説難

寸法書を取りに戻るマヌケ

韓非子55篇 外儲説篇 左上 経二

 「鄭人且(まさ)に履(くつ)を買わんとする者有り - 寧(むし)ろ度を信ずるも、自ら信ずる無きなり。」

 鄭の人で履(くつ)を買いに行こうとする者がいた。

 まず自分で足の大きさを計り、その寸法書を作ったが、座席に置いたまま持っていくのを忘れた。市で履屋を見つけた後で彼はそれに気づいた。

 慌てて、家に引き返して寸法書を取ってきたが、戻ってみると市はもう終わっており、とうとう履を買いそこなった。
 

 私の好きな逸話の一つだ。
 

 韓非子は、孔子の教え、いわゆる儒教を強く否定していた。特に人情や道徳といった、人によっては価値観が違うもので民衆を統制しようとする考えと、その価値観も時代によって変化するのに、古い教えに囚われ過ぎているという点だ。

 まさに寸法書で履を買わんとする者だ。

 彼が秦の始皇帝に登用された後、悪名高き「坑儒」(儒教学者をすべからく生き埋めにする)が行われた。そのため、彼の思想がその引き金になったとされた。いわば彼は儒教者にとっては不倶戴天の敵となったわけだ。

 その後日本では、儒教の流れをくむ朱子学が採用される。そして、韓非子の思想は封印された。
 

 秦の始皇帝のような改革者は、因習を嫌う、ましてやこれを盾にして改革の妨げになるような勢力は、誰の助言がなくても、容赦なく排除したであろう。

 それが「独裁」の欠点でもあり、利点でもある。

 

 世の中は変化し時代によって社会に必要なものは変わっていく。というのが現代社会の常識のようである。あたかも「改革」そのものが正義のようだ。

 一方でアリストテレスのように、普遍の善や普遍の幸福が存在すると唱える哲学者もいるが、多様化した現在においては、人々の幸福や善と言うものは相対的で、人それぞれの価値観に左右される事は明らかである。

 しかしながら、いくつかの普遍的な悪が存在するように、皆が納得する幸福も存在するかもしれない。

 「ハーバード白熱教室」で一世を風靡したマイケル・サンデル教授の説をまとめると、そこに帰結し、普遍的正義が存在しないと断じるのは早計ではないか?という主張になる。

 

 わざわざ寸法書を取りに戻る事は間抜けな話だが、その場で足のサイズを測ればいいというだけで、寸法書の数値が間違っているというわけではない。

 重要な事は、なんでも改革、改革と騒ぐのではなく、「現場に刮目すること」なのだ。

 

 さて、しかし、現場に刮目して何か問題点に気づいたとして、一市民に何ができるだろう。

 

 例えば、私は憲法を変えることについては懐疑的ではあるが、年金制度や膨大な国の債務については、考え方を変えなければいけない時期にきていると考えている。

 日本は周辺6か国を見渡すかぎり、最も優れていて、世界に範たる国家にふさわしいと考えている。

 国連の常任理事国選挙制度によって選ばれるならば、改選の度に選ばれる事は間違いないだろう。

 そして日本が常任理事国になり、他の常任理事国のくだらない拒否権がなくなれば、世界はもっと平和で、理性的に紛争解決するようになるだろう。

 しかし、そのためには、日本には1つ弱点がある。これだけ国力があるにもかかわらず、国民が皆貧乏で余裕が無いのだ。

 もちろん文化的水準は、諸国の群を抜く。しかし、子供に大学を卒業させるために、一体どれほど両親が粉骨砕身して働かなければならないのか。

 とても他国の平和どころではないのである。

 そろそろ、一部の富裕層が不労所得を得るために存続されている借金は清算しなければいけない。働き世代の夢と労働意欲を挫く、国民年金の世代間負担は各自負担(積立式)にするべきである。

 しかし、如何に私の意見が画期的であっても、私はこの話を飲み屋ですら語ったことが無い。

 このブログの読者に、ドナルド・トランプか小泉 進次郎がが加わってくれると、状況は一変するだろうが(*゚▽゚)

 

 しかし諦めてはいけない。

 例えば香港の市民は、現状をよく括目して観察していたのだろう。それもくだらない、利己的なものではなく。だから、中国中央政府の干渉の兆しを見逃さずに済んだ。

 括目していれば、立つべき時に立つことができることを証明している。

 

 何度も言うように、民主主義の日本において、主権者は始皇帝ではなく、私たち国民一人一人だ。政治家も学者も有識者と呼ばれる連中も、揃って、寸法書を見て政治を行っている。

 だから、国債は減らないし、保育園は建たない。共稼ぎばっかり推進するから、あちこちでママ父が5歳以下の子供を虐待死させている。

 

 有権者、特に20~30代の有権者に言いたい。

 「君たちは、今すぐにでも自分の足のサイズを測れるのだ。現状に括目せよ。」と。

 

 前回の参議院選挙で、私は自分の子供たちに、「選択は求めない。誰にでもいいから投票しろ。君たちの投票率が1%上がるだけで、保育園が1つ建つ。」と呼びかけた。

 マスコミや政治家の一部にも同じことを言っている人がいたが、あまり大きく取り上げられなかった。結果24年ぶりに50%を割る投票率となったそうな。

 とかく、新選挙民となった18、19歳の投票率の低下が取りざたされているが、彼らはまだ40%をキープしている。一番現状を括目し、声を上げなければならない20代が3分の1以下の投票率であることをもっと問題視してほしいものだ。(いくらググっても、正確なパーセントすら報じていないが2年前で既に下回っていて、それより下がっているので、情報としては間違いない。)

 投票しなかった人たちは、足の寸法書にこだわった間抜けを笑う事はできない。投票しなかった人たちは、政治家の人たちに寸法書はおろか、自分の足元の問題のサイズすら伝えようとしなかったのだから。

 私のように何らかの主張を持つ必要は無い。持っているに越した事もないが。

 しかし、現状を括目できていたなら、あの投票率にはならなかった。

 誰が一番割を食っている世の中になっているのか、ちゃんとわかっているのだろうか?

 フェラーリをぶつけて高笑いしている連中が居る世界と、思い描いたものと違う人生を生きるという、有りがちでレベルの低いストレスが原因で、誰かが死んだり殺されたりする世界が併存している。

 アリストテレスの言う普遍的な善や、幸福は本当に存在するのか?それは分からないが、少なくとも、1000年に一人登場するか否かの卓抜した独裁者より、とりあえずは義務教育を受けた数百万人の声の方が、答えに近いはずと私は信じている。

 

 主権の鼎を問われるときはいつ訪れるかわからない。しかし、寸法書はいつもあなたの足元にある。

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ロダン「考える人」

 各地にレプリカのある有名な彫刻ですね。画質が悪いのは、私が上野の西洋美術館前で撮影したものだからです。

 考える人は、ミケランジェロ作「最後の審判」(ヴァチカン:システィーナ礼拝堂壁画)をモチーフに作成された、ロダン作「地獄の門」(同じく西洋美術館前に展示あり)の中央上部のある、実はとても小さな彫像で、最後の審判により、天国と地獄へ引き裂かれていく人々の阿鼻叫喚を、眺め見下ろしている謎の人物像である。

 彼の思考するモノはなんなのか?地獄の門の壮大な阿鼻叫喚図より話題を呼び、ディテール(一部を切り取って大きくしたもの)の方が有名になってしまった。

 私には、その姿は、最後の審判に対する「何が正解だったというのだろう?」という、正解の無い悩みと、不条理な神に対する不信感を髣髴させる。そしてやはり、答えも信じるべきものも、その投げ出した二つの裸足に有るように思えるのである。

 

君死にたもうことなかれ

 過日、当ブログで、「命は、地球より重い?」そんなことは幻想で、命は時として紙のように軽くなるし、悲しい中学生にとって、命は五分の魂より軽い。とコメントした。

 その後、夏休み明けを悲観して、この9月1日に自殺する子が多いという記事を何度か見た。私の記事など見ている人はごくわずかだが、もし私の発言がきっかけで、そんな軽い物なら捨てても構わないと考えるような人がいたとしたら、少し話を聞いてほしい。

 まず一つ。確かに命は軽い。それだけに自殺することは何の影響力も及ぼさない。

 もし、自分が死ぬことによって、学内のいじめが問題になって、いじめた側が糾弾される。放置したものが咎められる。皆が心を痛める。と考えているのであればそれこそ幻想である。大変辛いことを言うが、私はもう50歳だが、人をいじめて死に追いやった、あるいは、同じ教室に居ながら、それを止められなかったことを反省している。と言う人に出会ったことが無い。

 「俺の学校にも自殺した人が居たよ。ひどいイジメに会っていたらしいけど。」と少し距離が有る人間が自慢げに話しているくらいだ。

 私も、中学の間イジメられていた。しかも一つ上の級では自殺者が出ていた。

 担任やほかの先生も再発防止のために、当時珍しいビデオカメラで再現フィルムまで作って、イジメの悲惨と非人道性を訴えたが、上映の次の日、そこで披露された行為を私はされそうになった。

 さすがに強気の女子が見かねて、「頭悪すぎ!」と一言突っ込んでくれたので免れたが、彼女はその半年後いじめられっ子になっていた。

 

 この世界は残酷だ…

 (進撃の巨人 ミカサ・アッカーマン)

 

 自殺を止める常套句に「生きていれば必ず良いことが有る。」というが、その「良いこと」は、今起きている、日々あいさつ代わりに蹴られ殴られ、陰口を叩かれ、仲間も居ず、発言も許されず、教科書を汚され、人前でズボンを脱がされる(すべて私が受けた行為だが)。それに匹敵するものなのか?

 残念ながら、人生には良いことも悪い事も有り、生きていて正解だったという答えにたどり着くことはなかなかに難しい。

 しかし、一つ言えることは、中学・高校の数年間など、人生にとって、それほど重要なものではないということ。

 私も一度きりの人生、アニメのような青春を送りたかったが、そんな青春を送った奴も、アイドルやプロスポーツ選手になった奴くらいの確率でしか存在しない。

 はっきり言って、今は生死を卓上に置いてしまうほど深刻な悩みかもしれないが、人生は残酷でありながら破天荒で、竜巻の中を舞う風船のようなもの、いずれ、今の深刻な悩みも耳くそのような思い出になる。

 今や、私にとってのいじめられていたころの記憶は、正月に2~3回合った母の叔母さん(祖父の兄弟?)程も無い。

 

 でも、じゃあ逆に、今を我慢して人生を全うすることに何の意義が有るのか?

 後日になれば、どうでもいい問題になるとは言え、「今」をどう考えるかが問題なんだもんね。

 

 こんな分析が有る。

 いじめられっ子の多くは、突き抜けるほどではないが、やや学力が高い傾向にあるらしい。私の場合も最初のきっかけは、言い回しや、言葉遣いが偉そうなところから嫌われたようだった。

 これに対し、いじめっ子の方の学力は低い傾向にあるらしい。大体そうだろうなと思う。テレビ以外で、クラスで1位2位の秀才がイジメをしていることを聞いたことが無い。有ったらそいつはサイコだ。多くは平均点以下の連中で、いじめられっ子の言っていることが半分も理解できない。その苛立ちがイジメに繋がっているのではないか?

 11年前のブログで、「イジメ依存症」と言う記事を書いた。今日は主題ではないので、詳細は割愛するが、要は、いじめている方が精神疾患を患っているという説だ。

 

 こうなると、いじめられっ子の自殺は、人類の損失だ。

 人類は他の動物がそれぞれ授かった特技と同様に、脳を授かった。

 比較的頭の良い種が、比較的頭の悪い、しかも何らかの疾患をもっている種に駆逐されるなど生物学的に有ってはいけないことなのだ。

 いじめられっ子が生き残るべき意義は、そこに有る。

  

 さてでは、どうやって生き残ろうか?

 

 方法はいくつも考えられていて、何が正解かはわからないが、私の場合はこう考えた。

 運動神経も悪く、臆病者の私が、唯一磨ける技は「勉強」だ。この日本という、平和で、私のようなものでも、「頭」さえあれば、勝てる国に生まれたことを感謝した。そしてこのくだらない中学時代を終えた後、今俺を蹴飛ばしている低能とも、良い高校に行ってしまえばお別れだし、大学に行ってしまえば、こいつを絨毯にしてやることもできる。そう思った。

 それに、クラスで1位2位のいじめっ子が居ないように、クラスで1位2位のいじめられっ子も珍しかったというのもあった(これは高望み過ぎだが)。

 

 いじめっ子が自分の何を嫌っているのか知らないが、ある程度の学力のある世界に行けば、必要な礼儀・作法・常識は問われる。よほど迷惑でない限り、今自分より低能かもしれない人に指摘されて直す必要は無い。

 しかし、それでは、彼らの腕力なりよくわからない影響力による攻撃を受ける。

 その防衛力を高めるのが「勉強」だ。1位2位は難しいだろうが、とりあえず、クラスのトップレベル(上位10%くらいかな)に入れば、大分状況は変わるはずだ。

 中学レベルの勉強なら、つぎ込んだ努力に対する効果は確実に現れる。

 ただこの苦行は、いじめられながらではもたない。しばらく、学校から離れないといけない。

 夏休みは格好のチャンスだったかもしれないが、夏休みは遊んだ方がいい。

 

 

 当面は、家族に相談し、「勉強」で打開するから、しばらく学校を休ませてもらう事を提案しよう。順序立てて言わないと両親はヒステリックになるから順序を示す。

 ①今から言うことでヒステリックにならないこと。②いじめられていて、新学期は登校したくない。③登校しないとまたイジメのネタにされるから、当分登校しない。④休んでいる間に学力を上げて、いじめられない圏内に逃げる。(夏休み中にしとけよ、と言われたら、最近気付いたと答えればよい。)⑤ある程度武器を揃えたら必ず学校にカンバックする(引きこもりのままでは後の人生が辛すぎるからね)。

 ⑥親には、イジメの相手を特定せず、問題にせず、①~⑤の実現のため、学校と協議し、どうすれば目立たずにこれが実現するか?経済的にどうするか?そういった問題を調整してもらう。(優秀で人格的にも尊敬できる家庭教師をあてがうのが理想的なのだがこれは難しいな。)

 父親が理性的な人なら、このメモをそのまま渡すといいだろう。このような調整は、サラリーマン社会では日常茶飯事だから。

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アルフォンス・ミュシャ黄道十二宮

 大阪堺市に、ミュシャ専用の美術館が有る。所蔵量の割に展覧スペースが小さいので、見たい作品を見られるタイミングを図るのが大変だ。

 ところで、どうして、パリやプラハで活躍したミュシャの専用美術館が堺市にあるのか?館員の話によると、カメラのドイという一時期一世を風靡した企業の社長が熱心なコレクターで、堺市に思い入れが有り、寄贈したというのであるが、彼は堺市の出身でもなければ、カメラのドイ堺市が拠点だったわけではない。

 彼が堺市を選んだ理由。それは、彼がここで新婚時代を過ごしたということであった。

 ミカサ・アッカーマンは、「この世界は残酷だ。」の後「そしてとても美しい」と続ける。

 美しく華麗なミュシャのコレクションに匹敵する美しい思い出が、土居社長の新婚時代の堺市にあったのだろう。それだけで、人生は上々じゃないか。

権利の行使は野卑であってはならない

 香港のデモはエライことになっちゃっていますね。

 

 去年銀婚式を祝して、家族で香港・マカオに行った。

 香港を選んだのは、香港自治政府(正しくは香港行政会議)の要職が、中国本土の指名者に限定されるなど、急速に中国の影響力が上がっており、いずれ私たち夫婦が若い頃、ジャッキーチェンを観て想像していた香港ではなくなっていくだろうと考えていたからだ。

 私たちが香港映画で描いていた香港は、要するに「雑」だった。
そして、実際訪問してみたが、期待通り雑だった。

 有名なネイサン通りで、権利がしっかりしているか怪しいが、気の利いたキャラ付きのUSBが売っていたのでお土産に買って帰ったら、帰国後、PCに差し込んだ瞬間、ウィルスソフトに弾かれたのは笑った( ´ ▽ ` )
 返還から20年、中国本国の厳しい締め付けで、つまらない国になっていないか心配だったが、ずっこけおとぼけなところは期待通りだった。

 

 しかし、最近の空港封鎖騒ぎに至り妻が言う。「去年行っといて良かったなあ。」と。
 

 しかし、ルーズでおとぼけなのは表面だけで、真面目に頑張って権利を主張し、中国の中央政府の狡猾な政略にもうまく立ち回っているようだ。しかも、今のところ、至って冷静だ。

最近、デモ隊側の非道を訴え国際世論を味方につけようとした中国政府が、市民は十分に礼節をわきまえて戦っているのに対して、一部の跳ね返りをとらまえて、非を鳴らすという卑怯な作戦に出たところ、海外メディアが、挙って、この中央政府側の情報操作を非難したのは痛快だった。

 そもそも、先進国的には、今回のデモ隊の主張は、普通に考えて正しいのだから仕方がない。「逃亡者引渡条例」など、別に別途結ばなくても、かつてのブラジルや冷戦時代の米ソじゃあるまいし、本当の犯罪者を引き渡さない理由が無い。

 どっかの書店のオヤジが、中国中央政府を批判する運動をしていたのに、仕入のために中国本土に行ったら、しばらく行方不明になって、帰ってきたときには、すっかり無口になっていた。

 そんな「むかし話か!」と突っ込みたくなるような、ばかげたことが現実に起きているから、その法案が通らないんじゃないか?世界中の人が知っている。

とにかく、この調子なら、香港はもう少し健全でいてくれそうだ。韓国の方が先に行っとくべきだったかと思ったりもする。

 韓国さんの抗議運動は、報道で見る限りは、香港市民より数段劣る。

 

 ところで、よその国の人はどうしてこう言うことで揉めると相手の国旗を燃やすのだろう?私の記憶では、日米貿易戦争の時もアメリカ人が日本の国旗を燃やし日本車をハンマーで壊していたが、日本人というのは、あっぱれな人種で、そんなときも、困っている外国人(その頃なら訪日してる外国人を観たら、圧倒的にアメリカ人なのに)を助けていた。自分はろくすっぽ英語もしゃべれないのに。

 

 ただ、私にも苦い思い出が有る。

 昔、甲子園の阪神巨人戦の後、巨人軍の旗をカバンに隠して、阪神電車に乗ろうとした巨人ファンのおじさんがいた。運悪く阪神ファンに見つかり、集団でその人を取り囲み、在ろう事か、その巨人軍の旗を燃やししまい、集団は盛り上がる、という悲しい場面を見た。
 阪神ファン、辞めよかな?とも考えたが、一人の阪神ファンの青年が、果敢にも、群衆と巨人ファンのおじさんの間に割って入り、群衆に対し「恥ずかしくないのか!お前らこそ甲子園に来るな!」と恫喝。巨人ファンのおじさんに平に平に謝った。彼の勇気ある行動のおかげで、今でも甲子園の一塁側に行ける。
 

 たとえ、報復目的であっても、あのような行為は醜悪至極である。アメリカも中国もやっているが日本人はしない。第一、多分万博以降に生まれた世代は、世界第二位としての民度が求められ、あのような野蛮と言うより野卑な行為で、気分が良くなったり、晴れやかになるような教育は受けていないはずだ。
 

 香港のデモは、日に日に激しさを増しているようだが、是非、先に手を出した方が負けであることを重々理解してほしい。 

 

 かつて日本でも70年安保という騒乱の時期が有った。

 一部の反対運動家が、死者が出るほどの過激な行動に出た。

 しかし、時の総理大臣佐藤栄作は、日本中に吹き荒れる反対の世論に反し、安保継続を実行した。

 一方では、最も平和的な選択をしたと言う人もいるが、その選択が後の50年を決定づけたかどうかは不明である。

 しかし、1つだけ間違いなく言える事は、当時その選択がある程度支持されたのは、「アメリカと言う国がそれほど嫌われていなかった。」ということだ。

 当時の運動家が主張するように、当時ベトナム戦争中であったアメリカは、すでに、現在の「10年に1度は戦争を起こさないと経済が破綻する。」戦争中毒になっており、それを知る知識人も多かったであろう。しかし、当時の日本人は、自分たちの近代化がどこで道を外してしまったのか?ちゃんとわかっていた。わかっていない人もわかろうとしていた。

 私は学生運動に参加しなかった人たちが、アメリカを盲信していたとは考えていない。彼らの主張は、ちゃんと届いていた。しかし、アメリカの危うさに気づきながらも、日本に西側諸國の最先端の民主主義を取り入れたいと言う気持ちが強かったと信じている。

 そして日本は、一方(西側)に組しながらも、少なくとも武力衝突には加担せず、学生運動家たちの危惧にも応えた。

 残念なのは、あの時の暴力が有ったからそうなったのか、無くても日本人はそこに到達できたのかが私にはわからない点だ。

 

 さて、香港市民の考えはどうなのだろう?礼節な抗議行動で終わることができるだろうか?

 鍵はやはり、香港行政会議の見識であろう。日本の時とは全く逆のことが起きているのだ。多くの市民は、中国本土の遅れた民主化に足を引っ張られることを最も恐れている。そして、それを見せつけるかのように、統制された「大人の抗議行動」を展開している。

 謀略により彼らを過激化させる事は容易だ。しかし、香港行政会議においては、自分達の市民と中国中央政府、いずれの民主主義が洗練されているかという問題を見定めるべきだろう。

 書店の店主の洗脳が単なる噂なのか?真偽は不明であるが、香港市民が中国本土の民主主義を信用していないということが重要なのである。

 香港行政会議が、国民の不安を払拭する証左を示すか、それがだめなら、やはり今回は見送るのが正しいのだろう。

 たとえ中国本土から派遣された立場の辛い傀儡政権なのかもしれないが、佐藤栄作のように、政治を司る者として、国内外・欧米・アジアを見渡した、国民の真の声に耳を傾けたとき、その矜持を以て支持する立場はおのずと決まってくるのではないだろうか?

 

 とにかく今は願う、礼節を持って訴えこそ絶対的勝利を得るこの運動を、一部の未熟者がお祭りと勘違いして、台無しにする野卑な行動に出ないことを。

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ムーラン・ド・ラ・ギャレット

 ルノワールの最高傑作と言われる作品。パリ郊外のダンスホールに集まった若い男女の幸福な集いの様子を描く。

 貧困や戦争など暗い題材を取り上げることない彼に対し、ある記者が「そういうものには興味はありませんか?」と尋ねたところ、「世の中には不快な物があふれている。だからこそ楽しい絵を描くのさ!」と答え、以来、彼は「幸福の画家」と言われるようになった。

 デモだって、「正しい」、あるいは「正しいと信じている人」が集まって、それを主張しているだけなのだから、まるで期待するかのように騒乱になることを不安視する風潮が目立つが、普通に要求が通って、この絵画のように楽しげな集いとして終わっても一向にかまわないはずなのだ。

 

 

 

 

ブレイクアウトⅲ 命が深刻な問題でなくなる時

 先日、会社の先輩たちと飲んでいて、「知覧」の話になった。

 特攻隊機の出撃地として、灯篭・遺書・見送った食堂の女将などの話が有名で、行けば滂沱の涙の流すと、先輩方はたいそうご執心の様子だった。

 

 8歳か9歳のころ、すでにひねていた私は、教師が言う「日本は侵略戦争に失敗した。」を全く鵜呑みにしていなかった。短絡的であまりに非合理的、信じられる同級生が不思議だった。

 

 私の父は、昭和5年生まれ。昭和20年の夏といえば15歳だった。大阪育ちの彼なら、大阪空襲も経験し、焼け野原で玉音放送を聞いたのだろう。

 そこで敢えて単刀直入に尋ねてみた。

 「日本はなぜ戦争を起こしたのか?」

 しかし、彼は呟くように言った。「みんなが狂っていたんだ。」

 私は、物知りな方だったが、当時まだ、「狂う」と言う言葉を理解できていなかった。涎を垂らして、踊ったり、暴れたりする様子が浮かんでしまった。だから、「みんなが」同時に「狂う」というシーンを想像することができなかった。

 

 不思議なもので、酔っぱらうと必ず軍歌の「戦友」を謳い、歴史・経済・国際・政治と、広範な学識に優れ、すべての議論を避けたことがない父が、57歳で他界するまで、戦争について私に語った言葉は、その一言だけだった。

 

 ちなみに私の母は、終戦時9歳。戦争の悲惨さを訴えては、反戦思想を植え付けようとするタイプだった。おかげで、基本反戦論者である。しかし、このブログでも何度か触れたように、私は、「悲惨・酷い」という訴えだけでは、好戦主義者に勝てないと考えて、いくつかのアプローチを模索している。

 

 そして私は、父が多くを語ろうとしなかった「皆が狂っていた。」日本を理解したいと思うようになった。

 

 そんなおり、ある元特攻隊員の言葉に戦慄を受けることになる。

 元特攻隊員へのインタビュー番組は多くあるが、以前より感じていたことに、彼らが、死に赴いてそれほど重い表現や深刻な表情をしないことであった。

 その日も若いキャスターは尋ねる。

 「家族に遺書を残すなど、死ぬに当たっては相当な覚悟が必要だったんでしょうね?」と。

 そして、その元特攻隊員は少し笑みを浮かべて、忘れられないその一言を言った。「今と違って、その頃は、命の問題はそれほど深刻な問題じゃなかったんだよ。」

 キャスターが理解できたのかは疑問だが、私にはその時代に生きた人達の、「狂気が是」とされる世界を、映像を見るように実感された。そして、父が遺した「みんな狂っていたんだ。」が急に理解できたように思えたのだ。

 知覧の遺書は多感な少年が、当時まだ美しかった国語で綴るものだから、涙を誘う。

 しかし、彼らは泣いてもらいたいと思って、それを残したのだろうか?

 もしかして、戦争の狂気を訴えたかったのではないか?

 しかし、戦争の狂気を語る者、記録は少なくない。プロパガンダナショナリズム・今でいうならポピュリズム、集団狂気への警告はどこにでもある。

 

 いや違う、彼らの薄ら笑みに見えるものは、戦争の狂気ではない。

 彼らは、まるで転勤命令でも受けたかのように死地に赴き、帰られないかもしれないから手紙を残したのだ。

 「彼らにとって、生死は深刻な問題ではなかった。」のだ。

 

 「命は、地球より重い?」そんなことは幻想だ。

 家族がナイフを持った暴漢に襲われたら、多くの父親は間に立ち、自分の命は紙より軽いと考えるだろう。悲しい中学生にとって、命は五分の魂より軽い。

 守るべきものや、必要としくれる人に恵まれない人生を10年も過ごせば、自分の命も他人の命もぺらっぺらだ。

 そこへ、プロ野球程度の熱狂を与えてやれば、あっという間に命なんて燃えて消えていくのではないか。

 京アニの悲劇を見て一番思うことは、銃の乱射事件が無い日本で、瞬時に30人以上も殺すことができる「ガソリン」と言う、マシンガン以上の凶器は、もっと早く取り締まるべきだったように思う。

 人間の心も同じだ。確かに、民衆の熱狂をあおる扇動者を注視することは重要だが、それ以上に、民衆というものが燃え安いガソリンであることに気づかなければならないと思うのである。

 

 頑張っているジャーナリストの方々には、大変申し訳ないのだが、戦場で大火傷を負った幼児を抱えながら、裸足で逃げ惑う母親を見て、命の重さをいくら訴えても、それは今日も夜中にコンビニに買い物に行ける人間の理屈なんだ。

 悲惨や残酷を訴えることは、その事実の存在を知らしめる上で、必要な報道だと思うが、反戦を訴えるうえでは、以下の観点を加えてほしい。

 

 紙のように燃え始めた命の延焼、山火事なるぬ「命火事」というべきかか。

 これをどうするか?

 

 「そんなことは分かっている。」という人も多かろう。そして、きっと一度火が付いたら、きっと為政者の意図すら超えて、延焼している現象も何度も見ている。

 「だからこそ、未然に防ぐ努力を訴えているのではないか!」

 

 そうなのだが、もっと踏み込んで、「その狂気を生み出しているのは、為政者だけでなく、民衆そのものではないのか?」

 ほとんどの人は勘違いしている、命は煉瓦で立派な建物で、理性というメンテナンスを怠らなければ、簡単には火事にはならないと。

 いいや、きっと、一陣の風で、藁に家よりよく燃えるだろう。

 いちばん燃えやすいガソリン(火事の元)は自分たちの命であることを自覚すべきだ。

 

 以前軍人さんの子息という人と酒席で同席して、大したことを言った覚えはないのだが、いつの間にか「国家のために命を捧げた英霊を馬鹿にするのか?」と息巻かれた事が有った。まああまり見識の高い人では無かったので、やり込めて家名を気付つけるの悪いと思い、議論は避けておいたが。

  

 前述の元特攻隊員は、「英霊になれるという誇りは持っていましたよ。」という。そして、先だった仲間の命は崇高な目的のために失われたと信じているとも言っていた。

 しかし、「生死は深刻な問題ではなかった。」と言った時のあの笑みが、私には「自嘲」にしか見えなかったのだ。

 

 父は、「みんなが狂っていたんだ。」としか言い残さなかった。

 その頃の15歳なら、軍隊に入るのが当然で、彼にとっても、命は紙だったのだろう。しかし、彼は、それを国のせいにも、世情のせいにもしたくなかったのではないか?多くを語ら無かった理由、それは「自嘲」ではなかったのか。

 

 もし、私の結論が正しく、激しい熱狂と惨劇と殺戮が、飲みすぎた夜の翌日のような「自嘲」でしかない。というのが、戦争というものの衝撃的な末路であるならば、それを選択する人はもっと減ることができるだろう。しかし、その犠牲者の数やつまらない為政者の選択ミスをはるかに超える、戦争のくだらなさを立証してくれる証言をしてくれる者は少ない。

 良くしゃべる奴ほど、自嘲を語らない(だから自嘲というのだろうが)。

 

 今日も、知覧では、滂沱の涙を流す観光客が絶えない。

 人の命が紙のようにくべられていく「人火事」の中、遺書を残した彼らは、意外と、「俺らは厚紙くらいには燃えにくいんかもな?」と自嘲していたかもしれない、などと発言したら、歴史館から放り出されるかもしれないが、その非人情的な観測こそが、本当に知覧の悲劇を根絶できるのではないか、とも考慮してもらえると幸いだ。

 

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山下清桜島

※publicdomain画像が発見できず、個人のブログの掲載物を引用しましたので、URLを表記します。https://blog.goo.ne.jp/takeu12/e/eae9957699c196b289df2a885c32bb75

 

 知覧への行く道でどうしても見る景色らしい。

 海の波もの緻密な表現のおかげで、手前の街並みと奥の桜島の素朴さが際立ち、抱きしめたくなる感傷を伺わせる。ゴッホもモネも挑戦しながら到達できなかった世界だ。

 特攻隊兵は確かに飄々と執務をこなす様に死地へ飛び立った。しかし、美しく抱きしめたいものをたくさん守りたかった事に間違いはないだろう。

 残念ながら、命は時として紙のように軽くなる。しかし、その遣い道は、もっと崇高なものであらなければならない。

 

 

 

 

 

ネット長者達の黄昏

 

1 労働価値説

 

 商品の価格は通常原材料+付加価値+純利益によって定められる。このうち付加価値を決めるものは、その商品を完成させるまでに注ぎ込まれた「労働の量」によって決定されると言われている。

 アダム・スミスの時代では、資本主義の、利益の多くは、次への投資につぎ込まれた。そしてその中で最もウェイトを占めるのは、投下した労働力と考えられた。

 実際この計算方法はかなり最近まで正確だった。

 この考えは、資本主義経済においては重要な要素をもたらす。

 トリクルダウンと呼ばれる現象である。(金持ちと喧嘩しよう - 説難で紹介すると言って、ずいぶん遅くなりましたが(-_-))

 さっきも言ったように、通常資本家は利益の多くを人権費に支払う。

 特にある事業者がなんらかの原因で、法外な利益を得た場合、かなりの確率で、従業員や外注先・そして顧客に還元する。

 

 彼らが格別慈悲深いわけではない。

 誰にでも想像がつく話だが、韓非子でも紹介されている。『韓非子』内儲説より「狡兎死して走狗烹(に)らる 。」、すなわち誰でもわかる原理、一部の物が獲物を獲り尽くしたら次は猟犬が食われる。これを知らない経営者は無能だ。

 しかし、この理念は、富が集中し貧富の格差が増大してしまう資本主義の宿命に歯止めをかけ、資産の再分配を促す。実にありがたい信念だ。

 労働者はすなわち消費者であり、受給した給料を貯蓄することなく経済に流し込む。経済全体のパイ(取り合う利益)は膨らみ、経済は成長し、庶民も、ひいては事業者自身の利益にもつながっていく。

 トリクルダウンは、法的な強制力を持たずして、資本を再分配させるいわばオートマチックな制御機能(スタビライザー)の一つなのだ。

 こうして、トリクルダウンされた資本は、経済を流転し、皆を幸せにしていく。これを資本主義社会のダイナミズムという。

 ループを繰り返しながら何かを失い続ける「スパイラル」に対し、 生産的・発展的ループという経済学上の好意的表現で、大学で習った頃は、とても前向きで心地よい表現に思えた。しかし、それから30年、その言葉は経済界から消えた。

 事業者達は、効率的に利益を得ることを追うあまり、あの欲深いモルガンですら手を出さなかった、賃金に目を向けたのだ。

 

2 ネットビジネスの複雑骨折

 そもそもネットビジネスの強みとはなんであったのか?

 SOHOと呼ばれる小さなオフィス、ホームオフィスからネットに配信される格安商品。設備が要らない、人手がかかってない、だから安く売れる。「薄利多売」それだけなら実に健全な経済活動だった。

 しかし消費者は、店に出向く必要が無い「コンビニエンス」に対価を払い始める。原価のかかっていない商品が、オークションの中で適正価格を越えて行く。

 ニッチと呼ばれるそれまで大多数の人が認知せず、見向きもしなかったレアな商品が注目を浴びる。

 ご存知のように、たとえ生産個数が少なくても、需要がなければ価格は上昇しない。しかしネットと言う便利な販売網で容易に手に入るとなると、生産個数が少ないにもかかわらず需要が生まれ、その額はオークションの原理で必要以上に高騰する。しかし、労働価値説から計算された価格とは比較にならない金額になっていく。

 ネットビジネスの事業者はアダムスミスの「神の見えざる手」を超える利益を得てしまうわけである。

 

 最終的に残ったのが、経済活動最低限不可欠とされるレベルをはるかに下回る人件費だ。

 詳しく彼らの決算書を確認したわけでは無いが、おそらく異常に低い人件費率(外注費を含む)だろう。

 いやあ、決算を見ると、ちゃんと人件費も払っているよと言う人もいるかもしれない。

 しかし、人的サービスのクオリティの低下は現実として起きている。

    みんな気づいているはずだ。

 気に入らないことが有っても、なかなか連絡先の電話番号を見つけさせないホームページ。ようやくつながったかと思ったら、まともな日本語が話せないオペレーター。(外国人を育成することには反対しないが、問題回避のためのフォロースタッフを付けるくらいの利益は得ているだろう?)。不在連絡せんに明らかに嫌味な殴り書き、低賃金への限界を振りまいている不穏な配送業者。

 ヒトと言う最高の機械がクオリティの高いサービスを提供しているから、価格が存在する。

(ちなみに私はSiriと喧嘩するたびに、Aiが人間を凌駕すると信じている人間はサル以下の脳みそしかない連中だと感じてしまう。)

 挙句に登場してきた、「UBEREAT」と言う宅配業者は何者だ。

 友だちのお母さんの握ったおにぎりが食べられない世代の連中が、衛生検査もまともじゃない半分ニートの運んだ食事を、例え何らかの養生をしているとはいえ、疑いもなく食する世界。

 どうして、高い人件費を負担し、クオリティの高いサービスを求めないのか?

 

3 独占と寡占

 みんな信じているのだ。ネット業界のやることは正しい。

 GAFAが、やっていることはいつも正しく、おしゃれで未来的だと。

 「寡占」と言う言葉が有る。

 独占は有名だが、寡占の方は一部の経済学を学ばないと聞くことはない。

 独占は一つの企業が、ある産業を独裁的に支配していることだが、「寡占」は、数社の大企業が協力して、ある産業を独裁的に支配していることを言う。

 実際には、独占よりこの寡占の方が、より現実的に起こっている。

 

 ネット業界の現状を見るとゴールラッシュに沸いたアメリカの西部開拓期を彷彿させる。人々は我先に一攫千金を求め、人智の届かぬ荒野を目指す。そこには、正式な手続きを経た法律ではなく、土地の有力者が個人的な見解と場合によっては都合によって定められる「掟」が跋扈している。

 The code is more what you'd call "guidelines" than actual rules.

 「掟というのは、規則というよりむしろガイドライン(心得)‘というべきだろう。」【パイレーツオブカリビアン_キャプテン・バウボッサ】

 あいまいで身勝手で、都合によって変わる、法治理念からは最も忌避すべき世界だ。

 

 我々は一部の勝ち組が勝手に支配する「自由」でない世界で、電子商取引を利用している。複雑骨折している社会に無理に順応しようとしている。

 経済原則から多少外れていても、新社会だから、他に選択肢が無いからと言って甘受している。

 

4 公正取引委員会

 この不公正を是正する希望の光が、公正取引委員会だ。本当は、ジャニーズや吉本が問題にになる前にその存在を喚起したかったのだが、あれほどの大騒ぎにも拘らず、彼らの存在がクローズアップされないのは、権力が低すぎるのか。皆さん公正でない世界がさほど不満足ではないのか?

 

 ロックフェラーは自由な経済により世界が平和になることを夢見、アダム・スミスは、自由経済は神の見えざる手によりバランスが保たれると言ったが、際限無く認められた自由の行き着く先は、万民の万民に対する戦いであり、強者の論理が跋扈する、北斗の拳かマッドマックスの世界なのだ。

 基本的人権に掲げる自由が「公共の福祉に反しない限り」と言う制限を負うように、自由主義経済といっても、いくつかは制限される行為があるべきなのである。

 独占や寡占は、健全な経済の発展を妨げるものであるため、規制の対象となるべきである。

 いつまでも、西部開拓時代は続かない。

 人はいずれ、「公正な取引」を求め、秩序を求めるだろう。いや、求めなければならない。

    そしてネット長者達もまた、自らの黄昏を自覚し次の手を打たなければいけない。

 ①カスタマーズが満足できる人的資源によるサービス向上。②業界覇者として、公取委に突っ込まれない程度の競争ルールの確立。③業界利用者が不満に思う点の積極的改善。インフラ整備。

 彼らの利益は、これくらいやって当然なのだ。

 税金を払わないのなら、代わりに国がしなければならないそうした整備をやってくれ。

 

 それにしても、ネット長者達の富はどこへ行くのだろう?

 豪邸を買おうが、プライベートジェットを買おうが、どこかの生産者に行き渡るはずなのだ。

 貯金で握っていたって、その金は預かった金融会社が展開する。富の半分が集中するメカニズムが私のは理解できない。しかし彼が一番浪費している先は予想がつく。

 際限の無いマネーゲームの世界だ。

 奴らは、儲けた金を、消費者や労働者、社会資本の整備にも投資せず、金持ち同士で取り合って楽しんでいるのだ。

 

 よく似た歴史的前例がある。フランス革命前夜の王侯貴族達だ。

 断頭台など野蛮な手法は使わず、現代人らしく、ネット長者達が自らを律するか、公取委と相談して、健全な経済を取り戻していただきたいものだ。

(3000文字以内に編集するために1か月以上かかったが諦めた。長文失礼。)

 

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ピーテル・ブリューゲルバベルの塔

 俗にいう「スランプ」というものは成長における不可欠なプロセスである。

 成果の頂点を飛び石のように踏み続けると、その成果が何によって形成されたものかを見失う。あるとき、飛び石が途切れ、あるいは次の飛び石まで若干距離が有り、飛び出ししきれないとき、人は、その飛び石が何でできているのかを考え、自分で補正や補強を加えるのである。

 バベルの塔は、神の怒りによって破壊されたといわれているが、その手段として、神は雷(いかずち)を下したり、大地震を起こしたわけでなく、労働者間のコミュニケーションを奪ったというのが秀逸だ。

 砂山を作ったことのある人はみんな知っている。土台がしっかりしていないと高い山は作られない。

 土台に見合わない頂点に達した者の救われる道は、その頂点が何によって築かれ、何によって支えられてきたかを見直すことだ。

 

 

余桃を喰らわす

北朝鮮との国交樹立

 北朝鮮というと、ちんまいくせに偏屈で、面倒な国というイメージが強いが、全世界の80%の国と国交が有ることはご存じだろうか?

 また、日本では名前を出すだけで嫌がられる金正恩だが、自由主義社会では考えられない残酷な粛清をする一方で、正当な方法で外貨を獲得し、食料の大増産を実現し、核武装も成し遂げており、洗脳を受けていなくても十分に自国民の尊敬に値する業績を上げている。

 まだまだ貧困層を抱えているのも現実だが、核兵器が臨界テスト(実際に爆破させずにその威力を図るテスト)のできるレベルに達すれば、もうそんなに開発コストは要らない。余った資源を貧困層に還元すれば、とりあえず戦時下のような窮々とした惨状は回避できよう。

 実は、この状況は大戦前夜のアドルフ・ヒトラーに酷似している。 

 しかし、ヒトラーは大戦を仕掛けるまでにドイツを復興させたが、これは、元のドイツという国の潜在能力の高さも起因している。北朝鮮が経済的な離陸期(テイクオフ)に入るには、後一手が必要だ。

 それは強大な経済力を持つ隣国との国交である。

 そのパートナーが誰になるかによって、金正恩ヒトラーとなるか、渋沢栄一(新一万円の人)になるかが違ってくる。

 中国は?中国はダメだ。自分の支配下に置きたいので、援助はするが発展はさせない。注文も多い。それに、中国がパートナーなら、行先はヒトラーだ。

 それに比べて、日本は、かつての中国にそうしてあげたように、自分を追い抜くまで発展しても、かつての借金を返せとも言わない。日本が求める見返りは「平和」だけだ。そして、今このタイミングで国交を樹立すれば、かなりの確率で、日本は彼らの核弾頭の標的から除かれるし、この道の方が渋沢栄一に近い。

 

国交樹立に当たり問題とされる事項と反駁   

○=問題点 ●=反駁

○ 独裁国家基本的人権を無視している。

  •  世界の国の内、民主的で基本的人権を保持している国の方が少数派だ。 

○ 核弾頭を持っている。

  •  日本に隣接する五か国のうち韓国を除く四か国が核保有国だ。今更・・・

世界で唯一の被爆国でありながら、アメリカに気兼ねして、核軍縮条約に反対した国が何を言う?

○ 拉致問題はどうなる?

  •  これが一番聞く人によっては叩かれそうだが、日本を含む多くの国々の経済封鎖により、北朝鮮は長期に渡り食糧難に陥り、数十万か数百万人が餓死したといわれている。

 金一族の政権が悪いのだ。栄養失調で死んだ子供の躯を抱いて泣く母親を前にして同じことが言えるだろうか?

 かつて、太平洋戦争末期、アメリカ軍は、「国民の戦意を削ぐ」という名目で、民間人の密集する市街地を絨毯爆撃した。そして、数十万人が死んだ。

 しかし、政権を掌握していた軍部は、あの原爆が落とされた後でも、天皇からの勅命が下るまで、戦争継続を言い張った。

 私の子供が拉致されていたら同じことが言えるかどうか?いつも問いかけるが、私の子供が餓死するさまも想像することができるので、やはり断言するだろう。

 「相手の国民を傷みつけているだけで、政権に全く効果が無いなら、そんな戦略止めてくれ。」と。

 

○ アメリ

 アメリカは黙ってないぞ、アメリカを敵に回すのか?

  •  正直、拉致問題より、実はこれが一番の障害である。

 前半で示したとおり、北朝鮮は、経済的テイクオフのために、強大な経済力と結びつきたいと考えている。端的に言ってそれはアメリカか日本である。

 しかし、日本には全くアプローチして来ない。なぜなら、日本がアメリカを差し置いて国交を結ぶとは考えられないからである。

 そして多くの日本人も、それが正しいと信じている。

 しかし、その戦略が本当に正しいか?

 

韓非子55篇[説難]余桃の罪 

 衛の国の美少年、弥子瑕(びしか)は、君主の寵愛を受けていた。
 ある時、夜中に母が病気になったという知らせを受けた弥子瑕は、君主の馬車を勝手に使った。その時代では、足切りの刑に相当する罪である。
 しかし君主は、

「母を思う心強く、なんと親孝行な者よ。」と称えた。
 またある時、君主と果樹園に遊んだときには、もぎ取って食べた桃がとても美味しかったので、自分の食べかけの桃を君主にも食べてもらおうと、これを手渡した。

「自分が全部食べたいはずなのに、分けてくれるとはなんと優しい者よ」と、またこれを褒めた。

 そんな弥子瑕も、年月を経ると容色は衰え、君主の寵愛も失われ、かつては賞賛の対象であった行いの数々も違った目で眺められるようになった。

 そしてついには、「この者は以前、私の馬車を勝手に乗り回し、自分の食いかけの桃を私に食べさせるという無礼をはたらいたことがあったけしからん者だ。」と罰せられてしまう。

 権力者というものは気まぐれで身勝手なものだ。

 

 いつの日か、「日本の首相は、我が国の大統領に、半裸のデブにくそ重たいカップを渡させ、窮屈な居酒屋のカウンターで夕食を採らせた。」と言われる日が来るかもしれない。

 確かに、アメリカは強大で、そうそうなことでは没落しないだろうが、いつも日本だけを弥子瑕にしておく理由もメリットもないわけで、同盟なんてただの紙屑だ。

 日本は、軍事力以外の方法で独自に自国の利益を保全する戦略(プランB)を常に持っていなければならない。

 

先んずれば制す   

 その昔、日本が国内の共産主義勢力を必死で抑えているとき、だしぬけにアメリカのニクソン大統領が訪中し、電撃的に国交を樹立、日本は再隣国との関係改善において、かなりの痛手を被った。

 トランプは、意外と日本が拉致問題固執してくれていることや、その問題が解決しないことを望んでいるのかもしれない。(申し訳ないが、残酷に計算すればそうなる。)

 安倍総理は近々、条件を付けずに金正恩総書記と面談するようだが、彼には、上記のような合理的(ある意味残酷)な計算はできない。しかし、そういうやつほど、戦争という、一番無駄で残酷な手段で問題を解決しようとする。

 まあ、行く前に誰かわかっている奴(計算ができる奴)が居て、随行してくれることを望む。

 

北朝鮮との国交樹立の条件(案)

 まあ外務省の方が具体的に考えてくれればいいが、一応私の考えるプランは以下のようなものだ。 

核兵器の事は目をつむるから、そっちの貧民に職を与えるための工場を作らせろ。

人工衛星から見ても、まっ黒にならないよう、インフラ整備をするから手伝わせろ。

◎そっちの得意なもの(なんか大型彫刻の技術はすごいらしい)は買うから、同じくらい日本の何か、そっちで必要としているものを買え。

 これで、北朝鮮のテイクオフのグリップを握る役目を担える。金正恩渋沢栄一してやろうじゃないか!それが日本の勝ち方だ。

 

 もし、アメリカに何か言われたら、「拉致問題をあきらめることにしたら、何の障害もなくなったから。」と答えればいい。どうせ向こうの方こそ、先んずるチャンスを虎視眈々と狙っているのだ。もともと関係悪化の原因が、アメリカや韓国に比べ明らかに深くない日本が、アメリカや韓国の国交樹立を待つ事自体がおかしいのである。

 さらにアメリカが「貴国との関係について考え直させてもらう。」などと言うのであれば、やってもらえばいい。利口な国だから、ほどなく、自分がやろうとしていた事を出し抜かれただけという「是非も無い」事について考えているという愚行に気付くだろう。 

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ジャック=ルイ・ダヴィッド「ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト

 威風堂々、ナポレオンと言えばこの絵であろうが、画家のダヴィットがスケッチの際、「じっと座っていてください。」というと、「誰も正確な絵など期待していない。伝えたいものが伝わればいいのだ。」と言ったそうな。

 このアルプス越えも含めて、先例に囚われない、彼の奇想天外な発想は筆致に尽きない。また、一方でそれまでの庶民間の慣例や慣わし・掟を編簿して、ナポレオン法典という今でいう民法書を制定している。

 しかしながら、そんな彼も、弥子瑕の如く、勝率が下がり始めると、それまで善行と称えられていたことが、クソミソに非難され、追い出され、島流しという経験を二度味わい、最後は孤島でひっそり死を迎える。

 それでも私は思う。因習を拭えず、シフトし続けるパラダイムについていけない者は、先ず、寵愛の対象にすらなれない。

 

 

 

 

道祖神

平成も終ってしまいましたね。

 

 という挨拶も、もう遅い時期になってしまった。

実は、本ブログを立ち上げた2018年1月1日から、基本的には2020年のオリンピックの終了時期を目処に、一定の活動を終える計画で、改元の連休はちょうどその中間に当たり、その辺りで、全体の曼陀羅(構成)について説明する予定であった。

本ブログは、一見、テーマ自由で無秩序につづられているようであるが、後述するようにいくつかのテーマや目的を持っている。しかし、ある意図を持って、これを感じさせないように敢えて秩序を乱している。

しかし、あまり、乱述が過ぎると、さすがに伝わらないか、最終話までもたない。おそらく、この時期辺りが限界だろうと考えていた。

そこで、初期設定となっている、基盤と4つの支柱について説明する。

 

1 発起

 自分の考えが、「あまり人に知られていない貴石ではないか?」そんな「マイニング妄想」から抜け出すには、その考えを、なるべく多くの他人に聞いて貰う必要があった。(2018.01.01 はてなのお題「今年の抱負」について投稿したもの)

 きっかけはそれが全てだった。

 しかし、格別のSEO対策もせず、一介のブログが人に読まれることもなく、コメントの書き込みもなく、自分の意見がどの程度正しいのか推し量る事は全くできなかった。

 

 しかしそれでも、これまでに自分の考えや意見を、ここまで文章に表した事はなく、これを残せていけることに喜びを感じるようになってきた。

 

 ただ、意見や主張を読みやすいように、 2500から3000文字程度に抑えると言う規則を設けていたのだが、最近はなかなかこれができていない。文字制限を守る事は、語彙力を求められるものであり、その分野での認識の深さを測る要素でもある。安易に冗長な表現を並べるのは、論者の資質が問われるところである。

 後半はこの点に注意して、より読みやすい文章を作っていきたいと思う。

 

2 サーガ(主張の主軸に有るもの)

 小中学生のころ、星新一ショートショート集にはまって読み漁った。

 難しい言葉を滅多に使わない彼の作品の中で、唯一辞書を引いて調べた言葉が「合理主義」だった。

 以来、私は世の森羅万象に規律か理由を求めるようになる。

 

 合理主義の美しさを韓非子に覚え、それを軸に何かを訴え、そして変えていきたい。そんな思いが、主張の主軸になっている。

 己のごく順当な出世すらままならない、しがない木っ端役人で、リアルでは到底人に何かを語りかけるような場面も人間関係にも恵まれなかったが、このように「思いは言葉に」できるブログというツールが存在する時代を生き、読む人知れずとも記事が書けることを楽しみたいと思っている。

 ところで、合理主義の美しさは自由なカオスの中に存在する時に最も際立つ。一見議論が乱立しているようで、いくつかのシリーズが存在する。話があっちこっちに飛んでいるようだが、一つの旋律の上を歩いている。

 そういうブログにしたいと考えている。

 活動期間を3年弱に決めているのも、期限を設けることでそれぞれのシリーズはそこまでに結実しなければならないことを意味し、無計画な議論の広がり(すなわち戦線の拡大)を防ぐためである。

 その副次的効果として、スケジュール感を生み、投稿に期限が有り、定期的な投稿を生む。

 あたかも大学で論文の提出を急かされるように、結構忙しいのもまた楽しいのだが、その分、推敲が甘くなり、昨今の冗長傾向が表れているのは残念である。 

3 四つのカテゴリー

 ブログの記事を主張したい目的に合わせて、カテゴリーに分類した。

 2のサーガが言わば総論に当たり、こちらは各論といったところか?

 カテゴリーの名称を決めていなかったので、この段階で考えた。

 このため、前半においては、タイトルにC-1~4という仮タイトルが付してある。それぞれ、以下の順番に準じてカテゴライズされると考えてもらいたい。

 

韓非の空

 30を過ぎてようやく諸子百家に興味を持って文献をひもとき始めた頃、「諸子百家」と題する二百数十ページの本の中で、韓非子に触れられていた部分は数ページだった。

 にもかかわらず私は彼の思想に魅了された。

 その説話の多くが知られる中、当人の名と思想の特異性が知られていない事をひどく嘆息した。そして、彼が自ら予言したとおり、彼の思想の多くは、主権者の正しい判断を曇らせるいくつもの「説難」により、いまだ主権者に届いていないことにも落胆している。

 韓非子の思想を登用するのは、ブログのタイトル通り、本編の根幹である。

 「空」とはどう意味か?

 いささか情緒的ではあるが、古人の思想を共有したいと思うなら、空を見上げると良い。なぜなら、どの時代にどこで生きていたとしても、見上げる空は同じであっただろうから、時空を超えて隣に立って話しているように思うのである。

主権の鼎 

 アドルフ・ヒトラーが、正式な民主主義のプロセスを経て国家元首になったことを大学生になるまで知らなかった。こんな重要な事を中高で学ばせない日本の教育は間違っている。

 民主主義は人類の理想的かつ最終的政治形態であると信じる。しかし、その健全な運用には主権者である国民一人一人が十分な良識と合理的な判断ができる見識を有している必要が有る。

 一見困難な課題と感じられるかもしれないが、私は一つの近道を見つけた。すなわち、多くの答えは日本国憲法にあるという見解だ。

 鼎の軽重の故事は有名なので説明を割愛するが、憲法と教育を軸に、主権者が軽重を問われても恥じない鼎を具備する事を目指す。

平和の理(ことわり)

 私は、平和を求めるのに情に訴える事に限界を感じている。

 もはや本気で平和を求めるのであれば、願ったり祈ったりしている場合では無い。統計学や経済学といった算術的に割り切れる学問によって、戦争状態よりも圧倒的に「合理的」である事、あるいは「利益が有る」「有利である」という証左を示し、いかなる野心家の論述も凌駕する、明白で魅力的な結果を想起させる「論理」を構築すべきなのである。

 残念ながら私の脳みそではその答えにたどり着けない。ただそのアプローチの手助けができればと願うのである。

片雲の風

 上記の三つのテーマは意図的に分散して投稿している。乱立の中のシークエンス、喧騒の中の旋律。それを創出するにはテーマ不問も必要だ。

 まあ私自身いくつか抱えている、上記以外のテーマに対する突拍子な意見を披露したいという衝動も含まれているが。

 本当は、もっと感情的であったり、エッジの効いた記事を投稿したりしたいのだが、それほどのテクニックは私には無いようだ。

 片雲は松尾芭蕉奥の細道に出てくる「自由」の象徴だ。

 規律の厳しい職業なので、いつも片雲に憧れている。自由もまた、美しい旋律の中にあってこそ引き立つのだろう。

4.絵画の差し込みについて 

 自由の中にある規律。絵画もまたその相反する課題に挑戦し続けている。

 堅苦しい私のブログを艶やかに彩ってくれる。議論の重さに不釣合いでありながら、旋律上に立つものを配し、乱しはしない。そんな絵をチョイスしているときも楽しい。

 テーマにそぐう作品がひらめくと俄然高潮する。「その話にこの作品を持って来るか?」と一人ではしゃいでいる。

 掲載の当初は、同じ画家が重複しないように意識していたが、これまで重複せずに続いているのは意図的ではない。確かに趣味の一つであるため、多少詳しいところはあるが、日本テレビの「美の巨人」や「開運、お宝鑑定団」のような、人がまるで聞いたことのない作品を紹介した覚えもない。

 

 絵画の趣味などというものは、これまた木っ端役人には無用の教養で、法理や哲学よりさらに使うところが無い。しかし、「国家の品格」を記した藤原正彦は言う。「真のエリートは、文学、哲学、歴史、芸術、科学といった『何の役にも立たないような教養をたっぷり身につけているもの』」と。

 誰かがこのブログに触れて、その素養を高める一助となれれば光栄である。 

5 今後の展開 

 開設以降、順調に伸びていたアクセス数は先々月を境に急落している。何らかの手立てを施さないと、もっと読まれる機会は減るだろう。

 最終的には、自分の主張や意見をまとめたものとして、記念に製本でもできればいい位には思っているが、やはり、他人の感想や反駁を聞きたいと言う願望はある。

 コメントというのは、許可制とするのが正しいのか?フリーにしておく方が書き込んでもらえるのかそれすらわからない。

 後半余裕があれば、他のブログをラン訪してコメントを残すなど、他のブロガーにアプローチしていくことも必要なのかと感じている。

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 マウリッツ・エッシャー「メタモルフォーゼⅡ」 

※原則として掲載される絵画等はpublicdomain(著作権フリー)を使用しているが、今回は個人ブログでhttp://blog.uwabami.jp/entry/2018/06/13/174614さんが見事なカットを掲載していたので、これを引用させていただきました。あしからずご了承ください。

 本当は、この4つのパートは横に並ばれており、横4メートルの非常に横長の絵画である。連続性が意味を持つ絵画なので、例えばここだけ動画にするとか、なんとか横に並べて紹介したかったのだが、私の技術では叶わなかった。残念だ。

 だまし絵で有名なエッシャーであるが、そもそもは、世の中の一見複雑な事象を単純化し、直線化する「正規分割」という技法に没頭していたようだ。そして、単純化した先にさらに複雑が生まれる、メタモルフォーゼ(ドイツ語: Metamorphose)【変化、変身】の完全な虜になる。だまし絵はその副産物に過ぎない。

 人の世もまた、一見複雑でまとまりの効かないカオスなものであろうが、その中にもきっと共通の、みなが納得するような法や秩序が有り、あるとき人はそれを必要としてそれに立ち返る。そして、その法や秩序を土台にして、新しいカオスが生み出されていくのだろう。

 ただその変身の度に、多くの犠牲者が生まれるような循環は、いい加減避けるべきだろうと願う。