説難

寸法書を取りに戻るマヌケ

韓非子55篇 外儲説篇 左上 経二

 「鄭人且(まさ)に履(くつ)を買わんとする者有り - 寧(むし)ろ度を信ずるも、自ら信ずる無きなり。」

 鄭の人で履(くつ)を買いに行こうとする者がいた。

 まず自分で足の大きさを計り、その寸法書を作ったが、座席に置いたまま持っていくのを忘れた。市で履屋を見つけた後で彼はそれに気づいた。

 慌てて、家に引き返して寸法書を取ってきたが、戻ってみると市はもう終わっており、とうとう履を買いそこなった。
 

 私の好きな逸話の一つだ。
 

 韓非子は、孔子の教え、いわゆる儒教を強く否定していた。特に人情や道徳といった、人によっては価値観が違うもので民衆を統制しようとする考えと、その価値観も時代によって変化するのに、古い教えに囚われ過ぎているという点だ。

 まさに寸法書で履を買わんとする者だ。

 彼が秦の始皇帝に登用された後、悪名高き「坑儒」(儒教学者をすべからく生き埋めにする)が行われた。そのため、彼の思想がその引き金になったとされた。いわば彼は儒教者にとっては不倶戴天の敵となったわけだ。

 その後日本では、儒教の流れをくむ朱子学が採用される。そして、韓非子の思想は封印された。
 

 秦の始皇帝のような改革者は、因習を嫌う、ましてやこれを盾にして改革の妨げになるような勢力は、誰の助言がなくても、容赦なく排除したであろう。

 それが「独裁」の欠点でもあり、利点でもある。

 

 世の中は変化し時代によって社会に必要なものは変わっていく。というのが現代社会の常識のようである。あたかも「改革」そのものが正義のようだ。

 一方でアリストテレスのように、普遍の善や普遍の幸福が存在すると唱える哲学者もいるが、多様化した現在においては、人々の幸福や善と言うものは相対的で、人それぞれの価値観に左右される事は明らかである。

 しかしながら、いくつかの普遍的な悪が存在するように、皆が納得する幸福も存在するかもしれない。

 「ハーバード白熱教室」で一世を風靡したマイケル・サンデル教授の説をまとめると、そこに帰結し、普遍的正義が存在しないと断じるのは早計ではないか?という主張になる。

 

 わざわざ寸法書を取りに戻る事は間抜けな話だが、その場で足のサイズを測ればいいというだけで、寸法書の数値が間違っているというわけではない。

 重要な事は、なんでも改革、改革と騒ぐのではなく、「現場に刮目すること」なのだ。

 

 さて、しかし、現場に刮目して何か問題点に気づいたとして、一市民に何ができるだろう。

 

 例えば、私は憲法を変えることについては懐疑的ではあるが、年金制度や膨大な国の債務については、考え方を変えなければいけない時期にきていると考えている。

 日本は周辺6か国を見渡すかぎり、最も優れていて、世界に範たる国家にふさわしいと考えている。

 国連の常任理事国選挙制度によって選ばれるならば、改選の度に選ばれる事は間違いないだろう。

 そして日本が常任理事国になり、他の常任理事国のくだらない拒否権がなくなれば、世界はもっと平和で、理性的に紛争解決するようになるだろう。

 しかし、そのためには、日本には1つ弱点がある。これだけ国力があるにもかかわらず、国民が皆貧乏で余裕が無いのだ。

 もちろん文化的水準は、諸国の群を抜く。しかし、子供に大学を卒業させるために、一体どれほど両親が粉骨砕身して働かなければならないのか。

 とても他国の平和どころではないのである。

 そろそろ、一部の富裕層が不労所得を得るために存続されている借金は清算しなければいけない。働き世代の夢と労働意欲を挫く、国民年金の世代間負担は各自負担(積立式)にするべきである。

 しかし、如何に私の意見が画期的であっても、私はこの話を飲み屋ですら語ったことが無い。

 このブログの読者に、ドナルド・トランプか小泉 進次郎がが加わってくれると、状況は一変するだろうが(*゚▽゚)

 

 しかし諦めてはいけない。

 例えば香港の市民は、現状をよく括目して観察していたのだろう。それもくだらない、利己的なものではなく。だから、中国中央政府の干渉の兆しを見逃さずに済んだ。

 括目していれば、立つべき時に立つことができることを証明している。

 

 何度も言うように、民主主義の日本において、主権者は始皇帝ではなく、私たち国民一人一人だ。政治家も学者も有識者と呼ばれる連中も、揃って、寸法書を見て政治を行っている。

 だから、国債は減らないし、保育園は建たない。共稼ぎばっかり推進するから、あちこちでママ父が5歳以下の子供を虐待死させている。

 

 有権者、特に20~30代の有権者に言いたい。

 「君たちは、今すぐにでも自分の足のサイズを測れるのだ。現状に括目せよ。」と。

 

 前回の参議院選挙で、私は自分の子供たちに、「選択は求めない。誰にでもいいから投票しろ。君たちの投票率が1%上がるだけで、保育園が1つ建つ。」と呼びかけた。

 マスコミや政治家の一部にも同じことを言っている人がいたが、あまり大きく取り上げられなかった。結果24年ぶりに50%を割る投票率となったそうな。

 とかく、新選挙民となった18、19歳の投票率の低下が取りざたされているが、彼らはまだ40%をキープしている。一番現状を括目し、声を上げなければならない20代が3分の1以下の投票率であることをもっと問題視してほしいものだ。(いくらググっても、正確なパーセントすら報じていないが2年前で既に下回っていて、それより下がっているので、情報としては間違いない。)

 投票しなかった人たちは、足の寸法書にこだわった間抜けを笑う事はできない。投票しなかった人たちは、政治家の人たちに寸法書はおろか、自分の足元の問題のサイズすら伝えようとしなかったのだから。

 私のように何らかの主張を持つ必要は無い。持っているに越した事もないが。

 しかし、現状を括目できていたなら、あの投票率にはならなかった。

 誰が一番割を食っている世の中になっているのか、ちゃんとわかっているのだろうか?

 フェラーリをぶつけて高笑いしている連中が居る世界と、思い描いたものと違う人生を生きるという、有りがちでレベルの低いストレスが原因で、誰かが死んだり殺されたりする世界が併存している。

 アリストテレスの言う普遍的な善や、幸福は本当に存在するのか?それは分からないが、少なくとも、1000年に一人登場するか否かの卓抜した独裁者より、とりあえずは義務教育を受けた数百万人の声の方が、答えに近いはずと私は信じている。

 

 主権の鼎を問われるときはいつ訪れるかわからない。しかし、寸法書はいつもあなたの足元にある。

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ロダン「考える人」

 各地にレプリカのある有名な彫刻ですね。画質が悪いのは、私が上野の西洋美術館前で撮影したものだからです。

 考える人は、ミケランジェロ作「最後の審判」(ヴァチカン:システィーナ礼拝堂壁画)をモチーフに作成された、ロダン作「地獄の門」(同じく西洋美術館前に展示あり)の中央上部のある、実はとても小さな彫像で、最後の審判により、天国と地獄へ引き裂かれていく人々の阿鼻叫喚を、眺め見下ろしている謎の人物像である。

 彼の思考するモノはなんなのか?地獄の門の壮大な阿鼻叫喚図より話題を呼び、ディテール(一部を切り取って大きくしたもの)の方が有名になってしまった。

 私には、その姿は、最後の審判に対する「何が正解だったというのだろう?」という、正解の無い悩みと、不条理な神に対する不信感を髣髴させる。そしてやはり、答えも信じるべきものも、その投げ出した二つの裸足に有るように思えるのである。