説難

情操教育

 娘は、親に似ず学業に秀で、順当に進学し、志望通り大手企業に就職した。

 初年度はたいそう楽しげであったが、2年目に入ると、大手の宿命として、高給に見合う成果を求められるようになり、苦しいきついとこぼすようになった。

 人は、成績に追われると、クライアントや上司に不利な情報を伝えることをためらったり、正規の手続きをはしょりたいという衝動に駆られるものだ。彼女の苦しみようを見ていると、いつ、そのような誘惑に負けてしまわないか心配になる。

 しかし、一方で彼女については、そのような短絡的な選択はせず、もっと複雑な回答を求めるだろうという確信を持っている。

 

 実は、今から11年前、ハンゲームというサイトで同じく「韓 非」と名乗りブログを書いていた。その頃はサークルに入っていたこともあり、毎回コメントをいただき励みにもなっていた。最近この投稿をするにあたり、いくつか読み返したが、11年前の割に、結構今よりしっかりしたり、斬新だったり、自分でいうのもなんだがなかなかに面白い、その中でも、自分の子供たちの成長の過程で、彼女たちが問題に出くわすたび、読み返す程ではないが、思い浮かべる書き込みが有る。

 11年前の韓非さんに敬意を表し、当時の原文のまま掲載する。

 

2007年8月24日 「情操教育」

 

 映画ファンなら一度は聞いたことの有る「ブレイドランナー」。

 視覚効果(FSX)の技術革新において金字塔といわれるこの作品であるが、私は映像の妙より、ここに出てくる人造人間(レプリカント)が、幼少時の記憶を持たないために、オリジナルの自然人より、圧倒的に情緒安定力がない、と言う設定に感動した。

 

 この作品の中で、レプリカントハンター(ブレイドランナー=ケビン・コスナー)は、レプリカントを見破るとき、わざとくだらない、意図の読めない質問を繰り返し、相手を怒らせることにより、それを見破るのだが、その設定から、人間にとって、記憶(思い出)と言うものがいかに大切かを語っている。

 

 心理学、いや大脳生理学によると、人はある行動を起こすとき、常に頭の中に数個の判断が存在し、その中からひとつを選んでいるらしい。

 多重人格者じゃなくても、頭の中には、幾人もの人格が存在している。

 本能的欲求に素直な野蛮人の性格から、理性的で社会的にバランスを保とうとする性格まで。

 これらの人格は、20才までの成長時にそれぞれ別々に形成されていく。

 そしてこれらの性格は常に、自分の意見をより多く通してもらうよう、対立して、競い合って、大脳の司令部に陳情を繰り返すのである。

 

 そこで私が考えるのは、そもそも二重人格や精神障害は、頭の中のこの競争が不公正で、一部の性格が独裁的になったときに起こるのでないかということ。特に、それは、原始的脳に近い野蛮な性格がそうなることが多いのではと。なぜなら、理性的な性格は、きっと他の意見を聞き入れる器量も備えているだろうから。

 

 例えば、恵まれない人の脳内では、こんな会話が行われているのではないだろうか。

野蛮性格A「おまえよう、人には優しくせなあかんて、いっつも言うけどよう。そのせいで、俺ら(彼らにとっては、その人間の一行動が、団体としての行動と捉えられるだろう)、いっつも損ばっかりして、いやな思いばっかりしてるやん。」

理性的性格B「情けは人のためならず、自分のためでもあるんですよ。」

A「だから、それがあかんのやんか。実際、俺らに不利益になるようなことばっかり起こる以上、実績のないお前は、黙るべきやねんて!」

 

 人に優しくしても、報われない人生、親を信じても虐待され続ける人生。その積み重ねが、理性的なBの意見の採用率を下げ、野蛮なAの権力が増大していく。

 そして、Aが活動している間、Bは隠れるようになり、AとBは、時間を分けて存在するようになる。これが2重人格の原因ではないか。

 

 先のブレイドランナーでは、情緒不安定の欠陥を補うため、両親との思い出を植え付けられたニュータイプが登場するが、十数年の成長期の記憶を完全に作成することはできず、ブレイドランナーは、オリジナルとの違いを見破ってしまう。

 

 人格形成には、長年の時間と膨大な外部情報が必要であり、これは実際に生きてみないと作られないわけである。

 

 私は、子育てにおいて、いつも「情緒」「情緒」という。(間違われて使われていることが多いが、情緒と言うのは、景色や雰囲気のことではなく、外部情報が脳に与える感慨、感動のことです。)

 嬉しい、楽しい、おもしろいはもちろんのこと、悲しい、悔しい、こわいも含めて、とにかく多くの「情緒」を与え、脳内になるべく多くの人格を形成させることが重要なのではないか。

 

 本能的欲求の人格は、きっと脳内では、貴族のような者。基本的に権力が強いと考える。だから、たくさんの庶民(意見)を形成させることによって、バランスの取れた優れた性格が形成されると思う。

 

 自然に触れさせる。できれば圧巻の自然を目の当たりにさせる。一緒に何かをする。昔話、伝記、神話、物語を話し聞かせる。夫婦は仲良くもするが、喧嘩もする。優しく褒めちぎると思ったら、キチガイのように怒る。

 

 テレビに向かって吠えている父が妙に滑稽だった。でも、仕事している姿は格好良かった。

 酔っ払って母に絡むところは嫌いだったが、難しい話をわかりやすく説明するところは、天才的だった。

 

 私がもし、実はレプリカントで、私の記憶が後から植えつけられたものだったとしても、きっと私はブレイドランナーには見破られないだろう。

 せめて、子供たちはレプリカントにはしたくないものだ。//

 

 私がこの子育てにおいて情操教育が根幹を担うとする考えに至るには、いくつもの体験や周囲の助言、ニュースの影響などが作用しているわけであり、それぞれ、魅力的な出会いなのであるが、それら全てを説明していると「私が情操教育を根幹と考える理由」という題目で、一冊本が書けそうになるので、多くを割愛し、一点だけ紹介したいと思う。

 

《バーナムの森》

 子供たちが就学前の頃、寝つきに「おはなし」をしてやったところ、たいそう気に入られ、週に3、4回はやらされることになった。ストックには自信のある方だが、子供の吸収力は甘くなく、程なくネタ不足になった。

 やむを得ず、少々大人向けでも、シェイクスピアや大人向けの映画のストーリーなどを多用した。案の定、以前ほどは食い付きはなく、幼かった息子に至っては、しょっちゅう途中で寝ていた。

 苦労してネタをひねり出しているのに、虚しい日々が続いたが、なんだかんだ言いながら、娘が小学校に上がり、それどころではないようになるまでは続けたかと思う。

 数年経った頃か、おそらく前述のハンゲームのブログを書くちょっと前くらいに、ある時、息子がヒョイと何かの拍子に「バーナムの森が動かない限りは・・・」と発言し、「なんでここでマクベスやねん」と横で聞いていた娘もツッコンだ。

 その時、確信した。建設中の脳が欲しているのは、論理的に筋が通り、楽しかったり嬉しかったりといった話ではなく、意味不明でも、シナプスの回路を拡げる情緒なのだろうと。

 しかし、何が彼女たちの選択肢として残るのかは、最新の数学理論をもってしても計算は不可能であろうし、おそらく脳科学を発展してもその選択肢を特定できる事はできないだろう。レプリカントが実際の人間の情操を再現できない所以だ。

 

 ハンゲームの投稿当時、娘は中学生で、私からの情操教育はほぼ終焉していた。彼女がそれを土台にどう成長していくか?私の考えが的外れだったかは、その先の数年あまりに託されていた。

 そこで、11年前の韓非さんに伝えてあげよう。

 

 あなたの考えはそれほどずれてはいなかった。娘さんは多様な情緒に恵まれ、多様な人格を持ち、困難にあっては多数の人格と相談し、複雑な回答を好む。そして何より、その人格たちは、さらに多様な情緒を求め、仲間を増やそうとする。これこそが、最大の強みだ。

 実は先日来、成績に追われてキツイキツイと言いながら、オーストラリアなんぞに旅行に行っていて、昨日帰ってきた。またまた多くの情緒を携えて来たようで、私に楽しい「おはなし」を返してくれている。

 おそらく彼女の中で、仕事上の今のステージに障壁は残っていまい。情緒に出くわせばスキルが上がる。原理は単純であるが、実は羨ましいその脳みそが、彼女がこれから出会う困難を克服するうえで役に立つことを祈念する。

 

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アンリ・マティス「赤い部屋」

 ルノワールが裸婦の肌に映る影を緑や紫で表現した時、「腐乱した死体のようだ。」と評された。「色」には常識という「枠」が存在していた。

 しかし、人が本当に脳の深層で見ている「色」は、もっと自由なのである。

 マティスの時代、画家はその深層に迫り「色」を解き放つが、その表現は理解し難く「野獣」を意味する「フォーヴィズム」と揶揄される。

 しかし、印象派同様、この揶揄が、後年彼らの偉業を表す呼称となる。

 

 一度見たら忘れられない絵というものがある。

 解き放たれた赤の、気ままに乱舞するこの部屋は、脳の表層ではなく、深層に情緒として刷り込まれ、もはや思い出から剥ぎ取れない。