月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり、(中略)予も、いづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂泊の思ひやまず。
勤務先の同じ部署の仲間と「格安!奥の細道ツアー」に参加した時、学生時代、無理くり、松尾芭蕉翁著の「奥の細道」を暗記させられたことに初めて感謝した。おかげで、俳句の十七文字に閉じられた「絶妙」という世界を実感できた。
旅行は嫌いではない。しかし一人旅をすると誰かとくればよかったと必ず後悔するし、複数人数で行くと、幹事役をさせられ気遣いばかりが思い出される。それでも旅に出ると、やはり知らないものに触れる感動を受けるため、また旅行の企画をしてしまう。同じように、物事を知ろうとする行為も旅に似ている。
Que sais-je? (私は何を知っているのか?)と言う言葉に出会ったのは、中学生のころだったと思う?「《文庫クセジュ》の創刊のことば」なのだが、詳細は覚えていない。調べてみたら、モンテーニュと言う人の言葉らしいが、私はその人の『エセー』と言う著書を読んだことは無い。「人間精神のもっとも高邁なはたらきによびかける」との趣旨だそうだが、そのように捉えた覚えはない。
私の記憶では、「人類が万物の長に君臨する所以は、何物にも勝る好奇心と探究心であり、知識を得ることは本能的快感である。」という印象である。エセーさんに言わせれば、それが「人間精神の最も高慢なはたらき」と言う事になるのかもしれないが。
とにかく、人は皆知識を求めている。理解できるものなら何でも習得したいと考えている。いや、かなりの確率で理解できないとわかっていても、一度はチャレンジしてみようと試みたりする。そういう「欲」が、人には備わっているのだ。
「難しい話は嫌い。」とか「そんなことを知っていても、生きていくうえで何の役にも立たんわ。」とうそぶいていても、もしその知識が、USBメモリーを頭に差し込むだけで簡単に会得できるとしたら、大抵の人は、それなら欲しいというだろう。
運動神経の悪い私にとって、4月~5月に行われる球技大会は地獄だった。クラス替えで、友人関係を再構築する時期に、赤っ恥を欠かされ、出鼻をくじかれ、いつも余計な苦労の種になった。
運動が下手で、無駄に声が大きく、おまけに食べ物の好き嫌いが激しいという、いじめられっ子の素養を存分に具備していた私をどうにか守ってくれたのは、知識と言う鎧だった。昭和の家の風物詩で、多分ほとんどの場合は飾っているだけだったであろう、学研の百科事典30~40冊セットをまともに読んでいた私は、何かと物知りで、人の疑問に答えてあげることができた。
それでも、その鎧が利いたのも小学校が限界。中学校になると深刻なイジメに会う。
私にできる対処法は、ただ、人の知らない知識を得ることだった。
人の好奇心を満たすことは強烈な武器だった。多くの人が、これでイジメるのを止めてくれた。
私は、運動神経が悪くても、脳みそさえあれば生きてゆける「ヒト」という生物に生まれたことに感謝した。
なお、しつこくいじめてくる人も居たが、最終的に、私はこわーい不良グループに気に入られてしまうので、その人たちも去っていく。
ただ、知識を橋渡しに和解した前者と、バックに有る力に屈した後者とは、まるで違う。前者の人は、社会に出ても、私と知識を交換し合うだろう。後者の人は、きっと私の進む道に届くことすらないだろう。
さて、知識を得ることが、人にとって至上の喜びであると確信した私であるが、そこへ、さらにそれを確定づける家庭教師に出会う。
彼の講義は、半分は余談だった。その代り気違いのように宿題を出された。
それでも、私は、彼の余談に食い入った。
哲学、物理学(量子力学・相対性理論)・化学・文学・芸術、とにかく分野を問わなかった。本チャンの受験科目よりメモを取ることも有った。
彼が言うことが、私の今の持論にもなっている。
「勉強は面白いからするのだ。受験の為だけに興味もないのに、一日10時間も参考書を暗記しているやつは、応用が利かないテープレコーダー(録音機)だ。」
彼が、受験科目でない学問について語るのは、「学問」そのものを面白いと感じてもらうためであり、実際私はその術中にはまった。
先日、ブログの一部を行きつけの主治医の先生に読んでもらった。しょぼくれた町医者のおじさんだと思っていたが、著書多数、各団体役員歴任の著名人と言う事を初めて知った。その人が、内容については大変感心したと言ってくれた。ただ、「ちょっと難しい言葉が多いように感じた。」という(ちなみにそういう先生の著書の方が、よっぽど専門用語が多かったですけど)。
さにあらん、私は、人が聞いたことは有るが、詳しくは知らない言葉を多用している。
それは、人の好奇心を刺激するためだ。
先日、アニメソング大賞という番組で、相変わらず「新世紀エヴァンゲリオン」の主題歌が、断トツのトップをキープしていた。
しかし、社会現象を起こしたかの作品に出てくる、物理学・高等数学・電子計算情報技術、死海文書をはじめとする聖書の知識、どれをとっても一級品で、一般人が理解できるとは到底考えられない。
にもかかわらず、社会現象に発展するほど人々はかの作品に魅了された。全ての人が、オタク趣味のエロティシズムに魅了されたとは当然思えない。
視聴者の多くは、専門用語などすっ飛ばして、「わからないもの」に興味を持ったのだ。それが、人間の好奇心なのだ。
その後に流行った、「もしドラ」。経済学者のほどんどの名前を学んだ私が、ドラッガーなど聞いたことが無かった。
世界的ベストセラーとなった、トマ・ピケティの国際統一課税論は、正しいと思うが、5センチのハードカバーで売り出すほど何を語ったのか甚だ疑問だ。結局、多くの購入者が、核心以外の無駄な知識を得て、快感を覚えている。
「真のエリートの条件の一つは、文学、哲学、歴史、芸術、科学といった、何の役にも立たない教養をたっぷりと身につけ、それを背景として、庶民とは比較にもならないような圧倒的な大局観や綜合判断力を持っていること。」
本カテゴリーの存在意義は、一つには、本来走っている伝えたいテーマに、敢えて集中させないように寄り道を作る事であるが、今一つは、そのようなよくは知らないが、興味を引きそうな話を掲載し、好奇心を喚起することであったが、前述の主治医の先生は、テーマが絞り切れずわかり辛いと言っていた。
せっかくの忠告だが、それでいいのである。意味の分からないところに意味が有る作品を作りたかったから。
Que sais-je? (私は何を知っているのか?)
「知ることは楽しいことだ。それも難しければ難しいほど。」私は今でもそれを信じている。私が本ブログで取り上げたテーマは、決して簡単なものではない。正直、文章も拙いところも多かったろう。「好奇心」と言う伴走者が居て初めて完走できるという人も多かろう。
つたない文章に耐えて、私のブログに付き合ってくれた人は、きっと本論を習得するだけでなく、多くの知識に対する好奇心を持つことができるだろう。
そうしてまた、Que sais-je? の信者が増えることが楽しみだ。
また、知識と言う片雲の風が私を誘っている。そろそろ、股引の破れをつづり、笠の緒付けかへて、三里に灸すうる日が来たようだ。
レオナルド・ダヴィンチ『ウィトルウィウス的人体図』
早口言葉かと思わせる画題でおぼえられないが、この絵を知らない人は珍しかろう。しかし、何を表しているかを知っている人もまた珍しかろう。
しかし、人々は、この絵画に魅了される。
色彩の妙も、構図にもきっと何の関心を持っていない。
この絵画は、現代で言うところの「抽象絵画」なのである。
その表現するところは、ダヴィンチと言う天才が習得した膨大な知識の一部を表している。我々は、その知識がなんであるかも知らず、「知識」と言うものが持つ魅力にとらわれているのである。