説難

ブレイクダウンⅱ平和が不都合な人たち

 そもそも、本ブログは、韓非子の合理主義の正体である「利益誘導」の有効性を語るものである。平和が利とあらば、人は平和を選択し、戦争が利とあらば、人は戦争を選ぶわけである。

 

1 戦争の決算書

 以前より戦争を経済学的に、いや、もっと論理的に、会計学的に解析したいと願ってきた。

 戦争行為は、会計学的に損なのか得なのか?国民が株主であるとするならば、その所有物である国家が、その起こした戦争行為について、果たしてちゃんと国民の利益になったと言う会計報告書が出せるのか?という問いである。

 以前、ブレイクアウト〜非合理的な選択でも検証したが、少なくとも第二次大戦以降の戦争は、少し検討すれば、大赤字で、通常の経済主体が行う行為ではないことがわかる。

 ゼニ勘定ですべてが決まるものではないと言う人も居るだろうが、孫子に曰く(火攻篇)「利に非ざれば動かず」。数値と計算の根拠の無い国家の決断は、やはり合理的でない。

 なぜ、赤字とわかっていて戦争が行われるのか?そこでいくつか、うがってみていくと、平和が不都合な人たちや、戦火に笑う者の存在が見えてくる。

 

2 減損会計
 兵器の耐用年数と言うものがあることをご存知だろうか?

 防衛省財務省に毎年決算報告を提出するのだが、その際保有している有形固定資産については、通常の財務諸表規則に則り、耐用年数に応じて減価償却した資産価値を計上することになっている。したがって、兵器にも耐用年数と言うものが存在する。

 実際の年数を示した資料を提示できなくて申し訳ないが、私の記憶するところでは、戦車は8年から10年、戦闘機は25年から27年、戦艦等に至ってはマンション以上の耐用年数があったかと思う。

 いずれも民間の同系物に比べるとやや長めに設定されている。考えてみれば当然だろう。民間のそれに比べれば十分に費用をかけているし、頑丈にできているのだから。それに、耐用年数が長いと言う事は、1年ごとの費用が少ないということであり、これを販売する業者にとってはセールスポイントにもなるだろう。

 「平成30年度防衛省一般会計省庁別財務書類」によると、兵器について格別の耐用年数が設けられている所は伺えないが、ネットでは証左を出せないだけで、それは事実である。しかし、たとえ同系列のものは同程度の耐用年数を適用する、という、当該文書の規定に則っても、私の主張にあまり影響を及ぼさないので続ける。

 次に減損会計と言う言葉をご存知だろうか?企業と言うものは、含み損を隠したがるものだから、2006年に計上が義務付けられた会計で、最近注目されている項目だ。

 内容は、減価償却が終了していない(耐用年数が経過していない)資産の実質的資産価値の滅失、もしくは著しく低下していることが見込まれる場合はその含み損を計上することを義務づけたものである。

 突然にこのような会計学的な話を始めたのには、私がこの減損会計を学んだ時に、他の損失とは違う強い違和感を受けたからだ。

 おおむねの企業の仕入れを含め出費と呼ばれるものは、対価としての資産が外部へ流出し、一見その企業としては損失であるが、反面これを受け取るものが存在するわけで、国民経済全体としてはプラスマイナスがほぼゼロになるはずだ。

 しかしながら、この減損会計とやらは、1企業の損失がまるで誰の得にもならない不思議な損失に思えたのである。

 しばらくして、規格外の減損会計が存在している現実に気づく。

 兵器の使用だ。

 本来であれば民間の同様な資産に比べ十分に耐用年数がある機械や車両が、耐用年数の10分の1レベルで除却されていく。あまりにも莫大な減損だ。このまるで誰も得をしない経済活動がなぜ成り立っているのか疑問に感じた。

 しばらくして、ある結論にたどり着いた。「めちゃくちゃ得をしている奴がいるではないか!」

 もし兵器が使用されなければ、販売の機会が10年に1回しか回ってこない戦車が、2年に1回1年に1回、発注が行われるとなると得をするのは誰か?そう軍需産業である。

 皆さんこの話を聞いて、何を回りくどいことを言っているのだ。戦争が起きれば兵器が必要になる。そうすれば兵器を生産する軍需産業が儲かる。誰でもわかることだ。と感じるかもしれない。
 

 しかし、私が言いたいのは、兵器というものは使用しなければ長持ちするもので、人類を何回も絶滅できるほど各国が配備しきっている状況においては、軍需産業にとっては、新規の発注は当分見込めないわけで、そして、その耐用年数が尽きるまで、地代と人件費を払い続けなければいけないのである。

 じゃあとっとと事業規模を縮小すればいいのだが、ひとたび本当に戦争が起きると、軍需産業は、必需産業となるので残しておかなければならない。つまり彼らは、戦争で儲る人たちというよりも、「平和が不都合な人たち」と表現すべきなのだ。

 

 最近の紛争のほとんどは、正直なところもう少し頭を使って、話し合えば片付くようなことが多いように思う。あえて言うが「平地に乱を起こしている」奴らがいるように思えてならない。

 護身用の専守防衛と言っては武器を持とうとする奴らが後を絶たないが、手に入れた武器は使用しなければ意味がないと必ず感じるのだ。黙って耐用年数分寝かせることができない。そこをついて、佞人(ネイジン)が、よからぬ工作をして、たぶらかされた連中が兵器の使用に大義名分をこじつける。

自分たちは頭が悪い種族であることをそろそろ自覚すべきだ。
 

 この呪縛を抜ける方法は、兵器の製造を、国家が管理するという手法だ。大体営利企業に主導権が残っていること自体が問題なのだ。

 国家権力(つまり我々国民と言う主権者)が強制的に軍需産業からノウハウだけを買い取り、国家がしかるべき機関で監督し、万が一の事態が生じた場合には、そのノウハウを民間に開放し、工場設備を一気に稼働させれば良い。平時に不要な軍需産業設備施設があるから、耐用年数の終了を待てないのだ。

 

3 人的損失

 経済学の世界では、ある経済主体の損失は別の経済主体の収益となり、財がある程度循環すると考えられている。しかし、まるで循環しない財的損失がある。

 人命と言う財産だ。

 平時においては、非常に貴重なものとして取り扱われるわけであるが、戦時においてはその価値は紙以下に暴落する。このメカニズムについては、以前ブレイクアウトⅲ 命が深刻な問題でなくなる時 で説明した。

 おびただしい量の人命と言う財産が費消されるが、対応して収益を得る経済主体は存在しない。かろうじて彼らが人命を賭して励んだ労働により兵器が破壊される。すると、前述の減損が発生し、軍需産業に発注と言う収益がもたらされるが。空襲で焼かれる多くの民間人の命と言う財産の損失は、経済学上は、費用にも消費にも、ましてや収益や所得にもならない。

 経済学上は、「0」なのだ。

 さらに、戦時中に投下される膨大な量の労働力のほとんどが、戦闘上の兵器の破壊とそれを補充するための製造に投下されるわけであるから、結局は上記の減損会計の流れの通り、軍需産業の利益のために投下されたものとつながってしまう。どうせその労働賃金も、大義や名誉の名のもとに、実質より低く抑えられている。

 戦争中、私たち人間は何をしているかと言うと、命の価値を紙以下に暴落させられて、兵器の耐用年数を無理やりカットして、ひたすら減損を生み出し、軍需産業を儲けさせているということだ。

 

4 借入利息

 もう一つ、多くの人民の血が流れるなか、高笑いが止まらない連中を紹介しておこう。

 膨大な戦費が一時に国家に存在するわけではないのに、降ってわいたかのごとく打ち出の小槌がいくつも現れる。多くの投資家や資産家が、国の戦争に加担しお金を貸すのだ。

 彼らは、「平和が不都合な人たち」ではない、ただの「戦火に笑う者」だ。

 先日、社会保障をまともに払えもしないのに、国債の利息はしっかり払っている、とこの国のことを揶揄したが、同じように戦災で疲弊した国民を救うことはできないのに、戦時国債の利息はきっちり払われる。国家は国民の窮状を救うよりも、国家の信頼の失墜を懸念する。次回戦争を行うために、その際お金が借りられるように自国の信頼を失わないことを優先するのだ。ここでもまた人命は紙より安く扱われている。

5 合理主義の技巧

 科学的に物事を見ていけば、馬鹿馬鹿しいと思えるほど戦争という行為は愚行だ。しかし、今回は、「損失」という反面を検証したに過ぎない。次回ブレイクダウンⅢでは、逆に「収益」に着目していく。

 合理主義は、常に対極に分銅を乗せて測らなければならない。

そして、これが、韓非子に倣って行っている合理主義的思考であると主張するならば、決して人情を否定しない。

 科学的論理、法理学的節理、そして人情的道理。これらを組み込むことによって、絵に描いた餅にならない理想が描けるのである。

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セザンヌ「サント・ビクトール山」

 セザンヌ後期印象派の画家。印象派は光を追い求める中、輪郭線の喪失に悩み始める。セザンヌは、現実世界には、輪郭線と言うものは無く、人が見ている情景は、色の違う「面」の集合であるという作風にたどり着く。彼は取りつかれたように、サント・ビクトール山を何度も描き、その度に、不要なものが滅失されていく。やがて、この情景を複数の「面」の集合体と捉える考えが、ピカソの「キュビズム」のヒントとなる。

 分割・削減・滅失が産む奇跡。

 しかし、セザンヌのファンの方には申し訳ないが、私には、この絵画がどうにも好きになれない。

私個人の感想だが、この絵画では、光や音は捉えているが、空気や時間や命が失われかけている。そして、それは、名画と呼ばれるものが持つ必須アイテムでもある。(ちなみにピカソキュビズムでは、見た目は意味不明だが、うるさいほどにそういうものが表現されている。)

 行き過ぎた引き算の結果、人的損失が「0」になってしまうような計算で行われる行為は、どのような大義名分が有ろうと、チャレンジであろうと、万人の理解を得られるものとはなり得ないのではないだろうか?

 

新型コロナウィルス

 新型コロナウィルスについては、2月の27日わが組織において、運用上の大きな動きが有った時から原稿を書き始めた。

 しかしながら、当初明らかに大げさだと言う考えを持っていたところから、状況は日々変化し、現状では当時の目算とはまるで違う状況が展開されている。こちらの意見も日々変更を余儀なくされてきた。
 

 まさしく前代未聞の事態であり、同じ年のブログを装丁するからには、何らかの記事を掲載しておきたいと考えるのだが、本当に意見をまとめる間もなく、事態が急変を続ける。
 

 私は学生時代、新聞記者になりたかったのだが、新聞記者と言うのは先の展開の読めない状況で、現場からでき得る限りの観察力で状況とさらに展望までも伝えることを求められる。私はどうも大問題を見定めるのは下手なようだ。オウム真理教事件の時も、福島の原発事故の時も、発生当時は「大袈裟に騒ぎすぎる」と言っていた。

 今回のコロナウィルスについては、周囲に「「大袈裟な。」って言わないでね。君がそういうと、事件が大きくなるんだから。」とまで言われてしまった。少なくとも新聞記者と投資家にはなれそうにない。

 

 先日、正式に緊急事態宣言が出て、疾風怒濤の展開の中でいわゆる結節点ができたかと思う。この辺りで意見をまとめ、例え後でまるで明後日の意見だったと後悔するにしても、何らかの記事を残しておこうと思う。

 (と言いつつ8日の非常事態宣言から、たった3日で業務命令が二転三転するなど、本当にすごい年を経験することになった。)

 阪神淡路大震災の際は近隣に勤めていなかったので、極限の騒乱の中、役人などと言うものがどのように振る舞うべきかと言う経験を積む事はできなかった。不謹慎な表現になるかもしれないが、その後この経験不足が、いくつかの場面で私に二の足を踏ませることになる。

 今回の状況も、あの平成7年を戦い抜いた経験者に言わせると、全く落ち着いたものだと言われているが、司令部からの方針転換の連絡は、日々前日の16時45分を過ぎている。上位官庁の混乱ぶりが見て取れるようだ。

 前は、「もうちょっと早く連絡できないのか!」と愚痴っていたが、首をくくらんばかりの民間の事業者の状況を見ていると、海抜数十メートルのような安全地帯にいる私たちは申し訳ない気持ちにもなる。

 緊急事態宣言以降は、4割出勤で、後は在宅で内部業務をこなす。ほんと緩くて申し訳ない。ただ、現在私は、一支店に属さない広域特務部隊に所属しているので、要請があれば、複数の支店応援にいつでも駆り出される立場であると聞いている。(今日も感染の可能性が出た支店があり、検査結果と補充のための正式要請を待っている状況だ)。

 せめて、要請があれば、迅速に対応してあげたいと考えている。

 

 さて、緊急事態宣言が出た後も、完全に感染者数の増加は止まらず、先行きが非常に不安である。

 かろうじて死者の数が増えていないのが救いだが、感染者数だって、オリンピックが延期になる直前までは、1日の感染者数が十数人だったのに、突然40人、80人、200人となって、今日などは、全国で576人だ。もし死亡者がこのような増え方をしだしたら、 さすがに大惨事だ。

 本当は楽観的な観測も持っているのだが、私が楽観的なことを言うと、周囲が言うように被害が膨らんでも申し訳ないので、やめておこう。

  ただ、ノーベル賞受賞者の山中教授のコロナウィルス特設ページによると日本人にだけコロナが優しい可能性も出てきているようだ(一読に値するページだ)。

山中伸弥による新型コロナウイルス情報発信

 何が原因でもいい、このままこの程度に収まってくれて、収束してくれれば、苦しい営業状態の中、営業自粛を続けてくれた事業主の労苦が報われる。
 

 どんな予想も当たりそうにない状況だが、このまま収まったにしても長引いたにしても、確実に問題になるのは、経済的な落ち込みだろう。

 しかし、一つだけ明言できることが有る。

 災害により落ち込んだ経済を立て直そうとすることはしてはいけない。

 災害により、生活に困窮する被災者を援助することは必要だが、まずGDPの減少は当然として捉えること。税収は減少し、公共サービスは低下する。

 災害に合ったのだから仕方がない。国民一人一人が、政府を頼らず、踏ん張ることも必要なのだ。(かなり厳しい人は別ですよ)

 これを無理に、現金をばらまいて消費を下支えしようとしたり、財政支出をして景気を刺激しようとしたりしてはいけない。

 また、逆に、災害に合ったのだからと言って、社会の雰囲気を盛り下げ、消費を冷え込ませてもいけない。むしろ、社会を解禁ムードで盛り上げなければならない。

 自粛自粛で倒れる商店が有る一方、消費されなかったたくさんの財が残っている。無用にお金をばらまくと、相対的にその人たちの財の価値が下がるのだ。

 コロナが治まって、景気を回復させたいなら、まず、彼らの財を引き出すため、反動のようにイベントをバンバン打ち出し、社会のムードを盛り上げ、消費を刺激すべきなのだ。

 

 最後に、補償について、やたらとばらまき補償をやりたがっている連中が居るが、これはまさしく、補償のついでに景気対策をにらんでいるスケベ根性だ。こういう連中は、普段から打ち出の小槌を使いたくてしようがない、経済音痴だ。そんなことをしたら、福沢諭吉が小さくなるばかりなのだ。

 今は苦しい人を助ける事だけを考えなければならない。

 

 ちなみに、私が考えている保障の最もわかりやすい形は、自粛によって必要となった事業資金を無期限無利息で貸付、来年の確定申告の際に、①償還すべき貸付金②償還不要の貸付金(非課税) ③償還不要の貸付金(課税)に区分するというものだ。 

 パートの時間を削られて、収入が激減した方々においても同じことだ。まず当面必要な生活資金を、無利息無期限で借り入れ上記と同じように、後日落ち着いた時期に同様に区分して判断すればよい。 

 いずれもスピーディに補償され、後日審査を受けるので、補償しすぎることはない。

 もらい逃げする人もいるかもしれないが、今のばらまき案よりよっぽどましだ。

 

 しかし、経済学には多少自信が有る私も、今回だけは、先々の状況がどのように展開するかわからない現場においては、果たして正しい意見と言えるかどうか自信は無い。

 ただ間違いなく言える事は、200兆円になろうと言う経済対策は、単なる日本銀行券の印刷物の増加であり、日本円の価値を下げるだけである。

 実は誰も得をしていないことに気づくべきだ。 

 世界規模の未曾有の大災害が起きているのに、その翌年十分な税収が見込めるわけがなく、前年同様の公共サービスが受けられると考えること自体が誤りなのである。

 直撃を受けた被災者は救わなければならないが、経済全体を無理に救う必要は無い。

 みんながこの災害を受け入れ、少しずつ我慢すればよいのである。そのほうが健全な経済の立ち直りは早いはずだ。

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ジョルジュ・スーラ「グランド・ジャット島の日曜日の午後

 絵画の掲載については、悩んだのだが、コロナの事はみんなブログに書いている。絵画を掲載するから、私のブログなのだと信じて掲載することにした。

 スーラは光の三原則から、バランスと強弱をうまく調整した点描を打てば、人の目はこれを融合し、一つの色として捉え、「光」が表現できると考えた。

 残念ながら、私には、この絵から印象派のような「光」は感じない。不思議なものだ。決して理論は間違っていないのに。実際、この技術を応用して、絵の具でなく、電気的な光を使ったのが、カラーテレビの元祖で、今の液晶に繋がっていく。

 私はむしろ、この絵から、人と空気の融合を感じた。

 人も景色も三原色と言う原理の一線上に並んでいる。それを包括しているのが空気だ。

 この絵から、光はそれほど感じないが、流れる空気は捉えられないだろうか?

 

 全くとんでもないことを言わせてもらうが、「コロナもその空気の一つ」なのではなかろうか?

 流れる空気の点描のうちのいくつかがコロナなのだ。

 スーラには失礼だが、私は、コロナが感染していく様をニュースで聞いていて、この作品を思い浮かべていた。

 人間の天敵、ウィルスは、初期接触においては、大変な被害を及ぼす。しかし、彼らとて天敵を食い尽くすわけにはいかない。変異を繰り返す中、毒性を弱めていくというというのが科学的見解だ。(ただそれまで、人間は死滅しなくても、経済は破たんするかもしれないが)。

 いずれ、私が言うように、コロナが空気中に普通に蔓延しているグランド・ジャット島の日曜日に、人々が賑わえる日が来ると信じている。

 

フェミニズムの帰結_後編《本能》

 前回、本稿の前編で、女性には、「経済的に許す限り、外で働くより、自分の子供は自分で育てたい。」という本性が有ると説いた点について、妻に話したところ、「そういう人が多いことは事実だと認めるが、「本性」という表現は気に入らない。「本音」と言う表現を使うべきだ。」との意見を頂いた。

 科学的な分析に対して、「本音」などと言う情緒的表現をチョイスしてほしいというところが、女性を感じさせる。

 さて、今回は、さらに情緒や感情を排除し、より科学的に、女性が本能的に、子供さえ手に入れば、男は必要ないと考えているのではないかというテーマに迫る。

 

 一説によると、原始の地球において単細胞生物が生まれたとき、膜を持って浮遊するタイプと、鞭毛等を持った運動的なタイプが同時期に発生したと言われている。両者は互いを捕食し合っていたとも、棲み分けをしていたとも言われているが、ある時劇的なことが起こる。

 膜型の単細胞生物と鞭毛型の単細胞生物が結合して新しい生物が生まれたのだ。

 この時双方の遺伝子の形はあまりにも違っているので、互いの遺伝子の情報を組みなおす必要があったと思われる。これにより生物は初めて遺伝子の交換が行われたと推定される。

 その後の生物の発展を考えると、この事件はとても大きな出来事であろう。

 

 最初に「一説によると」と前置きしたが、この一説を裏付けるような事象が実は起きている。

 知っている人もいると思うが、妊娠中の胎児と言うものは人間の進化の過程を再現すると言われている。出産間近の完全な胎児は当然人間の姿をしているが、遡っていくと、やがてしっぽが生えて猿になり、毛がなくなり両生類のようになり、魚類になり、目がなくなりナマコのような口とおしりしかない動物(棘皮動物)になり、最後は受精卵という単細胞生物になる。

 そこでさらに遡れば、膜を持って動くことができない単細胞である卵子と鞭毛しか持たない単細胞の精子との結合に至る。

 つまりこの説が正しければ、生物が生まれて38億年、今なお同じことを繰り返していることになる。

 

 物のついでに、いつも私が人に伝えたいと考えている科学的事実を追加すると、生殖細胞の男性におけるワイ遺伝子は、遺伝子を組み替える相手方を持たない。したがって何度生殖代替わりしても、その遺伝子は組み直しされず、単純コピーされる。しかし単純にコピーを繰り返すために、破損が補修できなくなり、今では同じ染色体にあるエックス遺伝子(女性を発現化する)の半分の大きさしかない。

 男性にだけ発生する病気が多いのもそれが原因と言われている。

 その代り、その仕組みの通り、ワイ遺伝子の情報は、男子にしか引き継がれない。

 天皇陛下の男系継承が問題になっているが、確実に男型継承が行われていたのであれば、ワイ遺伝子の特徴が数千年保たれているはずである。だから、遺跡の中から、一人でも男性天皇の遺伝子を取り出して調べてみれば良い。もし、違った遺伝子が混じっているのなら、どこかで男系継承が途切れているので、グダグダ問題にすることは無い。

 逆に女性の生殖細胞にも、女系でないと引き継がれないものがある。それはミトコンドリアである。なぜなら、男性の生殖細胞ミトコンドリアを持たないので、生まれてくる子供のミトコンドリアはすべて母体のミトコンドリアをコピーしたものだからである。

 

 これらのエピソードから、私の言いたい事は、38億年の単細胞時代から引き継がれた本能が、私たちの現状に影響を及ぼし続けていることは十分にあり得ると言う事だ。 

 

 昨今、子供ができるとすぐに離婚してしまう夫婦が散見される。

 離婚の原因は様々だ。ひどいDVで差し迫った危機が有る場合もあるが、一方で、短絡的で無計画なものも多いように思われる。

 裁判離婚なら、差し迫った危機についても語られるが、協議離婚は、正直言って「ノリ」でもできる。

 「自分たちだって、考えた末での離婚だ!」と反論する人もいるだろうが、どうにも経済的見通しが甘いように思う。離婚した男性が引き取るか、真面目に経済援助を続けているのなら良いが、そうでないケースが多いようで、母親は新たな経済源を求め、男を作る。

 うまくいっているケースも有るのは分かっているが、こうママ父による虐待死のニュースばかり聞かされると、短絡的で無計画な離婚を問題視せざるを得ない。

 

 以前から問題になっていたが、性格が合わない、価値観が合わないなどと言う理由で離婚している連中は、正直言って程度が低い。

 言っておくが、一番価値観や性格がずれてくるのは、思春期を過ぎて以降の自分の子供たちだ。もしそれが無ければ、異種の遺伝子を組み合わせた意味が無い。

 結婚と言うのは、命よりも大切なモノを放棄し、命よりも大切なモノを手に入れる行為だ。

 晩婚化の進むこの時代に言いたくはないが、「覚悟が無い奴は結婚するな。子供がかわいそうだ。」

 

 しかし、私のこの魂の訴えも、実は女性たちには届かない。

 私の仮説が正しければ、女性は確かに子供を得るために結婚をするが、欲しているのはその精子のみである。すなわち冒頭で話した、原始の記憶に付き動かされて、鞭毛を持つ運動的単細胞を求めているに過ぎない。

 それに付随して付いてくる、力自慢なだけで、怒りっぽく、食べる量だけは無駄に多く、たまにモテたかと思うと、大事な金銭を家計外に持ち出す。すなわち、「夫」と言う存在は邪魔なだけなのである。

 

 そこへ拍車をかけているのが、母子家庭を保護する各種施策である。

 私はDVなどの、切迫した危機を回避するために行われた離婚を否定しない。

 従って、不幸にもそれが原因で、母子家庭となり、経済に困窮している家族を支援することは賛成である。しかし、短絡的で無計画で、もしかしたら、女性の本能だけが引き起こした離婚が原因と言うのであれば、これを支援することについては、検討しなおす必要があると考える。

 それに、やはり、国の支援だけでは、十分とは言えないだろう。

 子供のためにも夫婦円満が一番である。

 

 男は面倒な生き物だ。

 気に入らないことがあると暴れチラシ、八つ当たりし、酒を飲んで管をまく。

 しかし、かわいそうな一面もある。

 月数十万円。一日1万円以上。大学生では稼げないこの給料を得るために、上下にこつかれ、自助努力を怠らず、記念日にはわずかな小遣いからケーキを買ってきたりする。

 精子だけを見ず、そんなところも見てあげてほしい。

 

 女性のみならず、社会もそろそろ、考えた方がいい。女性の本能に甘えて、精子を送り込むだけで、責任を取らずにのうのうと生きる男性の子孫と、自分の惚れた女性の子供だから、多少の問題があっても歯を食いしばって、婚姻関係を続けるなり、少なくとも経済援助を絶やさない責任感を持つ男性の子孫と、どちらが生き残り、繁栄した方が人類にとって有益であるかを。

 父子関係が証明された場合の父親の養育義務について厳しい法律を整備すべきだ。

 

 男性も当然女性の素晴らしさに敬意を表するべきだ。

 いずれ、科学が発達し、男性が妊娠することが可能となることがあるかもしれない。それでも多くの女性は、苦しい10月10日と、鼻からスイカを出すと言われる出産の苦しみを買って出るだろう。それもまた女性の本能なのだが、敬愛に値すると思わないか?

 

 パンダは乱獲されただけで絶滅に瀕したわけではない。育児放棄に始まり、繁殖行為すら遺棄しがちになった。彼らは、遺伝子の交換後もその生命体を保護すると言う進化が億劫になったのかもしれない。受精卵をばらまいておけば、とりあえず、幾分かは生き残るという、単純な交配の時代に戻りたくなったのかもしれない。

 残念ながら、ここまで進化してしまっていては、そのような原始的欲求だけでは子孫は残せない。人類が、パンダと同じ道を歩まないことを祈る。

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ヴィーナスの誕生アレクサンドル・カバネル

 ヴィーナスの誕生と言えばボッティチェリでしょう。という方もおられるだろうが、ゼウスの男根が切り取られ、海に投げられたときに、白い泡があふれだし、ヴィーナスが生まれた、という逸話を余りに秀逸に描いているので、私は、ヴィーナスの誕生と言うとこっちの方が好きだ。

 白い泡がゼウスの精液を想起させることから、一見卑猥なものを表現していることになるのだが、この絵を見て、その卑猥さを感じるだろうか?

 カバネルが演出した女性の「本能」に、すっかり卑猥さが吹っ飛んでしまったのだ。

合理主義

  本ブログの柱の一つは、諸子百家の中でいまいちメジャーになりきれなかった韓非子について、その魅力を紹介するというものだ。そこで、彼の主張を紹介すると同時に、皆が聞いたことのある故事成語や説話が、実は韓非子の出典であることをアピールしてきた。しかし、それがためか、若干、各論に偏って来てしまった感がある。

 彼の魅力はむしろその独創的な総論の観念だ。

 終盤にかけては、その辺りに着手していきたいと思う。まずは彼の代名詞ともいえる合理主義だ。

 

〇合理主義の定義:感覚・経験ではなく、理性・論理(辻褄)・合理性に依拠する態度。(By Wikipedia)。

 他にもWEB上ではいろんな説明が載っていたが、総じて理にかなうもの(理屈に適合するもの)を基軸に考え、感情や感覚を否定または排除する考え方とされているようだ。

 このため、合理主義者は、基本的に冷たく非情な性格であると考えられがちである。

 

 しかし、実際の合理主義者と言うのは、決して、感情や感覚を否定する者ではない。

 私も合理主義者の端くれではあるが、すべての事象において理にかなうことを求めるわけではない。海・空・花木に対する感激はいつも無条件だし、異性に好意的に接せられると、やはりその子は可愛いと思う。絵画に関しては、いささか知恵がついたせいで、理屈が先に立つことが多くなったが、それでも、「どうしてあなたはそんなに・・・」と画前に立ち尽くす事はいくらでもある。

 いずれの事象も、なんらかの因果関係(理由)が有ることは承知しているが、別に詮索しようとは思わない。必要無いからだ。

 

 合理主義の真髄はある目的を達するにおいていかに無用なものを排除し、どれだけ効率的に目的を達成するかということである。一つ一つの手段が理にかなっていればおのずとその答えになると考えられている。

 そこに感情や感覚は不要であると考られているが、それは目的によって違ってくる。すなわち美しいものに感動する場合は、余計な詮索の方こそ不要なのだ。

 

 韓非子も国の統治において、合理主義を強く訴えたため、「非情な思想家」というレッテルが貼られてしまっているが、彼が合理性を求めているのは、統治者に対してである。

 代表的なものでは、「法を適用するにあたっては決して感情を挟んではいけない。《法》」「如何に信用できる臣下であっても、賞を与える権力と罰を与える権力(二柄)は与えてはいけない。《術》」といったものだ。

 ちなみに、この《法》《術》の2点は、韓非子の思想のメインシャフトであり、それさえ守っていれば、凡庸な君主でも宗廟に座したままで国が治ると言う(用人篇他各所)。(この凡庸な君主でもと言うところが私は大好きだ。)

 一方で人身の感情や感覚を否定したり、統制するような考えはまるで無い。むしろ、多くの人間が「そうしたい」と考えるもの、そう、人の欲望というものをつぶさに観察し、これを効率よく利用することを訴えている。

 それでは、まるで非情な人ではないじゃないか?と言うことになるのだが、事はそれほど単純ではない。ただ、今回は、合理主義というものについてもう少し考察したいので、その件は後日とする。

 

-閉話休題- さて少し変わった話をしよう。

 合理主義は科学の象徴であり、その対極に位置するものと言われているのが「神」だ。そこで宇宙創造を例に両者について考察してみよう。

 

 現在時空を構成している最も小さな素粒子は、「粒」ではなく輪ゴムのような「弦」ではないかと言われている。1つの粒子が固定の状態で安定するためには、動かずにじっとしているよりも、安定したリズムで揺れている弦である方が、いろんな実験から辻褄が合うらしい。

 しかし揺れていると言う事は、動いていると言うことであり、そのリズムが常に安定している保証は無い。

 

 その昔宇宙は1つの素粒子で、安定したリズムを刻んでいたが、なんらかの理由でそのリズムが揺らぎ、そのバランスが崩れた。

 ノーベル賞受賞者南部陽一郎氏は、これを「対称性の自発的破れ」と呼び、そのバランスを戻そうとして発生する粒子をヒッグス粒子と呼んだ。

 揺らぎはバランスを戻そうと別の素粒子を生み、その素粒子もまた不安定なリズムを刻むものだから、連鎖的に症状は悪化をたどり、一定の数の不安定が集積した時一気に大爆発が起こった。これがいわゆるビックバン宇宙論だ。

 

と言うことで

 キリスト教ユダヤ教イスラム教が信じる神ヤファイエは、宇宙の創造主ではない。

 大日如来もだな。

 創造主がいるとするならば、最初の弦を弾いたやつだ。こいつには何の意思も計画も無い。

 人は、運命を何らかの意思が働いた結果だと考えようとするが、身も蓋も無い言い方をすると、神にすがって九死に一生を得るのも、慈悲を受けられず生皮を剥がされるのも、あるルール上の一つの解、例えばカードゲームで選ばれるカード、すなわち「確率」に過ぎない。

 これが合理主義の世界だ。

 

 ところが、如何に科学が宇宙開闢に神は関係していなくて、この宇宙を意図的に操作できる存在はいないと証明したとしても、多くの人はきっと神を信じるだろう。

 実際、私も信じている。出世のチャンスが訪れる度に、パワハラ上司に巡り合せやがった意地悪な神を。

 悲運はもちろん幸運だって、人はそれが確率の産物に過ぎないと言われても、嬉しくないのだ。

 どこかに、運命を変える力(すなわちは確率を操作する能力が有るという夢想的な話なのだが)が存在して、それを信仰することによって現実の苦しみから救われる、あるいは将来に期待が持てる。その観念は漫然と存在するのだ。

 これが、感情の世界だ。

 

 合理主義は、これを排除するのではなく、むしろ効率化のために利用する。

 

 現在、多くの国が、この信仰を利用して効率的に国を治めている。そうなのであれば、信仰と言う感情は、一つの目的を達するのに無用なものではなく、むしろ有益なものである。

 韓非子の手法は、これに近いと言って良い。

 ただし、一応言っておくが、信仰は自由でなければならない。指定された神を信じなければ基本的人権を保障されないなどと言う国家は近代国家とは言えない。

 

 ところで、目下、平和学を起草する私も、戦争の悲惨さを感情的に訴えることよりも、科学的に経済学的にその行為が損失であることを説明しようとしている。当初は、感情的に悲惨さを訴える事も、情報の拡散のために必要だと言っていたが、最近の論調では、むしろミスディレクトを引き起こす邪魔な存在とまで考え始めていた。

 人民の立場に立ち、その感情を掌握した上での合理主義。と言う韓非子先生の教えを忘れ始めていた。

 

 韓非子を始め、法家の人々、兵法の孫子マキャベリ。非情な思想家と言われた彼らは、古典の中でも人間観察を行っている点ではおそらく卓抜していると思われる。ぜひ他の諸氏と読み比べてもらいたい。

 合理主義に必要なのは理にかなっているものだけを集めることではなく、無用無益と思われるような感情感覚もよく観察し、その上で目的を達する上で必要なものは取り組み、邪魔になるものを排除していくことであり、それにより、優れた効率的なシステムが作られていくのである。

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ヨハネス・フェルメール真珠の耳飾りの少女

 北欧のモナリザと言われた傑作。かなり有名ですね。

 以前は「青いターバンの少女」とも呼ばれていたんですよ。

 フェルメールブルーと言われるラピスラズリのウルトラマリンブルー(直訳して海を越えてやってきた青)が、とても印象的です。何で改名したんでしょうね。

 しかも、この真珠の耳飾り、完全体じゃないんですよね。

 フェルメールの卓越した、技法が使用されているんですが。

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 真珠の上部と下部が描かれ、間が抜けていますね。フェルメールはまだフロイトが生まれる前から、人間の脳が、自然に足りない部分を補足する現象(錯視)を見抜いていたんです。

 そして、あえて空白とした部分を、鑑賞者が自由に補足することで、観る人によって違う真珠の耳飾りを演出したのです。

 人間の心理を巧みに掌握し、自分は手を施さず完成に導く。韓非子の目指した君主の如きですね。

 

 

 

象箸玉杯

 先日、ブログを読んでくれた読者から、「結論が唐突過ぎる時が有る。」との指摘を受けた。

 確かに読み返してみると、全体的に何の話をしたいのかわからないまま話が進み、突然主張したいテーマが現れるケースが見受けられた。

 現在、最終装丁に向けて、第一稿から見直しに入っているが、参考にしたいと思う。

 

 と言うわけで、今回は最初に言うと、何でこんなに健康保険料を払わないかんねん!と言う話と、財布の中身を超えた贅沢はするもんじゃない。と言う話。

 

 働き方改革で、私の扶養から外れた妻は、自分で健康保険料を払う事になり機嫌が悪い。

 「社会福祉にそんなにお金がかかるならペット税を導入したら良いのに。」

 ペット税に関しては私も大きく賛成である。やや必需品と考えても良い自動車がいまだに贅沢品として自動車税が課されているのであるから、ペット税が課されない方が論理的におかしい。

 しかし新税の創設と言うものはなかなか難しいものだ。

 

 竹下登(DAIGOの祖父)は消費税導入と言う、数百年後には年表に載る偉業を成し遂げたが、ほぼそれと抱き合わせに首相の座を去った。

 一人一殺と言う言葉が有るが、まさに、嫌われるのを覚悟で渾身の政策を通す政治家は素晴らしい。

 

 それにしても不思議なものだ。消費税が何%か上がるかと言うたびに、安保闘争が復活するのではないかと言うほど大騒ぎになる。そのくせ実費経費の交通費にまで課税するなどと言う素人以下の課税概念しかない健康保険税が、あちらこちらで新設されていくのに誰も文句を言おうとしない。

 先日見せていただいた国民年金(収入)の源泉徴収票によると、収入金額が700,000円ほどなのに、国民健康保険後期高齢者健康保険、介護保険料、合わせて300,000円も天引きされていた

 これでは老人たちはやっていけないじゃないか。

 

 よくこれで、消費税の2%アップがスムーズに実現したものだ。

 そもそも、本来この増税は平成18年に先行して行われた所得税減税のバーターなのだが、誰もそんなことは覚えていない。取りにくい所得税から取りやすい消費税へ税源をシフトさせることにより徴税コストを下げることが政府の本来の目的なのだが、そんなテクニックに人は全く興味が無い。

 みんなこう信じている。社会福祉の負担が増えて、財政はひっ迫しているからやむを得ない。と。確かに、我が国財政はひっ迫している。しかし、社会福祉の負担だけが問題と言うわけではない。 

 

 私が高校生の頃、社会の授業で国家予算の円グラフを見たとき、国債と言う費目が20%弱を占めていた。社会の先生は借金の返済のために収入の 30%を超えるようになったら、国であろうと家であろうと会社であろうと、もう破産だと嘆いていた。(ちなみにこの数字は、2019年現在23.17%になっている。)

 

 家に帰って、父親に尋ねた。「どうして日本の国はこんなに豊かなのにたくさん借金をしているのか?」と。彼はこう言っていた。「最初に田中角栄が象箸(ぞうちょ)を買ったからだ。」

 父はそれ以上は言わない。

 そこで、私は国語辞典で「象箸」を調べた。

 

象箸玉杯

韓非子55篇 喩老篇

 昔、殷王朝最後の紂王が初めて象牙で箸を作ったとき、叔父の箕子は恐れた。

 思うに、象牙の箸は必ず土器の碗には用いず、犀の角や玉の杯を用いるようになるだろう。象牙の箸に玉の杯を使うならば、必ず豆や豆の葉の汁物に使わず、必ず牛や象の肉や豹の腹子といったものに使われるだろう。牛や象の肉や豹の腹子を使うならば、必ず丈の短い粗衣を着て、茅葺屋根の下に座って食うことはせず、錦の衣を九重に着て、広い室や高台に座るようになるだろう。

 果たして5年後、重税に耐えかね国民は四散し、治安は乱れ、国土は荒れ果て殷王朝は滅びる。

 

 1965年、時の田中角栄総理大臣が初めて財政の赤字を補填すると言う目的で発行される「赤字国債を発行した。

 緊急措置だった赤字国債であったが、一度手に入れた打ち出の小槌を手放す政治家は一人もいなかった。

 昨日の贅沢は今日の当たり前、明日には必需品になる。

 建設ブームが到来し、一見日本は豊かな国になった。しかし、その賃金は、いつしか純労働価値と必ずしも等価ではなくなっていった。どこかから湧いてきている不思議な貨幣が多少の上乗せを許容したからだ。しかし、当時は皆が幸せで、誰も突っ込もうとはしなかった。やがて、これらはバブルを引き起こす原因の一つとなっていく。

 

 バブルの崩壊後も打ち出の小槌は止まなかった。その資金源の一つがこれまた無尽蔵の郵便貯金だったからだ。しかし、このままでは国民一人ひとりの財産が吸い上げられると感じた小泉純一郎がこれにストップをかけた(それが郵政民営化の本当のからくりだ)。

 しかし、それでも赤字国債は発行され続けた。バブル後の苦しい時代が続いたという言い訳も有るが、結局、借りた金を返せなくて、自転車操業をしていたのだ。

 しかし、、そんな危なっかしい国債を、金融機関も投資家も買い取った。だって国は、いざとなったら紙幣を印刷して利息を払ってくれるもん。

 実際、日本の国債は利息の不払いや据え置きを未だに一度も起きていない。

 最近では、とうとう、日本銀行が買い取り始めた。マイナス金利だからいいだろう、などと言っている人もいるが、自分で紙幣を印刷する人が国債を引き受けだしたら、それはもう、究極の打ち出の小槌だ。そのうち紙幣の価値は暴落し、ジンバブエのように、0が15.6ケタ必要な紙幣が必要になるだろう。

 

 だんだん殷王朝の末期に似てきた。

 

 そこで政府が打ち出したのが、わけのわからない健康保険料の導入と消費税の増税だ。

 いずれも社会福祉の名のもとに徴収されているが、結局は国債費の肩代わりをさせられているのだ。

 確かに社会福祉の負担は増加の一途だ(国家予算の34%)。しかし、出費比率第2位の国債費が、どのような経緯で生まれたかを考えたとき、この問題を放置して、社会福祉社会福祉と、負担をを拡大させていくのはいかがなものか?

 

 私は思う。殷王朝のケースのしても、現在のどうしようもなく膨れ上がった借金大国日本も、国王のみが悪く国民は国を糾弾すべきであったのだろうか?

 本当に悪いのは、国を滅ぼすまで国王に贅沢をさせた商人と言う考え方はなぜ誰もしないのだろうか?

 同じようにもしこのまま日本が多額の借金のために滅びるとすれば、滅びるまでお金を貸し続けた投資家たちにも責任があるのではないだろうか?

 

 本当に不思議に思うのだが、年金の支払いが65歳から70歳になったり、健康保険が釣り上げられたりする中、国債の利息はきっちり払い続けられるているのは、道理に合わない。

 なぜ一部の選ばれた資産家と金融機関の利益を優先して、国民全体がそれを分担して負担しなければいけないのか?切り捨てる選択肢を間違っているのではないか?

 しばらく、金利払いを凍結して、元本先払いにしてもらって、まず、借金を減らしてはどうか?

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《ジャンヌ・アヴリル1893年)》アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック

 当時隆盛を極めた「ムーランルージュ」の一番の売れっ子踊り子の肖像画だ。

 ロートレックは彼女を主題に何枚も作品を残していて、どの芸術雑誌においても評価は高い。

 しかし、私には、この醜いばばあの中途半端にふしだらな姿に全く魅力を感じない。

 平成生まれの諸子が、バブル期のジュリアナ東京の映像を見てもグロテスクにしか感じないように、私もムーランルージュの全盛期と言われても、ベルサイユの内装はおろか、エジプトの古びた王墓の壁画よりも豪奢に感じない。

 本物の贅沢には、それを有するに値する人なり建造物、歴史が持つ「貴賓」が必要だ。

 財布に見合わない金の遣い方をしている贅沢にそれは望めない。

教育は国家百年の大計 最終回《平和》

1 平和主義

 国家百年の大計を担う教育とは何かを考えたとき、それは良き有権者を育てることであると私は定義してきた。そして良き有権者を育てる最も適正なテキストは主権者の定義を定めた日本国憲法にあると位置づけこのシリーズを展開してきた。

 日本国憲法が持つ 3つの原則と3つの義務のうち、これまで5つを紹介したわけだ。いよいよ、本日は最後の6つ目にかかる。

 しかし、この6つ目の平和主義に関しては、これまでとは若干様相が違っている。

 これまでの5つでは、有権者の持つ「主権」という権力に気づかせると同時に、その権能には、常に「公共の福祉に反しない限り」等の制限が設けられていると説き、それでも、その主権は重要なもので、これを維持していくには、不断の努力と義務を果たしていくことが必要であることを説いてきた。

 しかし、主権の権能と「平和主義」は直接リンクしない。また、思想の自由の観点から、「平和主義」を唱えることが主権を与えられるための義務となる事も無い。

 従って、これまでの論調とは全く違う展開で話が進むと理解願いたい。

 

 まず、私の持論では、良き有権者になるには「平和主義」は必要なものである。

 ご存知の通り、「平和主義」は、憲法前文に掲げられ、これに呼応して、憲法9条は武力を放棄している。

 憲法の前文とは、憲法を制定するに当たり、自分たちがどのような主権者を目指すかを宣言したものである。

 憲法は、当時のアメリ進駐軍(GHQ)に、無理やり飲まされたものだと主張する人たちに対し、私は、当時の日本の学者もこれに近い見解を持っており、日本人の意見も取り入れられているし、当時の世界の潮流の中でも、決して引けを取らない作品であり、GHQ草案鵜吞み説を真っ向否定する立場であるが、この憲法前文に関しては、どうにもGHQ草案そのもののようだ。

 そこから見えるものは、重大な過ちを犯した日本に対し、過大過ぎる理想を掲げさせ、強引に軍事化から遠ざけた意図が伺える。

 

 しかし、ではアメリカの策略に乗る必要はない。隣国が舐めた態度をとるなら、武力を以て紛争を解決すべきだ。と、日本国民は本当に思うのだろうか?

 憲法の前文を読み返してみよう。

 「われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和の内に生存する権利を有することを確認する。また、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないと考える。日本国民は、国家の名誉にかけて、全力をあげて崇高な理想と目的を達成することを誓う。」(一部編集)

 私はこの宣言文がアメリカ人が考えたものであろうと、火星人が考えたものであろうと単純に名文だと思う。

 このシリーズの最終回にこれを持ってきたのは、私たちは良き有権者となったのち、立派な国家を建築していくわけであるが、立派な国家とはなんなのか?その答えが、憲法の前文に表現されており、その象徴が平和主義であると考えるからである。

 

2 プロトコル

 私は、よく、子供たちに、学問を学ぶ上では、枝葉の技術でなく、その学問が持つ哲学を理解せよと言ってきたが、結局伝わったことが無い。

受験勉強を戦った者の多くが知っている。知識を積み重ね、積み重ね。やがて線となり、面となり、あるとき、その学問の根っこに横たわる原則のようなものに触れる。学問というものには、いずれかおそらくそのような、哲学のような原則があり、それさえわかれば、きっと知らない問題が出てきても対応できるようになる。そうなると、その学問では無敵だ。地獄と苦行の連続の日々に、しばし、喜びの時が現れる。

 

 書道において、「永」という字は、点、はね、はらいなど必要とされる八つの技法が凝縮されているという。つまりこれさえ毎日書いていれば、難しい漢字だって書けるし、そのうち武田双雲先生のようなものにもたどりつくかもしれない。

 

 わたしはこれらの、ある分野の深層に横たわっている哲学的規則を、コンピューター用語から「プロトコル」と呼んでいる。

 コンピューターに詳しい人ならわかるだろうが、あるシステムにおいて、それを司るプロトコルを操れるものは、そのシステムにおける「神」である。

 

 今では、キアヌ・リーブス主演のマトリックスという映画を知っている世代も減ってきて残念だが、是非観てほしい。

 映画の世界観は、近未来において、人は皆電線に繋がれ、バーチャル世界の中で暮らしているという設定だ。まだまだ、VRの世界は発展途上だが、そのうち自分が存在する世界がバーチャルの世界ではないと断言できない時代がくるだろう。

 そんな時代の話。映画マトリックスでは、悪人と戦う主人公NEOが、ある時、突然覚醒して、バーチャル世界を作り上げているシステムの基本言語を理解してしまい、バーチャル世界のアバターに過ぎないにも拘らず、自分の都合の良いように、その世界の設定を自在に変更できるようになる場面がある。

 観た人の8割が感動する場面だが、彼が見つけたものが、その世界の基本原則、プロトコルである。

 

 世界の物理学者は、必死で、時空の謎と戦い、とりわけ最も難敵である重力の謎と戦っている。彼らは、何を探しているのか?それは神の設計図、神のプロトコルなのである。

 

 プロトコルに触れたとき、人はその分野の神になる。

 

 世界で最も優れた有権者というのはどういうものなのか?それもまだきっと答えは出ていない。しかし、通常に人間が望むものは、たいていこうではないか?

 「幸福で、平和で、不満をあまり言わなくて良い世の中。」

 日本国憲法に定めらえた平和主義は、戦争を犯した者が、その咎として課されたものかもしれない。しかし、結果的に最も優れた有権者を目指すものと一致しているのではないか?

 私は、このブログで、平和を科学的に解明し得る学問を創設すべきだと言ってきている。その最終目的は、平和のプロトコルに触れ、自在に争乱を治める世界が来ることを目指すものだ。

 同じように、日本国憲法下にある我々は、それが、生まれたときには押し付けらえていたものだったにしても、「世界で最も先進的な有権者になると同時に、世界に先駆けて、平和のプロトコルに挑む。」ということを宣言した、理想高き国民であることを、是非、誇りに思ってもらいたい。

 5つの要件を理解することから、まさに主権者たるもののプロトコルを掌握し、この目標に挑まんとするような教育が叶うのなら、百年はおろか五百年は安泰であろうよ。

 

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ラファエロ・サンティ「美しき女庭師」

 優れすぎていると言っても過言ではない、聖母子像の傑作中の傑作であり、まさに、平和を語る本稿の挿絵にふさわしい。

 女性はマリア、左の子はイエス、右の子はヨハネと言い、将来イエスに洗礼を受けさせ宗教の道に導く者であるが、この幸せそのものの風景の中で、無関係に、イエスの将来を暗示する十字架を握っているところが、ラファエロらしい、「コントラスト」だ。

 この作品は、三角図法の傑作とも呼ばれ、そのバランスが評価されるが、その水準は補助線(プロトコル)から逆に作品が描けてしまうほど正確だ。

 

 筆舌に尽くしがたいので、動画を作ってしまった。↓

 ラファエロ「美しき女庭師」:隠されたプロトコル/Youtube  

ブレイクダウンⅰ守られない約束

 「一木一草焦土と化せん。糧食6月一杯を支うるのみなりという。沖縄県民斯く戦えり。県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを。」

沖縄根拠地隊司令官 太田実

  太平洋では広島長崎はもちろんのこと、大阪東京など数万人クラスで民間人が殺害された都市がいくつも有る。

 しかし沖縄の場合は異質な物がある。それは、他の都市が空爆というおよそ対等とは言えない手段で、選択の余地もなく命を奪われたのに対し、沖縄戦においては「投降・降伏」と言う選択肢があった点だ。すなわち、彼らには生き残る選択肢があったわけである。にもかかわらず彼らは凄惨な死を遂げていく。その多くの理由は何であったか?

 悲劇を際立たせるかのように、殊更に軍人たちが、「生きて虜囚の辱めを受けるべからず」と言う戦陣訓を民間人に強要したと伝えられているが、果たしてそれだけが最大の原因であったのであろうか?

 彼らはもっと大切なことのために命を捨てたのではなかろうか?少なくとも、自分の栄誉などというレベルではない。また、自分の不名誉が家族に迷惑をかける程度の思惑は有ったろうが、そのレベルでもない。もうすこし、中長期的なレベルの思惑だ。

 すなわち、少しでもアメリカを困らせ、諦めさせることにより、自分たちの家族や子孫が安寧な将来を得られること、あるいは負けたにしても、格別の配慮を受けられることを望んだのではなかろうか?

 沖縄戦の話をつぶさに聞けば、聞くほどにその思いを感じずにはいられなくなるが、太田司令官の最後の電信は、そのような沖縄県民の凄まじい思いを締めくくっているように思われる。

 しかしご存知の通り、この約束は守られなかった。

 終戦5年後の1950年には、日本本土がアメリカの占領下から逃れる中、沖縄県は1972年まで27年間アメリカの占領下に置かれることになる。いや、今なおアメリカの占領下にあるのではないかという意見もある。香港や天安門並みのデモが起きてもおかしくないほど、民主国家とはありえないほど強引に国家の都合が押し付けられている。

 一生懸命やれば報われる。命をかければできない事は無い。そのような事は個人のレベルで語られることである。会社勤めの人は知っているだろう、努力が常に認められるわけではない。組織の中でタイミングやバランスなどという言葉でごまかされ、裏切られた経験は無かろうか?(だから計算通りの努力では足りない。計算以上の努力をしなければいけないのだが。)

 それが国家レベルの組織となると、釣り合いのとれた答えを求めること自体が既に合理的でないことに気づかなければいけない。

 「残酷」と言うのは火炎放射器に焼かれ体の3分の2に火傷を負った少年を言うのではない、その少年やその親族が、戦後その背負った傷に見合った格別の配慮を受けられないことである。
 

 特攻隊員の御霊は靖国神社に奉納され、天皇陛下を始め国の宰相・要職者が代々その御霊を弔い、奉る事になっていたかと思うが、天皇陛下はおろか総理大臣ですら参内することもままならない状況になっている。
 

 どんなに周りの空気が背中を押して命が軽くなっていたとしても、自分の命を捧げると言う事はとても勇気を必要とすることに変わりは無い。

 投降を選ばなかった沖縄県民も、特攻機に乗り込んだ青年たちも、死の恐怖を追い払ったものは、きっと国が自分の親族の後の面倒を見てくれるという期待にかけたに違いないのだ。それに対する現在の国の答えはあまりにも酷い。

 じゃぁ国はどうしたらよかったのか?戦争に負けながら、どこにもない予算を使って彼らを救済すべきだったのか?

 全然違う。

 果たせる予定が明確でない約束を最初から言わないことに決まっているじゃないか。

 戦争と言う博打には競馬ほどの勝算もない。国が大手を振って約束手形を出すようなものではない。そしてその約束手形を信じる方も無暴すぎる。

 

勝てばよかったのではないか?

 面白いアンチテーゼだ。

 確かに勝った方の、特にアメリカは民間人にほとんど死者が出ていないので、戦死した軍人の遺族はもちろんのこと、生還した軍人の生活についても、格別の扱いを受けることになったと思われる。

 しかし、戦争でなくて、命を懸けるほどの勝負に出るなら、配当は、まあ最低でも家一軒と、妻が死ぬまでの安泰だな。生命保険クラスってとこだろう。

 それと戦場という恐いところにいる期間の慰謝料、病院のベッドじゃなくごついおっさんに囲まれながらドロドロで死ぬことに対する慰謝料も。

 ああ、それから、国が勝って利益を上げたのなら、その配当も頂かないと。(実は国は勝っても全く儲けないのだが、これは次回「ブレイクダウンⅱ勝者の配当」で)

 イギリスは、意外と民間人の死者が多い。ネットで調べたところでは、どのような補償を行ったかは定かではないが、日本ほど酷いことにはならなかっただろう。しかし、おそらく空爆で亡くなられたと思われるその人たちの遺族に対していちいち英雄視されるなど、その死に見合う格別の厚遇を受けたというのは考えにくい。

 さらにイギリスについては、中東中心にあちらこちらで、戦争に勝つために、独立をちらつかせ、様々なコミュニティーを戦に駆り出したが、そのどの集団に対してもまともな約束が果たせず、その後いったい何万人が約束の帰結をめぐって、血を流し合ったか。それを思うと、戦時中に独立を信じて命を捧げた人に対して、日本以上に「残酷」なことをしていたことと考えられる。

 

命より重いものが有るのだ

 人は戦争を始める時こう言う。「命よりも大切なものが有りそのために戦っているのだ」と。そして、「命より大切なものは無い。」と言って戦争を止めるそうな(田中芳樹先生:銀河英雄伝説の一説)。

 

 こんな話を聞いたことがある。行き着くところまで修練を積んだ営業マンというのは、神社の前でたまたま出会った見知らぬ人に、その辺に落ちていた石を拾い上げ、「これは奇遇なところで出会ったものだ」「この石は他人には何の役にもたたないものだが、あなたが持つとたいそう霊験あらたかな効果を現す」などと持ちかけて、ただの石をまんまと百万円前後で売ることができるそうである。私たち素人には想像もつかない手練手管のテクニックが有るのだろう。なんとも恐ろしい話だ。

 この話を聞いて、「石の値段が高すぎる。」と考えてはいけない。石はただの石ころで、価値は無い。この交換取引が成立している理由は、買い手の貨幣価値が紙屑以下に下落しているということだ。

 

 イデオロギーナショナリズム大義名分、正義、名誉、高尚な理念に立ち、理屈が通っているものもあれば、いやむしろ現実的に、領土や利権など、わかり易いものも有る。いずれにしても、命より大切なものが存在することを私は全く否定しない。

 しかし、命の価値を下げて取引する必要はないと信じている。命は尊いものであることに変わりはない。それを差し出すのなら、それに見合う代償を受け取らなければならない。

 後日「ブレイクダウンⅲ平和が不都合な人たち」で取り上げるつもりだが、石ころを売った営業マンのように、人を戦にいざなう側にも都合というものが有る。だから、美辞麗句を並べ、手練手管を弄して、殊更に命以上に価値のある物を強調する。

 

 しかし、どんなに見事な背負い投げが決まったとしても、場外なら「一本」は取れないのである。技をかける時、すなわち命を捨てる時は、よく足元を見て、本当に今そのタイミングで代償を支払って、本当に、命を懸けるに値するものが手に入るのか?約束は守られるのか?自分は場内に足をついているのか、しっかり考えるべきなのである。

 人類の大半が、この簡単なロジックを理解するようになれば、たとえ、命よりも貴重なものが世界に溢れていても、命の価値は簡単には暴落しないだろう。

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グスタフ・クリムト「パレス・アテナ」

 第2回ウィーン分離派展という、当時の定番の画風に反旗を掲げるために行われた展覧会で、その象徴として、戦いの女神アテナの勝利する姿を描いたもの。

 正直、私はクリムトの絵はあまり好きではないのだが、そのきらびやかな衣装と不信を抱く余地を与えぬドヤ顔が、勝利と栄光を約束するように感じさせるため、思わず「おお、これぞ戦いの神アテナ」と感心させられてしまった。

 絵画の醍醐味は、時折、そういった好き嫌いや予測という理性を、名作の持つ感性が上回ってくることだが、絵画に限らず起こるこの現象を、人は「感動」と呼び、どうしてもやや高めに評価する傾向が有るのが難点ではあるが、快いものではある。

 ただ、ウィーン分離派については、ウィキペディアで調べた程度で、クリムト以外誰も知らない。多くの人は、アテナに約束を守ってもらえなかったようだ。