説難

LGBTについては話せない

1 名前を言ってはいけないあの人

 USJのアトラクションとして大人気の「ハリー・ポッター」。原作はハードカバー7巻に及ぶ長編小説である。この中で主人公ポッターの敵役となるのが、かつて圧倒的魔力により魔法使い達の世(魔法界)を、恐怖のどん底で支配した、ヴォルデモートと言う最強の魔法使いである。

 この敵役について、序盤では「名前を言ってはいけないあの人」と言う表現で表され、魔法使い達は決してその本名を語ろうとせず、本名が公表されるのは2巻以降になる。その示すところは、その名前を挙げて悪口を言う事はもちろんのこと、肯定的意見を述べることも災いの種となるということである。しかし、怯えて何も話さない人もいる一方で、「名前を言ってはいけないあの人」と言う主語をつけていろいろ話す人もいて徐々にその情報が集まってくる趣向となっていた。

 

 少し前の、政策秘書官のオフレコ発言が公表され、当人が更迭されるに至った件について、テレビの報道を見ていて、私はこの「名前を言ってはいけないあの人」の話を思い出していた。

 マスコミや政治家は、決してLGBTを批判する事はしない。少数派(マイノリティー=社会的弱者)の権利を擁護することが正義であると強く訴え、それに反する意見を言う者は、あたかも時代遅れの愚者であるかのような扱いだ。LGBT問題は、先端的で知性と理性を必要とする問題だ。学の無い庶民は黙っていろと言わんがばかり。そして多くの者にとってLGBTは、肯定も否定もできない、「名前を出してはいけない人たち」になっていった。

 

 なお、私は、LGBTを否定する気は無いし、思想・信条に批判的な考えは全く持っていない。

 中高生の分際で深夜の繁華街に出入りしていたため、何度も男色買春の誘いを受け、非常に不快に思った事や、友人が巧みな誘いに掛かり、菊の門に、拭えぬブラックタトゥーを彫られたと言う憎らしい事例も見て来たが、個別(ケース)の問題としてちゃんと整理できている。

 人類は多様化を受け入れることで進歩してきた。彼らの趣向と願望の先に、「女性しか妊娠できない。」という神が与えたもうた難問のうちの一つを蹴破るかもしれない。それくらいの認識は有る。

 しかし、それを受け入れられないからと言って、「進歩的で無い。」「思慮が浅い。」「思考が狭量である。」と批判するのも間違っていると思っている。

 つまり、今回の投稿は、LGBTの良し悪しを問う物でなく、その報道のあり方について問うものである。

 

2 メディアの責任

 多様性を受容することの重要性も、LGBTが常識化し現行の法律がもはやこれに対応しきれて無いことも事実である。

 これに対し、西欧ではここ2、30年で法整備を整え、インフラ(三つ目のトイレや浴場施設等)の整備にまで取り組んでいる。タイや台湾・インドネシア・マレーシアなどアジアも例外ではない。

 日本は、なんとかこれに追いつこうと焦っているように見える。

 私も、西欧信奉者の一人ではあるが、あと数十年で「パパ・ママ」の概念がなくなりそうな離婚率にはうんざりしている。人権や社会制度という文化の高さは認めるが、こと「節操」という概念に関しては疑問符が付く。

 そして、日本人は、この「節操」を重視する傾向が強い。

 その答えが以下の現状ではなかろうか?

 ・2021年NHK世論調査

 https://www.nhk.or.jp/gendai/comment/0029/topic023.html

 同性婚に対する回答が注目である。

 他人事なら、消極的賛成を含め57%。自分の家族となるとこれが45%に落ちる。積極的賛成の変化はさらに顕著で半減している。

 もし、政府やマスコミがこれらの日本人の文化を無視して、単に西欧の成功を追いかけているというのであれば、それは「顰みに習っている」愚か者だ。

「顰に習う(十八史略):優れた人の所業について、その本質を理解することなく、ただ形だけをまねること。 猿真似 (さるまね) 。」

 

韓非子55篇 内儲説篇 上 七術

(説6:韓昭侯、爪を握り、而して佯(いつわ)りて一爪を亡(うしな)うとして、これを求むること甚だ急なり)

 韓の昭侯は爪を切り、その一つを手の中に隠しておいて、「爪が一つなくなった。早く探せ」。と、そばの役人たちをせきたてた。すると、ひとりが自分の爪を切って、「見つかりました」と、差し出した。

 

 韓非子は言う。「君主は決して、自分の好き嫌いを表に出してはいけない。それを忖度する者が周囲に増えて来て、真に賢なるものの声が聞こえにくくなり、彼らを遠ざけてしまう。」

 LGBTの立場や悩み、歴史、病理的知識、反対派の論理といった、理解すべき事項(本当の爪)は蔑ろにされ、みんな適当な爪を拾って、中には自分の爪を切って(持論を放棄して)、「有りました。」と言い始めることになる。これは、「集団極性化」と言い、現代では科学的に立証されている。

 

 表向きは賛成していても、中身はバラバラ。

 ・社会的マイノリティーを擁護して正義を翳す連中

 ・社会的マイノリティーを理解する人々

 ・社会的マイノリティーに寄り添える人

 ・よくわからんが、みんなが賛成しているから賛成する。

 そしてこの中の一番の多数派は四番目で、具体的に船が動き出すと一番慌てふためき文句を言い出す連中だ。

 

 偏った世論がこれに反する意見を封印し、政道を硬直させる。

 日本を太平洋戦争に向かわせたものは、軍部だけでなく、世論の圧力が相当影響していた事は現代では周知の事実だ。今の軍拡路線も同様である。一体何度同じ間違いを繰り返すのだろうか?

 

3 オフィシャル VS ノンオフィシャル

 地震が起きたら、「NHKを点けろ」と言われたのが昭和世代の常識だった。TV・新聞、中でもNHKが最も即応的で、正確な情報、つまりオフィシャルな情報を与えてくれると信頼されていたからだ。

 しかし、最近のZ世代の若者は、もうテレビや新聞の言うものにそれほど信頼を置いていないように見える。

 先日Z世代の後輩がこう言っていた。

 「今時、ググって、1ページ2ページで世間を知ったつもりでいてはいけない。4、5ページまで読んで、多彩な意見を取り込んでいないと説得力を失って聞こえる。」

 なるほど、1、2ページ目は、大手新聞社・放送局関係が続き、その内容は、LGBT理解の推進派、または擁護派だ。

 しかし、4、5ページ目になっていくと、批判的な意見が多く現れてくる。意見は多様性に富み、その問題が、オフィシャルメディアが言うほどシンプルではなく、もっと複雑なものであることを示している。

 最も手厳しいのはYouTubeだ。めくれどめくれど、LGBT批判のオンパレードである。LGBTの当事者までもが「余計なお世話は不要」と言う記事を何人も挙げている。

 しかし、これらのいわばノンオフィシャルな意見には弱点がある。その情報および内容の信憑性が確実に担保されているかと言う点である。

 言いたいことを言っているだけなら、的確な反論とは言えない。論拠・根拠・事実といったエビデンスというものが必要である。しかし、個人の経験や知識・収集できる情報は限られている。

 これに対し、大手報道各社と言ったオフィシャルなメディアの強みは、その潤沢な情報源に裏付けられた情報の精度の高さであり、それを保証する十分なエビデンスにある。

 また、発信先の量にも大きく差が有る。ネットのニュースは、かなり話題を呼んだものでも数百万回再生程度であるが、テレビの視聴率を単純に信じるなら、深夜番組でも数百万人~1千万人の視聴者が居る。

 これは、いずれも本当にそれだけの人が観ているかどうかという問題ではなく、発信する側が負う責任の重さを表している。

 従って、嘘をついたりしていないかどうかという点だけを論じれば、オフィシャルなメディアに軍配が上がる。

 

 しかし、問題なのは、昨今のオフィシャルなメディアには、口裏を合わせて同じ方向性の発信を行い、自分たちが好んでいる国民性へ誘導しようとしている節がある点だ。そして、万人の賛同を得たわけでもない「正義」を勝手に作り上げている。

 前述の政策秘書官の発言は、本来オフレコと言われるいわゆる口外無用のものであったが、ジャーナリストは「正義」の下にこれを公表したと言う。しかし、先ほどから述べているように、この問題は決してシンプルなものではない。その正義が万人の賛同を得ているとは考えられない。

 

4 これから求められるのはリアリティだ

 若者たちだけでなく、多くの人々が、オフィシャルメディアから離れてきている。もう右向け右の判で押したような報道にうんざりしているのだ。普通はもっと多様な意見があって然るべきである。つまり、確たる真実を報道しているにもかかわらず、リアリティがないのだ。

 TikTokの次に来るのがBe REALと言われる、突然指定された時刻に、目の前にある光景を加工なしに配信すると言うアプリらしい。要は、加工された、編集された動画に魅力がなくなって来たのだ。

 昨今、ネットの記事の配信者は、無駄な虚飾を極力減らしている。それがウケなくなって来たからだ。そして、かなりエビデンスを示し、記事の信憑性を高め、リアリティをアピールする。

 だんだんジャーナリズムとしてのレベルを上げつつある。このままでは、その内「地震が起きたら、スマホを開け」になるだろう。

 実際、東日本大震災の時はネットの方が情報展開するのが早かった。

 

 しかし、オフィシャルメディアには、まだ頑張ってもらう必要がある。なぜなら、国民が本当に必要とするリアルを発信できるのは、今のところ彼らの方が優位にあるからだ。

 確かにリアルな映像のインパクトは強力である。しかしリアルとは加工や編集がされていないことだけを言うのではなく、その情報が、歴史や実話(エピソード)、科学的根拠、論理的思考など、何らかのエビデンスによって真実であるという、いわゆる「ウラが取れている」のであれば、それもリアルなのである。

 そして、国民の意思決定という重要な場面では、映像による瞬間的なリアルではなく、そのような長期間語られ続けた実績を持つリアルの方が重要視されるべきなのである。

 

 例えば、こんなエピソード。

 コンピュータを発明したのは、国や企業ではない。その原理の大半は、イギリスの「アラン・チューリング」と言う青年が設計したものだ。しかし、彼は同性愛者であったがために、長年その功績は秘匿され、ノーベル賞はおろかその偉業を知る人すら少ない。

 彼は自分の設計では、完全なAiは作れないと予言し、さらなる研究を進めようとしたが、同姓愛者を矯正するためのホルモン治療のため精神を病み、41歳で自殺する。彼の死後70年、チューリング式コンピューターはある限界に達しAiにはたどり着けないと言われているが、これを打破する次の天才はまだ現れていない。

 

 科学的な話をすると。

 生物の多くは、基本素体は全員女性であり男性ホルモンがこれを男性化する。つまり材料は同じで調味料が違うだけであると言われている。

 発情期(人間の場合は思春期と言うべきか)に入ればホルモンが脳を支配することにより異性に関心を持つようになる。しかし知能が高い生物ほど発情期までに与えられる情報が多いためホルモンが発動した時、これに戸惑ったり、はねのけたりしてしまう現象が起こる。性同一性障害は魚レベルでも起こるのだ。

 

 論理的思考で考えてみると。

 同性愛者に尋ねるが、あなたは、幼児に性欲を持つ者や、犬やペットといかがわしい行為(獣姦)を行う人を見て、不快に感じることはないか?

 同じように、普通に異性を恋愛の対象とする者から見れば、普通でない性癖は不快に感じるのが通常であり、理性でこれを容認しているに過ぎないのである。

 

 こうやって、リアルな事実を積み上げて、意見をぶつけ合えば、潤沢な知識と情報源を持つオフィシャルメディアの方がずっと面白い話、素晴らしい意見、そして、適正な解決策への糸口を見つけ出すきっかけになるはずなのである。

 結託して大衆を導こうなどと言う傲慢な事はやめて、自分たちの情報力の総力を挙げて、ガチンコで知識を競い、リアルな論争を繰り広げれば、ネットへ流れた視聴者も帰ってくるだろう。

レオナルド・ダヴィンチ「モナ・リザ

 ダヴィンチの現存する絵画作品は16作ほどしかない。そのうち3枚が彼の亡くなるまで売却されずに手元に残されていた。そのうちの1枚がこのモナ・リザである。

 もう1枚知る人ぞ知る名作「洗礼者ヨハネ」というのがあるが、この2つに共通するもので、モナ・リザは、女性を描いたにもかかわらず、どこか男性像を思わせる、洗礼者ヨハネは、男性を描いたにもかかわらず、どこか女性像を思わせると言う点である。

 ダ・ヴィンチは、両性具有とも言われるこの2作を手放さず、死の直前まで筆を加え続けていたという。そこには、人間の本当の美しさとは、性が分かれる前のものでは無いのかと言う思いが有ったようにも見える。