説難

良薬は口に苦し忠言は耳に逆らう

韓非子55篇 外儲編

 大変有名な言葉なのだが、その割には由来がはっきりしていない。それでも実は古典に活字として登場するのは韓非子55篇が最初である。

 

 この言葉については、よく勘違いされているところで、「確かに正露丸は、本当に適法な成分で構成されているのか疑問に思うほど強烈な匂いを発するが、下したお腹を瞬時に治してくれる妙薬である。」ということを言いたいわけではなく、本当に役に立つ忠告というものは、総じて耳に痛いものだ。ということを指している。

 先日、士官学校で調子に乗りすぎて嫌われたと言う話をしたが、この時、同班の後輩が何度か「悪い噂が立っていますよ。少し目立たないようにしたほうがいいですよ。」と言う忠告をしてくれていた。

 当時まだ絶頂期で、「燕雀焉んぞ鴻鵠の志を知らんや」の状況にあった私には、小者の嫉み妬みを相手にする気にはなれず彼の忠告を無視した。しばらくすると、彼は大変残念そうに私との距離を開けるようになった。考えてみれば、彼は自分に累が及ぶギリギリまで私のそばにいて忠告を続けてくれていた。立派な男だった。

 ちなみにこの後輩は現在大出世し、早晩わが系統(軍隊で言うと陸軍・海軍・空軍などが有るが、うちは陸軍といったところか)のトップになるものと目されている。

 実に貴重な人間関係を失ったものだ。

 

 このように、韓非子の教えには、実社会にも役に立つことが多い。だから彼の説話が基となった故事成語が現在も多用されているのだろう。

  図書館で韓非子の本を探していると、やたらと「今も生きる」とか「実社会に活かせる」とか言う冠詞が目に付く。特に韓非子は、ビジネス面でのリーダー哲学として珍重されているようだ。

 

 ただ、それはそれで良いにしても、そもそもは、国家の運営について語られた書物である。そして、本ブログで何度も語っているように、我々がその国家の運営を担う主権者である。

 そこで、良薬は口に苦し忠言は耳に逆らうを、国家レベルに置き換えて考えてみる。

 まず、忠言の多くは後回しにしたくなる頭の痛い事実に関連する事だ。これを聞かずして、後回しにしたり、なおざりにすることが良薬を吐き捨てていると言うことになる。

 例えば、財政赤字

 財政赤字の問題は、実は収入よりも支出が多いことではない。

 借金まみれの人に金を貸す人がいる。彼らは、借入人が元本を返す能力が無いから貸すのだ。いつの間にか貸した金を超える利息を手に入れても、利息は入り続けるから。日本の国債の所有者の多くが、同じことをしている。多くの国民は彼らに利息を払うために税金を納めている。

 この状況を打開する方策は二つ。一つ目は、利息の支払いを先送りにし、元本先払いとする。二つ目は、国債の所有量に応じ固定資産税を課すことである。

 いずれを選択しても、おそらく日本の国債は暴落するだろう。しかし、無駄に税収の上昇を期待したりこれ以上福祉を低下させるよりましだ。今の日本なら、ギリシャほどにはならない。苦い薬を飲むなら今だ。

 知っているだろうか。日本はOECD設立20か国で唯一実質賃金が低下していることを。しかも20%も。GDPは上がっているのに。

 企業が、賃金を渋っていることが原因だが、企業だけが悪いわけではない。

 私の思う諸悪の根源は、「社会保険料と年金」だ。特にもらえるかどうかわからない年金の積み立てには、暴動が起きてもおかしくないくらい、庶民の不満は一致している。

 国民年金を世代間負担から各自負担に切り替えればかなり状況が楽になる。

 これも一部からは反発必死の改革だが、良薬は口に苦いのである。

 

 さて、ほかにもいくつかあるが、常に良策は苦い部分を持つ。

 これはより大きな公益の前には一部の人間の不利益は甘受されなければいけないと言う考えでもある。

 そしてそれこそが、韓非子の良薬の苦い部分であると私は理解している。この非情な切り分けが、東のマキャベリと呼ばれる所以である。

 このような考え方は「最大多数の最大幸福」という言葉で有名なベンサム功利主義といわれる考え方である。その考え方は、大変合理的と言われつつも、人道的でないという批判の的にもなっている。

 

衣食足りて礼節を知る

 先日の平和学でも取り上げたように、弱者を救済するのは、ある程度現状の問題点を平定してからではないかと考える。重要なのは、政策のストラテジー(中長期的戦略)の中に、その弱者救済のフェーズを明記することである。

 政策のストラテジーは、通常いくつかのフェーズ(ステージ若しくは段階)に分かれる。フェーズは、一定のターゲットをクリアすることによって次のフェーズへ進むことが示唆される。これにより、救済が始まるにはどのターゲットがクリアされるかと言う明確なターニングポイントが示されるわけである。人々は、人道的なことをしたければ、そのターゲットを目指せば良いのである。

 この考え方は、私独自の考え方で、マキャベリ韓非子ベンサムも語っていない。功利主義を否定する方々も主張する方々にぜひ参考にしていただきたい。

 

 ところで、苦い薬は時として進歩を促すと言う点にも注目してもらいたい。

 これまでも、そのような事はありえない。やるべきでない。と言われたタブーを突き進むことによって、新たなイノベーションが生まれたケースは枚挙に暇がない。

 しかし、何が将来の進歩につながるかこれを見極める事は非常に難しい。

 例えば流入する外国人。彼らの受け入れに否定的な人はたくさんいる。

 郷に入れば郷に従えと言う日本の常識もあり、日本のことを気に入ってくれて、日本文化を吸収しようとする人たちもいる。彼らは新たな日本を発見する可能性を多分に秘めている。また、必ずしも、彼ら自身の文化や歴史・宗教が劣っているとは限らない。

 しかし、確かに文化の違いであまり良い気のしない行動をする者も居る。日本ではまだ少ないが、他国では、結局そのことが摩擦や紛争の種になっている。

 苦ければ良薬とはかぎらない。味の通り毒薬かもしれないのだ。

 

 ここへ歯止めをかけるのが、『法』である。

 自由な挑戦、自由な発想、習慣的タブーを犯す。いずれにしても、「公共の福祉に反しない」限り自由である。そして、その枠組みを定めるのが法である。

 ここで、毒薬のみを駆逐し、良薬を生かす線引きを定めることが重要なのだが、それを担っているのが、立法府を支配している私たち有権者だ。

 人任せにしてはいけない。自分たちの社会を造っているのだし、それをさせてもらえる国家なんて、世界に10%も無いのだから。

 なるべく勉強しましょう。

 ある政策が口に苦しとわかっていても、その効能を評価し投票できるだけの。

 

 財政赤字が一向に片付かないのは、政治家が、人気を気にして、苦い良薬を処方できずにいるせいかもしれない。

 政治家というのは、私たちが思っているよりずっと、この国の事を憂いでいる。

 私たちに苦い良薬を飲む知恵が備われば、ちゃんとその良薬を処方できる国士はきっとたくさん居る。その選択肢が、世に出始めただけで日本の民主主義は一歩前進したと言えるだろう。

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『画家のアトリエ』ギュスターヴ・クールベ

 クルーべは、時の権威的で絵画の価値を偏見的に決定する機関(サロン)に対抗して、様々なタブーを犯している。

 当時、女性の裸は、神話のワンシーンでのみ掲載が許された。(修行中のジェダイか!?)

 この作品では、日常的な風景の中に、裸体の女性が普通に入り込み、しかもその姿を子供が見ている。今でも、ヒステリックな教育ママからは、教育上至って害のある作品と批判されるだろう。しかし、このタブーの無さが、後のマネ・モネ・ルノワールに受け継がれていき、絵画は光を得る時代に入っていく。