説難

手製の銃弾が残したもの

1 銃による暗殺

 2022年(令和4年)と言う年を締めくくる上でどうしても外せない話題がある。

 今年7月、まさに日本では考えられない暗殺事件が起きた。

 殺害されたのが元首相であると言う衝撃も強かったが、多くの人は、日本では歴史上初となる「銃」による凶行というキーワードに震撼したと思う。

 しかし、私は、そこに付け加えられていた「手製の銃」という言葉が興味深かった。

 当時警護を担当していた奈良県警は、各方面から散々に非難を浴びていたが、私は日本と言う国の治安の高さを強く感じていた。テレビや映画では簡単に手に入るコルトやトカレフはどうしたんだろう?

 自衛隊経験のあった山上容疑者(なぜか異例の長さの拘留が続き公判が始まっていないので、容疑者のまま)は、なんらかの経験上、この国においては、どのようなルートを使用したにしても、「銃」を入手した者は官憲にマークされることを悟っていたのではないだろうか?

 実際、私の知る限り、カタギの人間が個人レベルで銃を使った犯罪の歴史上、その銃は、正規のルートにより実名で入手したものか、事前に盗難に会っていて、官憲の探索中だったものしかない(暴力団や過激派のような組織的なものは別である)。

 銃を買う金がなかった?いや彼は、花火からかき集めた火薬を乾燥させるだけのためにワンルームを借りている。

 それにしても凄まじい執念だ。今時花火師でもやらない硝酸アンモニウム等からの火薬の配合といい、不足分を花火の微量な火薬をかき集めるなど、想像を絶する根気と気の遠くなる時間をかけて、彼は、何度も何度も、憎んでも憎んでも憎みきれない仇を殺し続けたのだろう。怨恨もここまで来れば天晴れというべきかも。

 

 いずれにしても、銃による暗殺と聞いて、「日本も物騒な国になったものだ。」と感じている人達は、そんなに不安を感じる必要はない。こんなケースはおそらく相当稀有なもので、日本の銃刀法の規制は十分に機能しており、治安だけは他国に自慢できる国であることについては変わりない。

 ただ、それは、銃刀法という武器に対するものだけであって、山上容疑者がこの事件によって投げかけた、宗教団体や詐欺集団から、無辜の市民が安全に守られているかというと難しいところがある。

 そして、そのような集団と手を組んで議席にありついている政治家が山ほど居て、その悪事が見過ごされていた可能性があると言うおぞましい事実は、強烈なインパクトを与えたと言えよう。

 正々堂々と宣戦布告をせず、無予告に行われる暗殺やテロリズムは、卑劣なものだ。

 そのような違法行為によって社会に変化が起きることは、法治国家においては、決して認められない事態なのだが、山上容疑者の行為は、結果的にリクルートロッキード並みの激震を起こし、社会に大きな変化を起こした。それは、山上容疑者が、容易に手に入るサバイバルナイフではなく「銃」を使用したからである。

 確かに接近戦を望めない状況から「銃」を選択することはわからないでもない。しかし、積年の怨嗟を積み重ね完成させたその銃の殺傷力は、クロスボー(ボーガン)程度、いやそれ以下だっただろう。暗殺が成功したのは、サバイバルナイフでも殺せるほどの距離に接近できたからに過ぎない。

 この山上という人物、実は優秀な進学校を出ている。殺害はたまたま上手く行っただけのこと、彼の狙いは、「銃」による襲撃そのものであったように考えるのは私だけだろうか?そして、世間に訴えたかったのは、統一教会の非道だけだったのだろうか?彼が花火から丹念に火薬を抜き取り、床に均等に敷き詰め乾燥させる姿を想像すると、彼ほどの知者がその程度の目的に突き動かされていたようには思えないのである。

 すなわち、ターゲットは最初から、安倍元首相であったのではないだろうかと考えられるのである。

 

2 バチが当たるは誹謗中傷?

 アベノミクスが始まる前夜、株投資の損失が繰り越せる税制改正が有った。長い低金利に痺れを切らし、株の投資に走る人が増えていたが、いかんせんまったく儲からない。繰越損失は、数百万から2〜3千万円に膨れている人も居た。ところが、アベノミクスが始まると、株価は高騰し、その莫大な赤字が全部消えて黒字にひっくり返る「黒転」という現象をたくさん見たときは、安定政権の重要性を強く感じた。

 もともと、護憲派の私は強硬な改憲派である安倍首相とは相容れない立ち位置にあるのだが、思想が違うからといって、善政を行っている首相を非難することはない。従って当初は、彼の政策を強く支持していた。

 

 しかし、森友学園騒動辺りから少々雲行き怪しくなってきた。

 そして、その疑念は、自殺した近畿財務局職員、赤木俊夫さんとその遺族に対しての対応を見て確信に変わった。

 誰が彼を自殺に追い込んだのか?改ざんを命じた上司でしょう?

 そんな簡単なことか!?

 例え、安倍元首相や昭恵夫人が直接関与していないにしても、歴代一位の在任期間によって出来上がってしまった忖度という闇に対して、行政府の長として、彼は赤木さんとその遺族に詫びるべきであった。

 「権力は腐敗する。」19世紀の英国の歴史学者ジョン・アクトン卿の言葉だが、権力は長期化するほど腐敗するものである。韓非子は、孤憤編で、君主そのものより、取り巻きの重臣やその部下(重人(じゅうじん)と名付けている)の行為こそ注意が必要であると語っている。プーチン習近平の政権が延命されるのは、実はこのような既得権益を握った重人の謀略かもしれない。

 行政の長たるものは、己を律するなど当然のことで、部下の行動を十分に監視し、不備あらば責任を負ってこそ長と言えるのである。よく、任命責任などというくだらない責任を追求している暇な政治家が多いが、私は未来まで予想しろとは言わない。ただ、その部下が起こした不祥事によって生じた損失や痛みを補填することは望む。

 在任中はいろいろ事情があろうと思い我慢していたが、コロナ対応でやりたいことがしにくくなってきた途端に政権を投げ出した時は、「もういいだろう?赤木さんの墓前に線香でもあげに行け。」と考えていた。ちなみに妻の雅子さんは、麻生(当時)財務大臣には、弔問を願ったというが、これも無視されたという。

 この頃から、私は公然と「彼はいずれバチが当たる。早く赤木さんの墓前に挨拶に行くべきだ。」と言ってはばからなくなった。

 昨年の岸田氏が当選した総裁選でも、「えらい元気やないか?」と言いたくなるほど、だんじりの大工方のように、跳ね、跳び回っていた。

 その裏で、あんないかがわしい宗教団体の応援を大々的にして、もう時代劇に出てくる悪代官、いや悪将軍だ。さらに、先日の岸田総理の会見で知ったが、11月15日の投稿「日朝国交回復」で取り上げた、防衛費引き上げ案の立案者も安倍元総理だそうではないか?そういえば、「拉致問題」を国民に刷り込むのに一番熱心だったのは、あの人だったな。もうこうなると、国家反逆罪だ。でもって、「国葬」だって。岸田さんもバチが当たるかもしれないね。

 外交では評価されているようだが、自分の国を売って良いのなら、私でもそれなりの成果を挙げられる。歴代最長政権?第一次の時は、「お友達内閣」と揶揄されることに耐えかねて、おなか壊して投げ出したの覚えている?調子の良い時だけ総理の席に座って、都合が悪くなると体調を崩す。総理大臣なんて命を削る職務だ。私だったら、毎日一瓶の薬を飲んで続けるね。体調不良で部下に大事な局面を押し付けたような人間が、総裁選で裏工作しているのを、なんで周りは文句言わないのかねえ。長期政権の腐敗ぶりは相当なもんだよ。

 

 死んだ人の悪口を言ってはいけない?その言葉って前から気になっていたが、何の論拠があるんだ?

 死んだ人にそれほどの尊厳があるのなら、赤木さんのファイルはなぜ公表されない。

 

 国民は気持ちの悪い統一教会ばかりを敵に回しているが、山上容疑者が開いたドアはそれだけではない。もし、私の勘ぐりが正しくて、彼の目的が、この国を蝕む重人の腐敗を知らしめることも含まれていたとしたら、今後の裁判は慎重に行われなければならない。我々は、強い関心を持って彼の真の狙いを突き止めるべきである。

 部下の不祥事について責任を取るのは、行政の長の務め。しかし、政治の腐敗を質せないのはこの国の最高権力者である我々国民の責任である。

ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ「ひまわり」(7作分の3)

 ゴッホの代表作「ひまわり」は、全部で7作有る。その由来は、彼が新進気鋭の画家達を集めて新しいコミュニティーを創ろうと企てたが、結成の日参集してくれたのは、ゴーギャンただ一人だった。それでも、彼は、その感動を忘れられず、参集者を迎え入れるべく、集会(予定)場を飾っていたひまわりを描き続けたと言われている。

 掲載した7作分の3は、実は戦災で消失し、徳島の大塚美術館が再現したものだ。枯れ、朽ち果てて7作の中で最も醜い。にもかかわらず、私は7作の中で最も好きだ。なぜなら、ゴッホが表層の美しさより、感動こそが絵画にのみ許された表現であることを証明しているからだ。

 残念ながら、彼の作品の意義を最も理解していた弟テオが、画商でもあったにもかかわらず、ゴッホの絵は生前一枚も売れなかったことは有名である。

 

 安倍元首相のことを散々コケ下ろしたが、私の見解としては、彼が、少なくとも私利私欲ではなく、本当に国のことを思って行動する政治家であったことは認めている。彼の行為は、いずれ歴史上正しかったと判断される日が来るかもしれない。

 何事も、表層だけで判断してはいけない と言う人もいよう。

 しかし、我が国は法治国家である。山上容疑者の行為に如何に正義が存在しようとも、彼は人殺しとして裁かれる。

 安倍元首相の不都合な真実隠蔽工作に加担したものは、悉く罪人であり、その罪は、韓非子が国家の存亡に関わると言った「重人」の罪である。 

アイディアの不確定性

1 ハイゼンベルグ不確定性原理

 量子力学と言うものは厄介なものだ。ようやく宇宙開闢の謎を解いたかと思ったら、その解法から無数の疑問点が現れる。

 例えば、この宇宙を構成している素粒子と呼ばれる最小単位の粒子を突き止めたかと思えば、その素粒子は、まるで理解不能な挙動をしている事がわかってきた。

 量子力学で、「状態の重ね合わせ」と呼ばれる現象で、素粒子というものは、常に、同時に、複数の位置に存在しているという。そして、私たちが観測することによって、そのいくつかのケースのうちの一つが選択され、位置が決定するという。

 その意味するところは、この宇宙が何層にもパラレルに存在していて、そのうちのどの宇宙を選択するかは、私たちが「観測」した時点で決定されると言う。すなわち「観測」が行われるまでは、確率の差異は有るものの、無数の結果に繋がる可能性が存在すると言うことになる。

 アインシュタインは「私たちが観測しなくても、月がどこにあるのかははっきり計算で割り出せる。観測しなければ、場所が決まらないなんて、「神様はサイコロを振らない」」と言って、この不可思議な論理を否定した。

 しかし、数々の実験から、この不確定性原理を受け入れなければ説明できない結果が得られていて、もはや、現在では、多くの科学者がこの不可思議な現象を受容し、半導体・液晶等精密機械の開発に応用してきている。

 

2 アイディアの不確定性

 人がある日思いつく、自分ではユニークだと考えられるアイディアもまた、自分の内側に在るうちは、無数の可能性が存在する。

 しかし、こうやってブログに記して公表すると、誰かの一言で論破される愚論なのかもしれないし、逆に数百万人の耳目を集めるコロンブスの卵かもしれない。

 いずれにしてもそれを決定づけるのは、他人の評価(観測)である。

 

 ブログのサイドにも示している通り、当ブログは、「説難」と言うブログの続編である。

kanpishi.hatenadiary.jp

 私がそのブログを書き始めたのは、一つには、名だたる諸子百家の中でも、もっと評価されるべきと考える韓非子について、多くの人に知ってもらいたいと言う思いも有ったが、それより、自分の信じる論理や、自分が、世の中の人が知るべきだと考えているこの国やこの世界の実情について、果たしてどれほど正しく捉えているのか?それを知りたかったと言うことがある。

 つまり、不確定な私の発想の評価を確定させたかった訳だ。

 結構、幼少の頃から奇抜な発想で人を驚かせてきたので、期待も強く感じていた。 

 しかし、総投稿数60を数えたが、コメントはごく少数しか得られなかった。

 ただ、それでも、貴重な意見であった。

 韓非子という人物に強く関心を持つようになったという人もいれば、「日本人は、ムラ社会思考から抜け出せないから、韓非子の合理主義にそぐうかは疑問だ。」という声。

 説難で展開される「戦争と平和の効用をなんらかの方法で数値化することができれば、平和が正しい選択だと合理的に立証できる。」という私の主張に対し、「証券の世界では、『銃声を聞けば株を買え』という言葉が有る。数値化して選択されるのは、筆者の期待しているのとは逆のものかもしれない。」という。これなどは、まさに一言で、私の勝手な「絶対」を覆した。

 辛辣だったのは、一つ上の兄の意見で「俺がさぁ、このブログ読んで感想言ったら、代わりに「ナルト」1巻から100巻まで読んで、感想聞かしてくれるか?」と言うものであった。なるほど、自分の作品の感想を聞きたければ、相手の関心ごとに対してコメントをしてあげる事は当然の礼儀だろう。(正直、アニメのほうは見ようと思えば見られるが、原作を読むとなると相当きつい)

 ほんの数個の感想だけで、これだけの改善点、気づき、そしていくらかの承認、それらから派生する更なる思考の展開を得た。当然、もっとたくさんの人に読んでもらいたいという欲求に魅了された。

 はてなブログの製本サービスで、実際に製本を手にしてみると、出版への夢が抑えられなかった。

 しかし、事情があって、その夢は一旦お預けにした。

 

3 人生こそが不確定

 そもそも前作の執筆期限は当初から予定されていた。

 2021年から転職を考えていたからである。

 会計を教える仕事をしたかったので、40過ぎから3年間、簿記一級の取得を目指したが叶わなかった。そこで、目標を会計ソフト一本に絞ることにした。

 しかし、そうすると、かなり収益力が下がるので、娘と息子が在学中は、勝負に出ることができなかった。IT関連と会計ソフト実務の資格は持っているのだが、どちらも古くなっていたので、転職直前の試験を受けてアップデートする必要があった。

 そこに、3年間の空白期間ができた。

 せっかくだから、この機会に、日頃から感じている世間に訴えたいことを書き残しておこうと考えた結果が、前作の「説難」である。

 

 さて、資格取得に舵を切った私は、まずはリハビリ程度の気分で、おそらく余裕で60点は取れそうな資格試験を、当然合格ラインの70点を超えられる程度の勉強をした上で臨んだ。

 しかし、結果は中学生レベルの30点だった。

 私の中でようやく何かが壊れた。

 「そうかい、そうかい、そんなに私が自力で現状を覆そうとする事が気に入りませんか?」実はずっと我慢してきていたのだ。

 私は別に今の仕事が嫌いなわけではない。むしろ、憧れの職業だった。30代の頃は、ちょっとしたエリートコースを歩んでいた。しかし、実は多弁症という悩みを抱えていた。30中盤働き盛りの時、つい自己主張を抑えられず、多弁を振るったため、問題児のレッテルを貼られ、コースから落ちてしまった。

 以来、転勤する度に次の上司には、「よく切れる男だが取扱注意」という引き継ぎがされているようだった。勤務評定はずっとAをもらっているのに、管理職には推挙してもらえない日々が10年近く続いた。

 「二度と口では災いを起こすまい」と誓ったのだが、だんだん自分では、また多弁症が、抑えられなくなってきたので、心療内科に通い、向精神薬睡眠薬を常用することで凌ぎつつ、転職へ向けて自己研鑽を始めた。

 6年が過ぎ、このチャレンジに成功したら、収入は減るかもしれないが、大好きな会計学の知識で、会計ソフトの講師などをして、陰鬱な人生から解放されると考えていた。

 しかし、人生こそ不確定なものだ。

 私の病状は、前述の結果による落胆を受けて、急速に悪化した。

 感情が制御できない日々が続いたので、セカンドオピニオンを試してみた所、発想力・思考力が強すぎるのが問題なので、薬でこれを削げば良い。と言われた。

 主治医に相談したところ、「その薬は、あなたの独特な発想やワードセンスを奪うものだ。それは、才能であって個性ですよ。」と言ってくれた。しかし、「ありがたいお言葉ですが、私の組織では、その個性は害悪のようです。このままでは、家庭の平穏も危うい。誰にも「観測」されない不確定な才能より、今は、確実な平穏を望みます。」

 主治医は、残念がりつつも、薬を処方してくれた。暗示かもしれないが、とにかく「言葉」が出てこなくなった。情緒は安定するようになった。発想力の方は相変わらずのようだが、言葉に変換できないので、主張しなくて済んでいる。

 ブログの再開にはかなり葛藤があった。「説難」を執筆していた時のような、語彙力は無く、4000文字に抑えたいのに、うまく編集できない。読み返して自分でもニヤリとしてしまうようなユーモアもオチもキレもセンスも無い。

 しかし、それでも「孤憤」という火種が、消しても消しても消えない。

  

4 孤憤

 「自分ひとりではどうしようもない。世間の仕組みなどに、1人憤りを覚えるさま。」

 韓非子55篇のうち「孤憤篇」は、「五蠹篇」と並び、秦の始皇帝に「この著者に会えたら私は死んでも構わない。」と言わしめたといわれる傑作篇だ。

 孤憤篇をざっくり解説すると、君主を囲む近侍が、君主の耳を塞ぎ目を覆うため、真っ当なことや、本当に重要なことを語っている者の声が届かず、ただただ、孤憤するばかりだという内容である。

 確かに、韓非子の記述は現代でも通用するほど洗練されており、他の法家思想の集大成と言っても過言ではない。しかし、それは秦の始皇帝と言う超有名人が、その才能を観測し、評価を与えたから、2000年後の今まで語り継がれているのかもしれない。実際彼は自国の王子の一人であったにも関わらず、その国の王は、彼を珍重していない。

 彼の著作が、「孤憤」のまま埋もれていたら、その後の漢帝国400年もなかったかもしれない。全く、アイディアの生み出す結果は不確定だ。

(なお、秦の始皇帝との出会いは、彼にとっては2000年間の悲劇につながるのだが、その点については後日投稿する。)

 私が語彙力を壊滅的に失いながら懲りもせず、続編を書き始めたのは、やはり前作と同じ衝動によるものである。すなわち、自分の発想や持論がどれほど正しいのか?それを「観測」してもらいたいと言うことである。ネット内の他者と積極的に関わっていけるかは自信ないが、まずは書かなければ何も始まらない。

 それと、もう一つ、近年、中国である大発見があり、それが私に一つの勇気を与えている。2002年、湖南省龍山県の古城跡から、秦の時代のものと思われる3万5千枚の竹簡(書物)が発見された。『里耶秦簡』(りやしんかん)と言われるこれらの文献は、基本的には行政文書で、役人の記録なのであるが、かなり日誌に近い形式で記されており、当時の世情や生活様式如実に表していると言われている。

 国土の隅々まで、完全な法律を整備し、史上最高レベルの法治国家を築いた秦が、なぜたった15年で滅亡してしまったのか?いろいろな説が言われているが それだけでは説明がつかない部分がいくつか残っていて、その謎を解くカギになると言われている。

 例えば、始皇帝は自分の長寿にしか興味がなく、国民にはひどい重労働を科し、農民は重税に悩まされたと言う説があるが、発見された竹簡からは、法律は十分に吟味の上制定され、決して遡及適用されなかった(その法律ができるまでに犯した罪は問われない法律の第一原則)と言う。 そして地方役人でありながら、中央の考えをよく理解し、国家の目的のために一役人ができる的確な目標を立てていたと言う。

 今の大局を見ず、給与明細ばかり見ている、サラリーマン化した役人共に聞かせてあげたい話である。

 私は現在の地方で働く木っ端役人である。私の書いているブログがどの程度の可能性を秘めているかは、誰かに「観測」されない限りわからないわけであるが、2000年後何かの拍子にこのパソコンや製本が発見されるようなことがあれば、その「孤憤」は、きっと多くの研究者の興味を引く事は間違いない。

 そう考えると、キーのタッチが止まらないのである。

オーギュスト・ルノワール 『桟敷席』

 印象派の巨匠の1人ルノワールが第一回印象派展で発表した記念すべき1点である。特徴的なぼやけた輪郭に戸惑う観覧者も多かっただろうが、このタッチにその後多くの人々が夢中になる。

 ルノワールの生家は貧しくて、彼は15歳の時に陶磁器の絵付け工場で働き始める。このころ習得した筆遣いが後の傑作を生み出す基盤になったと言う人もいるが、彼が絵付け師のままで終わる人生を選んでいたら、後の傑作は生まれていない。彼が画家を目指したからと言っても、それだけでもまだ傑作に辿り着かない。良き師匠・良き学友に恵まれ、貧困の中でも習練を積むことができ、発表する場を与えられ、そして、その才能を認めてくれる観覧者に出会うことができて、やっと、現代の彼の評価に繋がるわけだ。

 才は有れども観測されず、観測される機会は多くとも、才がなく、全くこの世は量子力学のようだ。観測する観点によって無限の可能性が存在する。

日朝国交回復

 私は約15分のプレゼンで、現在の世界地図を塗り替え、現在の不穏・不安定な東アジア、あるいは環太平洋、場合によっては、地球規模の安定的平和を期待させるアイディアを持っている。

 作戦名「最初はペー!」北朝鮮と日本の国交回復である。

 おそらく多くの大衆は、この時点で完全に拒否反応を起こしているだろう。

 しかし、北朝鮮を敵視するその考えは、何を根拠としているのか?

 

1 守株

 韓非子「五蠹篇」

 「走って来て木の切り株に当たって気を失ったウサギを見て、運よく獲物にありつけた猟師が、本業そっちのけで、毎日切り株を見張り続けた。」という故事から、古い慣習に固執して、時に応じた物事の処理ができないことを言う。

 

 そもそも、なぜ、こと、北朝鮮のこととなると、大衆は拒否反応を起こすのだろうか?北朝鮮と仲良くして何が悪いのか!みんな考えたことがないのだろうか?

 令和2年内閣府の外交に関する世論調査北朝鮮に関する関心事項」。  

 (https://survey.gov-online.go.jp/r02/r02-gaiko/index.html

 第1位、拉致問題83%、続いて、核開発・ミサイル実験73%。

 昭和の紅白歌合戦の最高視聴率より高い。

 この数値に違和感を感じなくなったら、民主主義国家の国民とは言えない。

 これは、ある国に関する情報が、極端に偏ったものだけ発信されていると言う証左であり、その目的は、通常、その国に対する感情を操作する、 いわゆる、マインドコントロールである。

 

 冷静に考えれば、先の大戦において、散々アジアで大暴れした日本が、最大見積もっても1000人程度の拉致被害者を理由に、貧困と飢餓に苦しむ小国に厳しい経済制裁を課すことにどれほどの正義があると言える?

 

 「気持ちの悪い独裁国家だ。」という意見がある。確かにあのブタ(最近ライザップにでも行っているのか妙に浅黒いが)を見て、なぜ涙を流して喜ばなければならないのか理解しがたい。しかしながら、独裁者などと言うのは、国民の耳目を集中させるFLAG(旗)にすぎない。ハンサムである必要はない。

 そもそも、独裁国家が民主国家に劣ると言うのは、生まれながらにして、十分な人権を尊重されている国家に生まれた者の発想だ。

 全世界の80%が非民主国家である。

 アメリカという、民主国家以外を国家と認めない国があるが、ベトナムイラク、アフガンと悉く民主化に失敗した。

 民主主義は、自由と権利を得るのと、引き換えに国家が抱える問題を自分たちで解決しなければならないと言う責任を負うことになる。これが結構、成熟しきっていない国にとってはハードルが高いのである。

 ましてや、北朝鮮においては「衣食足りて礼節を知る」(管子)レベルである。すなわち、現在の飢餓に苦しむ彼らにとっては、自由も権利も腹の足しにはならない、ブタが「なんとかする!」と言っているのだから、それを崇めている方が解決が早いと、本気で信じているのだ。

 

 「核開発をして、 しょっちゅうミサイル実験をしている。」

 まず、世界に存在する核保有国で、日本が交易していないのは、北朝鮮だけである。

 次に、同じく核を保有するインドを見ればよくわかるのだが、自国民をいくら飢餓で亡くそうとも、軍拡一本槍の戦略が結果的に自国の経済を引き上げ、世界における発言権も強めており、それは、その国の生き残りをかけた立派な国策なのである。そして、21世紀になっても、そのような国策が功を奏すというのが、この世界の悲しい現実なのである。

 ちなみに、ミサイル実験の件だが、明らかに、日本の排他的経済水域EEZ)を意識して外しており、日本列島を跨いだミサイルは、津軽海峡上を通過している。私などには「貴国とは争うつもりは無いのです。いろいろあってやむを得ず実験しています。」と言うメッセージに感じてしまう。

 それなのに、またそれを理由に、5.4兆円も軍事費を増加するという。

 なるほど、これこそが我々の マインドをコントロールしている連中の真の目的か!

 みなさん、いつまでもウサギがぶつかった切り株を見張っていては大変なことになりますよ。切り株が貪欲な武器商人で、ウサギが北方警護を担う救世主なのかもしれませんよ。

 さあ、既存の常識を振り払い、新しいパラダイムにシフトしましょう。

 

2 日朝交渉

 不毛な反朝感情を看破したとは言え、北朝鮮が信用し難く危険な国である事は否めない。どのような条件を設定するかで、彼の国の姿勢が決まり、将来の世界地図も変わって来る。つまり、この条件設定が本稿の肝と言うべきであろう。 

 (1) 国体及び内政には干渉しない。

 当然の話なのだが、この点を明言しておかないと、彼の国にとってはこの部分こそが一番の不安要素なのである。

 日本のように洗練された民主国家から見ると、自分たちの国体はきっと遅れた文化だと判断されると自覚している。その結果、アメリカのように民主化を押し付けられるのではないかと言う疑念を抱く。しかし、日本と言う国は、実はアメリカほど他国の国体に興味がない。宗教にも興味がない。今は気持ち悪がっているが、握手をしてしまえば後は何でも良い。客は客。そういう人種なのである。

 北朝鮮には、意外と交易のある国が存在するが、はっきり言って「国交回復したから私の友好国です。」と宣言できるような呑気な国は日本ぐらいである。

 日朝交渉にあたる外交官には、ぜひこの辺をよく北朝鮮の主導部の方々に意識付けしていただきたいと思う。

 

 (2)  外交ポリシー

・日本国は、 南北朝鮮 の関係について、その国体の性質が既にかなり乖離していることを考えると、近未来的に両国が統一される事は望めないと考えている。

 両国は、それぞれが主権国家として存続し、通常の国家間として国交を樹立して、交流を行うべきだと考える。

 同時に、双方が統一を目的とする戦争はその意義をなくし直ちに終戦すべきである。

米朝関係について、北朝鮮が、良好な関係を継続するのであれば、日本は、アメリカに対し、北朝鮮は我が国の友好国であると主張し、武力的な威圧はもちろんのこと、経済制裁をも非難する。しかし、逆に北朝鮮アメリカ敵視政策については、アメリカの友好国の立場としてこれを非難する。

・日本国は、アメリカ以外とは軍事同盟を結ばない。 また、核兵器については決して領土内に配備する事は無い。ただし日本の安全保障が脅かされた時に、アメリカ及び北朝鮮保有する核兵器がその報復に使われることを否定しない。

 

 (3) 貧困問題の解決

 北朝鮮の貧困問題は、彼の国が核兵器開発によってのみ世界での発言力を得ようとしたきっかけとなったものであり、孤立の要因で有る。しかし、経済制裁を解いたとしても、適法な産業で自立する事は難しい。そこで日本はこの問題を下記の戦略で整理する。

・インフラ整備

 日本国は、北朝鮮の送電網および交通網を中心としたインフラ整備に尽力する。

 この際、現場監督としての技術者は日本人を派遣するが、現場労働者は、相当の対価をもって北朝鮮人を雇用する。 労働者の人選は北朝鮮当局に任せる。

 なお、これらの事業について、専ら北朝鮮主導部により行なわれていると国民に説明することを、日本国は否定しない。

・農業改革

 現在大打撃を受けていると言う北朝鮮の農業事情であるが、決して何の種をまいても全く芽が出ず実らないなどと言う虚しい土地ではない。農業事情の悪化は、やはり労働力不足が原因と考えられる。

 歴史的には、稲作が発展していたようだが、水田・灌漑の上、刈り取りまで時間がかかるので、まずは無農薬(長い戦争で農薬の影響は消えていよう)野菜を量産し、これを販売し、穀物を購入する。日中韓ら隣国は、米等穀物の自給にこだわり過ぎて、野菜不足という情報もある。

 この事業に関わる現場監督・労働者の条件については上に同じとする。

 

(4) 日本国が支払った人件費等について

 日本は、現在予定している国防費の増額分(22年度5.4兆円)、翌期以降5年間で45兆円を削減して、当該北朝鮮支援策に充てる。(武器商人どもめ、ざまあみろ。)

 従って、日本国が労働者に支払った賃金及び農業改革により北朝鮮国民が得た利益について、当人の犯罪行為等を含め、いかなる事情が有ろうとも、北朝鮮国が没収するようなことがある場合は、当該収益の源泉帰属者として日本がこれを回収する。

 ここではっきり言っておく。日本が国費を投じて、(3)のとおり貴国を支援するのは、国民一人一人に富を配付し、「貧困問題」を解決し、北国の不安を拭うがためである。従って、その目的以外の資金の流出はこれを認めない。

 

3 日本のメリット

 さて、ここまでの話を聞いていると、日本は全く大盤振る舞いで何のメリットがあるのかと言う疑問が発生するかもしれない。そこで以下のように整理する。

(1) アジア・日本海の平和・そして南洋へ

 言うまでもない事だが、 日本を中心に日米韓朝(軍事力世界ベストテン入り3国・核保有2国)と言うNATO並みの連合が、 ユーラシア東岸に現れたわけだ。

 取り合えずロシアとは衝突すまい。

 さらにこの枠組みは、南洋にも広がっていく可能性を秘めている。

 現在注目されている「QUAD」(日・米・豪、そしてインドの対中国連携協議)の成否は実は流動的だ。日本以外は、ただ仲良くなる事だけが目的というわけではないように見える。

 特に、インドは面従腹背で、 中国との密接な関係を継続する可能性は否定できない。

 ここで大事になるのが、上記に示した日朝国交樹立案だ。

 日本は、内政には不干渉で、インドの宗教にも興味はない。北朝鮮ほどではないが、対中国の防衛戦を引くためと思えば、インドのインフラ整備にも尽力してくれよう。

 インドもまた、国内に多数の飢餓を抱え、軍拡一本槍だったためにインフラ整備が遅れている。そして大体そういう国は政情が不安定だ。だから、内政には口を出してもらいたくない。と言うことで、彼の国にとって、最高の条件なのだ。

 

(2) 振り撒かれた CIVILIAN SEED

 日本の提示した条件は、北朝鮮という国を富ますのではなく、彼の国の国民一人一人を富ます戦略である。配分しているのは彼の国の主導部という形をとっているので、主導部の人気はさらに上昇し、独裁はさらに続くと考えられるかもしれないが、「衣食足りて礼節を知る」と言うもの。

 一度、まともな人権(相当の対価)と私有財産を与えられたら、何が理不尽で横暴かということにも気づき始める。いわば、CIVILIANのSEEDだ。

 実は、アメリカは悉く失敗した民主化だが、日本は第二次世界大戦において、占領国の各民族に自決権の何たるかを教育し、多くのCIVILIAN SEEDを残した実績がある

 日本としては、ネタバレする前に、インドと同じような契約を結びたいので、あまり急激に育ってもらうと困るのだが、やはり、独裁体制より民主的な国家と付き合いたいものだ。多様な意見を取り入れられない権力は必ず腐敗するからね。

ヨハネス・フェルメール「 マリアとマルタの家のキリスト」

 同時代のオランダで、レンブラントルーベンスを凌ぐ実力を有していたと考えられるにもかかわらず、30数点しか残っていないことで有名なフェルメール

 作品は初期のもので、窓際シリーズに見られる煌めく空気感はまだない。

 この場面は、イエスがマルタとマリアという姉妹の家に招待された時。姉のマルタはもてなすため忙しく働いているのに、妹のマリアは座り込んだままイエスの言葉に耳を傾け、働こうとしない。マリアをなじるマルタに対してイエスはこう言う。「マルタ。あなたは既存の慣習や常識に囚われている。マリアは良い方の選択をしているのだよ。」

 当時のイエスは、既存の権力や概念を破壊するいわゆるゲームチェンジャーだ。

 スティーブ・ジョブスか、マイク・ザッカーバーグが来たようなものよ。もてなし所でもあるまいと言う話だ。

 ありがたいことに。日本のインターネットは情報統制されていない。おかげで 自分が信じている常識を疑ってみたら、簡単に悪巧みをしている連中の存在に気づける。

 にも関わらず、割と皆さん既存の常識を疑わない傾向にある。

 それは、国の抱える問題を自分で解決することをめんどくさがっているからである。

 そこを突いて、蠹(良からぬ事を企む者)が、都合の良い情報だけを大きく広げ、無用な争いをさせてボロ儲けをする。あまりにもばかばかしい。

 私の提案は、あくまで一例に過ぎない。もっと頭の良い人や若い人が本気になれば、もっと上手な軍事費5.4兆円の遣い道も考えられるだろう。

王様は裸だ

1 インボイス制度

 消費税は、売上の中で消費者から預かった消費税から、仕入や外注費など原価にかかった消費税(仕入れ税額控除と言う)を差し引くことで、国に納める消費税額を申告する。

 インボイス制度と言うのは、令和5年10月1日から導入されるもので、簡単に言うと、これからは請求書や領収書に含まれている消費税の金額を明確に記載し、インボイス登録番号も一緒に記載しなければならず、これが記載されていなければ、仕入税額控除の対象と認めないと言う制度である。

 一見、多少面倒にはなるが、1つの義務が増えただけのように見える。

 しかし、実はこの改革は、消費税をもはや消費税と呼べないものにするほどの大改革である。

 そもそも、なんで急にそんなことをしなければならなくなったのか?誰も知らない。

 そして、これが日本経済に及ぼす影響、更に世界の中での日本の立場をも変えるものである事もほとんど知られていない。

 

 令和3年の秋、私は、職務で、ちょっとしたインボイスの説明会を依頼されたのだが、渡されたテキストと原稿はひどいものだった。

 登録番号の取り方や、伝票上の記載方法など、テキストを読めばわかりそうなことばかりで、インボイスの導入によってどれだけ世界が変わるかと言う事はおろか、なぜ今インボイスが必要になったのかすら書いていなかった。

 私は「インボイスの導入には、広く国民に理解と協力を求めるところがある。このような説明では納得のいかない者を増やし、かえって信頼を失くす。」として、2度、上層部に、変更した原稿を提示して、上奏した。しかし全く受け入れられなかった。

 残念なことに、ほとんどの者は、私の言っていることが理解できず、理解できている者は、理解した上で、敢えて割愛しているのだと言う態度を示した。

 なるほど、こいつら改革を進める上で不満が出そうな不都合な事情は、国民には知らせないつもりなんだなと私は悟った。

 私は一旦、講師を辞退したが、受け入れられず、脚本通りの説明会をさせられた。

 すると、質疑応答の際、1人の男性から「その番号を印刷する新しいレジとかを買う費用は私たちが負担するのか?」と言う質問を受けた。

 私は、その質問に対し「はいそうです。」とさらっと答えると、男性は案の定不満げだった。そこで、少しだけ、インボイスを導入することが必要になった理由などを話した。あの割愛を求められた内容の1部分だ。

 

 説明会は複数回予定されていたが、私は一回目の講義をしただけで解任された。

 しかし、解任したのは上層部ではない。説明会の参加者の意見だった。

 曰く「難しい話は要らないのだ。後でケチを付けられたくないから、正確なインボイスの作り方を聞きたかったのだ。」

 こんな大改革を遂行するのに、つまらん書き間違いにケチをつけているほど暇じゃないのだが、彼らにとっては、何のためにそう言うルールが有るのかが重要なのではなく、ルールを守って文句を言われないことの方が重要なのである。

 

2 付加価値税Value Added Taxの頭文字をとって「VAT」)

 世界にも、日本の消費税のようなものがあり、それは付加価値税と呼ばれている。と多くの国民が説明を受けているが、付加価値税と消費税は似て非なるもので、まさに消費税が付加価値税のようなものあるいは付加価値税もどきである。

 (1) 計算方法の違い

 付加価値税の場合、売上のインボイスに記載されている間接税を消費者から預かり、仕入や外注費その他経費のインボイスに記載されている間接税を差し引き、算出された残高が国に納める間接税額である。至ってシンプルである。

 この場合、8% 10% 15%あるいは0%の取引が複雑に混ざっていたとしても、全く問題ない。単純に記載された金額を合計して足し算引き算の世界で納める税額が計算される。

 これに対し、日本の消費税の計算では、不思議な計算が行われている。

 まず①売上に係る消費税を割戻しで計算し、②損益計算書の中で、消費税がかかる経費項目の合計を計算し、割り戻し計算で、仕入税額控除を計算する。

 その上で、①から②を差し引いて国に納める税金を計算している。

 これをアカウント方式(帳簿方式)と呼ぶ。 

 税率が単一である場合は、そんなに難しくないが、現在のように2種類に分かれただけで、この計算は非常に複雑になっている。

 今般、インボイス制度が必要となった原因の1つが、このような軽減税率の登場により、アカウント方式の限界が顕になったためである。

 

 (2) 免税事業者の取り扱いの違い

 消費税には免税事業者と言う設定があり、売上が10,000,000円以下の場合、消費税を納める必要がないと言う制度がある。この制度はフランスにもイギリスにもドイツにもあるのだが、日本と根本的に違うのは、その国の免税事業者は、インボイスを発行することができない。あるいはインボイスを発行できても、間接税は表記されない。そうですよね、納める予定もないのに売上に間接税を加算する事はできませんよね。

 したがって、これらの国では、免税事業者から何かを購入しても、間接税を控除する事はできないわけである。

 これに対して、日本は、インボイスと言う制度はなく、損益計算書の経費項目から割り戻しで税金を計算しているので、免税事業者に支払ったものも含めて、全部仕入れ税額控除の対象となる。

 簡単に言うと、消費者が買い物をしたときに支払った消費税のうち、最終的に免税事業者に支払われた料金に係る消費税は、実際には国には入ってこないという事。

 これを「益税」と言う。

 これが年間にどれぐらいあるかと言う話であるが、ネットでいろいろ検索していると、約5000億円から1兆円弱くらいと答えはバラバラだ。

 私もちょっと挑戦してみた。余裕のある人だけ見てくれればいい。

平成30年度       単位10億円

GDP(554兆円)      554,259.3

△資本形成        140,933.1

△純輸出             2,286.9

総消費             411,039.3

内家計支出           302,442.9

△医療費等非課税       28,099.6

内政府支出         108,683.5

△医療・保健等非課税支出  68,944.4

内現物支給は課税      2,000.0 ※資料がないので若干数を算入

△人件費               5,191.1

国債費             23,302.0

課税消費合計         288,949.4

消費税率8%のうち国税分    6.3%

算出消費税額           18,112.6

同年度一般会計消費税額      17,558.0

差引益税額           554.6

 × 10億円だから、5,546億円てとこですか。

 資料不足もあるし、現行税率は10%であることも勘案して、あくまで参考値だ。ただ。ちなみに、アカウント方式と言うのは、そもそも、こういう概算をするときに使用する方式である。

 

3 不都合な事情

 インボイスを導入すると、国民が負担した消費税は、100%国庫に入ることになる。ということは、このインボイス導入に伴い、私の計算では、5,500億円のステルス増税が行われてしまうわけだ。しかしてそれは、誰が負担するのだろう?

 理屈から言うと、その益税の収益を享受してきた免税事業者が負担すべきなのであろうが、そんな零細企業の集団が簡単に片付けられるような金額ではない。そこで政府は、またわけのわからない経過措置をとって、6年でこの問題に蓋をしたまま、軟着陸を図ろうとしているが、私の観測では、そのプランは難しいだろうと考えている。

 おそらく導入されたインボイスは急速に普及するだろう。なぜなら、複数税率の有る世界では、税額の計算が圧倒的にシンプルでわかりやすいのである。

 政府の思惑を超えて、急速に進むインボイス化の波は、多くの零細企業を廃業に追い込むだろう。

 

 さらに、政府が語ろうとしないもう一つの不都合な事情が、インボイスの普及をさらに加速するだろう。

 インボイスを導入しなければならなかった本当の理由は、軽減税率を設けたからではない。

 2016年、OECD(国際間の経済取引について共通のルールを定めていこうとする国々の集まりで、世界の100カ国以上の国が参加している)は、「サービス無形資産の係る国際取引に係るVAT/CSTの適用に関する理事会勧告」通称VATガイドラインを制定した。

 必須条件は、①複数税率を持つこと② インボイス制度が使われていること③ 標準税率は15%程度とするである。

 日本は、この時単一税率で、付加価値税もどきなためにインボイスもなく、15%なんか暴動の起きそうな税率なのに、これを批准する。なぜなら、この頃、すでに80カ国以上がVATを取り入れていたが、問題になったのは③の15%くらいだけで、ほとんどの国が① ②の条件を満たしていたからである。

 それに、日本政府は、実のところ、消費税導入以来30年間、この付加価値税もどきには手を焼いていた。複数税率を持たないVATなど、ハンドルを持たずに速度調整しかできないオタマジャクシと同じで、ちゃんと手足の有るVATに期待される政策能力の、7割以上が、封印されて来たからだ。

 そして、国税庁は、この条約批准を大義名分として、平成28年税制改正で、消費税10%の引き上げと8%の軽減税率の設定を宣言し、同時に令和3年10月までにインボイス制度を導入することを明言する。これは、外国へのアピールでもある。

 しかし、国民の間では、軽減税率の導入は話題に上ったが、同時にインボイスが不可欠になると言うことについては、ほとんど話題にならなかった。

 現在インボイスの施行開始は、令和5年10月1日となっている。

 そう。日本は、世界に宣言したスケジュールにすでに2年遅れているのである。経過措置の完成を含めると、後6年も遅れる。

 そもそも、OECDでこの問題が取り上げられる発端となったのは、2014年の東京大会なのだが、その日本が今ではダントツのビリである。

 

 私の説明会から1年が過ぎ、導入まで1年を切った。しかし、周囲の状況は何も変わっていない。あの事業主は、まだ、新しいレジの購入代金の事を気にしているだろう。

 

4 人主に五壅有り

 中国の春秋戦国時代末期、秦が中華を統一する前夜 (漫画「キングダム」の時代)を生きた当ブログ“ゲキ推し”の思想家、韓非子の著書韓非子 55篇主道篇に記された言葉である。

 「君主の身には五壅(五種の閉じ込め)と申すことがあります。即ち、臣が主の目や耳を塞いで何も知らぬようにすること、臣が国の経済を一手に抑えてしまうこと、臣が一存で命令を発すること、臣が道義の標準を示す事、臣が身の回りに人を蓄えること、これが五壅です。」

 あまり意識されていないが、わが国の君主は、我々国民である。ここで言う臣とは、政府や行政機関あるいは国会議員などである。

 彼らが、果たして君主である私たちに、現在の我が国が置かれている状況を正確にきっちりと報告しているのか?何か新しいことを始めようとしているが、それは実際に必要なのか?なぜ必要なのか?そのようなことについて、よくマスコミは「説明責任」と言う言葉で、説明させようとしているが、自衛隊にしても、消費税にしても、どっか歯切れの悪い所を感じないだろうか?

 その一つの理由が、本稿で示したインボイスに関する裏事情の数々である。

 これらは全て、ネットで確認することができる。なのに、なぜ国民に広く伝わっていないのか?

 臣が情報の軽重を操作し、主の目や耳を塞いで何も知らぬようにしているのではないのか?

 政府(臣)がしっかりと、我が国の消費税の本当の姿と、改革の必要性を説き、世界各国に遅れた責任は、国民全員に帰するものであって、改革に当たって、一部の零細企業のみが負担を負うのは相当ではないと説明するのが正しい報告なのではないか。

 そのうえで、大企業を中心にその他企業、国民に対し、ステルス増税をいくらかでも負担しあってもらうよう、真摯に願い出るのが、正しき忠臣の姿であったろう。

 国民も国民だ。先の大戦で、3,400,000人もの屍の上にようやく国民主権を勝ち取ったにもかかわらず、いまだに、国家や国会議員のやることについて、疑問も持たず、不都合な事情は捻じ曲げられた「大本営発表」を待っている。

 30年間、形だけは似ているが、本来の役割を全く果たせない、付加価値税もどきを「最高の生地で作られた衣服です。」ともてはやされ、恥ずかしげもなく、それを纏い先進国面して、闊歩して。

 アンデルセンの童話に出て来る子供が言ってるぜ、「あの国の王様は裸だ。」と

『原罪と楽園追放』by ミケランジェロ・ブオナローティ

 バチカン市国の誇るシスティーナ礼拝堂の、幅13メートル奥行き40メートルの広大な天井は、規格外の剛腕を持つ画家の力作によって埋め尽くされた。この絵画は、その数十分の一のディテールに過ぎないにも関わらず、独立した絵画のように完成している。

 画題は、有名な現在の場面。

 知恵の実を食べたイヴが、初めて得た知識は、自分が裸であると言うことであった。そして彼女は慌ててイチジクの葉で股間を被った。

 知識を得てしまったがために、楽園を追放される2人。

 民主主義は、大衆が基本的教育の拡充により、自分たちが裸であることに気づいてしまったことから始まった。そして私たちは、何もかも人任せで良かった「楽園」から出て、自由と平等というイチジクの葉を握りしめ、どのような問題も自分たちで解決していくことを選択したわけなのである。

 

Reboot

 諸事情があって休筆していたが、昨年10月からブログを再起動していた。全体の構想の第2編にあたるので、同じアカウントのサブブログに掲載していたが、掲載ワードの差が段違いなので、いくら新しい投稿をしても、こっちのアクセスの方が多いことになんとも残念な思いが募るばかりで、そのうち、第2編の方も文字数が増えてきて、ヒット数も増えるかなあと持っていたが、インボイスが導入されるまでに見てもらいたかった投稿がいくつかあって、メインブログに掲載することにした。

 

 ただ、持病の治療のため服用している向精神薬の作用で、発想力、想像力、理解力が格段に低下してしまった。社会に適合できるように、自己主張と多弁症を抑えているのが目的だから、止むを得ないのだが、前編の「説難」に比べると、明らかに語彙力がなくワードセンスが壊滅的だ。ユーモアもキレもオチもなく、無駄に文章が長い。
 それでも今回再起動に踏み切った心境を、令和風の歌詞で表現すると「孤憤」ってやつが光り輝くから、好きなことに向き合うことは楽しいだけじゃないことはわかっているつもりだが、透明な自分でいる事にも限界が来て、名文を書けなくても、宿命に抗うことにした。てとこかな。
 「孤憤」とは、「五蠹篇」と並んで、いわゆる秦の始皇帝をして、「この著者に会えることができたら死んでも構わない。」と言わしめた、韓非子88篇でも、傑作中の傑作である。
 その意味は簡単にいうと、「自分ひとりではどうしようもない世間の仕組みなどに、一人憤りを覚えるさま。(Weblio辞書)」をいう。
 私は、管理職にもなれなかった木端役人だが、ありがたいことに幹部候補生として教育を受けた経験がるため、周囲の同僚が気にも留めない国家の裏の考え方に気づくことができる。

 

 「説難」では、そういうやばい話はあまりしなかった。エビデンスもなく偏った意見を言うと、批判されたとき反論できないし、万が一炎上でもしたら、処分の対象になるかも知れないなどと考えていたからだ。でも、なんのことはない。市井の木端役人のブログなど誰も興味を持たない。もうちょっと言いたいことを言っても良さそうだな、と確信を得た。
 よって、今回はもっとBLACK kannpisi になって、どぎつい話を言葉を選ばず語っていこうかと考えている。どうせ、語彙力が壊滅して、言葉を選ぶ余裕も無いし。

 

 というわけで、第2編のタイトルは「孤憤」。

 皆さんの知らない間に、いろいろ大変なことが起きていますよ〜。とか、「いい加減目覚めなさい。いつまで家畜のような人生を送っているのですか?」という話をする。

 しかし、私の投稿は原則として、問題提示と解決案の模索はセットである。

 現在第2編は、16話まで進んでいる。今は、日本人のポテンシャルの喚起に勤めているところだ。

第2編「孤憤」のメインチャプター エジプト遺跡「スフィンクス

 

Gjallarhorn

1 ブログトップページ

 昨年10月3日、本編を完結させた時点でこのブログを更新するつもりはなかった。

 しかし製本版の出来の良さに、つい夢を描いてしまい、つまらない二稿を追加してしまった。それから半年間、とある事情でブログを更新していなかった。

 その間も、何らかのワードがヒットするのか。アクセス数は継続的に有るようだ。

 しかし、せっかく見てもらっても、おそらくトップページを見た時、よくわからない最終稿が一面に出て来る、中途半端なブログの典型作のようで、ずっと気になっていた。

 このブログは、通常のブログとは違い、初稿から読む事で、その意義を感じられるものなので、ここにその初稿のホームページを示しておく。

kanpishi.hatenadiary.jp  これで最終稿を掲載した意味の半分は終了した(´-`).。oO

 

2 螻蟻の災難

 さて、しかしながら、前回の最終稿では、自分の完成させた製本が、多くの人に読んでもらえるようにできないか模索する方向性を示している。

 したがってその結果どのようなことになったかについても話しておこう。

(1)出版企画書

 この後、私はネット上で出版の支援してくれそうな出版社を探しアプローチを試みたが、どこも、ろくに原稿も読んでくれず、自費出版を勧め、手数料をもらいたがる面倒な会社ばかりだった

 しかし、ある大手の出版社の親切な担当者から、「こういう場合は、本の「奥付け」(最終頁や裏表紙)に書いてある出版社所在地宛に「出版企画書」と言うものを送って、審査を受けるのが、正式な手続きである」と言うことを教えていただいた。この審査を受けなければ、出版社の編集者は決して本文を読む事はないと言う。

 なので、同じような夢を持つ人たちに忠告しておくが、原稿をろくに読みもしないで自費出版を勧めてくるような会社は絶対に信用しない方が良い。

 なお、その親切な出版社には、出版企画書を送ったが、回答はなく、どうやら不合格だったようだ(-"-)

(2)セカンドオピニオン

 本編でも若干触れているが、私には、不眠症と多弁症という悩みが有り、睡眠薬向精神薬を常用している。

 TOEICチャレンジ辺りからやや様子がおかしかったのだが、その持病が悪化して、家庭内の平穏はおろか、社会的適応性でさえ危ぶまれる事態となった。

 そこで、コロナ禍の中、外回りが無いうちにセカンドオピニオンを受け、治療の抜本的見直しを計ることにした。

 その結果は燦々たるものだった。

 あまり自慢できるような話では無いのだが、割と普通の方でも陥りやすい問題かと思うので紹介しておこう。

 私の症状は、いわゆる「発達障害」が起因している。私の場合は、理解力・読解力・想像力においては群を抜いて優れているが、注意力・集中力・観察力において非常に劣っていると言う。簡単に言うと、弁は立つが、やらせてみるとミスが多いというわけだ。

 私の主治医も、この発達障害については承知していたが、それは「個性」であり、「才能」であると考え、なるべくそれを損なわず、これを改善したいと考えていた。

 しかし、セカンドオピニオンを請け負った医師は、発達障害についてそれほど寛容ではなく、「あなたは、優れた能力と劣っている能力との差が有り過ぎてもう治らない。」と断じ、「その格差は非常に危険な域に達しており、現状既に社会に適合できていない。」と言い切った。

 人は目が見えないと、耳が良くなる。

 同様に、能力に格差がありすぎると、劣っている能力を平均値まで引き上げようとする意欲を失い、優れた能力で全ての問題を解決しようと考える。

 結果、優れている方の能力はさらに鋭敏化され、劣っている能力は、さらに退化していく。そうして、他人には理解できない、「どうしてあれが出来て、ここでミスする?」という、私に期待する人を失望させ、私を嫌う人をイラつかせる人格が形成される。

(3)ゴッホの主治医

 セカンドオピニオンの結果は、私の主治医にも伝えられた。彼はとても残念そうにこう言った。

 「僕はあなたの才覚をとても高く評価している。しかし、それを守ろうとすればするほど、あなたやあなたの周囲を不幸にしてしまうのかもしれない。

 薬品によって、あなたの才覚を抑えてしまうことは、難しいことではない。しかし、医者として不甲斐ないところではあるが、私は今でも、治療の方向性に悩んでいる。」と。

 私は、TOEICなどのいくつかのチャレンジの結果を報告し、一番自信の有った文才についてすらこの先役に立つ目途は無く、それが私の周りを不幸にするのなら、そんな才覚は抹殺してほしいと頼んだ。

 主治医は言った。「ああ、まるで僕は、ゴッホの主治医のようだ。」

 まあその言葉で十分だった。

 ゴッホの主治医は、彼の才能を信じつつも、彼の命を活かそうとした。しかし、結果は両方を失うことになる。しかし、ゴッホは37歳までしか生きられなかった。私は彼より多くの可能性にチャレンジすることができたし、私の才覚を評価してくれた人にもたくさん出会えている。

(4)剣の反乱

 発達障害に対する治療薬は、発達した能力を押さえ込み別の能力で問題を解決させようとするものである。しかしその治療は、理にかなっているとは言え、かなり厳しいものになった。

 頭の回転が全くせず、読み書きが理解できない。パフォーマンスが極端に低下し、強烈な睡魔を伴った。だから、周囲の人たちは、急にトロくさくなった私を責めた。

 しかし、何よりつらかったのは、精神面の苦痛だ。

 幼少から運動神経が悪く、いじめられがちだった私を何とか助けてくれたのは学力と言う「剣」だった。逆に言うと、数十年もその剣一本だけで生きて来たのだ。これを奪われる辛さは、自分の人生の大半を否定されるようなものだ。

 私の精神は次第に怒りと恨みに変わっていく。

 「なぜ私の性格は抹殺されなければいけないのか?」「考えてみれば、注意力や集中力というものは、運動野の問題ではないか?」「運動神経の悪い私がやむを得ず選択した道ではなかったのか?」「普通の運動神経を持っている連中は、ろくに勉強もせず小学生でもわかるような問題を解こうともしないではないか?」

 

 受け入れられない悔しさ。いくら説明しても、同情してくれるのは、精神科医とカウンセラーだけ。抹殺されていく私と言う人格・・・。

 パニックに陥った私は、二週間で発狂した。

 

3 エピメテウス

 妻は、私の襟首を掴んで、私の兄のところに私を連れて行った。彼女は、私の発達障害の原因は、私の家族に在ると考えていたから、責任を取らせようとしたのかもしれない。

 兄は、私のコンプレックスの対象だ。

 私が物心ついた時から、人気者で、周囲から期待され、街の有名人だった。社会人になっても、とんとん拍子に出世し、いつも人の中心にいた。

 

 プロメテウスはご存知知恵の神で有名だが、エピメテウスはその弟でパンドラの箱で有名な女性パンドラを娶った愚かな神である(パンドラが有名すぎてあまり知られていないが)。

 エピローグに代表されるように、プロは前、エピは後を表す。

 転じて、プロメテウスは、先に考える賢者と称され、エピメテウスは後で考える愚者と揶揄される。

 私は、兄がいつも称賛されるプロメテウスで、私はいつも揶揄されるエピメテウスであることを自覚していた。

 しかし、一つだけ彼に勝る自信のあることがあった。彼は、決して職務上必要なもの以外に知識を得ようとはしなかっただろう。これに対し、私は職務上必要のない知識を好奇心のままに吸収することを好んだ。従って、おそらく本編の『説難』のような作品を生み出す事は彼には決してできなかったろうと思う。

 だからこそ私は彼に単刀直入に尋ねた。「なぜ私の才覚は抹殺されなければいけない。」と。

 

 兄の答えは一刀両断だった。

 「個々の類稀な才能は重要なファクターだ。しかしそれは、事業者や芸能人・スポーツ選手には必要なものであって、組織や調整を重んじる職業、特に役人のような職には無用だ。」

 

 身も蓋もない答えだ。

 

 誰だって、自分の才能を信じている。しかし、20代そこそこで事業を越せる奴なんて、それこそプロ野球選手並みの才覚だ。だから、数年、十数年会社員として修業を積むのだ。

 そのうち、家族ができ、住宅ローンを抱え、簡単には脱却できなくなる。

 兄の言い分では、「その時点で、自分の才能を諦めて、凡人としての一生を選択せよ。」ということだ。

 

 くだらない。まったく、昔から変わらない。プロメテウス的発想だ。

 エピメテウスは、パンドラを妻に娶ることで、世界に最悪を振りまいた愚者である。しかし、私には、パンドラに魅かれる性向こそが、人類の発展の原動力のようにも思えるのである。

 

4 老兵は死なずしてただ去るのみ

 しかしながら、兄の指摘は的を得ている。

 私の才覚を発揮するには、私は歳を取り過ぎた。

 私の好きな言葉にこんなものが有る。

 所得税法における「事業所得」の定義について最高裁判例が例示した一文だ。長いので冒頭だけ、「事業とは、自己の計算と危険において独立的に営まれ・・・」。ここで言う、計算とは、一定の利益可能性、つまり勝算であり、危険とは不慮の事象による損失を指す。

 つまり、最初から勝算のない趣味の延長や、投機や博打のような損失が有る程度当たり前のものは除かれるという意味。

 逆に言うと、事業とは、確実な計算さえ立てておけば、よほどの不運に見舞われない限り、生業として成り立つと言う事である。例え、サラリーマンでもある程度の計算と「勇気」が有ればできない事ではないのである。

 私は、家庭の安定を言い訳に、自分の才能を信じず、一歩踏み出す「勇気」を持つことができなかった。その時点で、兄の言うように、とっとと、凡人になることに徹するべきだったと言う事なのだろう。

 

 私は、薬品による理解力と読解力の抑制に同意した。

 

 おりしも、まさかこの歳て、新しい系統に転属となり、一から勉強を強いられることとなった。今までなら、マニュアルを3割も読めば、おおむねを掌握していたが、今の読解力では、3回読んでも5割も残らない。

 しかし、おもしろいもので、以前のように短期間で一人前に成長していた私よりも、3か月たっても半人前の私の方が、周囲にはやさしくされて、気に入られている。

 

 文章力・自己主張が格段に落ちたので、しばらくはブログは書けないだろう(この最終稿を書くのも半年かかった)。しかし、妻子から、「最近穏やかになった。」と言われ、肥満体型だった体重が10キロ痩せた。

 

 オリ・パラでは、「己の才能を信じろ。努力は必ず報われる。」というメッセージが盛んに飛び交っていたが、どんな素晴らしい才能も、誰かに見出されなければ結局埋もれていくもの。一定のチャレンジをしても、表に出ることのできなかった才能は、ある意味「賞味期限切れ」として、パージした方が、本人にとっては幸福なのかもしれない。

 

 そういうわけで、この稿を以って、私の執筆はこれにて一旦終了したいと思う。

 

f:id:Kanpishi:20211010165419j:plain

レオナルド・ダ・ヴィンチ『洗礼者聖ヨハネ

 ダ・ヴィンチ最晩年の作品であり、一説には絶筆とも呼ばれている。

 輪郭線をぼやかすスフマート。両性具有的肖像。そして、魅了される不敵な笑み。

 いずれも彼の代表作、モナ・リザに使われた技法で、かつそれを凌駕しているように思われ、絶筆の名にふさわしい。

 しかし私が特に目を引いたのは、彼の突き出す人差し指である。

 多くの解説は、イエス・キリストの洗礼者で、師匠でもあったヨハネが、天国を指しているというが、弟子であるイエス・キリストは一度もこのように、ガッツポーズスタイルで、いわば天を愚弄するようなポーズは取っていない。

 これが、変人ヨハネらしい挑発的な態度なのか、ダ・ヴィンチの創作なのかは不明であるが、私は、ダ・ヴィンチの創作であると信じている。

 彼は、最後の絵画を通じてこう言っているように思えるのだ。

 「これが最後ではない。これが始まりの『一枚目』なのだ。」

 

 

 

 

ようやく”note”への移転掲載を始めました

1 ”note"への移転掲載開始について

 正月の投稿から5か月近く経っていますね。

 実は、3月までTOEICにチャレンジすべく勉強していたのですが、これが予想外に難敵で、こちらの方まで全く手が付けられなかった次第で。

 このチャレンジについては、いろいろ思うところが有ったのですが、それは後述とします。

 

 それより、前回投稿で話題にしていた製本については、投稿の二週間後には届いて、これがまた、なかなかの出来栄えで、前回掲載の模造品のクオリティを優に凌駕しています。まあ、料金分の仕事はしてくれたな、と感心している。もし迷っているという人がいるなら、私は、激・お薦めです

 製本はB6版で行ったが、主治医の先生は、「ごめん、僕には字が小さくて厳しいわ。」と言われたので、現在B5版を発注し、どれだけ不細工になるかを検討する予定である。

 しかし、私の歳で読む限りにおいては、そんなに苦に思えるものではなかった。そもそも、どちらかというと30代以下をターゲットにした作品なので、B6版で十分かなと考えている。

 

※2021/4/24 B5版が到着したので、完成品の写真を掲載します。

 確かに文字は大きくなりましたが、娘は気に入らないようです。ご意見を頂けると幸いです。

f:id:Kanpishi:20210424223603j:plain

 

 それにしても、実際、製本で読んでみるとブログで読み返すのとはまた違った感激が有るもので、自分で書いた本なのに、やはり、自賛の念が抑えられない。

 こうやって、ブログで全原稿を公開しているのだから、わざわざ、製本を欲する人がいるかどうかわからないが、是非製本で読んでもらいたいと思う。

 そのためには、製本化に値する作品であることを立証しなければならない。

 そのための"note"のサイトへ移転掲載だ。

 

 以下、トップページとサイトアドレスである。

 こっちで読み切っている人には関係ない話かもしれないが、寂しい螻蟻を少々なりとも応援しくれるとありがたい。 

f:id:Kanpishi:20210418224916j:plain

https://note.com/kanpishi

 

2 TOEICのチャレンジについて

 50を過ぎて、いまさら何しにTOEICなのかということになるのだが、実は話せば長い。まあ、そこを何とか端折っていこう。

 私の父は、税務職員から50を前に会計事務所を開いた。いろんな理由もあったようだが、その中に「(監査先が)可哀想だ。」というのが有った。

 税の世界は、知る者と知らない者と間に格差が有りすぎる、そこに挟まるブリッジが必要だいうことた。しかし、その経営スタイルは、あまりお金を持っている顧客が少なく、儲けが少なかった。

 

 早期退職の上独立を果たした役人の息子が同じ道を目指すのは当然のことで、私も50までの退官を目指していた。しかし、格別のスキルが無ければ、都心で税理士家業は成り立たない。

 支援者がいないわけでは無いが、彼の条件は、父のやり方ではなく、「儲けを確保する。」ことである。(それは、顧客の安心を守るうえでも重要なのである。)

 

 そこで、私は3本の構想を立てた。「事は密にしてなる」わけであるから、あまり話す物ではないが、構想のうち2本は既に潰えたので話してもよかろう。

 その一つは、簿記1級を取得することであった。

 会計事務所に簿記1級は必要ない。現実離れした世界だからだ。

 しかし、人にモノを教えるときは、より高度な知識を持っている方が、分かりやすく説明できる。減価償却貸借対照表、それをケーキや風呂の水に例えて説明する。それは、そのプロトコルを理解しているからできること。私は、監査や窓口相談の場で、何度も悩める新規事業者を助けてきた。だから、どうしても会得したかった。簿記全体の世界にある真髄・プロトコルを。

 しかし、能力足らず、3年間チャレンジしたが、簿記の女神は最後まで私に簿記のプロトコルを見せてくれなかった。

 もしこのチャレンジに成功していたら、50を前に若手税理士として退官していただろう。

 

 機を逸した私には、失意の念もあったが、タイミング的にも次の2本目・3本目の柱を取りに行くには、3年近い猶予ができた。

 そこで始めたのがこのブログだったわけだ。

 その猶予の時間が過ぎれば、あまり好きなことをしている時間はない。その前に、死ぬ前に書き残しておきたかったことを書き綴っておこうと思ったわけだ。

 

 3年の猶予が過ぎた。次の機会、早期退職に向けて、2本目・3本目の柱を取りに行くことになる。

 

 もう一つの柱は、外国人に対する対応だ。つい最近まで、「I cannot speak japanese.」という来庁者が来ると、お化けが出たかのように、館内中大騒ぎだった。

 最近は優秀な大学を卒業した新人が増えたので、それほど大騒ぎにならならないが、若者・新人任せが体裁の良いものとは思えない。

 私は、困っている外国人を放っておけず、英語版の申告書作成手引きを独学で和訳して、震えながらも、怯えながらも逃げずにチャレンジしてきた。おかげで今では、相変わらずカタコトのぶつけ合いながら、当人の来庁の目的くらいは完結できるようになった。

 そこで、2本目の柱は、このような困っている外国人の企業者を適正な方向に導くというものだった。

 そのために、「私、ある程度英語は話せます。」と口で言っていてもだめだ。

 そこでTOEICのスコア(わかりやすい看板)が必要となるわけだ。

 

 最初、何も勉強せずにやってみたらスコアは320点だった。

 最低でも600、できれば650は必要だ。話にならない。

 3か月勉強したが、スコアは400点に満たなかった。

 

 妻が、なぜ娘に相談しないのか?と聞く。

 娘は、英語を話せる人だ。勉強のし方が違うことは目に見えている。

 それでも、わらをもすがるつもりで、娘に相談した。

 初心者がこなせる量とはけた違いの課題を出された(+_+)

 しかし、彼女は言った。「できるできないにかかわらず、もっと英語を楽しめ。」

 当たり前の指摘に愕然とした。私は、「受験は楽しい」と壁に張り、スコアが伸びないことや、何度も同じところを間違えることに腹を立てないようになった。

 彼女の出した課題の3分の2くらいしかできなかったが、何とか家庭内模試で、500点を超えるようになった。

 

 先日、試験結果が送られてきた。

 スコアは、300点。

 まったく勉強をせずにやった時より悪い。

 私は悟った。神様は、私が簿記の初心者を導くことも、可哀想な外国人を助けることも望んでいない、と。

 もう一つの柱を手に入れるには、資格が二つ必要だ。しかし、その柱は、どちらかというと、金もうけのためのアイデアだし、それなら、早期退職をする理由もない。

 そして、その資格は、毎年更新されるので、退職直前まで要らない。

 今年は資格取得で忙しくなる予定だったが、今、私は全くバイタリティの抜けた木偶の坊である。

 

 父親のように、お金儲けでなく、人の役に立つ税理士になりたかった。

 しかし、スポーツ選手の才能のように、なりたいものになれる才能を授かることは稀であり、「努力は報われる」などという妄想も、一部の才覚者にしか当てはまらないのだ。

 

 妻と付き合い始めたころ、「ズルや意地悪をされたことのない人生」を歩んできた人を初めて見た。美しさすら感じた。息子は、異常と言えるほど人に好かれ友達が多い。娘は才覚に恵まれたうえに、妻の影響かひねた性格が身につかなかった。

 私は違った。4歳のころには、ズルと意地悪に苛まれ、中学から「脳みそだけが頼り」というひねた性格が完成した。

 

 ブログを読んでもらったらわかるように、幅広く知識を持っているし、おそらくかなり正確に捉えている。(自信のないものは発言を控えているところもある)

 しかし、私は「賢い」と褒められた事がほとんどない。私の醸し出す何かが私を褒めさせない。だから、私は勉学の成果を誠実なものに活用し、例えば、困った人を助けることで人の称賛を得ようとした。

 

 神の答えは、スコア300。

 

 再雇用になって、老害になるのは嫌だったが、神がここまで私の将来を否定するのであれば、その選択がやむを得ないのかな。

 支援者からは、スキルなしでもいつでも歓迎の兆しであるが、私はやはり自分のやりたい形を少しでも通したい。

 

 今はもう、TOEICの結果がショック過ぎて、先のことは考えられないが、まあ取りあえずブログが、なるべく多くの人に読んでもらえるように、いろいろ工夫して、そのうち、先のことを考えなおそうと思う。

f:id:Kanpishi:20210420230336j:plain

「自画像」ゴッホ
 ゴッホの自画像はあまりあるが、この自画像はとくに有名なように思う。

 ゴーギャンとの悲しい別れの後、耳切事件を起こした後の作品だ。

 ゴッホの作品は、自殺に近づくにつけて、背景のうねりが強くなっていくのが特徴だ。この作品でも、残念ながらその兆候が見え始めている。

 様々なチャレンジの末に彼は何を得て、これを描いているのだろうか?

 しかし、私は、失敗を重ねても、空振りの人生を重ねても、背景にうねりを描かない。なぜなら、悔しい思いをしつつも、どこか、これが私の生い立ちか何かから背負ってしまった宿命のように思えるからである。