説難

Bushido

 「日本の侍は夜討ちをする時も、相手の枕を蹴飛ばし、相手を起こしてから斬るんだ。」役所広司主演、映画「山本五十六」より、真珠湾攻撃に際し、米国への宣戦布告が必ず攻撃開始前に届けられることについて念を押す場面。 

 いかにも軍神山本五十六らしい言葉であるが、もし真珠湾攻撃が本当に無予告で行われる予定であったとしたら、当時の多くの日本人が、それに異を唱えていたであろう。彼は軍人としてではなく、日本人の代表として、くれぐれも非礼・卑怯と言われるような行為は避けたかったのだ。
 

 法を学ぶ者が必ず習得する概念に「法源」と言うものがある。法と言う社会的ルールを定めるにあたり、もとよりその社会に存在している慣習や道徳・歴史のような、いわゆるバックボーンを指す。そしてそれは、総じて、その社会的集団の「価値観」及び「文化」を表現していることが多い。

 多くの国家の場合、それは宗教の影響を大きく受けている。

 きれい好き、勤勉、優しいと、とかく高評価を受ける日本人の気質であるが、諸外国がこぞって首をかしげていることが有る。それは、日本のその気質が、どの宗教色も帯びておらず、そのルーツが不明な点である。
 

 新渡戸稲造と言う人がいる。

 5000円札肖像画にも選ばれたが、いまいち知名度がなく人気がなかった。

 明治開国の頃、ドイツに留学していた彼は、周囲から、日本人の価値観や気質、特に道徳の基本となっている宗教は何か?と尋ねられたが、明確に答えることができなかった。それで彼は、日本の「価値観」「文化」のルーツを調べ始める。
 

 外国で、信じている宗教を聞かれ、I am non-religious(私は無宗教です)と答えると変人扱いされると言われる。

 しかし、正直なところ、イスラム教徒の行為は私たちには理解できない。また、敬虔なキリスト教徒の言葉も良い事を言っているのかもしれないが、完全服従する気も起きないしその理屈も感じられない。仏教や神道の言う事は身近に感じるし、初詣にも合格祈願にも行く。しかし、私たちの信じる常識や道徳、価値観にまで口を出されるとなると、多くの人は距離を置くようになるだろう。

 従って私たちはやはり「無宗教」なのである。しかしそのことが、宗教を持っている人たちにはとても信じがたいのである。

 「あなたたちは天国も地獄も神も悪魔も信じないのに、一体何を恐れ、何を求めて、それほどに礼儀正しく気高く道徳を重んじることができるのか?」

 そう聞かれても、おそらく現代の人たちでも明快な答えを出す事は難しいだろう。

 新渡戸稲造は日本人の気質を細かく見直した結果「武士道」に行き当たる。

 長い封建社会の時代、支配階層の「侍」は儒教の流れをくむ朱子学の下、「徳」を重要視した。しかし、本線の儒教と違っていたのは、庶民に徳を求めるのではなく、支配階層のみがこれを実践する「特権」にしてしまった。

 「それでは武士道は庶民には関係ないのではないか?」ということになりそうであるが、この辺りが、日本という国の面白いところだ。

 「花は桜木人は武士」と言われるように、その清廉で美しい生き方は、庶民の憧れとなり、模範となっていく。

 倹約を心掛け質素にして毅然。名誉を重んじ恥を知る。弱者への惻隠の情(情けをかける優しさ)に溢れ、義に有らば強者に対しても勇気を惜しまない。

 So cool なのである。

 しかも、ヨーロッパや他国の王朝・貴族の振る舞いと違い、真似をしようと思えばできそうなことばかりである。おのずと庶民に広がっていくこともうなずける。

 こうして、新渡戸稲造は、武士道が日本文化の起源であり、特に庶民に定着している慣習を整理し、名著「bushido」を記す。

 外国人向けに出版されたものであるから、原文は全て英語である。何度か原文を読み解こうとチャレンジしたが、私の英語力では厳しかった。図書館に行けば日本語と英語併記の本が何冊も置いているのでぜひ読んでもらいたいと思う。

 確かに現在日本人が至高と考える礼儀や作法、親切、敵に対する敬意など外国人が評価する日本人の気質が多々表現されている。

 切腹や仇討ちなど、死や殺人を賛美していると批判されたこともあったのだが、私が読んだところでは、あまりそのような印象は感じなかった。「恥を知ること」の重要性を苛烈な表現で示したと私は捉えられた。もちろん捉え方は人それぞれであって構わないが、そこだけを取り上げて悪い本だと決定付けないでほしいと思う。

 ちなみに、私は第5章「仁、惻隠の情」が一番好きで、The bravest are the tenderest,the loving are the daring(もっとも勇気ある者は最も優しく、愛情のある者は勇敢である。)という言葉が好きである。庶民が憧れるのもわかるでしょう。

 

 しかし不思議なのは、bushidoを読んだこともない私たちが、なぜ、江戸時代に作られたそのような気質を知らぬ間に備えているのだろう?
 

 高校野球などで、どちらも無関係な高校同士の試合を見ている時、つい負けている方を応援してしまう事はないだろうか?

 判官贔屓という言葉が有る。源平合戦で活躍した源義経が、実権力を掌握した兄頼朝によって追い詰められていく様を哀れに思い、庶民が応援したことに由来する、いわゆる、思わず弱い方を応援してしまう気質の事であるが、おそらく結構な人が身に覚えが有ると思う。

 これが、bushidoでは、惻隠といい、弱い者を思いやる心として表現されている。

 bushidoを読まなくても、身に染みているのは、きっと親の態度や学校でみんながそうだったからだろう。

 私の見たところでは、6章「礼儀」、7章「真実と誠実」の辺りには、まだまだ日本人が引き継いでいる美しい気質が紹介されているし、これらもまた、学校で教えるものでもなく、文献も宗教的背景も無い。口伝と習慣で継承されてきたことを感じさせる。

 

 宗教を持たずにこれだけ感覚的なものまでが継承され続けた事は、おそらく世界でも稀であろう。

 しかしその背景には一つの事実がある。すなわち日本は島国であり、太平洋戦争終結後の数年アメリカの統治下に置かれたことを除けば、一度も他国の支配を受けたことがない。このことが日本の文化が一定の宗教を持たず連綿と継承されてきた原因だと考えられる。

 なぜなら、そのたった数年のアメリカの統治で、日本の国体はほぼ解体再構築され、それまでの主従関係も村の因習もその多くが排除された。さらに、ロックやダンス、繁茂するカタカナ外来語、あと10年も統治されていたら、もうアメリカになっていたかも。

 他の国は必ずどこかの国の支配を受け大きな影響受けている。そして民族性をも失いかねない新文化の注入を受ける。民族は自らのアイディンティーを守るため宗教に答えを求めるのではなかろうか?

 

 イスラム圏の人達が、流入する欧米の文化と思想に危機感を覚え、過剰に敵視するのはそのためではなかろうか?

 日本だって、これからどうなるかわからない。

 外国人労働者が増えているが、彼らは当然、自国の宗教や文化を引き込んで入ってくるだろう。日本の文化は変化を求められるかもしれない。変わっていく日本文化を嘆き、そのうちbushido原理主義などと言う過激派が現れるかもしれない。
 

 私の望むところは、かつて庶民が侍の動向に憧れたように、流入する外国人が憧れるような、美しく優しく毅然とした日本文化を私達が体現し、逆に彼らを感化して行ければ良いかと思う。

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葛飾北斎富嶽三十六景 神奈川沖浪裏

 私はあまり日本画を見ない方である。版画があまり趣味ではないのだ。

 しかし、ゴッホを始め西洋絵画を見ていても、日本の浮世絵に感化された「ジャポニズム」の作品はよく観る。

 面白いのは、彼らは、日本画の持つ質素にして大胆な構図に惚れ込み、直線の美に魅せられてそれを体現しようとしているのに、明らかに「華美」なのだ。

 「いやいや、そうやないねん日本画は!自分らもわかって描いているのに、何でそうなんの?」と言ってしまう。

 素にして可憐。その御業は、憧れるだけでは真似できないのかもしれない。習得した者を身近に持ち、十数年、あるいは二十数年くらいかけて身に付くのかもしれない。

 自分も、その稀有な文化の継承者として、ちゃんと習得できていると信じて、誇りに思いたいものだ。