説難

説難

1 韓非子

 紀元前3~5世紀。秦が中華を統一する前夜、十数国の小国が生き残りをかけてしのぎを削っていた。そんな中、国を守り繁栄させ安定させる手法を求めて、多くの政治思想とそれを唱える思想家が生まれた。

 俗に言う、諸子百家である。

 なかでも、論語を記した孔子を始め、老子孟子荘子くらいまでは有名だろう。

 その中に、韓非子と言う、知る人ぞ知る名士がいる。

 義理・人情を否定し、理屈と法によってのみ国を治めるというという徹底した合理主義を唱え、同じく、適正な統治のためには感情は無用と、強く唱えたベネティアのニッコロ・マキャベリになぞらえて、東のマキャベリと呼ばれている。

 韓非子の著書は、韓非子55篇と言う非常に長いものであるが、その中には、現代でも通用するたくさんの教訓が説話形式で綴られている。

 韓非子と言う名前は聞いたことが無いにしても、「矛盾」の語源や、守株、逆鱗、完璧、想像、蟻の一穴、こういった言葉の語源が、この韓非子55篇にあると聞くと驚く人も居るだろう。

 なんでそんな有名人が、孟子荘子より知られていないのか?その点については、追々話していこうと思う。

 

 ところで、この韓非子55篇の一篇に「説難」と言う項目がある。

 この中で韓非子は、どのような良いアイディアでも、権力者に受け入れてもらうまでには様々な障害があり、なかなか聞き入れてもらえないことを説明している。

 権力者の心を読み、彼の欲するものに合わせて、提言することを求めている。

 しかし、その続きの中で、場合によっては身の危険を伴うこともあるという。例えば、同僚やライバルの妬みや嫉みによる妨害である。

 

 韓非子は、その著書にいたく感銘した秦の始皇帝に呼び出され、直接著書の解説を求められる機会を得る。当時、中華統一を目前に控えていた秦の官僚に抜擢される大チャンスである。

 しかし、皮肉なことに、自らの著書に記したように、己の利益を保全しようとする同僚の李斯(同じく荘子に学んだ同門の兄弟弟子)の讒言(うわさ話)により、始皇帝の不興を買い、最後は自決に追い込まれる。

 

2 現代の説難

 韓非子を始め、いくつかの書物を読み漁る中で、不肖ながら、私ごときにも諸子百家のように、当世を鑑み主君に訴えたき義、あるいは多少社会の効用に貢献できそうな独創的なアイディアと言うものが浮かんできた。

 さて、これをどこへ持ち込めば効率的かと言う事になるのだが、それはやはり時の権力者と言うのが、もっとも効率的と考えられる。

 韓非子の時代、権力者と言えば君主つまり王様と言うことになるのだが、これを現代に置き換えると、権力者とは何を指すのであろうか?一見国会議員や官僚、気の利いたところでマスメディアなどと言う答えもあるだろうが、制度的には民主主義である以上、国民一人一人が権力者なはずである。

 しかし国民一人一人が君主と言うのであれば、これはまた、扱いにくい代物だ。

 賢者もいるだろうが、空気に流され、ろくに思考しない者も多い。国家・社会のことなど語りだすと、煙たがられるのが落ちだ。本心から国の行く末を憂う国士の声は、いつも吹き荒む風の中のように感じるのは、私だけだろうか?

 韓非子は、このように、君主が君主の自覚を持たず、良案名案に耳を傾けようとしなかったことを「説難」の一つとして上げている。

 そして、もう一つ、重要な説難として、「君主が情報を遮断され、奸臣(五蠢(ごと)と呼ばれるが、後日詳しく取り上げる。)にとって都合の良い情報しか入ってこない状況」を挙げているが、これはまさしく、今の社会で言う所の、「情報公開の欠如」若しくは「情報操作」のことである。

 ちなみに、この原稿を書いている2018年1月ころ、時の安倍総理は、森友問題や加計学園問題が発覚し、火消しに奔走していた。どういうわけか、私たちが最後の砦として期待する中央省庁が、歯切れの悪い答弁を繰り返している。

 特にショックだったのは、官僚の中の官僚である財務省事務次官の体たらくだ。彼には、公務員の信用失墜行為の罪で刑務所に入ってもらいたい。

 いずれにしても、現状では、偏った情報のみを与えられ、一部の臣下とその身内だけが利益を享受する、適正公正を欠いた行政が行われているが、どうも主権者たる我々はそれについて正確な情報を得ることができていないようだ。

 韓非子は、その著書の中で、君主が君主の自覚を持たず、情報を正確に掌握しなかったためにほろんだ国家の例をいくつも挙げている。

 

 私の説難は韓非子の時より険しいかもしれない。

 民主国家に生まれ落ち、昔に比べれば、言いたいことは自由に言えるし、このようなSNSのように、持論を訴えられる場も多い。

 しかし、聞く側はどうだろう?少なくとも今の日本において、自分が君主であるという自覚を持っている人がどれほどいるだろうか?

 

3 民主主義って

 民主主義は、人類の政治形態の最終形で、争いの無い、洗練された文化的な、理想の世界へと人類を導いてくれるものと信じているが、その道は、君主制よりもずっと難しいのかもしれない。

 そもそも、民主主義においては、自分が主権者であり、権力者であると同時に、責任者であることを自覚しているかということから怪しい。「え?僕って王様だったの?安倍さんて、僕の部下だったの?」。そのような認識では、一国家の安寧すら危ぶまれるのではないだろうか?

 しかし、韓非子は、権力者に多彩な才能や卓越した能力を求めない。ただ、賞罰の権力を離さないこと(二柄と言われる彼の思想の重心の一つであるが、これも後日投稿する)と、説難を廃して、見て、聞くこと。これだけができればいいという。

 私はこれから、この著作で、いくつかの提言を示したいと思っているのだが、そのためには、並行して、当世に臥する説難を排するため、民主主義下において、主権の何たるかについても提言していく必要が有るかとも考えている。

 おそらく、それほど難しいことを理解する必要は無い。自分たちが主権者であり、勝手に妙なことをしているような連中が居たら、処罰できると言う事がわかるようになれば十分だろう。

 今回は初稿であるので、まず、自分が主権者であることを自覚し始めれば、説難に妨げられているものがいろいろ見えてくるのではないだろうか?という点のみ述べておこう。

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ラス・メニーナス」 ベラスケス

 中世スペインの宮廷画家ベラスケスの傑作。日本語で女官(今で言うメイド)たちと言う題名なのだが、登場人物がたくさん描かれている。

   「さて、この場を実効支配している登場人物は誰でしょう?」と問えば、実は結構、知れば知るほど深い問いであることに気づくでしょう?

 女官をはべらす王女マルガリータ?胸を張って尊大に立つ画家ベラスケスの自画像?いいえ、この場を支配しているのは、この絵画の制作を依頼したマルガリータの父フェリペ国王である。

 出てないじゃん!

 いえ、それが、出ているのです。マルガリータの左上の鏡に、一連の作業風景を鑑賞するフェリペ国王夫妻が。

 国民主権も、目立たないところで目を光らせている、このようなものであるべきなのかもしれない。