挙げられる。歴代最長政権?第一次の時は、「お友達内閣」と揶揄されることに耐えかねて、おなか壊して投げ出したの覚えている?調子の良い時だけ総理の席に座って、都合が悪くなると体調を崩す。総理大臣なんて命を削る職務だ。私だったら、毎日一瓶の薬を飲んで続けるね。体調不良で部下に大事な局面を押し付けたような人間が、総裁選で裏工作しているのを、なんで周りは文句言わないのかねえ。長期政権の腐敗ぶりは相当なもんだよ。

 

 死んだ人の悪口を言ってはいけない?その言葉って前から気になっていたが、何の論拠があるんだ?

 死んだ人にそれほどの尊厳があるのなら、赤木さんのファイルはなぜ公表されない。

 

 国民は気持ちの悪い統一教会ばかりを敵に回しているが、山上容疑者が開いたドアはそれだけではない。もし、私の勘ぐりが正しくて、彼の目的が、この国を蝕む重人の腐敗を知らしめることも含まれていたとしたら、今後の裁判は慎重に行われなければならない。我々は、強い関心を持って彼の真の狙いを突き止めるべきである。

 部下の不祥事について責任を取るのは、行政の長の務め。しかし、政治の腐敗を質せないのはこの国の最高権力者である我々国民の責任である。

ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ「ひまわり」(7作分の3)

 ゴッホの代表作「ひまわり」は、全部で7作有る。その由来は、彼が新進気鋭の画家達を集めて新しいコミュニティーを創ろうと企てたが、結成の日参集してくれたのは、ゴーギャンただ一人だった。それでも、彼は、その感動を忘れられず、参集者を迎え入れるべく、集会(予定)場を飾っていたひまわりを描き続けたと言われている。

 掲載した7作分の3は、実は戦災で消失し、徳島の大塚美術館が再現したものだ。枯れ、朽ち果てて7作の中で最も醜い。にもかかわらず、私は7作の中で最も好きだ。なぜなら、ゴッホが表層の美しさより、感動こそが絵画にのみ許された表現であることを証明しているからだ。

 残念ながら、彼の作品の意義を最も理解していた弟テオが、画商でもあったにもかかわらず、ゴッホの絵は生前一枚も売れなかったことは有名である。

 

 安倍元首相のことを散々コケ下ろしたが、私の見解としては、彼が、少なくとも私利私欲ではなく、本当に国のことを思って行動する政治家であったことは認めている。彼の行為は、いずれ歴史上正しかったと判断される日が来るかもしれない。

 何事も、表層だけで判断してはいけない と言う人もいよう。

 しかし、我が国は法治国家である。山上容疑者の行為に如何に正義が存在しようとも、彼は人殺しとして裁かれる。

 安倍元首相の不都合な真実隠蔽工作に加担したものは、悉く罪人であり、その罪は、韓非子が国家の存亡に関わると言った「重人」の罪である。